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今日は2025年1月9日(木)です。昨日は「若一調査隊」を見ました。今回は陰陽師(おんみょうじ)安倍晴明(あべのせいめい)を取り上げていました。今回は安陪文珠院を訪問しました。僕の関連する記事を検索しました。僕のブログの過去記事です。安倍の文珠院は安倍晴明阿倍仲麻呂が有名です。こんなところです。↓過去記事======================2014年5月4日(日)の出来事です。奈良県桜井市を観光してきました。歴史探訪
今日は1月7日は「人日(じんじつ)の節句」だよね。「人日の節句」に七草粥を食べることで邪気を払い万病を除くと伝えられています。昔は冬に採れる青菜が少なかった事から、さまざまな栄養素が含まれる七草は貴重な食材でした。お粥に入れて食べることでお正月に疲れた胃を休め不足しながら栄養素を補います。かっては1月6日の夜に「唐土の烏が日本に渡らぬ先に七草を叩く」と囃子唄(はやしうた)を唱えながら野菜を刻み7日の朝に七草粥や七草雑煮にして食べたそうです。さぁ、皆も囃子唄を唱えて野菜を刻み七草粥
安市城グレート・バトル(字幕版)Amazon(アマゾン)かつて黒澤明監督は言ったという。「(映画は)やるなら徹底的に。中途半端が一番よくない」彼の一連の作品を見ればおわかりの通り、私もそう思う。黒澤映画の魅力は、アクションの徹底的な迫力の追求、登場人物の徹底的な掘り下げと描き分け、美術への徹底的なこだわり(彼は時代劇のオープンセットに農家や城門といった建物を建てる時、歴史的事実をリサーチした上で、実際の記録の1.5倍のサイズで建てたという。これは、風景の中に佇む建物です
百度(バイドゥ)社が運営する半開放型のオンライン中国語百科事典の「百度百科」に「詩入鶏林」の項目があります。原文は中国語ですが、以下に、日本語にしたものをご紹介します。詩入鶏林歴史的典故もともとは、鶏林国(現在の朝鮮半島南部)の宰相が白居易の詩を好み、商人を通じて高額で購入したことを指します。この故事にちなみ、「詩入鶏林」「詩在鶏林」「鶏林詩価」などの表現で、作品が広く伝わり、その価値が高いことを称える言葉として使われるようになりました。中国語名詩入鶏林ピンインshīrùjī
「風起洛陽」(全39話)が終わりました。原作は馬伯庸『洛陽』武則天(624~705、在位690~705)は13歳で唐第2代皇帝太宗の後宮に入り、太宗崩御後、第3代皇帝高宗の皇后の薦めで側室のひとりになり、間もなく皇后になります。高宗存命中は垂簾政治で政治を操り、自分が帝位についてからは聖神皇后(ドラマでは聖人)と称しました。《洛陽に風が起きる》というタイトル通り、武則天が建てた武周王朝の首都神都で起きた連続殺人事件を発端に、天下を揺るがす大事へと動いた時代を描いています。主人公は①皇
前回より続く『補・我が家の家系図(3)』前回より続く『補・我が家の家系図(2)』前回より続く『補・我が家の家系図(1)』このシリーズでは、白宇経から前の世代をみていきたいと思います。系図の繋がりでい…ameblo.jpさて、今回はドラマ「光る君へ」でも何度も話題に出てきました白居易(白楽天)(772年〜846年)についてです。まずは、歴史書(旧唐書)における記述をみたいと思います。しかしながら、白居易の列伝は他の者に比べて、超がつくほど長文となっていますので、冒頭の部分だけのご紹介とします
前回より続く『補・我が家の家系図(2)』前回より続く『補・我が家の家系図(1)』このシリーズでは、白宇経から前の世代をみていきたいと思います。系図の繋がりでいいますと、白建から白居易、白宇経、白敏中…ameblo.jpさて、今回は白敏中(792年〜861年)について、歴史書(旧唐書)における記述をみたいと思います。列傳第一百十六敏中,字用晦,居易從父弟也。祖鏻,位終揚府錄事參軍。父季康,溧陽令。敏中少孤,為諸兄之所訓歷。長慶初,登進士第,佐李聽,歷河東、鄭滑、邠寧三府節度掌書記,試大理評
