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大河ドラマ館から歩いて吉原エリアにきました。現在の住所では台東区千束4丁目あたり。何代目かの見返り柳S字カーブで有名な五十間道路かつて吉原大門あった場所昨年作られた新しい史跡案内旧町名由来案内吉原大門近くに江戸新吉原耕書堂があります。風俗街の真ん中によく作ったね…。大河ドラマ館と同じく期間限定の観光施設。いろんなグッズが売られています。店内にも吉原の解説パネルがあったり吉原細見が展示されていたりと見どころがあります。吉原細見の復刻版がこの日か
今日はよいこの日最近、褒められてる?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう🙋お晩ですぅ〜🌠最近褒められてる?褒める事は有っても褒められる事は無いです(笑)(ºωº)チーン…桜🌸を見に。。。山には雪が残り足元には可愛い里の花が咲きあちらこちらに満開の桜🌸小高い丘の上に立つ一本桜🌸怪しいオバチャン(笑)平安時代後期に源為公により築城されたと言われる史跡上ノ平城址に咲いていました🌸山々に抱かれた伊那谷が見渡せる丘は曲輪の跡今
見晴らしの良い春日山神社にある人のために生きた上杉謙信像人の悦びを自分の悦びとして生きる事は本当の幸せを感じることができて愉しいなんてことをYさんと語りながら上越の町を少し周りました。春日山神社には車で上まで上がりました。前日までの寒空とは変わって祝福されたかのような快晴の青空がとても気持ちよかった✨地元で人気の賑やかな中華屋さんで人生最幸のレバニラ定食を頂きましためっちゃ美味しかった〜次は旧陸軍第13師団長官舎の静かなカフェで優雅に過ごす大人なデートコース(今はランチはやってい
<やなせたかし氏の住居跡とやなせライオン製作地跡>道路を2分ほど北上して行った宇田児童遊園地南の歩道が分岐する三叉路に、「道信山」の道標が設置されている。それは、やなせたかし氏の詩「道信山の夕焼け」の舞台となった小丘のこと。道標に従い右折し、その先の四差路を南下した先に道信山はある。地元では「どんしんやま」と呼ばれる小丘は、やなせたかし氏の自宅だった柳瀬医院のすぐ西にあったことから、やなせ氏は伯父の柳瀬氏の養子になった千尋と一緒によく、チャンバラごっこ等をして遊んでいた。が、本来、道信山
志木市の史跡旧村山快哉堂(かいさいどう)いろは親水公園の桜2025年4月12日、快哉堂建物で正面右側に小諸城跡の枝垂れ桜が満開でした。この枝垂れ桜の花びらをよく観察するとピンク色で八重桜、つまり花弁、花びらがたくさんあります。さらに花びらの内側は細くなったいてハタザクラのハタとまるで同じ形に見えます。他でも枝垂れ桜を見ましたが、同じようにハタが見えました。ハタザクラのハタはまだまだ掘り下げることがありそうです。次に快哉堂の正面左手に5本のベニヤマザクラが、志木市ロータリークラブが寄贈し
パレンバンの一番の観光地、市民の憩いの場がムシ川アンペラ橋の近く『パレンバンと言えばAmpera橋(Palembang②)』アジア大会でもよく画面でみたし、パレンバンのランドマークと言えば....Ampera橋日本の戦争賠償からの資金で、1962年4月に建設が始まり、1965年5月…ameblo.jp『自家用ジェットも見ちゃったよ。初ハリム!で南スマトラへ(Palembang①)』今まで機会がなくて、今回の旅行で初ハリム空港!緑の道をずーっとすすんで、ちょっとレトロなフォントがなんとも
摠見寺の史跡です。城のメインストリートから外れた場所にあったので24年前は気づかなかったのでしょう。いや、そもそも安土城が焼失した際に、摠見寺も燃えたと思っていましたよ。正門と塔が残存していたとは・・・。他にも24年前にも見た、階段や石垣に使われた石仏そして羽柴秀吉邸跡や前田利家邸跡など見所は満載です。かなり登るけどね・・・。さて、続いてはロープウェーを利用して、八幡山を登ります。だ、団体だ~!大型バス2台で襲来だ~!次の観光地である信長の
