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小説「慶余年」第18章獄その7小瓶を取り出した范閑は、それを柵の中へと投げた。「毒薬だ。尋問と処刑が嫌なら、飲め」小瓶は干し草の上を転がり、司理理のそばで止まった。手に取った司理理は小瓶をぎゅっと握る。温和そうな范閑がまさかの服毒を勧めてきたきた。司理理が死を選ぶなら、最初から逃亡は謀らなかっただろう。その点において、范閑の予想は当たっていた。范閑は彼女の目を見つめて、優しく話しかけた。「殺したいオレに温情を期待しているのか?考えが甘いな。オレは少しでも楽な道
小説「慶余年」第18章獄その6鉄の門の内側には長い通路が伸びていた。両の壁には小さな灯明が点々と続き、水がしみ出しているのか石段の表面は濡れている。だが苔は生えておらず、清掃は行き届いているようだ。通路には一定の間隔で看守が立っていた。まったく目立たない彼らは、しかし范閑が仔細に観察したところ、少なくとも四品以上の実力の持ち主ばかりだ。どれほど歩いただろうか、雰囲気が突然変わった。よどんだ空気に灯明の明かりがぼんやりと輝く。黄泉の国にたどり着いたような、そんな不思議
小説「慶余年」第18章獄その5帰京した陳萍萍は、その日の夜に皇帝から呼び出された。長時間に及ぶ謁見で、彼は疲弊して屋敷に戻ってくる。文武百官は陛下の覚えめでたい陳大人を超絶羨ましがる反面、任務上で大けが負って歩けない彼に、心の中でさっさと引退しろと罵る。陳萍萍が宮中に参内しているあいだ、監察院の動きは迅速だった。殺気だった一処の官員が巡城司の衙門に乱入し、捜査を開始したのだ。ほかの一隊も城南にある方参将の府邸へ殴り込みをかける。その様子を、范閑は府邸そばの木に登って
小説「慶余年」第18章獄その4昼間の喧騒はどこへやら、夕方の東川路はいつもの穏やかさを取り戻していた。范府の馬車はガタガタと車体を揺らしながら、京都城の東へと進んだ。西日が当たり、馬車の影が地面に伸びる。影は通りの青い石板の上を滑っているかのようだ。敷かれた石板の起伏で馬車が大きく跳ねて、紅に染まる夕日の中へ飛び込んでしまうかと思う。実のところ范閑は、京都范府での生活を幸福に感じていた。幸せを掴んだ、と言っても過言ではない。だから、さっさと暗殺事件を解決したかった。
小説「慶余年」第18章獄その3日が傾いてきた。授業が終わってすぐに、范思轍はこそこそと裏口から書局へ入ってきた。店舗選びや紙質の吟味、掌柜の招聘から書籍の価格決定まで、主に動いていたのは范思轍だ。それなのに期待することも緊張することも無くやってきた彼は、昼間と違って落ち着いた店内を見回して嘆息した。帳場へ入ると、范閑が茶を飲みながら彼を待っていた。帳簿を開いて一瞥する。范思轍の表情が驚愕に変わった。「どうしたんだ?」心配になって范閑が訊く。帳簿を見つめていた范思轍
小説「慶余年」第18章獄その2范閑と李弘成は、書局の奥にある静かな部屋へと入った。室内の装飾を見て、李弘成は嘆息する。「あまりお金を掛けていないようだな」「千七百両余りですよ。小商いなので、世子のお眼鏡にかなうような物品など揃えられませんよ」范閑が茶を淹れた。茶器を受け取った李弘成は小さく手を振って見せる。「范家は金儲けが上手いじゃないか、朝廷の官吏はみんな知っているぞ。だがあれは国庫に入る金だから、きみはきみで稼がなきゃならん。一緒にしてはいけない」范閑はケ
小説「慶余年」第18章獄その1范兄弟の書局が開店した。東川路には人だかりが出来て、太学の学生ですらサボって彼らに混じる。店の軒先は提灯で飾られ、暗がりでもよく見える入り口には上等な木材を使用されている。群がる人々の大半は范閑見たさだ。京都へ来てまだ一か月余りの范家私生児が何故にこれほど名が売れたのか、文武両道の貴公子が何を思って書局を開いたのか、興味津々なのだ。牛欄街刺殺事件以降、日々の生活に対する范閑の考え方はかなり変わった。書局開店に当たって彼は弟が共同経営者で
