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◯円山公園から「ねねの道」を少し行ったところで、道はぶつかり、そこにあるのが芭蕉堂と西行庵である。芭蕉堂の案内板には、次のようにあった。芭蕉堂この堂は、江戸時代中期、俳聖松尾芭蕉をしのぶため、芭蕉にゆかりの深いこの地に、加賀の俳人、高桑䦨更が営んだことに始まる。鎌倉時代の初め、諸国を旅して自然を友とした西行が、この地に阿弥陀坊を訪ね、柴の戸と聞くはくやしき名なれどもよにこのもしき住居なりけり(山家集)と詠んでいる。芭蕉
◯円山公園の南側に位置するのが『大谷祖廟(東大谷)』である。親鸞聖人の御廟所とされるところになる。インターネット検索すると、次のページがヒットした。大谷祖廟(東大谷)通称、東大谷といわれる大谷祖廟は真宗大谷派の御廟所で、親鸞聖人入滅後10年の1272(文永9)年、それまでの聖人の墳墓を改め、廟堂を建てて聖人の御影像を安置したのが起源です。その後、いくたびかの移転等の変遷を経て、本願寺の東西分派後の1670(寛文10)年、墳墓にほど近い現在地(京都市
◯円山公園から東へ進むと、右手に瀟洒な洋館が見えて来た。門の前に、次の案内板が設置してあった。長楽館KYOTOCHOURAKUKANSINCE1909旧村井別邸長楽館は、「たばこ王」と称された明治時代の実業家村井吉兵衛が迎賓館として建てた建物である。「長楽館」の名称は伊藤博文が宿泊した折に命名し、扁額にも記した。皇族や元勲、英国皇太子などの国賓が多数滞在し、「京都の迎賓館」とも呼べる建物であった。
◯円山公園の隣にあるのが華頂山知恩院である。知恩院のホームページが案内する知恩院は、次の通り。知恩院とは承安5(1175)年、浄土宗の開祖法然上人(ほうねんしょうにん)が吉水の地に草庵を結ばれたことを起源とし、法然上人がお念仏のみ教えを広め、入寂された遺跡に建つ浄土宗の総本山です。正式名称は華頂山知恩教院大谷寺といいます。江戸時代、浄土宗を信仰した徳川家康公が、当寺を京都における菩提所と定めたことから寺領が拡大され、現在の大伽藍が築かれました。◯ウィキペディアフリー百科事
◯2022年12月20日に、京都、円山公園を訪れた。園内に祇園小唄の歌碑を見付けた。それには、次のようにあった。祇園小唄祇園小唄は、長田幹彦(一八八七〜一九六四)が昭和初期に祇園のお茶屋「吉うた」で作詞し、佐々紅華(一八八六〜一九六一)が作曲、マキノ映画「絵日傘」(昭和五年)の主題歌として全国的に大流行し、不滅の名曲となりました。また四世井上八千代師の振り付けで、祇園の芸舞妓さんがお座敷で必ず舞うようになり、京の花街を代表する舞踊になっ
◯前回、案内したように、円山公園の名は、『慈円山安養寺』から生まれたものだと言う。そのことについては、円山公園にあった案内板の説明にも、次のようにあった。円山公園の由来平安の昔、今の円山公園一体は一面真葛や薄などが生い茂り真葛ケ原と呼ばれていました。鎌倉時代、慈円僧正が『わが恋は松を時雨の染めかねて真葛ケ原に風さわぐなり』(新古今集)と詠んでから一躍和歌の名所となり、以来多くの歌にうたわれました。江戸時代に入ると安養寺塔頭の
◯八坂神社の奥が円山公園になる。円山公園に、次の案内板が設置してあった。円山公園の由来平安の昔、今の円山公園一体は一面真葛や薄などが生い茂り真葛ケ原と呼ばれていました。鎌倉時代、慈円僧正が『わが恋は松を時雨の染めかねて真葛ケ原に風さわぐなり』(新古今集)と詠んでから一躍和歌の名所となり、以来多くの歌にうたわれました。江戸時代に入ると安養寺塔頭の六阿弥(左阿弥、也阿弥などいずれも何阿弥と称した六坊)が席貸を始め、次第にに
◯前に、ブログ『忠盛灯籠』を書いた。その『忠盛灯籠』の案内板の下に、次の案内板が設置してあった。なかなか面白いので、今回、ここで取り上げておきたい。祇園社乱闘事件八坂神社(当時は祇園社)の境内で今から八六五年前に、平清盛に関わる乱闘事件がありました。時は久安三(一一四七)年六月十五日、祇園臨時祭(祇園御霊会、現在七月二十四日に行われている還幸祭の翌日に当たり、朝廷から奉幣が行われた)の日の事。中務大輔平清盛は心に秘めた宿願を果たさんと、祇園