【京都の歴史散歩】千家十職の名家・楽家とその邸宅跡京都を歩いていると、ふと目にする石標(いしひょう)。その一つに「楽家邸宅跡」を示すものがあります。この場所こそが、茶の湯の世界で名高い「千家十職(せんけじっしょく)」の一つ、「楽家(らくけ)」の歴史が息づく場所なのです。楽家のはじまり──侘び茶の美をかたちにした男・長次郎楽家の歴史は、安土桃山時代にまでさかのぼります。その祖は、千利休(1522~1591)に見出された陶工・長次郎(ちょうじろう、?~1589)。千利休が理想とした「侘び茶(わ
愛知の歴史史跡を探訪する愛知ウォーキング城巡りクラブで真宗大谷派名古屋別院を訪れました。名古屋市内では有名な仏教寺院ですが、戦国時代が好きな方は特に興味深い史跡でもあります。>>真宗大谷派名古屋別院の地図織田信長が成人した場所真宗大谷派名古屋別院の敷地は、かつて織田信長の父である織田信秀の古渡城があった場所です。境内の隅に石碑と名古屋市教育委員会の看板が建てられています。この古渡城で信長が元服(げんぷく:成人すること)したといわれています。さて、織田信長が元服した
水口を歩く。春のぽかぽか陽気に誘われて、水口地域を散策してきました。切差に向けて棚田の広がる山梨市では珍しい地域ですが、段々畑にはすももが咲き誇っています。県道沿いには首地蔵と呼ばれる巨石にお地蔵様の首がつけられた悲しいストーリーのある巨石もあります。(水害の歴史を今に伝える史跡)仏沢城に向かう兄川の対岸には、県有林の八幡山の部分植林の石碑があり、そこから仏沢に向かう林道が続いていました。八幡は切妻の民家もまだまだ多く残されており、昔懐かしい日本の原風景を楽しむことができますね〜〜(
細川・三好の居城勝瑞城館跡四国の城攻め第6弾は、徳島県にある続日本100名城の1つ、勝瑞城跡・勝瑞館跡です。勝瑞城館跡周辺(パンフレットより)勝瑞は阿波の守護である細川氏が守護所を構えた場所。細川宗家の家督争いによる内紛が起こり細川一族が衰退に向かうと、16世紀半ばには、家臣で阿波三好家の当主であった三好実休が謀反を起こし実権を握ります。その阿波三好家も引き続き勝瑞に拠点を置きます。因みに三好実休の兄は、畿内で有力な大名であった三好長慶です。勝瑞城は、長宗我部氏の侵攻に備え勝瑞館の北東
「いましろ大王の杜クリーンアップ」今城塚古代歴史館大阪府高槻市郡家新町48−8史跡今城塚古墳高槻市郡家新町
今、アメリカで日本のドラマが観られるJMEというサービスで龍馬伝を観終えました〜!高校で日本史とってて(大昔ですが)成績は良かったんだけどあんまりよくわかってなかったのかもーって思いました。穴埋め問題は解けても大きな流れがわかってなかったというか。とくに幕末辺りは。なのでこれから日本に帰っていろんな史跡を走ってまわるのがいまから楽しみです!いやー、坂本龍馬たち、素晴らしかったですね!私利私欲のためではなく日本のために努力する。そんな人達が幕末にはいたのですね
史跡和中散なる胃薬を江戸時代初期から製造販売。内部見学は要事前でんわ予約500円2024年JR草津線手原駅からくりちゃんバス葉山循環線旧和中散本舗下車200円土・日・祝運休。(画像は手原駅行き)バス道を戻り、右手最初の分岐で江戸時代の東海道に入る。大角家住宅重要文化財北側隠居所非公開馬繋乗馬した状態で収まる高さ。画像で半分もいかない。南側主屋17世紀末西→東製薬所木の動輪に2名入って踏み、歯車を動かし、石臼を回し生薬を粉末にした。当時道から見せて宣伝。店