小説「慶余年」第17章監察院その8ふと、今のような逢引きがだらしない行為なのではないかと思って、林婉児は范閑の懐に顔をうずめた。「じゃあ、明日、舅舅に頼んでみる」「舅舅?」林婉児は親しみを込めて叔父をそう呼んでいる。范閑は小さく笑った。「そうそう、きみの舅舅は天下の大皇帝陛下だもんな」范閑は、聖旨を賜ったことを話した。彼が太常寺協律郎に封じられたと聞き、林婉児は縁談が決まったのだと喜んだ。「あ、そうだ。初めてであった時に一緒に慶廟に来ていたのは誰だったんだい
小説「慶余年」第17章監察院その7「怪我は良くなったの?」林婉児は恨みのこもった目で范閑を睨んだ。「まだ癒えてないのに」「きみが心配していると思って」范閑は彼女にほほ笑んだ。彼のこの言葉を聞いて、林婉児は気持ちが軟化した。新茶を淹れて范閑に勧める。范閑は片手で受け取り、冷ましながら優しく言った。「郡主殿下がお茶を淹れてくれるんだ」林婉児が下唇を噛んだ。「怒らせたいの?出て行ってもらうわよ」「そんなこと、できる?」笑った范閑は、あることを思い出し
小説「慶余年」第17章監察院その6牛欄街事件以降、范閑には悩みがあった。療養のために藤子京を帰郷させているが、後遺症は出ていないだろうか。殉職した三名の護衛の家族には范家から十分な見舞金を出したし、朝廷からも褒賞令が発せられた。だが、死んでからもらって何になるのだろう。血生臭い教訓を得た彼は、この世界で生きていくうえで美女を侍らせるにしろ食事をおごるにしろ、自己の能力を高める必要性を痛切に感じていた。今の彼は、午後から夕食前にかけて瞑想の時間にあてている。毎回、半睡
小説「慶余年」第17章監察院その5「生かしておけ!生かしておくんだ!」後方の馬車から費介が喚いた。「全員は殺すな!」痩せさらばえた手が馬車の窓ののれんをめくった。初老の男の顔が覗く。周囲の状況を確認して、冷ややかに言う。「おまえは暴力しか知らんのか。雑魚は己の真の主人を知らないだろうから、頭領だけ生かしておけばいい」「范建は、わしや大人がいない隙に小范閑を京都へ呼び寄せたのだ、のんびりしてられん」費介がぼやく。初老の男はフンと鼻を鳴らし、膝に掛かっている毛
小説「慶余年」第17章監察院その4司理理は長いまつげを伏せ、ここが最期の地かと泣きたくなった。白状しようとして口を開いたとたん、しかし違和感を覚える。彼女は顔を上げた。「大人はまた私を脅かすのね」見破られた官員は、つい顔をしかめた。司理理は冷笑した。「大人は理理の仕事を知っているでしょう?幼い頃から他人の顔色をうかがうように教わってきたのよ。大人のさっきの声は震えていたけれど、護送車に突いた手は緊張していなかったわ。これは罠ね」「その通りだ」この時になっ
小説「慶余年」第17章監察院その3十数日後、京都から北へ約五百里の場所。寒風が吹くなか、滄州城の近くを南へ向かう一隊があった。監察院の四処だ。彼らは北へ千里余り追って、慶国を脱しようとする司理理をようやく捕らえた。久しく南へ進む隊列は、数日後に京都に到着予定だ。官員の領頭が、饅頭を囚人車に差し入れた。「食べろ」司理理は憔悴しきっていて、長い髪もぼさぼさだ。顔は汚れたままだった。范閑が見たらきっと”同床共枕”した売れっ子娼妓だと気付くまい。硬くなった饅頭をか
小説「慶余年」第17章監察院その2若い頃の王啓年は、慶国北方で盗みを働く賊だった。単独犯の彼が好んだ手段は、北魏と慶国のあいだにある十数もの小諸侯国を行き来して、こちらで盗んだ物をあちらの国で売り、その国で盗んだ物を別の国へ行って売るといった犯行だ。彼は盗品の出自を絶対に明かさず、長けている隠遁の術に助けられて、何年もバレずに盗賊家業に勤しんだ。その後、あちこちで恨みを買った彼は稼げなくなった。小諸侯国が連携して防犯に努めたのだ。そこで仕方なく慶国に入った。ところが
小説「慶余年」第17章監察院その1まだ動悸の収まらない王啓年は、ひと気のない家屋で美しい公子と向かい合った。彼は間違いなく王啓年が監察院を追い出される起因を作った青年だ。彼の腰牌を見せてもらった王啓年は、賭けに勝った、と思った。青年は費大人の弟子であるだけでなく、もっと大きな権力を持っていたのだ。一方の范閑は、まさか腰牌にこれほどまでの権威があるとは思っていなかった。目を細め、かつて費介と過ごした日々を思い返す。監察院の、あの足の悪いヤツは彼が転生した時に出会った命