◯2022年12月20日に、京都、祇園の八坂神社にお参りした。その境内に、次の案内板が設置してあった。『日本書紀』千三百年『日本書紀』は、養老四(七二〇)年舎人親王らにより撰上された、我が国現存最古の正史です。正文には異文が「一書に曰く」として併載される形をとっており、全三〇巻のうち一・二巻は神代紀=神々の御事績を記した巻=となっています。さて『日本書紀』によれば、伊弉諾尊・伊弉冉尊の御子としてお生まれになった当社の主祭神・素戔嗚尊はずっと泣
◯2022年12月20日に、京都、祇園の八坂神社にお参りした。その境内に、次の案内板が設置してあった。『古事記』千三百年平成二十四(二〇一二)年は、我が国初の歴史書『古事記』が和銅五(七一二)年に撰上されてから、千三百年の年に当たります。天武天皇の勅命により稗田阿礼が誦習した帝紀・旧辞(天皇の系譜や神話・伝承、氏族の縁起など)を太安万侶が撰録した『古事記』には、神代から推古天皇までの歴史が描かれており、中でも初代・神武天皇の前代までを記した上
◯八坂神社境内に、次の案内板が設置してあった。忠盛灯籠永久年間の頃(十二世紀)、白河法皇が祇園女御の許に赴かれようとしてこのあたりを通られた時、折しも五月雨の降る夜で前方に鬼のようなものが見えた。法皇は供の平忠盛に討ち取ることを命じられたが、忠盛はその正体を見定めての上と、これを生捕りにしたところ、油壷と松明とを持ち、灯籠に燈明を献ろうとしていた祇園の社僧であった。雨を防ぐ為に被っていた蓑が灯の光を受けて銀の針のように見えたので
◯前回、ブログ『祇園』を案内した。その祇園に鎮座まします神社が八坂神社になる。八坂神社のホームページに、『八坂神社について』があって、宮司の挨拶を案内している。八坂神社についてご挨拶「祇園さん」として古くより京都の人々に親しまれてきた八坂神社は、本殿(国宝)をはじめ境内外に多数の摂社(せっしゃ)末社(まっしゃ)を有し、その多くが重要文化財に指定されております。日本三大祭でもあり、世界的にも有名な祇園祭(ぎおんまつり)は疫病(えきびょう)が鎮まるようにとの祈りを
○前回、『避暑山庄:水芳岩秀』を案内した。水芳岩秀が存在するのは、湖泊区の中心になる島、如意洲になる。その如意洲の東側対岸にあるのが『承德避暑山庄金山』である。○中国の検索エンジン、百度百科が案内する『承德避暑山庄金山』は、次の通り。金山河北承德避暑山庄金山金山位于河北承德避暑山庄内,康熙帝南巡,欣赏江苏镇江金山景物,因于山庄内仿造此景,包括康熙三十六景第十景的“天宇咸畅”和第十二景的“镜水云岑”两组建筑。位于如意洲以东、隔澄湖相对。从月色江声西过小石板桥,沿湖
◯当古代文化研究所が目指すのは、一応、八坂神社であるが、その界隈が祇園と呼ばれる。インターネットで検索すると、次のページがヒットした。【2023年】京都祇園観光ガイド。はじめての祇園で必ず行きたい名所12選!インスタ映え情報祇園は、今も昔も京都を代表する繁華街として知られています。京都駅からもアクセスが良く、観光しやすいエリアとして国内外問わず多くの観光客が訪れる人気エリアです。グルメも観光も楽しめる見どころたっぷりの祇園の名所をご紹介します。八坂神社
◯京阪本線の祇園四条駅で電車から下車して、八坂神社へと向かう。その途中にあったのが仲源寺である。当古代文化研究所には、馴染の無い寺である。インターネットで検索したら、次のページがヒットした。第十六番札所仲源寺◎宗派・浄土宗◎千手観音菩薩(観音堂)御詠歌:さしのべんせんじゅのみてをもろびとにぎをんのまちにおわすみほとけ『仲源寺略縁起』によれば、平安の昔、仏師の定朝が「末代衆生済度」の為、自ら護持していた聖徳太子作の地蔵菩薩を胎内に込め
