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昭和31年、「壁の花」で直木賞を受賞した今宮一の生家「蘭庭院」です。「ダンディーで、ハイカラで、ロマンチックで、そのくせ現実主義文学に、十分に触れている」と評されていました。今は、明治42年生まれ。早大露文科中退。同郷の大宰と親しく、「桜桃忌」と命名したのも彼です。帰郷後は、後輩の作家を育成しました。下寺通りへ向かいます。「川龍院(せんりゅういん)」です。鎌倉時代、地頭として津軽へ下向した曽我一族の平弘忠が築城した石川城。その南側に創建したのが「川龍院」
『愛国百人一首』の選定された46首目は津守國貴です。(著者所持の『愛国百人一首』の津守國貴の絵札)君をいのる道にいそげば神垣にはや時つげて鶏も鳴くなりこの歌は、正平年間(1346~1370)の間に詠まれた歌です。歌の意(こころ)天皇さまの皇運を祈願し申しあげようと、神社に急ぎ足で行ってみると、神社の玉垣のあたりで、早くもその時刻を知らせる神鶏が夜明けのときを
バイオちゃん@violet_channel7時間緊急の🚨🚨🚨お知らせあちこちに誤情報が出回っているようです。頭がおかしくなりそうでした。イラクからの他、アライアンスもです。落ち着いてみましょう。しばらく様子を見ましょう。☺😹nesara_gesara_@nesara_gesara_ウルさんTelegramより--ご注目ください!神に選ばれた外貨とZIM保有者の皆様へ:神はあなたに「黄金のバトンを渡している」のです!お願いします!いかなる
ViewthispostonInstagramApostsharedby山下弘枝(@kusunoki_chihaya)先般、ご縁を賜った君田ユミ様からのお招きを賜り、初の仙台入り。君田様は世界的なデザイナーやアーティストのアシスタント、イベントプロデュース等を数多く手掛け、第一線で活躍されている、尊敬すべき素敵な女性。君田様から数多く学ばせて頂く事も多かったのですが、今般、國體と南朝、楠公について学びたい旨、お申し出を頂き、仙台へ。君田様始め起業家、経営者の皆様に、リ
『愛国百人一首』の選定された45首目は北畠親房です。『神皇正統記』を書いた方です。(著者所持の『愛国百人一首』の北畠親房の絵札)鶏の音になほぞおどろく仕ふとて心のたゆむひまはなけれどこの歌は、正平年間(1346~1370)の間に詠まれた歌です。歌の意(こころ)天皇にお仕えして、心のすきも油断もないと思っていたのに、ウトウトと眠ったようで、夜明けを知らせ鶏の鳴
『愛国百人一首』の選定された44首目は楠木正行です。あの大楠公の楠木正成の長子にあたる人物でです。(著者所持の『愛国百人一首』の楠木正行の絵札)かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとゞむるこの歌は、正平2(1347)年、後村上天皇時代の歌です。歌の意(こころ)戦陣に出たならば、梓弓の矢のように、還ってこない覚悟しているので、この世を去ってゆく者の名前だ
今が見頃真っ盛りの奈良市の月ヶ瀬梅林。その起源は古く、1205年(元久2年)に真福寺境内に天神社を建立する際、菅原道真の好んだ梅を植樹した事に始まる。後醍醐天皇が元弘の変で陥落した笠置山から潜幸される際、共に落ち延びようとしたもののはぐれてしまった1人の女官が月ケ瀬で暫く逗留した。その女官が月ヶ瀬の熟れた梅の実を見て、月ヶ瀬の人々に、京で使用される紅花染め用の烏梅の製法を教えたと伝わる。ここもまた南朝ゆかりの地だ。
OPENINGHEROヒーローになる時~♬AHHAそれは今~♪おばんかだです今宵も関東えいあい小説研究会+JAPANetcへようこそ(^▽^)はじまり始まり~小説研究「南朝と北朝の時代の小説のネタになる物語を教えて!」南朝と北朝の時代、日本は南北朝時代と呼ばれ、室町時代の後半に北朝と南朝に分裂しました。この時代には政治的な混乱や内乱が頻繁に起こり、権力闘争や武士の抗争が激化しました。以下は、南北朝時代を背景にした小説のネタです:皇位継承争いの物語:南北朝時代の主要なテ
