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いつも当ブログ、歴史連載物語をご覧になって頂き誠にありがとうございます。いつもありがとうございます。2021年6月1日より始まりました『猛将親父』、2023年6月6日で終わりました。全162話、序章を含めてると163話でした。2年も描いたのかぁ〜こちら⬇️が目次目次『歴史連載物語『猛将親父』目次』歴史連載物語『猛将親父』吉川元春各話をクリックすると、そのページが開くよ目次序章関ヶ原にて第1話元就の子第2話雪合戦第3話尼子の若当主第4話次郎のわ…ameblo.jp今回は吉川
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。「やっと会えたな、吉川元春」豊前小倉城(ぶぜんこくらじょう)で病で伏せていた元春のところに豊臣秀吉(とよとみひでよし)が現れた。元春さんは小倉城を攻略した後、病で倒れたんだよ元春と一緒にいた経言(つねのぶ、後の広家)は驚いたと同時に槍を構える元春と秀吉に息を呑んだ。元春の目は明らかに戦場での戦う目であった。秀吉の後ろには黒田官兵衛(くろだかんべえ)がいた。元春も秀吉も官兵衛
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。元春の周りには白い雪景色が広がっていた。目の前には子供たちが遊んでいた。「行け!」「わぁ〜」「痛い!」「やったなぁ〜」子供たちは雪合戦をしていた。1人の子が叫んでいた。「次郎様!敵の姿が1人しか見えませぬ!」次郎「敵は逃げたのか?よし攻めよ!」元春は次郎と呼ばれる子を見て、元春『あれは…わしの幼い頃ではないか…』そこへ、「兄上!覚悟!!」元春の頭に雪玉が当た
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正14年(1586年)10月初め、元春は毛利輝元(もうりてるもと)、小早川隆景(こばやかわたかかげ)そして豊臣秀吉(とよとみひでよし)の軍師、黒田官兵衛(くろだかんべえ)と九州に上陸しました。いよいよ九州の島津(しまづ)勢との合戦が始まったんだ官兵衛「輝元殿、毛利勢は小倉城(こくらじょう)を攻めてくだされ。わしは豊前宇留津城(ぶぜんうるつじょう)を攻略いたす。」現在の小倉城輝
午後は晴れて五月らしい爽やかな、最後の土曜日・・気分転換に広島県北の北広島町へお出かけしました史跡、吉川元春の館跡の庭園だった池のほとりで、美しいカキツバタを見つけました~真っ白なカキツバタと紫のカキツバタは野生なんでしょうか?特に白のカキツバタの3つの花弁の美しさアヤメと花しょうぶしか見たことが無かったので感動しましたそばの古井戸に咲いていたのが、赤紫のマリアアザミアザミってこんなに美しかったんですね館跡に近い民家の田植えが終わった道端に見慣れない
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正14年(1586年)8月…「皆、立派に戦ってくるのですよ。ご武運をお祈りいたします。」優(ゆう)は九州に向けて出陣する元春、元長(もとなが)、経言(つねのぶ、後の広家)を見送った。毛利(もうり)家は総大将の輝元(てるもと)は吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)から、小早川隆景(こばやかわたかかげ)は伊予国から、それぞれ出陣した。8月26日、既に九州に渡っている毛利の先遣隊の
※こちらの記事は、平成19年6月1日に書かれたものです。下記リンク「信長(のぶなが)~(4)」の続きでございます。参考記事:信長の野望嵐世記(4)下記リンク「信長(のぶなが)~(4)」の続きでございます。参考記事:信長の野望嵐世記(4)1558年2月毛利元就(もうりもとなり)領安芸(あき)備後(びんご)攻め日野山(ひのやま)城陥落安芸国虎(あきくにとら)内応吉川元春(きっかわもとはる)処刑毛利家に興味のある方は、下記リンクをタップしてください:備中高松城
