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読書が趣味のぱんだ(´Д`)。今回は『伊勢物語』の伝説で彩られた歌人の歌を読んでみることにしました。スタバで朝読書。中野方子『在原業平コレクション日本歌人選004』笠間書院、2011です。在原業平は平城天皇の第一皇子・阿保親王の五男で、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王です。父方からも母方からも桓武天皇の血を引く高貴な生まれでした(´Д`)。在原氏の五男なので在五中将とも呼ばれました。二歳の時に父・阿保親王の計らいにより臣籍降下し、異母兄の行平・守平とともに在原氏の姓を賜りました
今月号の『WiLL』に掲載されていた「提言令和の御代を寿ぐ勅撰和歌集の復活を」(中原文夫)が面白かった。文芸モノは、硬派のオピニオン誌ではなかなか取り上げられない。まぁ言っては何だが、尖った論文や主張が多いのが特徴だ。刺激は受けるものの、読み終えてざらざらした気分になることも少なくない。そんなオピニオン誌にあって、中原氏の提言はユニークそのもの。そんな提言だった。勅撰和歌集。古今和歌集以来紡いできた勅撰集は21集に及ぶ。総歌数3万4千首。世界に誇るべき文化遺産である。中原氏は、
あちらこちらに彼岸花を見かけるようになった。高校生の時、彼岸花の別名「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」を妙に気に入っていて、ちょうど、そんな折に古文のテストでこの問題が出た。問.Aに入る名詞を答えよ。「A秋の野風にうちなびき心ひとつをたれによすらむ(古今和歌集)」やったー!この部分には5音の植物名が入るだろうから、曼珠沙華に違いない!それ以外は考えられない!しかも、彼岸花と書かせようとする“ひっかけ”じゃん。そして、自信満々に曼珠沙華と書き、✕を食らう。正解は女郎花(おみなえし)
令和8年9月12日(土)赤山禅院から曼殊院門跡へ向かう。車で細い道を行く。直線距離では1kmくらいだが、車が通れる道幅の道が少なく、西に下って白河通りにいったん出て、少し白河通りを下った曼殊院道を東へ上がって行く。遠回りをしないといけない。この辺りは、田や畑だったところだからしょうがないだろう。〈曼殊院門跡〉駐車場。参拝者の拝観のための短時間駐車は無料。境内入口。この参道は春は桜、秋は紅葉で彩る。手前の駐車場はタクシーと障害者専用となっている。白河通りからの曼殊院道は幅員が
意味を知る前に、声にしてみる百人一首や古今和歌集など、和歌を集めたものを、「声に出して読む」ことに徹していると、ふと思うのです。私にとって、和歌を楽しむために必要な情報は、五七五七七という定型があって、そして、声に出して読むことを前提にしている。こそれぐらいの知識だけでいいのだと。学校では、すぐに先生が歌の意味を解説してくれていて、解釈の仕方ばかりを教わっていたので、その手順が私の中で、正しい古典との向き合い方なのだ、と長い間思い込んでいた。だけど、それは、
日が昇り夜には暗くなる曇りもあれば雨も雪も穏やかな日もあれば激しい日もあるそれなのにいつもの毎日がずーーっとその時までは続いてくものだと思っていた危うい日常にいつかいつの日に力を蓄え覗いている知っているのに直ぐ忘れてしまう幸運に非運出会いに別れすき間を狙い心を搔き乱す日々の日常は一瞬で崩れ去る何度繰り返してきたの年齢重ね数多く様々な問題も解決?やり過ごし
「小倉百人一首」21番は「素性法師」(そせいほうし)の歌です。今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな(いまこんといいしばかりにながつきのありあけのつきをまちいづるかな)貴方が,今すぐに行くと言うから,私は今か今かと待ち続けていました.そうしたら、有明の月を見ることになりました.まるで月を待っていたかのように.平安時代では男性が女性の家に会いに行くのが通例でした.これは女性の気持ちを汲んで詠んだ
奈良まほろば検定一級目指し(*^_^*)第56回(56)の答え:ア古今和歌集これだけです(-_-;)byコキンおじさん