井伊氏は遠江国司(藤原共資)の養子となった共保を祖とし、井伊谷を領して井伊氏を称した。南北朝期には南朝方として奮戦したが、戦国時代には今川氏の配下に入って衰退し、一時は女性(直虎)が当主となった。墓所は浜松市浜名区引佐町井伊谷の龍潭寺で、初代共保と22代直盛の墓が奥にあり、その左右に直虎を含む歴代の墓が並ぶ。しかし、共保と直盛は全く同じ形式で、残りの11基も同じものなので、恐らく江戸時代に彦根藩が
【遣唐使がもたらした律令制と仏教】七世紀の遣唐使は、舒明二年(630)から天智八年(669)までの間に、計六回派遣されている。その間に少なくとも数百人が渡唐し、半数程度は帰国することができたと考えてよいだろう。建国したばかりの唐は律令による政治体制を目指していた。また玄奘三蔵がもたらした仏典によって新しい仏教解釈がはじまり、各宗派が開宗し始めたころでもあった。遣唐使たちは最新の仏教文化に直接接することができた。遣唐使団には留学生や学問僧も含まれており、唐の制度・思想・文化な
所在地〒428-0414静岡県榛原郡川根本町東藤川特徴駿河の南朝方として今川氏と戦った土岐氏が、本城(徳山城)の北に築いた支城。緩斜面にかなり大きな竪堀や空堀が延々と続くが、主郭周辺の地形は曖昧。感想堀は確かに人工的な地形だが、守るべき郭は平坦ではなく、縄張りも判然としない。
先週、ベトナムの友達と南部の梅林に花見に行く予定やったけども、雨で流れてしもたので今週、賀名生梅林に花見に行ってきた。きっと南部はピークを過ぎたやろうということで賀名生をチョイス。彼らのお店から小1時間ほどの場所なので近くてよい。日本人はどっちかというと寒い時期の梅の花見よりも暖かくなってきた頃の桜の花見の方がポピューラーやけど、外国人の彼らはきれいであれば寒さなんか関係ないらしい。だから、俺は梅の花見はこの長い人生の
アッと驚く為五郎昨日、ある勉強会に参加。講師は地元の現役のK医師。テーマは「冬から春先にかけての疾病」ちょいと医療関係の知識を入手しようと思い軽い気持ちで参加。K医師。開口一番、安倍元首相は生きている!えっ?詳細はばっさり省きますが、話はどんどん展開し、安倍晋三元首相の父、安倍晋太郎氏は、朝鮮李王朝の最後の皇太子であった李垠(りぎん)と、李方子(りまさこ:梨本宮方子様)の間に生まれた子供だという。えっ?えっ?そして横田早紀江さんも、李垠と李
南朝を守った楠公の銅像がなぜ、北朝の皇統たる今上帝の皇居前に建立されたのか?とよく質問を頂くがその回答は以下の通り。瓊瓊杵命が高天原から降臨される時、祖神である天照大神から、国土をしっかり治めるようにと託されたのが稲穂と三種神器。皇統は天照大神の曾孫にあたる瓊瓊杵命からの男系血統のうち、三種の神器承継により神と一体となり天皇となられた血統。皇族の中の天皇となられた方の役割は、稲を作り、それを皇祖神に供え、国家国民を安寧に司るよう祈りを捧げつつ、国家を治める事にある。そのためには、天皇は天
さてさて………………大原をバスで出発したココロ。予定では、「国際会館駅」までバズで戻るつもりだったけど。この日、大原行きのバスに乗っている途中に目的地のバス停名があったので、そこで途中下車した…………バス停からすぐかなと思いきや、意外と距離がある参道をてくてく歩く………………ここまで来れば、雪の影響もほとんどない無事に到着したのは………………【三宅八幡宮(みやけはちまんぐう)】京都府京都市左京区上高野三宅町22ご利益は、子供の守り神として「かんの虫」封じ、夜泣き、安産、学業成