◯2022年12月20日、醍醐寺へお参りした。終日を要すると思っていたが、意外に早く下山できた。それで、急遽、祇園へ出掛けることとした。◯と言うのも、以前、醍醐寺へお参りした際、帰りに東福寺へと向かった。その後、東福寺から泉涌寺、智積院、建仁寺と回った記憶がある。それで、醍醐寺からの帰り、京阪バスの十条相深町バス停で下車して、東福寺へと行った。◯今回も、京阪バスで醍醐寺から帰り、十条相深町バス停で下車。そのまま京阪本線の鳥羽街道駅へ向かった。電車に乗れば、四駅で祇園四条駅になる。◯外へ出る
◯『醍醐寺:霊宝館』を見終わった時、すでに13時を過ぎていた。何処かで昼食を取りたいと思っていたところ、霊宝館の仏像棟の帰り道、『フレンチカフェル・クロスゥルスリジェ~桜の樹の下で~』と言う、お洒落なレストランがあるのを見付けた。◯まさか、醍醐寺に、こんなお洒落なフレンチレストランがあるとは、思いもしなかった。まさに、渡りに舟である。上醍醐の帰りで、相当疲れていたので、喜んで店に入った。◯12月も20日で、それも火曜日で平日だから、店内は空いていた。メニューに、「薬膳カレー薬膳ハ
◯醍醐寺拝観の最後に、霊宝館を見学した。何しろ、醍醐寺は国宝・重要文化財の宝庫である。見飽きるほどの文物が並んでいる。醍醐寺のホームページが案内する霊宝館は、次の通り。霊宝館国宝や重文だけで7万5千点以上、未指定の文化財を含めると、約10万点以上に及ぶ寺宝を収蔵。彫刻、絵画、工芸、古文書など、日本の仏教史や美術史上貴重な資料が収蔵されています。春と秋に特別展を行っています。上醍醐から下醍醐を含めて約200万坪に及ぶ広大な寺域をもつ醍醐寺には、京都で最も古い天暦5年(951)建立
◯京都伏見の醍醐寺へ参詣したのは、2022年12月20日のことだった。今日は2024年4月14日だから、もう、一年半くらい、昔の話である。毎日、ブログを書いてはいるのだが、なかなかブログが先に進まない。それでも、丁寧に書いて行くしかない。◯京都駅から京阪バスの乗れば、一本で、醍醐寺へ行くことができる。醍醐寺到着は9時13分だった。その後、仁王門へ行き、入場券を購入して境内に入る。そこで9時21分だった。◯一通り、下醍醐を見学して、上醍醐の入口となる女人堂に着いたのが10時2分だった。ここから
○2024年3月1日に、承徳市の避暑山荘を訪れた。もう三月だと言うのに、避暑山荘は、まだ真冬の只中にあった。麗正門から岫雲門まで、宮殿区の中心軸を歩いて見学して回って、すっかり疲れた。それでも、避暑山荘は、何とも広い。○確認の意味で、中国の検索エンジン、百度百科が案内する『承德避暑山庄』を見ると、次のように載せる。承德避暑山庄世界文化遗产的重要组成部分、第一批全国重点文物保护单位、国家AAAAA级景区承德避暑山庄,又名“承德离宫”或“热
◯醍醐山の山頂に建つのが、如意輪堂と開山堂になる。上醍醐でも、最も奥に位置する。開山堂前には、次の案内板が建っていた。重要文化財開山堂最初延喜年間に建立され次いで寛治六年(一〇九二)に改築されたが、其後二回にわたり祝融にあい、現在の堂宇は慶長十一年(一六〇六)豊臣秀頼の再建されたもので、雄大な桃山時代調をよく発揮した山上最大の建造物である。其の様式に於ては注意を要する点が多々あるが、外観に於ては、側面前端の間の扉で、ここでは縁が切断されており、扉が
◯醍醐山の山頂に建つのが、如意輪堂と開山堂になる。上醍醐でも、最も奥に位置する。如意輪堂前には、次の案内板が建っていた。重要文化財如意輪堂此の堂宇は、開山入師が准胝堂と共に自己の如意輪観世音菩薩を祀った由緒深いものであるが、再三焼失の其の都度再建され、現在の建物は、慶長十一年に豊臣秀頼により再建されたものであるが、その木造りは大阪に於いて行われたものである。醍醐寺新要録によれば『結構華美前代の堂に十倍す』とあり、此の堂の再建当時の美麗と、昔
◯上醍醐は、寺務所から醍醐水、清瀧宮、准胝観音堂跡を経た先に薬師堂が存在し、それから更に登って行くと、やっと五大堂・如意輪堂・開山堂の醍醐山山頂に達する。その一番手前に建つのが五大堂になる。◯上醍醐の五大堂前には、次の案内板が設置してあった。五大堂醍醐天皇御願により、延喜七年(九〇七)に建立された五大堂であるが、再建の都度に祝融にあい、慶長十一年豊臣秀頼再建の様式を伝え、昭和十五年に再建されたものである。お祀りしてあるのは不動明王、降三世夜叉明王、軍荼利
