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前々からパンフレットをもらっており、そこにNHKでやたら宣伝していることもありまた奈良市へ出かけてしまいました。すばらしい曼荼羅、仏像、書物の数々。一つの場所でこれだけ見れることはそうはないでしょう。鑑賞態度がやや知見増やしに偏っていたかなあと反省します。密教で大事な直感、を使って味わうことができませんでした。大自然の中に入り込むことの多かった最近、街の博物館では五感をうまく使えなかったかなと。金剛峯寺から
サトリってどんな人?2分で読めるサトリの簡易プロフィール読者の方から、『知識とは何か?』『カルマとは何か?』『人はどこからきてどこへいくのか?』ということに関して質問を受けました。『問い』が生まれると同時に『答え』も生まれます。このご意見を目にしたところで、僕の中にも、新しい『気づき』が起こりました。なので、ブログでシェアさせて頂くことにしました。『知識とは何か?』とはつまり、『情報とは何か?』ということです。『情報』とは、何らかの物理的・物質的な構造、そし
哲学(思想)体系ごとの人格構造の比較哲学(思想)体系ごとの人格構造の比較ヨーガとウパニシャドなどヨーガ哲学、ヴェーダーンタ(またはウパニシャド)における人格の構造とそれぞれの意味(または特質/性質)[意識の領域]1)普遍的な意識の領域:・ヨーガ:イーシヴァラ(īśvara,至高の存在)または特別なプルシャ(puruṣa-viśeṣa)・ウパニシャド:ブラフマン(brahman,宇宙の根本原理)2)個人の純粋意識(真我)の領域・ヨーガ:プルシ
氣導法ヒーラーのやまだともこです。心穏やかに幸せな毎日を創っていくお手伝いをしています。自己紹介がわりに私のこの2年の記録はこちら最近このブログで浄化の話をよくしています。「浄化が進んだ」「氣の浄化がすごい」なぜ、浄化浄化と繰り返すのかしつこいなーと思うかたもいらっしゃるでしょう☺️浄化は、幸せな人生を創造するためのものです。浄化するのは、確かに過去のものです。でも、浄化って後ろ向きなことじゃなく前向きなことだと私は思います。今
「写経会」時間は、朝の10時~11時半です。※当日の日程・おつとめ礼讃文・正信念仏偈(焼香)・私たちのちかい。・住職が写経する部分を話しました。・皆さんに写経していただきました。・皆さんとお茶とお菓子をいただました。・恩徳讃を歌って解散しました。今回は、「正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)」の8回目です。お話は、「必定(ひつじょう)」と「天親菩薩(てんじんぼさつ)」についてです。※「必定(ひつじょう)」必定とは、正定聚(しょうじょうじゅ
🌸唯識(ゆいしき)思想☆あらゆる事象の存在を☆心のはたらきで説明する⛳三蔵法師から教義を伝えられた道昭☆南都六宗のなかで最も古く、最も栄えたのが法相宗*興福寺と薬師寺を本山として今日まで続いている☆法相宗のルーツ*『西遊記』の三蔵法師のモデル中国唐代の僧・玄奘*玄奘は、教えに疑念を抱くようになった*インドにおもむいて教義の原典に直接あたる*玄奘、インドで10年以上唯識思想を学んだ☆法相宗は唐の僧・玄奘によって開かれた*遣唐使船で入唐した道昭直接玄奘か
数日前には、この世で自分自身が今の環境でやれる事はやり切ったしなんの後悔も未練もないから、関わりの深い人に一人一人丁寧に遺書を書いて、感謝を伝えてから死のうと本気で考えた。生きる事は死ぬ事であり、死ぬ事は生きる事であるから、ただ生きながらえていても、自分にはなんの価値もない。価値があるとかないとかに分別する心が、分別心でこれが苦しみの根源であるという唯識の教えもわかるけど、価値がないものに価値があるとも思えないし、物質的な生き方や現実を直視しないで、大事な