いつも当ブログ、歴史連載物語『猛将親父』をご覧になって頂き誠にありがとうございます(´∀`=)こちら⬇️が目次でーす目次『歴史連載物語『猛将親父』目次』歴史連載物語『猛将親父』吉川元春各話をクリックすると、そのページが開くよ目次序章関ヶ原にて第1話元就の子第2話雪合戦第3話尼子の若当主第4話次郎のわ…ameblo.jp吉川元春を主役とした『猛将親父』、そろそろ最終回が近づいてきました。この記事を描いている時点で158話までになりました。けっこう長いね〜元春の最後をどのよう
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。「元春が出陣するのか!?」大阪城に秀吉(ひでよし)の声が響いた。秀吉は毛利(もうり)の安芸国から戻ってきた黒田官兵衛(くろだかんべえ)と会っていた。官兵衛さんは元春さんに出陣令を伝えに安芸国の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)に行ったんだ官兵衛「はい、元春殿自身が出陣すると返答されました。」秀吉「元春と会ったのか?」官兵衛「郡山城に来ていました。」秀吉「そうか。では、わ
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正14年(1586年)4月、大阪城(おおさかじょう)で秀吉(ひでよし)が黒田官兵衛(くろだかんべえ)を呼び寄せた。黒田官兵衛秀吉「官兵衛、大友宗麟(おおともそうりん)が島津(しまづ)を征伐してほしいと懇願してきたぞ。」官兵衛「島津は殿(秀吉のこと)の九州停戦令を無視し大友領を侵攻しましたから…これで大義名分ができましたな。」秀吉さんは関白になって朝廷の権威をもって島津と大友に
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正13年(1585年)10月…四国攻め後、元春は再び日野山城(ひのやまじょう)麓の館の建築を進めながら、剣術の腕を磨くことに勤しんでいた。吉川元春館跡建築している館は元春さんの隠居の館なんだよ経言(つねのぶ、後の広家)も元春の剣術の稽古に付き合っていた。そこへ小早川隆景(こばやかわたかかげ)が訪れて来た。小早川隆景元春「隆景、ここへ来るとは珍しいの。」隆景「近々、元長
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。戦は終わり、元春は経言(つねのぶ、後の広家)と共に炎上した高尾城(たかおじょう)跡から戦場を眺めていた。小早川(こばやかわ)軍は金子元宅(かねこもといえ)ら伊予の軍勢に勝ったんだよね経言「父上、隆景(たかかげ)叔父上らの軍勢は河野氏(こうのし)をも降伏させましたが、我らは行かなくてよいのですか?」元春「わしは河野討伐には要はない。」経言「元宅(もといえ)殿との一騎討ちのみ…でし
馬ノ山登り口(鳥取県東伯郡湯梨浜町)観光案内板現在ではほとんど使われることは無いが、碁や将棋で「背水の陣」に相当する一手のことを「吉川が橋を引きたる陣構え」と言うそうだ。吉川とは毛利元就の次男、吉川元春の事で、天正9年(1581)伯耆国の東部、現在の鳥取県東伯郡湯梨浜町において、元春が織田軍の羽柴秀吉と戦った故事にちなんでいる。馬ノ山展望台展望台から臨む東郷湖。右手に橋津川が流れている。現地説明板天正9年(1581)、因幡国の鳥取城は後に『鳥取城の渇え
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。「お前は吉川元春!!」伊予国の野々市ヶ原から逃れた金子元宅(かねこもといえ)らの前に元春が太刀を持って現れたのだ。秀吉(ひでよし)さんの四国攻めで毛利(もうり)家は伊予を攻めたんだよ元春「元宅、久しいの!いつぞやの決着をつけにきた。」元宅「決着…知られていたのか…元春、隠居したのではないのか?」元春「お主と戦うのだけは話は別、この決着だけに来た。」元宅は笑みを浮かべ、元宅
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。元春と経言(つねのぶ、後の広家)は忍びの弥助(やすけ)と伊予国の氷見で合流した。元春「弥助、金子元宅(かねこもといえ)は今、どこにいるのだ?」弥助「手勢を率いて高尾城(たかおじょう)にいます。その数、600余。」経言「600⁉︎小早川(こばやかわ)軍は20,000近くの兵数ぞ。これではひとたまりもあるまい。」元春「経言、戦は兵の数だけにあらず。かつての厳島合戦では、我ら毛利(