◯上醍醐を訪れ、ブログ『上醍醐』『准胝観音堂』『西国三十三所第十一番深雪山上醍醐准胝堂(醍醐寺)』『醍醐水』『清瀧宮本殿及び拝殿』と続けて来て、やっと『薬師堂』である。准胝観音堂から醍醐山山頂に建つ開山堂へ行く途中に存在するのが薬師堂になる。◯現地には、次の案内板が設置してあった。国宝薬師堂此の堂の創立は、延喜七年で開山聖宝理源大師の時に遡るが、現在の堂は保安二年(一一二一)に再建なったもので、山上伽藍に於て最古の建造物で数少ない平安時代の遺構として貴
◯本来、上醍醐の中心を成したのが醍醐水なのではないか。その谷の下に、寺務所が存在し、寺務所の左上手に清瀧宮拝殿・本殿が存在し、醍醐水を挟んで、右上手に准胝観音堂跡が存在する。それがもともとの醍醐寺の原型だったような気がする。◯と言うのも、大峯奥駈道に小笹の宿があって、そこに三宝院の奥宮が存在する。修験道を極めた理源大師聖宝が建てたものと思われる。その三宝院の奥宮がまさに上醍醐と同様の様相を呈しているのである。◯山上で生活するのは、大変である。最も大切なものが水であることは、言うまでもない。大
◯京都、醍醐寺の上醍醐を訪れ、ブログ『醍醐寺:女人堂』『醍醐の花見』『不動の滝』『上醍醐』『准胝観音堂』『西国三十三所第十一番深雪山上醍醐准胝堂(醍醐寺)』と続けている。今回は『醍醐水』について。◯理源大師聖宝が醍醐寺をこの上醍醐に開いたのは、当然、この醍醐水が存在したからに他ならない。住むのに、水は必需品である。それもできれば上等の水が。そういう水がこの山には存在した。それが醍醐水である。◯そのことを端的に示しているのが、上醍醐の伽藍配置である。上醍醐の中心にあるのが醍醐水なのだから
◯2022年12月20日、京都の醍醐寺、上醍醐へお参りして来た。もう一年五ヶ月も前の話である。なかなかブログが先に進まなくて、随分前のことを書いている。ただ、いい加減に済ませるわけにもいかない。それで長々と綴っている。◯この日、女人堂を10時過ぎに出発し、不動の滝で、ちょうど10時30分だった。女人堂前の案内板に拠れば、女人堂⇒三宝院:0、7Km12分女人堂⇒山頂・開山堂:2、6Km60分女人堂⇒准胝観音堂:2、2Km51分女人堂⇒不動の滝:1、1Km21分と
◯前回、ブログ『上醍醐』を案内し、その中で、醍醐寺のホームページが案内する上醍醐が次のようであることを案内した。上醍醐醍醐寺はこの地から始まりました。登山口の女人堂から小一時間ほど険しい山道を登っていくと、醍醐寺発祥の地、上醍醐へ到着します。更に歩みを進めていくと、874年の開創以来、今もこんこんと湧き続ける醍醐水が参拝者の喉を潤してくれます。醍醐水を飲んだ時の“醍醐味”は実際に登ってみると、より一層深く味わうことができます。
◯2022年12月20日、醍醐寺上醍醐にお参りに出掛けて来た。醍醐寺は二回目の参詣だが、一回目は三宝院へお参りしただけだった。それで、機会があれば、上醍醐まで、お参りしたいと思っていた。醍醐寺は、やはり、上醍醐まで行かないとお参りしたことにならない。そんな気がしていたからである。◯それは、醍醐寺の始まりが上醍醐であるからに他ならない。醍醐寺には金堂や三宝院が存在し、そこが醍醐寺の中心みたいに思われている節があるが、そうではあるまい。醍醐寺の開山、理源大師聖宝が祀ったのは、あくまで、准胝観音であ
○2024年3月1日、河北省承徳市の避暑山荘を訪れた。朝、北京朝阳站を8時50分に出発し、承徳南站に10時2分に到着した。その後、承德公交69路に乗って、終点の火神庙站まで行った。火神庙站から宿泊先の『承德山庄宾馆』までは、歩いて200mである。○ホテルへチェックインして、いよいよ念願の避暑山荘見学である。宿泊先の『承德山庄宾馆』の向かいが、もう避暑山荘だった。避暑山荘見物には、最高のロケーションである。道路一本を渡ると、そこが避暑山荘だったから。○土産物店が立ち並んでいて、入り口が何処かも