ブログ記事227件
特例財団法人は、その同一性を失わせるような根本的事項の変更に当たるか否かにかかわらず、その定款の定めを変更することができる。最3小判平成27年12月8日民集69巻8号2211頁判例タイムズ1422号75頁判例時報2288号31頁金融法務事情2045号80頁寄附行為変更無効確認等請求事件【判示事項】特例財団法人は、その同一性を失わせるような根本的事項の変更に当たるか否かにかかわらず、その定款の定めを変更することができるか【判決要旨】「一般社団法人及び一般財団法人に関する法律及
カナーは、自閉スペクトラム症の特徴を・社会的孤立・同一性の保持・言語の障害の3点とした
ほとんどの論者が、意識のカテゴリに属する或ることと、物理のカテゴリに属する或ることとが一致すると、即座に還元論の成立(つまり同一性)を認めてしまい、途中の理論的な説明はあまり聞かれない。両者から対応する事象を取り出した時、きれいに一対一の関係にはならないことをジョン・オースティンやウィトゲンシュタインが熱心に説くとき(しかし本当のところ、ウィトゲンシュタインはいかにも気のなさそうな語り方をするわけだが)、私たち読者は、もし彼らの言い分が通れば還元主義は成立せず、何か新しい考え方が必要だと感じる
理空間にしか存在しないものを存在すると呼ぶべきではない。こう書いてしまうと混乱を招くことになるが、そもそもこの文章が理解可能なら、言葉は単一の意味に収束しないということはわかるはずだ。そしてこれが言葉遊びになりかねない危うさを持つとしても、そうではない理解というものもあり得る。存在論はその危うさの先にある。にもかかわらず、ほとんどの存在論はその危うさの中で遊んでしまう。まあ、以下数十行に書くことは、真剣に理解する必要はない。現実世界に同一性は存在しない。それは論理空間の中にのみある。そのこ
同一性は存在と簡単に同一視されてしまう。これは何となく言葉遊びというか、しゃれているような表現になってしまったが、そこにあるのは理論的と言うよりも、自然な感情として結び付けてしまう感じではないかと思う。アイデンティティとは客観的な対象がそのものであるということに使われ、一方で自分の身分の統一性を示す言葉でもある。つまり私が私であることだ。ただ、その用法の場合、日本語としてこなれていないところもある。社会的な身分を表す場合は除いてもよいだろう。ある本がある本であること、ボールペンがボールペン
しかし同一性ということで問題にされているのはいかなることなのか。同一性が揺るぎのない単一な意味を持つのであれば、何かと何かが同じだということによって、同じとされる概念の中身を説明することにはならない。また、比べる両者の一つの性質を取り出すということであるなら、もともと違うものについて同一性が言われる場合に参照すべきタイプとトークンの包含関係を述べれば事足りる。タイプとはあれとこれとは似ている(同じタイプである)ということだ。トークンとは、似ていると言われるものは同じ性質(個別のもの、つまり
言葉とはそもそも現実を薄く切り取り、他の側面を無視するという行為のための道具である。心身問題について還元論が持ち出されるとき、特に同一性について議論が集中する。これによって、還元論の消去主義という問題に加え、同一性という概念のあいまいさをも背負い込む。あいまいさ、と書いたが、フレーゲ以降言われているのは、これほど単一で、変化を許さない概念はないということだ。それは他のいかなる哲学的概念よりも純粋であろう。最も普遍的であるがゆえに空虚である、ともされてきた「存在」は、実は存在しないものもあるのだ
ここで改めてもう一度「プラトンの探究のパラドックス」を考えてみたいと思います。というのは、基本的に「インタラクティブ・モナドロジー(対話型単子論)」もそうなんですが、東洋的な「太極思想・陰陽思想」と同じく、「相対するものは一つのモノの両極である…」という考え方に基づいています。今回は「プラトンの探究のパラドックス」を通しながら、「(物事の)対象化・異化」について考えてみたいと思います。確か…、以前に当ブログの何処かで、この「対象化・異化」を取り上げたような気もするのですが…、自分としては”そも