昼さんぽになってしまった週末広島城に足が向かいましたあらっ、何かやっていますそうそう、週末に活動しいる安芸ひろしま武将隊のライブショーです丁度始まったところに遭遇しましたよ一文字に三つ星紋は、毛利家の家紋一文字は「物事の始まり」下の三つの丸は「将軍の星」と呼ばれたオリオン座のベルト部分を表しています戦旗の名前を見てみます中央:毛利輝元(祖父が中国地方を下剋上で制覇した偉大なる毛利元就、病床で3人の息子に説いた3本の矢の教えが有名)左:毛利隆元(元就の長男、内政
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正13年(1585年)6月27日、羽柴秀吉(はしばひでよし)の四国攻めの一軍、毛利(もうり)軍の小早川隆景(こばやかわたかかげ)軍は伊予国今治浦に上陸した。秀吉さんは伊予の他に讃岐は宇喜多(うきた)軍、阿波は弟の秀長(ひでなが)さんに攻めさせたんだ小早川軍の上陸を阻もうと長宗我部(ちょうそがべ)の兵が襲撃してきた。「うぉぉ〜!!」「向かって参れ!討ち取ってくれるわ!!」小早
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正13年(1585年)春…四国は土佐国の岡豊城(おこうじょう)。城主は四国を統一しつつあった長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)である。一説には元親さんの四国統一は完成してはいないとも言われてるね「ふんッ!!」長宗我部元親像元親は長い槍を振っていた。そこへ弟である香宗我部親泰(こうそがべちかやす)がやって来た。親泰「兄上、羽柴秀吉(はしばひでよし)からの返答が来ました
吉川元春すでに死語かもしれないが、碁や将棋の対局で「背水の陣」に相当する一手を「吉川が橋を引きたる陣構え」と言うそうだ。吉川とは毛利元就の次男、吉川元春の事で、天正9年(1581)に伯耆国の東部、現在の鳥取県東伯郡湯梨浜町において、元春が織田軍の羽柴秀吉と戦った故事にちなんでいる。【吉川元春の生涯】吉川元春は享禄3年(1530)に安芸吉田郡山城で生まれる。母は安芸国の国人・吉川氏の出身である。天文9年(1540)に出雲国の尼子晴久が侵攻してきた吉田郡山城の戦いにおいて、元服前な
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正13年(1585年)1月、毛利輝元(もうりてるもと)は羽柴秀吉(はしばひでよし)との国境画定に応じた。「120万石か…」元春は吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)から小早川隆景(こばやかわたかかげ)と共に城下を眺めていた。吉田郡山城跡毛利は安芸国、備後国、周防国、長門国、石見国、出雲国、隠岐国の7ヶ国と備中国、伯耆国の2ヶ国の西部を領有することとなった。隆景「120万5,
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正12年(1584年)1月、大阪城…現在の大阪城「まだ決まらぬのか⁉︎」羽柴秀吉(はしばひでよし)の激怒する声が響いていた。秀吉をなだめていたのは弟の秀長(ひでなが)と黒田官兵衛(くろだかんべえ)だった。羽柴秀長秀長さんは秀吉さんの異父弟なんだよ秀吉「人質を交換したのに、毛利(もうり)はまだごちゃごちゃと言っておるのか⁉︎」官兵衛「毛利は割譲される備中、美作、伯耆の配
こんにちはコーヒータイムはいつもAimerコップ広島でコンサートがあるときに2度行きましたグッズがシンプルで好きタオルもありますが、Aimerタオルは今治タオルで使い心地最高送料無料!【3個セット】カフェカルディドリップコーヒーマイルドカルディ桜柄限定パッケージ10g×10p楽天市場2,490円${SHOP_LINKS}送料無料!カフェカルディドリップコーヒーマイルドカルディ10g×10P楽天市場1,109円${SHOP_LINKS}ジャーン1