真言密教は修法の次第にあり日々鍛錬してただひたすらに行法をおこなうことが重要であるとして他には目もくれず淡々として修法するを良しとする真言の行者が多くいます本当にそれで良いのですか?性相学だとか法相、唯識だとかきちんと修めてないと四無量心観は理解出来ないし阿頼耶識や菴摩羅識が分からないと護摩は焚けないのです唯識三年、倶舎八年というそうですがみっちりと勉強したいものですお大師さんも徹底的に極めた上でさらに密教に進まれたのですだからこそ密教は
最近、霊だの意識体だのと奇を衒ったというか、構ってちゃんみたいな表現ばかりでバランスが悪いな、と思っていたのでこんな時は東洋的な考えに戻るべきだと思うので今回そちらをご紹介します。と言っても馴染みがあるのは禅宗と他つまみ食い程度なので、その辺りの言葉をお借りします。言わなくても何となく察しがつく人はつくだろうから、いきなり結論からです。西洋は個を重視して分割して考える癖があります。対して東洋的というかインド圏や中国圏では、全体から個を考える傾向があります。東洋思想でも分割して思
物事を損得で考えたり、善悪で考えたり、上下で考えたり、物事を分けて考えてしまう分別心が苦しみを生む根源の因果であると、唯識学を学んでからずっと実践してきたが、色々と心の理論はわかってはきたが、では理論通りに、分別心が消える世界には中々到達出来ない。しかも、到達したいのか?ももはやよくわからない。物質的な豊かも否定するのも分別心だし、精神的なものと連動していたらいいだけだ。だから、それより今は、損得や善悪で考えないようにしようという分別心が起きたら、それをそ
改めて思うんだが…、「単独で存在するもの」なんて”この世”に存在するのでしょうか…、変な言い方になってますが…。思えば変な話しではないですか…。ある「モノ(ヒト・モノ・事物)」が単独で存在する…、いや”思考される”なんていうことは、あり得るのでしょうか…。前回のソシュールの「個別の存在に意味は存在しない。それらは隣り合うものとの”対立関係”によって初めて成立する」ではありませんが、「単独で存在する…」と考える方が逆に不自然に見えてしまうのです…。ちょっと前のブログで「東洋的無常観」について少し
今は昔、我が国の天智天皇の御代に道昭和尚という聖人がいらっしゃった。河内の出身で俗姓は舟氏(ふねのうじ)。幼少の頃、出家して元興寺の僧となった。知恵が広く、素直で道心が堅く、仏様のようなので、世の人々から貴びうやまわれていた。このことを聞かれた天皇は、道昭を召しておっしゃった。「近頃、聞くところによると、唐の国に玄奘法師という人がいて、天竺(インドの古称)に渡って聖教を習って本国に帰ってきたという。その中に大乗唯識(だいじょうゆいしき)という教えがあるそうだ。この教えは、あらゆる存在や現象
物質世界の住人から精神世界の住人に転換していくには、自分の腹に落ちる考え方があると、より実践しやすいが、仏教、唯識学をベースにヨーガスートラやギーターを学んで中村天風先生、最近では田坂広志先生から、執行草舟先生に行き着いた。執行先生は、まさに現代の吉田松蔭に観えてきて、あまりにも膨大な知識量とご経験に裏付けされた言葉の一つ一つが腑に染み込んでくる。今は、根源へという著作を読ませて頂いているが、不合理を受け入れる事で精神性が高まるとおっしゃていて、心が救われる想いがで
唯識(ゆいしき)とヨーガ-目次-1.唯識派の八識に関する語源2.唯識における八識の働き3.唯識思想の歴史4.中観派の説く中道(中庸)5.ヨーガにおける二元論6.インドの思想や哲学的思考7.共通の体験8.精神活動の死滅唯識派の八つの識(しき)仏教の瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)学派における唯識論は、人間の精神が八つの識(八識)によって構成され、現象世界は意識によって創出されたものという思想です。唯識論文では、物質存在は実在せず、心の中
