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○寒山詩を読んでいる。前回は第20回として、『欲得安身處(020)』を読んだ。今回が第21回で『俊傑馬上郎(021)』になる。原則、項楚著「寒山詩註」(中華書局2000年刊)に従って、訳していきたい。【原文】俊傑馬上郎(021)俊傑馬上郎揮鞭指柳楊謂言無死日終不作梯航四運花自好一朝成萎黄醍醐與石蜜至死不能嘗【書き下し文】俊傑たる馬上の郎、鞭を揮ひ柳楊を指す。謂言へらく、死する
◯円山公園の隣にあるのが華頂山知恩院である。知恩院のホームページが案内する知恩院は、次の通り。知恩院とは承安5(1175)年、浄土宗の開祖法然上人(ほうねんしょうにん)が吉水の地に草庵を結ばれたことを起源とし、法然上人がお念仏のみ教えを広め、入寂された遺跡に建つ浄土宗の総本山です。正式名称は華頂山知恩教院大谷寺といいます。江戸時代、浄土宗を信仰した徳川家康公が、当寺を京都における菩提所と定めたことから寺領が拡大され、現在の大伽藍が築かれました。◯ウィキペディアフリー百科事
◯円山公園から東へ進むと、右手に瀟洒な洋館が見えて来た。門の前に、次の案内板が設置してあった。長楽館KYOTOCHOURAKUKANSINCE1909旧村井別邸長楽館は、「たばこ王」と称された明治時代の実業家村井吉兵衛が迎賓館として建てた建物である。「長楽館」の名称は伊藤博文が宿泊した折に命名し、扁額にも記した。皇族や元勲、英国皇太子などの国賓が多数滞在し、「京都の迎賓館」とも呼べる建物であった。
◯円山公園の南側に位置するのが『大谷祖廟(東大谷)』である。親鸞聖人の御廟所とされるところになる。インターネット検索すると、次のページがヒットした。大谷祖廟(東大谷)通称、東大谷といわれる大谷祖廟は真宗大谷派の御廟所で、親鸞聖人入滅後10年の1272(文永9)年、それまでの聖人の墳墓を改め、廟堂を建てて聖人の御影像を安置したのが起源です。その後、いくたびかの移転等の変遷を経て、本願寺の東西分派後の1670(寛文10)年、墳墓にほど近い現在地(京都市
○2022年12月1日、京都東山の清水寺へお参りした。朝6時過ぎにホテルを出て、6時30分ころの206系統の市バスに乗って、五条坂バス停で降りた。バス停から650mで、清水寺になる。皆が清水寺へ行くので、後を着いて行くだけだった。○したがって、7時くらいには清水寺へ着いていた。さすがに、この時間帯、人数は少なかった。京都は何処も人が多い。だから、この時間帯に清水寺へ詣でることとした。大正解だった。○結構、余裕を持ってお参りしたつもりである。それでも、30分ほどで、お参りを済ませることができた
○寒山詩を読んでいる。前回は第40回として、『慣居幽隠處(040)』を読んだ。今回が第41回で『生前大愚癡(041)』になる。原則、項楚著「寒山詩註」(中華書局2000年刊)に従って、訳していきたい。【原文】生前大愚癡(041)生前大愚癡不爲今日悟今日如許貧總是前生作今日又不修來生還如故两岸各無船渺渺難濟渡【書き下し文】生前は大愚癡なれば、今日も悟るを爲さず。今日、如し貧を許
○寒山詩を読んでいる。前回は第80回として、『徒勞説三史(080)』を読んだ。今回が第81回で『碧澗泉水清(081)』になる。原則、項楚著「寒山詩註」(中華書局2000年刊)に従って、訳していきたい。【原文】碧澗泉水清(081)碧澗泉水清寒山月華白默知神自明觀空境逾寂【書き下し文】碧澗、泉水清く、寒山、月華白し。默知、神は自ら明らかにして、觀空、境は逾、寂たり。【我が儘勝手な私訳】
○今回の天草周遊の旅は、名付けて『天草・大矢野島の旅』とした。2022年6月21日~23日、7月7日、8月4日5日、8月26日~28日と天草を訪れて来て、今回の『天草・大矢野島の旅』2023年3月6日~8日が、都合5回目となったわけである。○ブログ『天草:大矢野島の旅』を手始めに、これまで64個ものブログをものしている。初日3月6日は宇土半島を中心に見て回った。前回2022年8月4日5日に、ここを訪れて、見落としたところをあれこれと見学することができた。宇土半島は通過するばかりで、ほとんど、何
○2023年9月7日に、上海浦東空港の第一ターミナルと第二ターミナルの中間に位置する上海大众空港宾馆に泊まった。夕方、夕食を取るために、第一ターミナルか第二ターミナルへ出掛けて行くことにした。○明日の飛行機が第二ターミナルから出るので、第二ターミナルの方へ行こうと思い、通路に行ったところ、第一ターミナルと第二ターミナルを繋ぐ通路の途中に、下へ降りる階段があって、食堂街と案内があるではないか。○これまで、何度も、この通路を通っているのに、全然気付かなかった。何も第二ターミナルまで行く必要が無く
○「里村郷土誌」では、第二編里村の歴史、第一章郷土の概観、第二章郷土の成り立ちと先史時代を載せている。特に、編纂者である塩田甚志氏が考古学や史学に造詣が深いせいか、墓石や古石塔、遺跡、遺物等に膨大なページが割かれている。○第三章古墳時代、第四章奈良時代、第五章平安時代と続くのだが、そういう時代の史料は甑島にはほどんど残されていない。第六章鎌倉時代ころになって、ようやく様々な史料が残されてくる。今回は、その鎌倉時代から、『甑島と平家伝説』について、考えてみたい。「里村郷土誌」には次のように載せる