出発の朝は、よく晴れておりました。国府から浦戸の里へと一行は向かいました。父と母、私と香(かを)、役人と警護の武士たち。妹のいない一行でございます。国府を出るとき、私は一度だけ振り返りました。土佐国府の国衙が、朝の光の中に静かに立っておりました。この四年半以上を過ごした場所でございます。磯丸と初めて話した市(いち)の広場が見えました。香(かを)と並んで夕陽を眺めた場所も、その辺りでございます。妹が砂まみれになって帰ってきた道もここでございます。私はもう一度前を向きました。浦
翌朝早く、香(かを)は一人で浦戸へ向かいました。私も行くと申しましたが、香(かを)は首を振りました。「私一人で行きます。国司様の息子が来ると話がこじれますので」私には何も言えませんでした。香(かを)が磯丸と姉弟二人で暮らしていた浦戸、二人を追い出した浦戸へ、香(かを)は一人で戻るのでございます。香(かを)が国府を出ていく後ろ姿を、私は館の門のところから見送りました。香(かを)が戻ってきたのは、日が西に傾きかけた頃でございます。その後ろに、見知らぬ老人が一人おりました。腰
しかし、道のりをどうするかが問題でございました。国衙の役人が集まり、父を交えて協議が続きました。私はその端に座って話を聞いておりました。本来は伊予国を経て、讃岐国、阿波国と進み、淡路を経て都へと向かうのですが、伊予国は海賊の被害が続いており、舟での航行だけでなく瀬戸内沿いの陸地ですら海賊が押し寄せてきているとの話もあり、安全とは言えません。北山越えは四国山地を縦断する道で、神無月ともなれば山の上は冷え込みが厳しくなります。病み上がりの者を連れての山越えは難儀でございます。もっとも、
妹が逝ったのは、神無月に入って間もない頃のことでございます。粥を食べてから一度は持ち直したように見えた妹でしたが、三日後の夜にまた熱が上がりました。香(かを)が妹の額を冷やし続け、私は部屋の前に座って声をかけ続けましたが、夜明けに妹の呼吸は急に浅くなり、そのまま朝の光の中で静かになりました。最後に妹の目が開きました。焦点の定まらぬ目でしたが、しばらくの間、天井を見ておりました。それから、ゆっくりと閉じました。香(かを)が妹の手を握ったまま、額に頬を寄せておりました。私は障子
その夜、私はいつものように妹の部屋の前に座りました。障子の向こうから、香(かを)の気配がしました。「今夜は少し楽そうです」香(かを)が小声で言いました。「熱が少し下がっております」私は息をつきました。「香(かを)さん」「なんですか」「父上から話を聞きました。神無月の初めまでに出発せねばならぬかもしれないと」障子の向こうが静かになりました。「そうですか」「妹の具合次第です。ただ」私は続けました。「香(かを)さんと磯丸を都へ連れていくと言ったこと
空蝉のうつせみの殻は木ごとにからはきごとにとどむれどとどむれど魂のゆくへをたまのゆくへを見ぬぞ悲しきみぬぞかなしき蝉の抜け殻は木ごとに残っているのに抜け出た魂がどこへ行ったのか見えないのは悲しいことだこの古歌木ごとに➡︎棺(き)ごとにに掛かっています。その線で考えると空蝉➡︎現世と解釈すべきでしょう。とすれば当然殻➡︎人の肉体と解釈できますね。人が亡くなっても、その亡骸は残る。だが、その亡骸には必ず、その人の魂があった。残された亡骸は見えるのに、
『「体言止め」が嫌われるワケ』に、「昔の歌人の歌は体言止めだらけですよ」といったコメントが寄せられた。「和歌」と「文章」は違うし、その文章も古文と現代文ではかなり違う。そうコメントを返した後、「あ」と思った。以前に、日本人はなぜ短縮語(省略語)を作るのか?|AICHAN日本人は、長い単語をよく短縮させたり省略したりする。最近の若者は特にそうだが、短縮語(省略語)を作るのは昔からだ。例えば「軍手」がそうだ。これは「軍用手袋」の略語である。「食パン」ももとは「主