福島県二本松市にある二本松城址の桜を見学に行きました2016年4月の蔵出し写真です二本松城は別名霞ヶ城と呼ばれています日本百名城の一つとして国の史跡に指定されています現在は一帯が県立霞ヶ城公園ですソメイヨシノやヤマザクラなど2500本余の桜が咲きます桜まつり開催中二本松少年隊の悲話があります二本松少年隊群像史跡二本松城址城址は標高345m霞ヶ城の傘松「八千代の松」樹齢300年るり池斜面にカタクリの花が咲いていましたラッパ水仙洗心亭茶店☆ご覧いただ
「キリシタンの中心人物の処刑と一般信徒の流罪」のいう提案は明治新政府に提出されましたそして政府は1868年5月17日大阪で御前会議を開きますこの協議で外国担当の小松清廉から諸外国からの抗議にも考慮をと発言があり「信徒の流罪」が決定しました翌5月18日に諸外国との交渉の席でイギリス公使パークスらから激しい抗議がされて明治政府代表の大隈重信らと6時間以上に渡る長い話し合いが持たれました同年6月8日各官庁の最高長官からの訓令の太政官達が出され信徒の流罪が示され
沖縄県民は戦争で多くの人が亡くなったんだと身に詰まります慰霊碑が多い沖縄の下の方から観光してるのですが特に下の方はすでに感じています琉球王朝の史跡を巡るのも勉強になりましたが近くで見つけた戦争のなごりのここへ資料館です山の上にこの資料館があったんですが手彫りで岩🪨を削り作戦部隊の司令部や寝泊まりした部屋を作ったすごい労力見取り図とありますが広くて暗くてきみが悪かった床は見学者のためにまっすぐに直してある幹部はここで自決寝る部屋がなくて立って寝たす
燈明堂跡へ行ってきました!動画はこちらから-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。youtu.be史跡です!とうみょうどうとうみょうどう早口言葉みたいだ石碑等がありました。うーん読めない海がキレイです!!あった〜こちらは復元されたものだそうです。灯台ね!説明もあってわかりやすいです和風な灯台かわいいかも!そして海〜行くしかないでしょ!ふふふとて
太宰府は、福岡県の中央部に位置する歴史と文化豊かな都市です。古代には九州の政治・文化の中心地として栄え、現在も多くの史跡や文化財が残っています。以下に、太宰府の歴史を辿る記事をまとめました。古代:九州の中心地としての繁栄太宰府の歴史は、7世紀後半に設置された大宰府に始まります。大宰府は、西海道(九州)を統括する行政機関であり、外交や軍事の拠点としても重要な役割を果たしました。遣唐使の派遣や新羅との交流など、国際的な窓口としての機能も担っていました。*見どころ:
春祭り2025九日目今年夏の開通予定の新濃尾大橋にほど近い場所の住宅地に気になる看板を発見。木曽川にはいくつもの渡しがあった。始まりは私的なもので、のちに営業的なものへ発展した。稲沢の野菜を大垣へ運ぶため深夜12時に利用したとあるが、当時は街灯なんて存在していないの月明かりの真っ暗の中、目印の明かりを頼りに向かったのでしょう。春は桜がきれいな場所だ。奥には開通が近い新濃尾大橋が見える。
国府遺跡かつて藤井寺市惣社・国府周辺にあった旧石器時代から中世に至る集落の遺跡。国の史跡に指定されている。
お疲れ様です‼️今日は午後から甲突川沿いの花見視察に行ってきました思ったよりかは綺麗に撮れませんでしたがとても良い花見でした✨いやぁ、川沿い広場には多くの方が賑わっていてとても良かったんですけど芝生上の自転車通行やスピーカーで爆音を鳴らすことだけはやめて欲しいなと思いました周りの方の安全を脅かす事は断じて許されない事でありしっかりルールは守って欲しいと思います守れないのであれば、我が世代の時から条例改正した上で川沿いのバーベキューを禁止したいと思いますそれが嫌なら、定められた