2024年2月14日。西村慎太郎です。標葉氏の顕彰運動について、諸史料(補足。「史料」は文字資料のことを指します。具体的には古文書などの紙媒体の文字資料です)から検討しています。前回は昭和8年(1933)頃に標葉清隆らの位牌を新調した際に関与した標葉氏一族や旧臣たちの名前を浪江町川添鈴木家文書の中の「位拝新調予算書」を確認しました。20名の人物の中で、最も著名かなって思うのは「旧重臣」として挙げられた苅宿俊風。福島県の自由民権運動を牽引し、県会議員となった苅宿仲衛の孫で、標葉神社の
ヒーリングサロンDesertRoseです。こちらにライトワークに行ったのは、2022年9月12日のこと、旧津山藩別邸庭園(衆楽園)と奈義町の諾神社のライトワークの後、岡山県勝田郡勝央町植月にある日吉神社にご挨拶に行き、また後日ライトワークに伺ったときのものです。日吉神社御祭神は大山咋命・大巳貴命・豊受大神・味須岐高彦根命・少彦名命・猿田彦命。境内社稲荷神社・厳島神社本社創立の年代は不詳、社伝並びに古老の口碑によれば天平9年11月、従五位下美作守阿部帯磨より受継ぎをなせる、美
2024年2月11日。西村慎太郎です。標葉氏の顕彰運動について、諸史料(補足。「史料」は文字資料のことを指します。具体的には古文書などの紙媒体の文字資料です)から検討しています。今回は昭和8年頃の「標葉公旧碑顕彰建碑」後の位牌新調に関わる史料です。孔版印刷(ガリ版印刷)であり、そのあとに墨書があります。(適宜読点を入れています)-------------------------------------肅啓標葉公旧碑・顕彰建碑に際しては一方ならぬ御厚情御助成を蒙り、千
2024年2月10日。西村慎太郎です。標葉氏の顕彰運動について、諸史料(補足。「史料」は文字資料のことを指します。具体的には古文書などの紙媒体の文字資料です)から検討しています。昭和8年(1933)12月に作られた「標葉清隆公父子墓碑建立趣意書」の発起人を見てみたいと思います。発起人・鈴木松五郎(川添。越後国北蒲原郡水原町より来住)・植田松左衛門(川添。越後国羽鳥町より移住)・迫田幸右衛門(川添)・岩野章助(川添。越後国東蒲原郡中権村より移住)・齋藤清七(川添。伊達
2024年2月9日。西村慎太郎です。標葉氏の顕彰運動について、諸史料から検討しています。前々回のブログで昭和8年(1933)12月に作られた活版印刷の「標葉清隆公父子墓碑建立趣意書」について翻刻してみました。再録すると以下のとおりです。-------------------------------------標葉清隆公父子墓碑建立趣意書抑々浪江町大字川添八幡山正西寺は元の香積山華光院の旧地にして同院は標葉の城主標葉家代々の菩提所なり、記録を按ずるに標葉氏は建武
名称:金峯山修験本宗吉野山櫻本坊鎮座:奈良県吉野郡吉野町吉野山参拝:令和4年3月19日令和4年7月2日令和5年9月30日本尊:神変大菩薩(役行者)倚像△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲大聖歓喜天(聖天さん)とは、インドの神様のガネーシャと十一面観世音菩薩が象の化身となって2体抱き合っている仏像で基本非公開の秘仏です。御開帳もありませんので一般の目にふれることはまずありません。開眼法要前の仏像であれば、仏具・
2024年2月7日。西村慎太郎です。標葉氏の顕彰運動について、諸史料から検討しています。さて、昭和の標葉氏に対する検証運動については調査させて頂いた川添鈴木家文書に多くの史料が遺されていますので、それを検証していきたいと思います。最初に昭和8年(1933)12月に作られた活版印刷の「標葉清隆公父子墓碑建立趣意書」です。(旧字は直し、適宜読点を入れています)-------------------------------------標葉清隆公父子墓碑建立趣意書
足利義満の功績とは教師は、授業のための準備を教材研究といっています。今さらながら思い出すと土・日曜日も部活動の練習や試合でへとへとになっているところで、スイッチを切り替えないといけません。教師の休職者が増え、その5割以上は精神疾患だという仕事環境の中で現役中は、そんなことを考える余裕もありませんでした。私は、特に歴史の授業を重ねるごとその重要さと深さに魅せられ、のめり込んでいきました。このブログは、その教材研究の結果でもあります。やめられなくなるのは例えば、こ