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正11年(1583年)11月、経言(つねのぶ、後の広家)は大阪から安芸に戻った。経言さんは羽柴秀吉(はしばひでよし)さんの元に人質として行っていたけど、1ヶ月で返されたんだ吉田郡山城吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)に入った経言は毛利(もうり)家当主、毛利輝元(もうりてるもと)や小早川隆景(こばやかわたかかげ)、兄の元長(もとなが)に会った。経言「ただいま、大阪より戻りまし
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。「待たせたの〜!わしが秀吉(ひでよし)じゃ!」大阪城(おおさかじょう)の居間に通された吉川経言(きっかわつねのぶ、後の広家)と小早川元総(こばやかわもとふさ)の前に現れた泥だらけの男が羽柴秀吉(はしばひでよし)だった。経言、元総とも唖然とした。その時、「両名、秀吉様ぞ!」と一喝の声が響いた。経言と元総は平伏した。秀吉「三成、よいよい。こんな格好でびっくりしたのであろう。」
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。経言(つねのぶ、後の広家)は兄、元長(もとなが)から、元長「経言、そなたは羽柴秀吉(はしばひでよし)の元へ行くのだ。」経言「私が…人質。」秀吉が毛利家を従わせるために人質を出すように求めてきたんだよ吉川広家(経言)元春は黙って聞いていた。元長「人質交換なのじゃ。毛利(もうり)からは2人行くが、秀吉は我が吉川家の人間を所望なのじゃ。」経言「…私が選ばれたことは光栄です。毛利
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。「毛利(もうり)はわしに従え!」天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家(しばたかついえ)に勝利した羽柴秀吉(はしばひでよし)は毛利家の重臣・小早川隆景(こばやかわたかかげ)に書簡を送ってきた。信長(のぶなが)さん亡き後の主導権を秀吉さんが完全に握った戦いだね隆景は毛利家当主、毛利輝元(もうりてるもと)に秀吉からの書簡を見せた。輝元「…秀吉は強いの」隆景「強い秀吉
凡庸な大名を支える、小早川隆景と吉川元春。戒めは大事ですよね。私も気を引き締めて生活します。愛蔵版戦国名将一日一言Amazon(アマゾン)2,826〜3,410円
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。「わしは隠居いたす!」元春は妻、優(ゆう)、元長(もとなが)、経言(つねのぶ、後の広家)ら家族の前で隠居宣言をしたのだ。元長「隠居とは⁉︎」経言「父上、隠居はまだ早うございます!」優「殿…」元春は家族其々の顔を見た。元春「すでに元長は吉川家当主として充分な力を備えた。毛利両川の一翼としての力もある。」元長「父上、それがしにはまだまだ父上の力には及びませぬ。」元春「わしは
(2020年4月4日の話)吉川家は戦国武将『吉川元春』の家系でしょうか?とても物静かな所にありました。(^ν^)地元の人に慕われているんでしょうね(^o^)オイラが死んだら海に撒いて欲しいです(^ν^)あまりに広くて迷路みたいでした(^ν^)紅葉谷公園の近くまで行きたいと思います。宮島にも同じ名前の公園がありましたね。こりゃまだ山の中だな。時間もないので、次回ですね。もみじだに公園と石に掘られてました。もみじと桜🌸のコラボっぽくないですか?紅葉谷公園…また紅葉の時期に来たい
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正10年(1582年)10月、本能寺の変から4ヶ月、京の大徳寺(だいとくじ)で羽柴秀吉(はしばひでよし)が織田信長(おだのぶなが)の葬儀を行なっていた。大徳寺この葬儀には織田家の重臣、柴田勝家(しばたかついえ)さんは不在だったんだ筆頭宿老の柴田勝家(しばたかついえ)と秀吉の対立はさらに激しくなっていた。この状況下で毛利輝元(もうりてるもと)のところには秀吉、勝家、双方から味方