鎌ケ谷市東中沢には中野牧の捕込が遺っており、平成19年に「下総小金中野牧跡」という名称で国の史跡に指定されています。場所は京成松戸線の北初富駅近くです。捕込は言わずと知れた近世の牧を構成する1施設で、牧内に放牧されている馬を年に一度捕獲するための使用されます。「下総中野牧込跡」の東に隣接して貝柄山公園があります。面積は4.1ha程の広さがあり、市内外から多くの方が訪れています。公園の名称となっている「貝柄山」は、公園の近くに「中沢貝塚」という縄文時代後・晩期の貝塚があり、周辺をかつて中沢
江東寺のお釈迦の下のお墓のところに供養塔が数基があります。島原大変肥後迷惑と言われた大水害での供養塔らしい。溺死蘇縁塔と読むのだろうか。中掘町に水頭ポケットパークとありました。井戸があります。湧水だろうか。道路工事で立ち退きもあって道が広くなるそうです。白土湖と中掘町商店街とイオンが広くなって、いいと思います。中掘町にも供養塔があります。商店街の中に史跡に島原市指定だろうか。形が珍しいらしい。鯉の泳ぐ池です。清流亭にも鯉が泳いでいます。駐車場や休憩も出来ます。のんびり三休さんさん
みなさんはスエズ運河ってご存知でしょうか?水位の違うアッチから船をコッチへ定位置に移動させて仕切り板で船を塞いでその水位を嵩上げして船をせり上げてから水位の高い方向へ滑り込ませて地中海と紅海の物流を可能にしたアレです✨ソレを先に考えたのがコレ↓「見沼通船堀」という史跡です(・o・)ウチから用水路沿いに移動しますとさいたま市に入ったトコロにありまして土手には桜がたくさん植えてありますのでわが家のお花見スポットでもあります(^3^♪4月5日現在では桜は五分咲き
平安時代の絶世の美女であり、優れた歌人としても名高い小野小町。彼女にまつわる多くの伝説の中に、「草紙洗小町(そうしあらいこまち)」という謡曲があります。これは、小町が宮中の歌合で起こったある出来事を描いた物語であり、彼女の才知を象徴するエピソードとして伝えられています。宮中の歌合での疑惑ある日、宮中で開かれた歌合(うたあわせ)。そこに参加した小町は、美しい和歌を詠み、多くの人々を魅了しました。しかし、対戦相手の**大友黒主(おおとものくろぬし)**が、突然彼女の歌を「盗作だ!」と訴え出たので
続きまして。壬生城跡に隣接する、こちら。精忠神社に訪れました。長い参道を進みます。正徳2年(1712年)、近江国水口藩から移封となった鳥居忠英が、壬生城内に鳥居家の藩祖・鳥居元忠を祀ったことが始まりの神社です。寛政11年(1799年)に朝廷から「精忠霊神」の神号を授かり、嘉永2年(1849年)に二の丸へ移され、社殿が改築されたとのこと。こちら唐門。こちらは拝殿。御祭神の鳥居元忠
二度目に彼が来てくれた日、予定よりも早く会えたので、近くの観光地を二人でまわった。彼は何年か前にひとりで来たことがあるらしくて、その時は私がこの地に住んでるってピンと来てなかったんだってそんなことある?って思ってたけど、彼の普段の行動パターンを見てると本当に行き当たりばったりで、『○○へ行こう!』って決めて、地名を確認するでもなく、今どこにいるかも把握せずに車で走っている感じなので、ある事なのかもなーと、今は思っています。細部まで計画を立てて旅行する私と
一宮城跡に来たけれど…四国の城攻め第5弾は、徳島県の一宮城跡です。続日本100名城の1つで、山城です。…ですが、最初に断っておきます。山、登ってませんこの日は城跡を4つ巡る強行日程だったので時間が無く、本丸までの登城は断念。今回はとりあえず、続日本100名城のスタンプを押しに行ったって感じです。徳島県のホームページから本丸の雰囲気だけ本丸虎口の石垣、見たかったなぁ〜一宮城の石垣は本丸のみに築かれているそうで、築造は蜂須賀氏によるものらしいです。いつか必ずリベンジしたい
おしな坂(おしなざか)神奈川県座間市