小説「慶余年」第16章牛欄街少年殺人事件その8監察院の任務は、命じた人物の階級によって重要度が違ってくると沐鉄は話した。ゆえに、范閑のほうが、案件を命じた沐鉄の上司より階級が上だということだ。どういう基準なんだ、と范閑は苦笑いした。「やめておこう。おれ自身、任務の内容を知らないのに、きみがそばにいて万一のことがあったら取り返しがつかない」言ってから、不意に范閑は暗澹たる気分になった。牛欄街で殺された三人の護衛を思い出したのだ。彼らは范閑が入京して以来、ずっと護衛に
小説「慶余年」第16章牛欄街少年殺人事件その7寝台の上で、苦労して范閑は身を起こした。侍女が水を飲む手助けをする。戸口に人の影を見た范閑は、腹が立ってきた。重傷を負った彼に次々と来訪者があらわれたのだ、養生している間もない。まるで罰を受けている気分だった。李弘成に換わって寝室に入ってきたのは、監察院第一処の官員だった。牛欄街刺殺事件では朝廷の高官に嫌疑が及び、かつ背景は判然としない。そこで事件の捜査は監察院に託された。第一処の官員は、聞き取りのために范府を訪れたのだ
小説「慶余年」第16章牛欄街少年殺人事件その6「私はおまえ以外の人間の生死に関与しない」五竹は無情にも言い放った。「あの四人はおまえの護衛だ。彼らの命はおまえが守らねばならない。護衛の死はおまえの責任で、私ではない」再度、范閑は黙考する。確かに、五竹の言う通りだ。「それに、私はおまえを助けられない。澹州港の崖の上でも言ったが、私のそばに居ればきっとおまえの望まない面倒ごとが起きる。だから覚えておけ、京都での私は日の当たる場所には決して姿を現さない。おまえが死に直面
小説「慶余年」第16章牛欄街少年殺人事件その5「監察院と刑部が連名で報告書を提出した。確実に北斉の犯行だ。背景も判明している。……二皇子が流晶河でおまえと会う約束をした理由だが、どうやらおまえが司理理姑娘を気に入ったと思って酔仙居を選んだらしい。その酔仙居は、実は北斉が京都に置いた拠点だった」薄暗い寝室の中、范建は寝台に横たわる息子に、冷静に話した。「憤るのは分かる。だが怪我は大事無かった。しかも刺客はおまえが仕留めている。事件の捜査はここまでだ」「ここまで?」范閑
小説「慶余年」第16章牛欄街少年殺人事件その4牛欄街で范閑が襲われた事件は、この月の京都で一番ショッキングな出来事だった。慶国は太平の世が久しく、ことに京都は皇宮がある場所だ。日頃から殺人事件など起こらない。それが、白昼に戸部侍郎范建大人の息子が襲撃に遭ったのだ。ただ、その息子の名はまだ范家の族譜に加わっていない。この事件は、件の郭保坤殴打事件とは性質が大きく異なる。刺客は明らかに范閑の命を狙い、弓の射手を何人も準備していた。京都という重要な地で暗殺をもくろむなど、
小説「慶余年」第16章牛欄街少年殺人事件その3ごぼっと巨漢の口から血が溢れ、真下にいる范閑の顔が真っ赤に染まった。巨漢のみぞおちは大きくくぼんでいる。ところが巨漢の生命力は半端ない。拳を受けたあとも自立している。しかも大団扇のような手を范閑の右肩へ振り下ろした。范閑の肩が砕けた豆腐のようになり、鮮血が四方へ飛ぶ。力が爆発した。激痛に唸りつつ、巨漢の懐に飛び込む。左手に握った匕首を巨漢の喉へ突き立て、そのまま力いっぱい下方へ押し下げた。巨漢の首から腹までが引き
小説「慶余年」第16章牛欄街少年殺人事件その2動けない藤子京に巨漢が迫る。その時だ。気息奄々に見えた藤子京がいきなり身を起こした。隠し持っていた腰刀を巨漢の首へと突き出す。無事だったか、とほっとした范閑は、次の瞬間おののいた。首を傾げた巨漢は、まるでハエでも捉まえるように藤子京の腰刀を右手で掴んでひねりつぶした。巨漢の手から血が滴ったが、指は落ちない。ヤツの体はいったい何で出来ているのか。形勢不利と見た藤子京は、巨漢の胸元を足で蹴った。反発力を利用して、塀へ飛ぶ