ここ数回、「同一性・等式(=イコール記号)」を軸に、ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考6.2323、6.243」や「プラトンの探究のパラドックス」等を交えながら考察してきました…。当ブログ的には、一応ですが「”問い(命題)”に対する”答え(真偽)”のような”同一性”よりも、その関係性の方が遥かに重要である…」という見解に至りました…。つまりこの「同一性・等式(=イコール記号)」問題の核心は、「”答え”や”真偽”という同一性を求める」という事にはなく、ただ「”同等である、同じ様な意味である”
ソレはテセウスの船にも似た命題あの"テセウスの船"の哲学にも似てるだろう。『ある物体を構成するものが全て入れ替わったとして、それは果たして同一存在と言えるのか否か』だ。人間だって、細胞単位で入れ替わっている。7年もすれば、あなたを7年前に構成していた細胞は一部を除きほぼすべて残っていない。では、その人をその人足らんとしているのはなにか?それは記憶にほかならない。認識する自己と他者の存在こそが、その人物の同一性を保証する。ならば,7年を待たずとも存在の消失は可能となるのもわかるだろ
人の心理社会的発達は、著名な発達心理学者であった米国人のエリク・エリクソンによれば、生まれた直後の乳児期から8つの発達段階を経て、漸成的に完成していきます。今回は13歳くらいから21歳くらいまでの青年期(第5段階)における心理社会的発達の意義と、この時期特有のアイデンティティの危機、そしてそれに関連する心の病気並びにエリクソンの理論を元に青年期を無事、乗り切っていくためのヒントも詳しく解説していきます。青年期に自分はいったい何者なのかと、思い悩んだ事を覚えていらっしゃいますか?人の心理社
前々回のブログで紹介した、安藤裕(元衆議院議員・税理士)氏のYouTube動画「安藤裕チャンネル信用創造と国債・完全解説シリーズ(全3回)」は、かなりインパクトがあったのではないでしょうか。今年の2月8日に行われた「タッカー・カールソン~プーチン大統領インタビュー」も相当なインパクトでしたが…、本当の意味での”変わり目・節目”を目の当たりにしている様な気が致します。例えば、「アメリカの慢性的な財政赤字」という”ベタな話題(問題)”があります。でもこれは、前述の安藤氏の「政府の赤字はみんなの黒
今回も、(またしても…)ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を再考していきたいと思います。今回のシリーズ㉜でも引用した、「二つの名が記号しているのは同じ事物か、それとも二つの別な事物なのであるかを知りもしないで、それらの名を理解することが出来るであろうか?それらが意味していることは同じことであるのか、それとも別なことであるのかを知りもしないで、それら二つの名を含む命題を理解することが出来るであろうか。例えば、英語の単語の意味と、それと同じ意味のドイツ語の単語の意味とを知っているとき、両者が
(前期)ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考4.243」には、次のような興味深い記述があります。「二つの名が記号しているのは同じ事物か、それとも二つの別な事物なのであるかを知りもしないで、それらの名を理解するが出来るであろうか?それらが意味していることは同じことであるのかを知りもしないで、それら二つの名を含む命題を理解することが出来るであろうか?例えば、英語の単語の意味と、それと同じ意味のドイツ語の単語とを知っているとき、両者が同じ意味を持つことを私は知らない、とは言えない。両者を互い
2026年卒業見込みの大卒採用活動が今月から始まったようです。3年生の3月に就活を始めるとなると学生生活の半分を就活で過ごすのでしょうか?一旦就職したらもう懲役40年の刑に服役ですよ(笑)、せっかくの学生時代ですからあまり束縛されずに送ってほしいものです。新卒一括採用も大学の受験制度も何故この国は何でも一緒でなければいけないんですかね、多様性が叫ばれている割りには驚くほどの同一性です。親の世代がこの仕組みを受け入れながらも”今どきの子供達は可哀そう”などと嘆くのも変です。さらに就活の後は婚活?