以上、新羅時代における白宇経の子孫の特徴としては、次の点が見えてきます。1.中国との関係が深い。1世白宇経はいうまでもなく、子孫にも中国で官途に就く者が複数いました。1世白宇経(唐吏部尚書、新羅左僕射司空兼大司徒)3世白立昇(光祿大夫、角干侍中、徐州大都督(中国))6世白延福(御史大夫、大梁都督(中国))13世白瑨(國子進士(中国))14世白弘俊(國子生員(中国))高麗時代においても、19世白簡美のみいとこ(白卓の曾孫)、白汝舟が金に派遣されたり、20世白裕臣の弟、白可臣が宋に派
前回より続く『続・続・我が家の家系図(2)』前回より続く『続・続・我が家の家系図(1)』前4回は高麗時代をみましたので、今回からは新羅時代をみたいと思います。家系図(『白氏大同譜』)の記述は次の通りです…ameblo.jp11世白進国文学公の子は進国で、官職は光禄大夫・左侍郎・太子太傅であった。配偶者は慶州昔氏で、侍中・給事の瑃の娘である。次子の進邦の官職は光禄大夫・中書省・上将軍であり、号は孤窩、諡号を敬烈とした。孤雲先生(崔致遠先生)が篆字で銘文を作成した。配偶者は尚徳和陽公主金氏
前回より続く『続・続・我が家の家系図(1)』前4回は高麗時代をみましたので、今回からは新羅時代をみたいと思います。家系図(『白氏大同譜』)の記述は次の通りです(白昌稷については、水原白氏のホームページも…ameblo.jp6世白延福諸宗の系譜を調べると、牛岑公の子は延福で、字は徳而といい、官職は御史大夫であった。中国に渡り大梁都督を務めた後、帰国したとされる。諡号は忠正であり、墓は河東県にあるという。配偶者は垂仁聖徳大慈公主金氏で、憲徳王・彦昇の娘(※6)とされる。御史大夫公の子は仲鶴。
前4回は高麗時代をみましたので、今回からは新羅時代をみたいと思います。家系図(『白氏大同譜』)の記述は次の通りです(白昌稷については、水原白氏のホームページも参照しました。)。いつもどおり、白楽天(白居易)のいとこである白宇経を1世としてカウントします。1世白字経(始祖)字(あざな)は擎天(けいてん)、号(ごう)は松渓(しょうけい)といい、蘇州(※)の人である。讒訴を避けて東方へ渡り、鶏林(新羅)の紫玉山の麓に居住し、新羅で官職に就き、光禄大夫・左僕射・司空・大司徒にまで至った。この紫玉山
書学院が発行する競書誌不二は、準6段から自運課題になります。自運とは…与えられた課題語句を自運作品として用紙と筆を選び墨の擦り具合を工夫し、書作品として造形すること……以下省略😅つまり【お題】が出され、それを好きな書きぶりで書いて良いよって事ですね。準6段に昇段したので、自運に挑戦です。↓元典、分かりますか?答えは牛橛造像記です。記念すべき第1回目は牛橛の倣書と前々から決めておりました。自己流で書くよりは、古典の匂いのする方が良いかなぁとの考えもありましたので。この作品を仕上げる
今日は朝一番から歯医者。普通に平日と同じようにご飯を食べ、30分ほど歩いて歯医者さんに行ってきました。昨日は健康診断だったので、この土日は病院三昧…スケジュールが後付けでどんどん病院が入っていくので、今月は既に4日病院です。(歯医者、健康診断、乳腺エコー、インフルエンザ予防接種。医療費かかり過ぎ!泣ける!)せっかく朝早く出かけたので、そのまま電車に乗って飯田橋まで行ってこちらを見てきました。文京区にある日中友好会館美術館HPには飯田橋駅と書いてありますが
最近の華流古装劇金曜に終わったのは明の初期、初代洪武帝(朱元璋)のあとをついだ孫の第2代建文帝(朱允炆)を追い落とすべく策をめぐらす朱棣(後の永楽帝)の時代。〈錦衣衛(皇帝直轄の、護衛と秘密警察を兼ねた組織)〉対〈夜不収(北方対策のための諜報組織で、この頃は朱棣の私兵のような働きをしている)〉の攻防を描いた「山河之影」でした。最近昼間の放映が始まったのが馬伯庸の『洛陽』を原作とする「風起洛陽」です。時代は武則天(則天武后)が皇帝の座に就き武周という国を建てた頃です。武昭(武則
