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忍野八海で有名な山梨県の忍野村。古くからある家々の間を静かに通り過ぎると、山を背にして神社があります。こちらの御由緒が南朝に関係しており、かつて南朝方が忍野に匿われていた説にも繋がります。内野浅間神社山梨県南都留郡忍野村内野一番地由緒沿革南北朝が統合された後の応永年間に、一品兵部卿尹良親王が南朝の四皇をお祀りし、四皇三社浅間神社と称して奉る。永享6年(1435年)、尹良親王の従兄與良親王の孫、梅若王が神主となるが、わずか3年後の永享8年3月15日に薨る。その霊を産土神に
https://youtu.be/2UNfvpNeDpM?si=2U-kAXwvTf3Ibllc第48回楠公研究会「楠木一族と服部一族〜南北朝時代から戦国時代、そして現代まで続く盟友関係〜」【一般公開版】今回の勉強会は愛知県弥富市の重要文化財「服部家住宅(旧荷之上城)」にて開催。15代目服部家ご当主からお話を伺った。伊勢楠氏と共に、同じく南朝方として吉野時代から共闘してきたのが、服部氏だ。服部氏といえば、楠木正成の妹の嫁ぎ先として、また、観世家とも血縁がある家筋として、余りにも有名である。服部
明治天皇斬首の直前の写真(エリザベス女王がオークションに出品した物を東大が購入した)昭憲皇太后天皇が「崩御」したとき「皇后」はどんな反応をしたか?女官が目撃していたこと(学術文庫&選書メチエ編集部)現在、日本の皇室は、あとつぎの問題などによって、岐路に立たされているとでも言えそうな状況です。日本の市民も、皇室について知識をたくわえておくべきタイミングかもしれません。gendai.mediaage=3天皇が「崩御」したとき「皇后」はどんな反応をしたか?女官が目撃していたこと(現代ビジ
門司城の歴史を調べるシリーズ。【武術探訪シリーズ19】猿喰城。南北朝時代に伊川系門司氏が断絶した山城マイナーな場所に行き過ぎましたでしょうか。まあ、このシリーズは続けていきます。youtu.be今回の動画。同じ北九州市門司区内にある猿喰(さるはみ)城跡に行ってきました。先日、門司城跡に行ってきまして、門司城の歴史を見たところ…。南北朝時代、北朝についた吉志系門司氏が門司城を拠点にしており、南朝についた伊川系門司氏は、この猿喰城を拠点にしていたとのことでした。これは行くしかない!地
皆様こんにちは。沙貴誉(さきほまれ)です。YouTube動画『後醍醐天皇について占ってみた』、公開されました。早速紹介させて頂きます。後醍醐天皇について占ってみた久しぶりの歴史シリーズです。今回は後醍醐天皇についてです。吉野桜と後醍醐天皇については前回の動画をご覧下さい。https://youtu.be/Kwg6lTJHiYY?si=wJaWmHnKmjOMgJ96沙貴誉(さきほまれ)の名前でブログを書いています。https://ameblo.jp/b
現在の天皇家は「北朝」の子孫です。なのになぜ、「南朝が正統」とされているのか?足利義満が「南朝を正統と認めます」という政治的決着で南北朝を合一したから、です。そんな馬鹿な、南北朝は「北朝勝利」で終わったから、南朝の子孫は消えて、北朝の子孫が今の天皇に至るのではないのか?実質的にはそうでも、形式的には、南北朝の分裂は「南朝正統」で決着したんです。「南北朝の戦い」というのは、実は「源平合戦」と同じくらい、誤解を招く表現です。南北朝時代を「南朝と北朝が戦った時代」と考え「北朝の勝利で終結し