正しい真理であるならば、それを心に宿す為には、繰り返し繰り返し擦り込む必要があるが、人間は機械じゃないので、簡単にインストールは出来ない。以前は、一種信仰宗教のような誤った考え方を鵜呑みに信じてしまったから、その恐怖から思い込みという事に著しい嫌悪感を持っているのがわかる。だが、仏道と唯識でいくと決めた訳でこれでダメなら諦めもつくのだから、思い込みの力を使って、信念にしてしまわないと、時間とエネルギーを雑念に惑わされている時間に、まだまだ使ってしまう。今やっている
前回記事「仏教と霊魂(その2)」の続きです。釈迦は、輪廻思想を説くと同時に、固有不変の実体は存在しないという「無我」を説き、それまで古代インドにおいて輪廻の主体とされていたアートマンを否定しました。その結果、釈迦の死後に、「アートマンが存在しないなら、一体何が輪廻するのか?」というテーマの論争が起こり、仏教の各「部派」が様々な研究を行い、見解を示すことになります。部派とは、釈迦の入滅後に仏教教団が分裂して独立したグループのことをいいます。部派は20グループ程度あったようで、各部派
仏教では、どんなに善に頑張っていても、なぜやらなければならないか分からず、やらなければならないからやると言ったように理性でやる善を雑行と言われ、どんなにやっても幸せになる所か苦しまなければならないと教えられます。それはやってない人を心の中で責めているからです。責めるとそれが唯識で跳ね返り、自分を責められないように善をやるようになります。しかし、それは心の世界ではいつも自分のことを責めている人がいるようなもの。心の中にはいつも不安に怯え、また、やらない人には何であいつはやらないのかと責める
はろはろー、うぱです。今更ながら、年末に行ってきた写経の感想なぞ書いてみる。一言で言えば、面白かった!!私の感想は常に小並感(小学生並みの感想)なので、基本的には面白かった😆or面白くなかった😑のどちらかです、はい。今回は…写経なのにめっちゃ面白かった🤣私、写経って全然興味なくて、そもそも習字というものが結構苦痛で。同じ字を何回も書く、というのが子どもの頃、なんだか耐えられなかったんよね。何が面白いんだろうと(笑)なんだけど、鎌倉ハイキングで『行ってきま
仏教には「唯識」という考え方があります。ただ識(認識)だけあってそれ以外のもの例えば、物質的なものは存在しないというものです。物質的なものが存在しないとまで説いているかは学術的には異論もあるようですがただ大事な点はわれわれが観ている世界、理解していると思っているものは真実ではなく幻のようなものでありそこにとらわれている限りは迷いや苦しみから逃れることはできないと説いていることです。もう少し別の表現をするとわれわれは、物事をそ
映画、soundofmetal🎥面白かった🙌🏽🧘🏽♂️👂🏼🥁🙏🏽そして本日acimワークブックレッスンは7✝️世界は内的状況の外的映像で、人はそれぞれその心に思うごとく知覚する。のだと。(だから世界を変えようとするのではなく、世界についてのあなたの心を変えることを選びなさい。)知覚は結果であって原因ではない。🤪"共に"癒されるのだと。だからシンクロニシティが起こりまくるのだな。と。教えてくれてるのだね🙏🏽✨なんて。じゃあなきゃあ、こんな事を信頼しようとは思わないよな。
全ては、結局なるようにしかならない。命まで取られる訳ではないのだから、なるようにしかならず、後先をあれこれ何も考えないで、無心で行こう。
失念の因は、信が心に宿らない事は、わかっても、何を持って信があると言えるのか?について、改めて唯識学を学ばせてもらうと、今の現実を信じ認める、信忍その現実を楽しみ、信楽そして意欲的に取り組む、信欲この3つの状態を心に宿す事なのだと改めて気づく。知識としては何度も繰り返し学んだから知っていたが、心に宿ってないから感覚ではわかっていなかった。またやり直そう。
唯識は色眼鏡のようなもの。青色の眼鏡をかければ、世界は青色に見えます。この時、世界は普通に見えているのに、世界は青色に染まっています。これと同じように、私たちは現実で起きたことを思い込みの色眼鏡で見ています。だから、責められているという色眼鏡で世界を見たら、相手のちょっとしたことでも自分を責めているように感じます。本当は相手は自分を責めていないのに、この人は私を責めていると思うと、それ以外の見方はできません。私たちは自分の思い込みで世界を見ているのに、それが思い込みだと気づかず、自分の思