https://www.ameba.jp/profile/general/nippon-aikoku-ok/?account_block_token=Xcxg0l3O3kbJ0e5KdxrdZXN9MSmXhkTw礼節を重んじるさんのプロフィールページ凛として愛www.ameba.jp礼節を重んじるさんのブログをリブログさせて頂きますね君が代は日本国歌ですが平安時代の「古今和歌集」から作られた大切な人を想う愛の歌です愛犬レオ君礼節を重んじるさんが入院されたため預けていました
父が私を呼んだのは、妹が病に伏して十日ほど経った頃でございます。父の部屋には国衙の役人が二人おり、私が入ると会釈して出ていきました。父は文書を広げたまま、私に向かいました。「お前に話しておかねばならぬことがある」父の顔は穏やかでしたが、目に疲れが滲んでおりました。この夏の間、父もまた国府の病人たちへの手配、郡司との対立の後始末、国衙の人手不足と、様々なものを一人で背負い続けておりました。「任期のことだ」父はそう言いました。「私の土佐国司としての任期は、この年の末までだ。
磯丸を弔ってから七日と経たぬうちに、妹が熱を出しました。最初に気づいたのは母でございます。朝、妹が起き上がれぬと母が青ざめた顔で私を呼びに来ました。私は磯丸のことがありましたから、妹の額に触れたときの熱さに、体の中で何かが崩れる音がしたように感じました。父はすぐに医師を呼び、妹を隔離いたしました。磯丸が逝ってから気力を失ったように見えていた香(かを)が、このとき突然立ち上がりました。「私が看ます」香(かを)は父にそう言いました。「一月(ひとつき)もの間、磯丸の看病をして
磯丸のことを思い出そうとしますと、白い歯を見せて笑う顔ばかりが浮かんでまいります。海のことを何でも知っていた磯丸。一度聞いた詩を諳んじてみせた磯丸。魚を他の誰より高く売った磯丸。都に行きたかったと言った磯丸。あのような子が、もし都に生まれていたならば、と以前思ったことがございます。しかし今は違う思いがございます。磯丸は土佐の子であればよかった。ただ、もう少しだけ、長く生きていてほしかった。それだけでございます。磯丸の遺体は国府の外れに埋められ、小さな塚ができあがりました。こ
磯丸が逝ったのは、秋の気配が漂い始めた頃のことでございます。夜半に香(かを)から呼ばれ、私は父と母と妹とともに部屋の前に集まりました。このときの父は部屋に入ることを止めませんでした。磯丸は布の上に横たわり、目を閉じておりました。呼吸は浅く、体の赤い斑はいっそう濃くなっておりました。香(かを)は磯丸の手を握り、その顔を見つめておりました。私は磯丸の枕元に座りました。「磯丸!」声をかけると、磯丸はゆっくりと目を開けました。焦点の定まらない目でしたが、私の顔を見てわずかに口元が動
それから一月ほどの間は、長い長い苦しみの続く日々でございました。磯丸の熱は上がり下がりを繰り返しました。下がるたびに回復かと思わせ、また上がる。咳は止まらず、水を飲むことも難しくなる日が続きました。父は都から取り寄せた薬を惜しみなく使い、医師の心得のある者を集め、磯丸をはじめ土佐国中の病人達に派遣しましたが、病は磯丸ら病人の体を少しずつ蝕み、また、その間にも一人、また一人と、土佐国のいたるところで病に倒れる者が増えて参りました。香(かを)は磯丸のそばを離れませんでした。眠るときも磯
国歌君が代の君は大君かそれとも愛し君を意味するものか両方の解釈が可能で、文脈・時代によって意味が異なります。原歌では「あなた(敬愛する相手)」寄りの広い意味、明治以降の国歌としては主に「天皇(大君)」を指すものとして扱われ、現行の政府見解でも象徴天皇を指すとされています。原歌(古今和歌集)の「君」歌詞の元は『古今和歌集』(905年頃)の賀歌(祝い歌)で、原形は「わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」です。この時代の「君」は、**二人称として「あなた」**を広く
敬老パスさん歩錦通の由来となった歌碑を見てきました見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける/素性法師(古今和歌集56番)休日早い時間の錦通は人もまばらウォーキーングに最適👣もう一か所錦橋の歌碑も見てきました歌碑には、錦通の由来が書かれています丸の内にある桜天神社にも寄りました桜天神社の由来が書かれています学問の神様菅原道真公が御祭神合学祈願の柄杓が沢山有りました目的だけ果たしたら脇目も振らず図書館に寄ってから帰宅0円敬老パスさん歩して来ました帰宅後おうちカフェ
