ブログ記事209件
上杉景勝吉川元春小早川隆景武将にちなんだとみられる四股名がたくさんそして新入幕力士として110年ぶり優勝を果たした尊富士関の四股名を見たときヤマトタケルノミコトや足利尊氏をイメージしてしまいました横綱が途中休場したとはいえ相撲内容と負傷を抱えながら出場した千秋楽の相撲は素晴らしかったです
2024年--------------------------------------------気を引き締めて、、、三日坊主にならないように注意します。2023年--------------------------------------------凡庸な大名を支える、小早川隆景と吉川元春。戒めは大事ですよね。私も気を引き締めて生活します。愛蔵版戦国名将一日一言Amazon(アマゾン)2,826〜3,410円
北広島町まで来たのでちょっとドライブ…しかし、お昼の時点でこの辺りは気温は3℃…🌡いかにも〜てな冬の山です…🏔「吉川元春跡歴史公園」…広島県山県郡北広島町1300年代に石見吉川氏一族がこの地を治めておりましたが1500年代戦国武将毛利元就によって当主が謀殺され系譜が途絶えた後に毛利元就の次男元春が吉川家を継ぎ「吉川元春」となり戦国大名となり関ヶ原の戦いで西軍が敗れると吉川氏は周防国岩国(山口県)へ移封されました…土塁の上が館跡ですこちらは吉川元春館跡の台所跡の復元で毎月第三日曜日には
いつも当ブログの歴史連載物語をご覧になって頂き、誠にありがとうございます^o^いつもありがとうございます😭2023年、もうすぐ終わりに近づいています。今年の歴史連載物語は吉川元春(きっかわもとはる)を題材とした『猛将親父』から始まりました。こちらが『猛将親父』の目次だよ⬇️猛将親父・目次『歴史連載物語『猛将親父』目次』歴史連載物語『猛将親父』吉川元春各話をクリックすると、そのページが開くよ目次序章関ヶ原にて第1話元就の子第2話雪合戦第3話尼子の若当主第4話次郎のわ…ameb
「有田中井出の戦い」で毛利元就と共に武田元繁を討ち取った吉川元経の妻は毛利弘元の娘であり、毛利元就の妻は吉川元経の娘だった。吉川家13代当主・吉川元経の祖父は応仁の乱で鬼吉川と呼ばれ、全国に名を馳せた名将・吉川経基で、父・国経は尼子、大内による中国地方制覇の動向に巧みな政治力を発揮した。吉川氏は藤原南家を祖とする名家でもあった。吉川元経は、毛利元就にとっても盟友であり、頼りとする親戚だった。元経が、父・国経に先立って死去した後、元就と吉川家の関係が微妙なものとなっていく。嫡子・興経は、元経
毛利輝元という人物。知名度の高さに比べて、一体、どういう人なのかということに関しては、あまりイメージが沸かない。西国一の大大名にしては、印象が薄いですよね。毛利輝元は、何をしたのか、と、聞かれても、パッと思い浮かぶことがない。毛利輝元:西国の儀任せ置かるの由候(ミネルヴァ日本評伝選)Amazon(アマゾン)毛利輝元に焦点を当てた本といえば、この本くらいでしょうかね。なかなか、面白く、興味深いですが、この本には、毛利輝元は、戦国大名として、外に打って出ることに関しては、
明智秀満(116)「毛利家日記」『六月四日、船ヲ飾リ、清水ヲ初メ、同兄弟月清、子右衛門尉、幷従者三人乗船、末近左衛門尉乗之、介錯ハ高市之丞、以上七人、清水拳一聲、秀吉公ノ陣ノ前エ漕寄切腹ス、従秀吉公、賜堀尾茂助、乗船ノ輩一度ニ自殺ス、籠城ノ輩ハ被送遣、安国寺、輝元、隆景、元春ニ披露ス、愁涙無止時、因茲和平相調、神文双方取替シ、翌日六月五日、秀吉公幷宇喜多ヲ初諸軍退去ス、就夫岩崎ヒサシ山ノ陣モ猿懸エ被内入、明智日向守反逆シテ、去二日ノ暁、洛下本能寺ニシテ、信長公御自害、秋田