映画館でちょっと前までやっていたと思う正欲という作品内容が良く掴めてなくて、多少気になってはいたけど観たいまでならなかった作品しかし、YouTubeにて某動画を観て俄然興味が湧いてきてしまった!!(ちょっと人によって嫌悪感を持つ可能性もある内容のYouTubeなので割愛しますが。かなり個人的には興味深くて面白かったけど)うん、ブックオフの中古でも新書でもいいから、原作を読んでみようかなAmazonプライムとかでも近いうちに配信されるだろうけど久しぶりにズシンと来て、どこかで使いた
これまで当ブログで考察してきたように、「インタラクティブ・モナドロジー(対話型単子論)」の図式が示すように、如何に「同一性(同一性論理)」がコミュニケーション(対話)の障害だったかがお分かり頂けたと思います…。対話者同士(モナド同士)の障害となるだけでなく、その「分離・分断化」をも促進してしまうと指摘してきました。そして、決定的なことに、これまでの殆ど全ての”思想・哲学・論理的思考…”等は、「モノローグ型コミュニケーション」の産物であるとも述べて参りました…。例えば、「西欧社会では個人主義
「ヒエラルキー(ヒエラルキー構造)」をウィキペディアで調べると、「~階層制や階級制のことであり、主にピラミッド型型の段階的組織構造のことを示す。元々は聖職者の支配構造であった。~」とあります。当ブログの基本的に、既存の「中央集権体的支配体制」を批判しつつ、「その次に来るべき社会体制・社会構造を提案する」という姿勢です。前々回のブログで、「20世紀後半の思想・哲学の大半は同一性批判だった…」のようなことを述べてしまいましたが、これらも概ね、既存のシステム・支配体制・ヒエラルキー構造批判と考えてい
「個別の存在に意味は存在しない。それらは隣り合うものとの”対立関係”によって初めて成立する」としたのは、言語学者のソシュールです。これは、当ブログでもお馴染みのウィトゲンシュタインの「言語の意味は使用である」に近い考え方と言えます。ソシュールは、ウィトゲンシュタインと共に「言語論的転回」の立役者でもあります…。この様な考え方(言語論的転回)を契機にして、「おカネの要らない社会・非決済型社会・配給型社会」を実現しようというのが、当ブログの基本的な姿勢になります。ウィキペディア等で(相変わらず勉強
今日は、金縛りの経験談をお話しします。あのですね?解離性同一性害だと、こんな事、しょっちゅうですよ。離人症ひどくなるんです。とにかく、身体が言うこと効かないんです。あと、勝手に複人格が人の体使って、ベラベラおしゃべりします。言うこと聞かなくなります。誰かさんと、目があったら最後それで、催眠かけられたら?各人格の役割分担が、はっきり見えてきました。それは、その場面に合わせた人格が活躍してくれます。この能力素晴らしいでしょう?でもね、特別な人しかなれないんです。
数年前、仕事場の前にいたら、ウォーキングをしていた男性が、私に「○○さんですよね」と言った。「そうですが・・・」と応えたが、相手がだれかわからない。すると「○○〇〇です。覚えていないかもしれないけど」。名前からすれば小中学校の同級生である。特に知っている高名な大学の教授と同性同名なのでよく覚えていた。しかし、顔がまるで違う。私は、450人くらいの小中学時代の同級生は、かなり覚えている(当時の顔で)。名前を聞いたら思い出す。顔がまるで私の記憶と異なる同級生は、ほかに何人かいる。どうして
はじめに私の関心事の一つは、人間関係における信念の対立や衝突をどのように縮小していくかです。私たちはそれぞれ異なる信念や価値観を持っており、同じ空間や時間を共有する際に理解し合えないことで対立が生じることがあります。これがエスカレートすると、身体的な暴力へと発展する恐れがあるため、この問題に取り組みたいと思っています。クラスの中でも、単なる意見交換が言い争いになることがあります。意見が出ること自体は良いことだという見方もありますが、世界的な複雑で深刻な対立を見ると、子どもたちにも対立を克