天罰などという言葉が虚しくなるのに、さほど時間はかかりませんでした。夏が本格的になる頃には、病は東の郡から国府へと近づいてまいりました。国衙に出入りする者の中にも咳の止まらぬ者が現れ、熱を出す者が現れ、身動きできなくなる者が現れました。父は国司館(こくしのたち)への出入りを厳しく制限しました。市(いち)も当分の間は閉ざすこととなり、国府は静まり返りました。それでも病は来ました。国衙の役人の中に倒れる者が出て、次に館に仕える者が二人熱を出しました。その二人のうち一人は三日後に亡くなり
承平四(九三四)年の夏は、死の夏でございました。後になって思い返せば、春の終わり頃からすでに兆しはございました。国府市(こうのいち)に来る者の中に、熱を出して臥せっている家族がいるという話が聞こえ始め、浦戸の里でも体の具合が悪い者が出ているとの噂が流れておりました。しかし、季節の変わり目には熱を出す者も増えるものでございます。私も父も、その頃はまだ大事とは思っておりませんでした。梅雨の雨が続く頃になって、その病が尋常ならざるものであることが国府の皆の知るところとなりました。高い
機械標語印の全容をご紹介しておりますが、L型(長型)、M型(中型)は既に終了致しました。これからは残るS型、N型、T型などに移りますが、L、M型に比べると標語部が小さくなったS型をご紹介いたします。S型の16回目の標語印は「速達で内地は何處へでも」で文献では昭和12年8月の一関局を皮切りに、同14年5月の岡谷局まで全国231局での使用でした。またこの標語印は戦後も大崎局で使用された記録があります。御器所昭和12年8月15日(裏)古今和歌集私には読めません、教えてください
いつもヒロモン的ブログをご覧いただき、まことにありがとうございます。全国の歯科業界の方に聞いてみたい事「素敵な女性の奥歯などに『謎のちぢれ毛』が挟まってたのを見た」って事例。うーん、都市伝説ですよね。いろいろと邪推する、ネット設定27歳のヒロモンです。■ヒロモン的ブログまとめ@随時更新・関連ブログ■鹽竈神社末社「籬(まがき)神社」のお祭りって話@塩釜市:籬(曲木・まがき)神社久しぶりの土曜日がお休みなヒロモン。(土曜日しか出来ない事って…)と脳内でシミュレーションです。8日は薬師堂のイベ
『書道技法講座10高野切第三種』(植村和堂編/二玄社)より選句、習字さぬきあへ能きよゆ支のあそむ能む春めねきことをさのみきゝけむやしろこ所はて者那介き能毛りとなるらめ讃岐安部清行朝臣の娘ねぎことをさのみ聞きけむやしろこそはてはなげきのもりとなるらめ讃岐安倍清行の娘注:源頼政の娘、二条院讃岐とは別人物願い事をたくさん聞いてきたと思われるこの神社は、ついには嘆きの森になってしまうでしょう嘆きの量で神社の森が大きくなるのではなく、やはり投げられるお賽銭の量ではな
立秋(8/7)過ぎたら朝晩はメッチャ涼しくなった。日中はまだまだだけど、早朝はタンクトップで外に出たら寒かった。『秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる』古今和歌集に収録された、藤原敏行朝臣の句だそうだが、今朝の私はまさしくそんな心持ちだった。今日は午後夕立があり(多分1ヶ月振りの雨)、一段と涼しくなった。夕方の水遣りをサボれるから助かった。南瓜が雄花ばかりで面白くなかったが、数日前に小さな実を見付けた。長くなる品種でとても美味しい南瓜だ。鹿やカラスに荒らされま
磯丸は最初の数日を沈んで過ごしておりました。私は磯丸の様子を見ながら、声をかけるべきか迷っておりました。磯丸が自分から話してくるまで待つべきかとも思いましたが、ある夕暮れ、館の縁側に一人座って海の方角を眺めている磯丸を見て、私は黙って隣に腰を下ろしました。しばらく、二人とも何も言いませんでした。「漁ができない」磯丸がぽつりと言いました。「舟は燃えなかったが、道具が全部焼けた。それに」磯丸は続けました。「浦戸の里に戻れない」私は何も言えませんでした。浦戸は磯丸が生まれ