今日の今日の一枚は中国歴史シリーズです三国時代の終焉から王朝は短期間で変わっていた中国の歴史内乱や異民族の侵入などであれにあれまっくた時代を統一したのが隋でしたが隋も内乱などで短命に終わりその後かわって統一果たしたのが安定して長い期間王朝を築いたのが唐でした今回は唐のお話です唐王朝は618年に建国され、907年に滅亡しました。この時代は、文化的な繁栄と国際的な交流が特徴です。主要な出来事や人物を時代ごとに見てい
B116《シヴュラ雑談会018》草薙の剣は諏訪湖の湖底にある?諏訪湖と富士山2022年9月27日談(10月31日公開)<草薙の剣は諏訪湖の湖底にある?>阿山>源平合戦で壇ノ浦に沈んだと言われている草薙の剣は熱田神宮にありますか?シヴュラ>いいえ、阿山>本物はどちらに?シヴュラ>海ではなく湖の中に隠されていると阿山>どこの湖ですか?シヴュラ>武田信玄って水の中で亡くなっているんでしたっけ?阿山>亡く
660年に唐が新羅と組んで百済の国を転覆させ、百済王家の人々を捕虜にした。いったん滅んだ百済の復興のため鬼室福信から救援を求められた日本はこれに応え、都を移して参戦した。そして663年には白村江の戦いで日本は惨敗した。大山誠一氏は、次のように書く。唐の総力を挙げた高句麗攻撃であったが、隋の煬帝の時と同様、今度も成功しなかった。泥沼の戦いの中、六四九年に、太宗が崩じ、一旦、東アジアに安定が戻る。しかし、次の高宗の皇后となり実権を握った則天武后は、高句麗攻撃の再開を
2024年の中秋の名月の満月の日はいつか?旧暦(太陰太陽暦)の8月15日の夜に眺められる満月は「中秋の名月」とも「十五夜」とも呼ばれ、2024年は9月17日にあたります。今日は十五夜「中秋の名月」お月見できる天気?満月は明日今日は十五夜「中秋の名月」お月見できる天気?満月は明日news.goo.ne.jp「今日头条」から↓↓↓🔷中秋节百科事典:中秋節は唐の時代初期に始まり、宋の時代に流行し、明清の時代には春節と同じくらい有名な中国の伝統的な祭りの一つになりました。2
お待たせしました、待ってないでしょうね(笑)ここで前回までのながれをザックリと司馬炎(司馬懿の孫)による晋による中国統一司馬炎の死後・王族たちによる八王の乱勃発さらに北方異民族なども参戦して五胡十六国時代にさらに激動の時代におさまりそうだった激動の時代もさらに南北朝時代というあらたな激動の時代に南朝と北朝で覇権を争う混沌とした時代に入る、この混沌とした時代を制したのが北周(北朝)からでてきた隋でした、この隋が中国を統一して南北朝時代が終焉
『光の啓示を受けるもの』今回も短編シリーズ題して『光の啓示を受けるもの』意味は神によって任命されるいわば『ポチ』代行者のことです。『ポチ』一般には眷属という。初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。これを伝えたのが眷属神に任命された『父』になる。時は600年代の中国唐唐二代目高宗が皇太子暗殺トルコ系可汗を名乗る。初代天可汗三代目皇帝天皇大聖大弘孝皇帝高宗(こうそう)姓李治と名乗る。いわゆる李が治め
こんにちは、元気ですか(・・?人類がこの地球にどうやって根付くようになったかは、自分はわかりません。しかし、現在我々は、地球に存在している。集団の成り立ちを考察してみます。人類がこの地球に根付いたと同様、人類が食す材料もこの地球に存在した。当初は、たぶん耕作などと考えていなく、今日採れる食物が、ある時期をすぎるとまた同じ場所で採れるということを気づいたのかもしれない。また、人類とは違う生物もいた。その生物は、山や平地そして川、海にもいる。人類は、いたるところに食する材料があることに
日本人初の中国留学生としての軌跡阿倍仲麻呂‐上海美知中国語学校日本と中国の関係は、古くから文化的、経済的に密接な繋がりを持ってきました。その中でも、学問や知識の交流は特に重要な役割を果たしており、初めて中国へ留学した日本人が果たした役割は大きな歴史的意義を持っています。本稿では、日本から初めて中国へ留学した人物とその影響について詳述します。初めての日本人留学生:阿倍仲麻呂日本から初めて中国へ留学した人物として知られるのは、奈良時代の阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)です。彼は、日本の遣唐使と