小説「慶余年」第16章牛欄街少年殺人事件その1二皇子が酒宴を設けた場所は、流晶河だった。それを聞いた時、范閑は妙な感じがした。花舫で司理理姑娘を懐に抱いた感触が蘇ってきたのだ。それにしても、彼女はなぜあの夜に京都を離れたのだろう。四人の護衛を連れた范府の馬車は、春の陽気が降り注ぐなか、治安の良い京都を城西へと進んだ。望春門を過ぎ、あの夜に襲撃のために潜んでいた牛欄街へ至る。馬車の窓から外を覗いた范閑は呵々と一笑した。藤子京たち四人のうち、事件に関わった三人も
小説「慶余年」第15章慶余堂その7范閑は、来訪の理由を訊ねた。李弘成は一瞬黙ったあと、口を開く。「やはりきみを欺けない。両家のよしみもあるから、はっきり言うよ。二皇子がきみを騙して連れてくるよう私に言ったんだ。きみが反感を抱かないように、自然な会見の様相で。正直言うと、明日、二皇子が流晶河で宴席を設ける。招待するのはきみだけだ。もちろん私も行く」「二皇子みたいに高貴なお方が、なんでおれなんかに目を留めたんです?」「本当に分からないのか、それとも分からない風を装っている
小説「慶余年」第15章慶余堂その6林婉児は夜に忍んできた范閑の顔をのぞき込み、心配げに訊いた。「何度も侍女を眠り薬で眠らせているけれど、大丈夫なの?」「初めに言った通り、あの香料は体にいいものなんだ」范閑が優しく言う。林婉児は初めて彼が窓から入ってきた時のことを思い出して、思わずふき出した。「もしもあの時、あなたを”採花賊”と間違えて刺していたら、ものすごく後悔したでしょうね」范閑は笑って彼女の手をとった。「依晨、きみに話しておかないといけないことがあるんだ
小説「慶余年」第15章慶余堂その5范建は息子の疑問には答えず、話題を変えた。「最近、靖王世子がおまえに近づこうとしている。二皇子に会わせたいようだ、用心しろ」范閑は返事すると、書斎を辞した。京都ではどの勢力に属するのか、主動的または他動的に立場を表明しなくてはならないらしい。継承争いは古くからあるドラマ同様、どの王朝でも繰り返されてきた。分厚い幕が上がり、役者が舞台に上がる。三尺剣や舌先三寸を使って演じてみせるのと変わりがない。范府がどの派閥にも属さず、皇帝だけに
小説「慶余年」第15章慶余堂その4「大掌柜はそんな理由で十数年も京都に閉じ込められていたのか。ホントに酷い話だ。……父上、もしもその一人を起用したら、朝廷に目を付けられるのかな?」范建は、感情移入する息子に首を振って見せた。「慶余堂の掌柜を起用する方法は、各王府が蓄財するのに一番好まれる手法だ。だから朝廷は口を挟むことができない。まぁ、おまえが慶余堂の十七人の掌柜を集めるわけでなし」「掌柜が朝廷の禁忌を犯していたなら、どうして全員を処刑しなかったんです?」范閑は考
小説「慶余年」第15章慶余堂その3「昔の話なので、若い方はご存じないと思っておりました。そうです、私たち全員が葉家の掌柜でした。当時、葉家に問題が起こって業務のすべてを皇宮に没収されてしまいました。本来なら我々は店を辞めて別の生業を捜すべきだったのですが、なぜだか許されず、お恥ずかしながら今に至りました。我々は皇宮に代わって事業を行いはいたしますが、自立は認められておりません。慶余堂にはそういった経緯があります」掌柜たちは当時、母の部下だった。范閑は彼らに親近感を覚え、興
小説「慶余年」第15章慶余堂その2実は、范閑は書局の事業を進めつつ実地で経営を学び、権利を渡し渋る人々に商才を見せつけるつもりであった。「じゃあ……誰かが非常手段に出たら?」范若若が心配顔で訊く。范閑はよくよく考えて答えた。「長公主にも、宮中の大人物にも会ったことはない。けれどもこれまで十数年、内庫を管理してきた長公主は誰が何と言おうと優秀だと思う。もしもこの状況下でおれが殺されたら、首謀者であろうがなかろうが間違いなく彼女が疑われる。もしかしたら陛下はおれの生死な
小説「慶余年」第15章慶余堂その1范府の花庁で豆漿を飲み、油条にかぶりつくと、范閑はいい心地になった。やっぱりおれは運に恵まれている。前世で死んだと思ったら、この世界に転生した。転生と同時に母は亡くなり、父には捨てられた。けれども母を殺害した犯人たちは全員、五竹によって抹殺されたので、彼が手を下すまでも無い。父にはいろいろと思うところがあるが、まあいいだろう。問題は宮中の大人物による、見も知らずの女性との婚姻だ。ところが蓋を開けてみれば、その女性は彼が一目惚れした相手だ