毛利元就(もうりもとなり)は中国地方の有力な戦国大名毛利氏第12代当主晩年の元就が病床に伏していたある日三人の息子を集めまず一本の矢を折ってみせ一本の矢では折れてしまうが三本に束ねると折れない事を示し兄弟が力を合わせて家を盛り立てるよう訓を垂れたこれを「三矢の訓」(さんしのおしえ)というだがこれは史実とは少し違う元就が晩年病床に伏していた時期には長男の毛利隆元はすでに亡くなっているし次男の吉川元春は出
明智秀満(111)「黒田家譜」『六月二日、惟任日向守光秀反逆して、其寺を囲みて弑しけり、扨も毛利家にて清水を救わんと謀れども浩水を隔てし上、猛勢にて囲み防きけるは、助くに術なく、宗治に降参せよと下知し、秀吉には孝高に就て、和議を申入りけれども承引なかりしに、同三日、宗治、某一人切腹せは、御本意を遂らるへし城に籠りし者は、助命たまえと乞けれ秀吉其望に任せへしと答られしに、其夜弑逆の変達しけり、』光秀・一益に並び、秀吉は独自の情報網を構築していた。特に安土・京
中国地方は周防大内氏、出雲尼子氏の二大勢力の影響下にあり、安芸守護職武田家がかっての勢力を取り戻そうと虎視眈々と機会を狙っていた。各地の国人領主が、生き延びる道はどの勢力に従属するかという選択だった。その中で、大内氏が先の室町幕府将軍・足利義植を擁護したことで、室町幕府派、反室町幕府の巨大な2つの勢力争いも勃発し、各地の国人領主は翻弄されていく。国人領主・毛利家も従属先に頭を悩ませていた。元就の父、広元は、三十代で隠居し、嫡男・興元に家督を譲った。永正8年(1511)8月、畿内で幕府管領代・大
モンキーで大朝方面から千代田方面に向かって国道433号ぞいに…「戦国の庭歴史館」があります…戦国の庭歴史館・吉川元春館跡歴史公園が正式名称みたいです…😅吉川元春(1530-1586)…戦国武将毛利元就の次男で毛利隆元、小早川隆景と共に三本の矢の逸話の1人ですね…🏹主に山陰地方を担当していたそうです…入館料は大人300円、高校生200円、中学生以下無料…但しJAF会員証提示で200円になります…甲冑の試着もありますよ…レプリカだけど持っただけでも重かったです…これ着て戦うってなかなか
明智秀満(93)「信長公記」『羽柴筑前守秀吉、備中国城々攻められし事中国備中へ羽柴筑前守相働き、すくも塚の城、あらあらと取り寄せ、攻め落し、数多討ち捕り、並びに、ゑつたか城へ、又、取り懸け侯ところ、降参申し罷り退く。高松の城へ一所に楯籠もるなり。又、高松へ取り詰め、見下墨、くも津川・ゑつた川、両河を関き切り、湛水々攻めに申しつけられ侯。芸州より、毛利、吉川、小早川、人数引卒し、対陣なり。信長公、此等の趣聞こしめし及ばれ、今度、間近く寄り合い侯事、天の与うるところに侯
2023年10月5日--------------------------------------------子供の頃の性格が、その人本来の性格として表れているのかもしれませんね。私は子供の頃からひょうきんでした。ひょうきん族になりたいです。2022年10月5日--------------------------------------------子供の雪合戦から、将来性を判断した毛利元就、恐るべし。愛蔵版戦国名将一日一言Amazon(アマゾン)1,894〜3,410円
今年は、毛利元就郡山城入城500年、安芸高田市吉田町では、この一年間、色々なイベントが行われた。平成9年(1997)NHK大河ドラマ「毛利元就」が放映されたときのサブタイトルは、毛利元就生誕500年記念作品だった。主演は中村橋之助(現八代目中村芝翫)だった。色んなジャンルから、出演者を求め、各々のキャラクターが役とマッチした珠玉の大河ドラマだと思っている。後にイチロー、真田広之を虜にした僕の大好きな女優、葉月里緒奈が、村上水軍の娘役で出ていたことをいまだに記憶している。毛利元就の全国的