遣唐使船の所を出て、大極殿の方向へ向かいます。広かったなあ。これは西側の回廊ぽい内裏の入り口だっけ朱雀門後ろ振り返り撮り朱雀大路の広いこと!!幅が30mありますか。ここで歴史好き次男はガイドボランティアさんにたくさん質問して盛り上がっておりました。この土地全体の収用は100年前に始まったそう。実は古墳が沢山あるような所だったそうですが、お供養しながらこの姿になってきたと。ここで初めて、言っていただいて
どの物語にも敵(かたき)役がいるように安倍晴明の物語にも敵役が登場します。蘆屋道満(あしやどうまん)です。江戸時代の『安倍晴明物語』に登場する播磨国出身の陰陽師です。晴明が秘蔵する奥義書をわがものにするために偽って晴明の弟子になり、奥義書を奪うどころか、晴明の命さえ奪ってしまうという人物です。しかし、晴明が唐留学の際に師事した僧がそのことを知り、日本に渡って秘術を使い、晴明を復活させます。ほかにも江戸時代の作品で清明と道満は互いに争い、その術を競うことに
2018年タイムスリップ旅、中国西安、3日目昼間は、兵馬俑博物館の近くにある、玄宗皇帝と楊貴妃が入ったというお風呂跡が見られる場所を見学した。建物自体は再建で当時のものではないのだがここのお風呂跡だけは当時のものというから驚きだ楊貴妃と言えば唐の時代、そう700年代に絶世の美女として有名な歴史上の人物が本当に入浴していたお風呂がコレ❗️なんか身震いするくらい、感動した!浴槽の形が、お洒落で愛する女性用のものだと分かる!隣の建物、こちらは玄宗皇帝のお風呂だそう!何故感動したかという
・細川重男氏の『鎌倉幕府の滅亡』を買った書店で購入する。・法蔵館文庫四冊目。・大陸の歴史を学び直すために読む。・情けない事に『馮道』を読むまで五代十国時代の存在を忘れていた。高校生の頃一生懸命世界史を勉強したのだが…。・安禄山の乱以後の唐の社会状況から黄巣の反乱まで馮道誕生の前後を丁寧に説明しているので、大陸の歴史をそこまで知らない人(当然私も含む)でも読めると思う。・補篇から先に読むのも有りだと思う。・民の安寧を実現するために乱世を生き延びた男の一代記である
【倭国は百済とどういう関係だったか】本郷和人氏が、百済と良好な関係にあった倭国が百済救援軍を送ったが唐・新羅連合軍に白村江のたたきで敗れたことを説明すると、蓑原俊洋氏は、「当時の日本と百済はどういう関係だったのですか?」(論点1)と質問する。本郷氏の回答は、「外交的に密接な関係があったと同時に仏教をはじめ先進文化や技術が百済から倭国へもたらされた。」本郷氏の答えは文化や技術がもたらされた代償として百済を助けるための大軍を派遣したとも受け取れる。また蓑原氏は続いて、「倭国
考察・日本書紀桃太郎伝説から読み解く天智天皇と天武天皇の謎以下が、「日本書紀」と「古事記」を金科玉条とする歴史屋と一線を画し、「日本書紀」の記述に疑問を呈した飛騨高山のK氏の一文である。常識も思考力も失った歴史屋よりよほど勉強されている。先日ノーベル物理学賞受賞の真鍋淑朗氏も言われているように、「何故」「何故」という飽くなき疑問と「好奇心」こそ学問の基本だからである。先ず、「日本書紀」の編纂者は誰か不明である。そして書紀には「天皇家の祖先や祖神が、日本列島においては遅れて来た者達であり
そもそも『白村江の戦い』とはいつの時代の話か全く知らなかったのですが・・・・・・・・(あまり興味が無かった)遠い昔の歴史も、深堀りすると引き込まれるように興味が湧いて来ます。(私の性格上?)
コブラのブログ記事・アルデバランにありました、紹介記事の一部を機械翻訳致しました。コブラ:アルデバラン人は、唐王朝の創始者の李淵に接触しました。EmperorGaozuofTang-Wikipediaen.wikipedia.org唐の高祖皇帝唐の高祖皇帝(566年4月7日-635年6月25日)、本名李元(LiYuan、表名は周徳)は、618年から626年まで在位した中国の唐王朝の初代皇帝であ