皆さんも、人生の中で、何度かは、街中やお店で、偶然に学校の友達や会社の人間に出くわしたことがあるのではないでしょうか。こういう時と言うのは、普段学校にいるときの感覚とか、普段会社にいるときの感覚は全く違った感覚になるのではないでしょうか。このときの気持ちはなかなか言語化できなかったのですが、最近読んだ「聞くことの力」と言う本を読んでなんとなくわかってきたように思いました。すなわち、学校や会社にいる時と言うのは、そうした貴族の中の同一性に入り込んでおり、その中で求められる役割を演じていたわけで
…いつものように、ここ数回のブログを見直したり思い返していたら、非常に重大(?)かつ、興味深いことに気付きました…。依然として進展しない(?)、当ブログ謹製の「ウイルス論理学(寄生体論理学)」ですが、その展開に繋がっていく…と思われる、新たな発見がありました…。前々回のブログで、(論理性に関して)「その際、その『事物・対象』は『同一的』であるより他ありません~」などと述べてしまったのですが、…では、「(同一性)論理側」はどういう風になっているんでしょうか…。この「事物・対象・名」側と「論理・表
前回は、あろうことか…、畏れ多くも”レジェンド”柄谷行人氏の集大成ともいえる「交換様式」をあからさまに批判してしまいました…。思うんですが、氏の考える「交換様式」とは、当ブログ的には「交換論理・変換論理」であり、それは(論理哲学的には)「同一性論理」抜きに成立するものではありません…。そうなっていくと…俄然、既存の思想・哲学(西洋形而上学的・ピュタゴラス・プラトン路線)と変わり映えしない…と思ってしまうのです。言うまでもなく…、「論理」とは、(対象・事物に対して)「何事かを語る(説明する)」も
…前回、思わず…「マルクス経済学の”搾取”」とは、「ウイルス論理学」的には「寄生」である…などとのたまってしまいました…。未だその全貌が…な「ウイルス論理学」ではありますが…、一般的とされる「論理性(科学的見地)」とは、その実、その対象物(ヒト・モノ・事物)に対して「寄生的に作用してしまう…」という考え方です。端的に言えば、「論理的なればなるほど…」、その寄主(宿主)である対象物(ヒト・モノ・事物)はダメになっていってしまう…と考えるのです。「論理性・科学的見地」とは、”正しい事の代名詞”的な
そろそろジムニー(JA12)の車検が切れるので今日はユーザー車検の準備をしました。最低限の点検をやって、検査官の心象が良いように下回りもキレイにしました。タイヤもノーマルサイズのスタッドレスにしました✌車検といえば同一性の確認で車台番号とエンジン型式を見ますけれど、ジムニーって割と見にくい場所にエンジン型式が書かれているんです。ちなみに僕のジムニーのエンジン型式はF6Aです。ネットで調べましたがバッチリな画像がなかったので僕の方で撮ってみました。エンジン型式が書かれているのはサーモス
今回も前回の考察からの続きになります…。(当ブログ謹製である)「ウイルス論理学」開陳(!)間もない頃、「『論理』とは『言語寄生体』である…」ようなことを書いていたと思うんだが…。これも、メカニズム(仕組み)としては、今回の「『貨幣(お金・マネー)の特性』と非常に似通っているいるのではないか…。そうすると、この寄生体としての「貨幣(お金)」の宿主(寄主)は、「商品(事物)」ということになるのでは…。意外なものの見方なのかもしれないが、そうやって考えていくと、何故か、視界が凄くクリヤーになっていく