津市の石水博物館へ。明日から開催される「結城神社の至宝」展の内覧会へ行って来ました。創建200年記念の特別展、お目当ては祭神の結城宗広の佩刀と伝わる名刀❗満足しました。後醍醐天皇の綸旨や紫の旗も。歴史好きの方に喜ばれそうです。2月3日~4月7日まで。川喜田家に伝わる蒔絵刀掛けも。そろそろ結城さんの梅もほころぶ頃。#石水博物館#津市
こちらも古本屋さんで見つけてきた本です。歴史と旅シリーズ、『大動乱!南北朝』表紙は北畠顕家ですね。「室町幕府が誕生する=足利尊氏の勝利」という歴史を知っていながら、北畠顕家が奥州軍を率いて京都に攻めこんできた時点で「これで南朝逆転勝利だな」と期待してしまった小学生時代がありました。いや、本当にのめり込むと史実を知っていてもその先の展開がどうなるのか気になってしまうのであり。さて今回の本、随分とボロくなっているのだが…昭和49年!50年近くも前の本ぢゃない
つづきE~Hをご紹介。A~Dは、Part1へ『【松島360度】ぐるっと松島湾を眺めるpart1』松島には、いつもお世話になっています。非常に明るくて、前向きにさせてくれる島です。悶々とする時(こんなブログ書いているとけっこうある)やべーとこいった後は、…ameblo.jp富山観音(E)地点利府を通り松島の海を眺めながら、27号線を走ると、左側に「富山観音堂」の看板がみえてきます。奥まった森にある富山観音堂。『伊達政宗の長女五郎八姫が改
かんのうのじょうらん、と読みます。高校で日本史を選択した方はご存じですね。2017年初版です。教科書ではほんの1~2行しか記載のない足利尊氏・直義兄弟の死闘ですが『南朝の真実』の亀田先生が前史後史併せて65年間の動乱を余すところなく描ききっています。『南朝の真実亀田俊和著吉川弘文館』2014年2刷、歴史文化ライブラリーの一冊です。戦前には皇国史観という歴史観がありました。南朝=正義、楠木正成その他=大忠臣、足利尊氏=大逆賊などの極めて偏っ…ameblo.jp通説にも厳しくメスが入れられ
妙光寺(みょうこうじ)は、宇多野にある臨済宗建仁寺派のお寺で、山号は正覚山(しょうかくざん)、本尊は釈迦如来、開基(創立者)は花山院師継、開山は心地覚心(無本覚心/法燈国師)です。京都十刹の寺格を有する禅刹で、本山・建仁寺が所有する「風神雷神図屏風」は、元々京都の豪商・打它公軌(うだきんのり/糸屋十右衛門)が妙光寺再興の記念に俵屋宗達に製作を依頼したものでしたが、妙光寺から建仁寺に住職が移動となりその時に移動されたものです。京焼色絵陶器の大家・野々村仁清のものと伝えられる墓があります。開山
横帯に記述されているように「日本の開国は在外皇統の強制指令」という内容の一部を書き出しておいた。2014年12月初版。【大塔政略】私は、後醍醐天皇と文観が極秘裏に建てた国是がことごとく実行されたことを、京都皇統代から知らされました。その国是を拙著は「大塔(おおとう)政略」と呼びます。(p.5)《参照》『地球維新天声会議宇宙の黙示録』監修・中今悠天(明窓出版)《後編》【楠木正成と文観から見えるもの】鎌倉時代末期に建てられた「大塔政略」は、
ひょんなこと(わたしのしょーもない夢)から甲府盆地の十二神将へ逢いに行ったお話の後半です。『陰暦十二月十二日十二神将に逢いに行く0122』それは戯れのわたしの夢から始まった。1月19日たまたま南朝の悲劇の皇子大塔宮さまの墓所のあるいわゆる下浅間に行ったことによりこんな記事を書きました。『南朝の宮…ameblo.jp甲斐善光寺のほとんどお隣の、『東光寺』へお詣りに行ったのですが、たまたま曇りの日だったので『十二神将』にお逢いすることはかないませんでした。AちゃんBちゃんは