今日の一日一読は第三章「東洋的・日本的な思索に学ぶ」の最後まで一気にいきました。マネジメントの内容に仏教的な概念を導入するところまでは良かったらのですが、仏教に対する見識も表面的な感じがして、チャレンジングな内容だっただけに期待外れの印象が強かったです。特に気になったのは「無分別の分別」という言葉です。佐伯先生によれば、無分別の世界を知った上で、日常生活の分別をすることを指していて、単なる分別の違いは無分別を知っているかどうかのようです(199-200ページ)。しかしながら、無分別を学術的に
10月7日、京都日蓮聖人門下青年会の総会がありました総会後は研修があるのですが、今回の講師先生は、早稲田大学文学学術院講師伊藤瑞康上人仏教における「心」の研究と題してご講義賜りました伊藤上人とは先月30日に東京の宗務院でも会っているので一週間ぶりの再開ですね。宗務院では令和五年度の布教院の総括でお会いしています伊藤上人は布教院の同期で、今回は副院長をお務めされていました布教院でも唯識の講義をして頂き、とても
(色々と書き連ねてはおりますが…)改めて…ですが、当ブログは、「お金の要らない社会(配給型社会(非決済型社会)」を提案・提唱するのを主旨としております。…これが、実は途方もなく、とんでもない事でもありまして、殆ど”この世界の全て…をひっくり返す(?)”ような、”丸ごと作り替えてしまう”ような作業(?)になってしまったワケです…。ご存知の通り…、長々と”ウィトゲンシュタイン経由”をしながらも、ここまで(?)試行錯誤を続けて参りました…。当ブログ謹製の「ウイルス論理学(寄生体論理学)」「インタラク
イザナギとイザナミその2「決別」白は聖なる色です。White⇒HewTi(末那識を断ち切る)【阿頼耶識と末那識】唯識思想では人間の無意識を阿頼耶識(ただし華厳宗や法華宗などでは完全に浄化された阿頼耶識は阿摩羅識と呼ばれます)と末那識に分けます。人人唯識では、森羅万象を造り出すのは各人の阿頼耶識で(阿頼耶識縁起)、この阿頼耶識を対象に常に活動しているのが末那識です。末那識は染汚意(ぜんまい)とも呼ばれ、阿頼耶識に自我という錯覚を生じさせ、悟りを得るためには断ち切らな
仏教の法華経なんてのはその代表のようなものです。あれはどう考えても派閥争いをして負けた側が新しい派閥を立ち上げたとしか思えないのです。仏教の一番根底にある思想は唯識なのです。唯識、つまり識のみが存在するということなのです。それなのに法華経の最後の方に別の極楽という内容が出て来ているのです。唯識ですから一つの世界しかないはずなのに、そこに別の極楽、つまり別の世界が現れているのです。別の派閥の立ち上げということになるのです。そしてまず最初にお釈迦様が今まで説いていた内
心が不安定の時は、どうして心というのはすぐに揺れてしまうのか?という疑問が湧いてきてその理由を探して学びたくて、最終的には仏教と唯識学に辿りついた。仏教は奥が深すぎて、一生学んでも学びきれないが、それでも真理の意味が少しずつでも感じられてくると心は段々落ちついてくるから不思議だ。だが知る事で満足してしまえば、日々愚直に実践できる状態まで身についてないから、少しばかりよくなれば、すぐ浮かれて人の粗に目がいき愚痴り、少しばかり悪くなれば、すぐに意気消沈して、過去や運命
🍇坐布団からポロッと落ちた黒くて小さいもの🍇~執着~黒くて小さいものが、ひっくり返した座布団から、ポロッと足元に落ちました。一瞬、ギョッとして、カメムシ!と、飛びのきました。じっとしていて、動きません。形も、なんとなく違うような・・・。よくみると、黒っぽくて、シワシワしていて・・・。アッ、お昼に食べたパンに入っていた干しブドウ・・・。*****