明智秀満㊶「信長公記」『因幡国鳥取城取り詰めの事六月廿五日、羽柴筑前守秀吉、中国へ出勢。打ち立つ人数二万余騎。備前・美作打ち越し、但馬口より因幡国中へ乱入、橘川式部少輔楯籠もるとつとりの城、四方離れて、嶮しき山城なり。因幡の国は、北より西は滄海漫々たり。とつとりと、西の方、海手との真中、廿五町程隔て、西より東南町際へ付きて流るる大河あり。此の川舟渡しなり。とつとりへ廿町程隔て、川際につなぎの出城あり。又、海の口にも取り継ぐ要害あり。芸州よりの味方引き入るべ
毛利輝元は暗愚な3代目でした。家臣の妻を横取りしようとしたり、側で支えるおじ吉川元春や小早川隆景がいたころは良かったのでしうが、たがが外れてのか。関ヶ原の戦いでは西軍総大将に祭り上げられ、大阪城に入ります。城を出ることなく中途半端な姿勢です。関ヶ原の戦いで負けても大阪城に籠城してれば、豊臣恩顧の福島正則、加藤清正等は攻められず、別の選択肢も出ていたでしょう。関ヶ原の戦いが1日で終わらず、長期化していた可能性もあり、東北で伊達政宗が動くでしょうからら、徳川家康も、ずっとは上方にはいられな
いつも当ブログの歴史連載物語をご覧になって頂き誠にありがとうございます。いつもありがとうね😊長らく連載しておりました『猛将親父』、本編、外伝、こぼれ話、登場人物…全て終わり、目次も完成しました。猛将親父・目次『歴史連載物語『猛将親父』目次』歴史連載物語『猛将親父』吉川元春各話をクリックすると、そのページが開くよ目次序章関ヶ原にて第1話元就の子第2話雪合戦第3話尼子の若当主第4話次郎のわ…ameblo.jp毛利元就の次男に生まれ、猛将と言われた吉川元春を主人公とした物語でした。
歴史連載物語『猛将親父』吉川元春各話をクリックすると、そのページが開くよ目次序章関ヶ原にて第1話元就の子第2話雪合戦第3話尼子の若当主第4話次郎のわがまま第5話美しの助言第6話罠にかかる尼子第7話少数精鋭第8話次郎初陣第9話次郎初勝利第10話隆元帰る第11話元就の心配第12話次郎負ける第13話不安的中第14話見張り台の次郎第15話次郎元服第16話徳寿の養子話第17話三本の矢第18話母への贈り物第19話出会い
今回は『猛将親父』のこぼれ話です。その③です。『猛将親父』の目次はこちら⬇️目次吉川元春(きっかわもとはる)が天正10年(1582年)の備中高松城の戦いの後、嫡男の元長(もとなが)に家督を譲り、隠居した。備中高松城の戦い隠居した元春は日野山城(ひのやまじょう)の西南の山麓に隠居館を建築を天正11年(1583年)から開始した。この⬆️高さ3mの石垣が約80mに渡って続いているんだよ元春は建築途中の館に住み、隠居生活を始めたのだ。しかし、元春は館の完成を見る事なく、天正14年(15
今回は『猛将親父』のこぼれ話です。その②です。『猛将親父』の目次はこちら⬇️目次吉川元春(きっかわもとはる)には4人の息子がいました。元春の後を継いだのが長男の吉川元長(きっかわもとなが)でした。吉川元長元長は天正14年(1586年)11月15日に亡くなった元春の後を追うように翌年の6月に亡くなった。元長が吉川家の後継ぎを弟であり、元春の三男の広家(ひろいえ)に推薦し、毛利輝元(もうりてるもと)、小早川隆景(こばやかわたかかげ)も同意した。吉川広家広家さんが吉川家の当主になっ
今回は『猛将親父』のこぼれ話です。その①『猛将親父』の目次はこちら⬇️目次関ヶ原の戦い後、吉川広家(きっかわひろいえ)の尽力で家名を保つことができた毛利輝元(もうりてるもと)。毛利輝元防長2ヶ国に減封が決定した後、輝元は出家、剃髪し、幻庵宗瑞(げんあんそうずい)と称した。さらに家督を嫡男、秀就(ひでなり)に譲った。毛利秀就しかし、これは形式上のことで実質的な実権は握っており、秀就と二頭体制となった。秀就さんが長州藩の初代藩主なんだ慶長19年(1614年)、大阪冬の陣(おおさ
『猛将親父』の目次はこちらだよ⬇️目次吉川広家(きっかわひろいえ)です。関ヶ原の戦いの後、毛利輝元(もうりてるもと)は領地没収の上、改易。毛利家の領地の内、周防、長門の2ヶ国をわし(広家のこと)に与えるとの沙汰が来たのだ。広家さんは毛利を守るために徳川に内密で通じたのは毛利家の領地安堵の約束を得ていたからなんだよ毛利輝元広家『これでは毛利が潰れてしまう!父、元春(もとはる)との約束が守れぬ…』わしは命をかけて豊臣秀吉(とよとみひでよし)公と立ち向かった父と同じように徳川家康(とく
『猛将親父』の目次はこちらだよ⬇️目次吉川広家(きっかわひろいえ)です。関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は徳川家康(とくがわいえやす)率いる東軍の勝利となった。西軍だった広家さんの軍勢が動かず、小早川秀秋(こばやかわひであき)さんの裏切りが東軍の勝利に繋がったんだよねわし(広家のこと)は黒田長政(くろだながまさ)を通じて家康と内通していた。黒田長政内通したのは毛利家の所領安堵のため。関ヶ原の戦い前、わしと毛利家重臣、福原広俊(ふくはらひろとし)は長政に毛利軍は戦闘不参加の誓い
三宅弥平次(80)「信長公記」『戊寅二月三日、磯野丹波守、上意を違背申し、御折檻なされ、逐電仕り、則ち、高島一向に津田七兵衛信澄、仰せつけられ候なり。戊寅二月九日、吉野の奥山中に磯貝新右衛門隠居仕り候を同地の者、頸を切り、安土へ進上致し候。ご褒美として黄金下さる。一度御憎を蒙り候の者、御存分に属さずと云うことなし。戊寅二月廿三日、羽柴筑前守秀吉、播州へ相働く。別所与力、嘉古川の、賀須屋内膳、城を借り、羽柴筑前人数入れ置き、秀吉は書写山に取り上り、要害を構え、居陣な
『猛将親父』の目次はこちらだよ⬇️目次吉川広家(きっかわひろいえ)です。文禄2年(1593年)、毛利(もうり)家当主・毛利輝元(もうりてるもと)は、まだ実子に恵まれていなかった。そんな時、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、なんと57歳で子が誕生したのだ。幼名・拾(ひろい)、後の豊臣秀頼(とよとみひでより)である。豊臣秀頼そんな時に小早川隆景(こばやかわたかかげ)は黒田官兵衛(くろだかんべえ)から、官兵衛「隆景殿、輝元殿は未だに実子におらず。後継ぎにもお困りであろう…」隆景「…はぁ
吉川元春の本拠地北広島町新庄は戦国の武将吉川元春(毛利元就の次男)の本拠地でした。その地に400年を超えて伝わっている。南条踊りの由緒は昨年書いていますので略します。『「南条おどり」県の無形民俗文化財…』北広島町新庄に伝わる南条おどり広島県の無形民俗文化財に指定されています。戦国時代に(三矢の訓えで知られる毛利元就の次男)吉川元春が伯耆の南条元続を攻めた時…ameblo.jp九曜紋は吉川家の家紋です。陣笠陣羽織を着けて戦国時代の武士になり切ります。中央の少年3人も頑張
『猛将親父』の目次はこちらだよ⬇️目次吉川広家(きっかわひろいえ)です。我が父・吉川元春(きっかわもとはる)は天正14年(1586年)11月15日に出陣中の豊前小倉城(ぶぜんこくらじょう)で亡くなりました。この時、元春さんを初めとする毛利(もうり)軍は豊臣秀吉(とよとみひでよし)さんの九州征伐に参戦してたんだよね「兄上…後はわしにお任せあれ!」毛利(もうり)を支える毛利両川(もうりりょうせん)の元春がなくなり、残ったのは小早川隆景(こばやかわたかかげ)でした。小早川隆景九州征伐は