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(2023年度-No.73)行った日:2023.10.31(火)ブログ作成日:2023.11.2(木)*******************あちこちの木々が少しずつ色づいてきました夏に作った苔玉のナンテンはもう紅葉しています↓10月の最終日飛鳥・壺阪にある高取城に登ってきましたコース図(ほぼこの地図通りに右回りに歩く)<観光協会HPより転載>地図上では8.1Km205分の道程実際の記録は11.05Km180分18925
アマゾンからできる限り南北朝時代の本を集めてきていますが、楠木正成に関する本がこちら。一番左『楠木正成知られざる実像に迫る』が一番新しい本ということになります。2021年つまり一昨年の刊行。「忠臣」として崇められているのはどうも戦中日本の思想という感じで、つまり天皇のために玉砕することを美徳としていた時代にそういう評価が固まったというようなことがここに語られています。2番目の『真説楠木正成の生涯』は、太平記などにみられる正成の合戦の様子を詳しく解説。正成の合戦というと、
風と雅の帝[荒山徹]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}南北朝時代、鎌倉幕府末期の持明院統、光巌天皇の物語です。大覚寺統は後醍醐天皇。天皇親政を取り戻すべく暗躍する後醍醐天皇の陰で、両統迭立の約束事を盾に正当性を主張する北朝側のやるせなさが伝わってきます祭祀王としての天皇。よって自らの手を汚すことなく祈ることで政を行おうとし、汚れ仕事は武人に任せることをよしとする風潮。武家を下に見つつも、天皇家から別れて武家になった源氏にはシンパシーを感じる(
畠山斯波吉良細川今川石橋山名仁木石塔新田里見上野一色渋川桃井吉見岩松戸賀崎田中江田荒川大館世良田牛沢鳥山堀口加古一部界隈では有名な右京大夫政元さんの『知識で踊らせて』のラップ部分から抜粋しましたが、これは全て足利一門です。中でも桃井だけがやたら強調されていますが、これはかつて政元さんのラジオ風生放送『オールナイト幕府』の桃井氏解説会で引用された論文の筆者(本書の著者ともいう)が乱入御成になられたことでリスナーの間で伝説の回
東福寺特別展明兆の五百羅漢図全50幅を4期に分けて公開します。蓮弁・光背化仏・手だけは撮影オーケイです。釈迦如来坐像の台座の蓮の花びらの一部焼失前の旧本尊(釈迦如来坐像)光背化仏焼失前の釈迦如来坐像の周りにある仏像東福寺にはかつて、「新大仏」とも称される強大な本尊がありました。惜しくも明治時代初期に焼失しましたが、一部がわずかに焼け残っています。左手だけでも2m以上。蓮弁や光背の化仏をあわせてその壮大なスケー
最近買っているマンガです!歴史漫画。主人公は北条時行。鎌倉時代後期から南北朝時代のお話です!2024年アニメ化も決定してますジャンプ連載中の漫画です歴史漫画とはいえ、ギャグ要素めっちゃありで、思わず声に出して笑っちゃうでも、しっかり冒険モノだし、勇気と友情!ジャンプらしい!(私の大好物)時行はかわいいし、仲間もみんなキャラが濃くて…これはアニメもヒットしそうだなーと思う‼️息子と一緒に買ってます。まだ12巻までしか出ていなくて、現在は6巻まで既読。すぐ追いつけるぞー(意外と
今月も、修験道総本山、吉野金峰山寺参拝です。ボクはまたまた車内待機。金峰山寺、今空晴れてきました。(実時間15時前)地上より涼しい今気温。車内温度と湿度です。一応、NEXPOW君で、USBファンと、アース製薬のUSB電気蚊取り器つけておきます。パパだけ急な階段を、ヒィヒィ言いながら登ります。ここは、南朝の後醍醐天皇が、仮御所を置いていた跡地です。国宝の蔵王堂で、ご本尊の金剛蔵王大権現様に、般若理趣経百字の偈、般若心経、ご真言を上げて、オカンの当病平癒、早期無
だいぶ間が空いてしまいました~、申し訳ありませんついついドラマのイッキ見などしてしまっていた七海ですぅーかわりなく元気にしておりますさて、金峯山寺でくまぶし君という最強カワイイ相棒をGETして次に向かったのは金峯山寺から近くの「吉野神宮(よしのじんぐう)」春に春日大社の金龍神社でお目にかかった「後醍醐天皇」さまが御祭神です。歴史に弱いワタクシなので間違ったトコロもあるかと思いますがザクッと後醍醐天皇さまがどういったお方だったのかを・・・島流しなど幾多の困難
日本史上まれにみる分裂の時代であった南北朝時代(だいたい後嵯峨上皇のせい)。本書はそんな南北朝時代を大覚寺統の後醍醐天皇を正当な皇統と推す南朝方に付いた31名の武将を後世の「忠臣」という評価を排して紹介した列伝です。南朝方として有名な楠木正成や新田義貞、北畠親房・顕家親子が必ずしも「忠臣」とは言えないことは編者の一人である亀田俊和先生による『南朝の真実』で示された通りです。『『南朝の真実忠臣という幻想』亀田俊和・著』南北朝時代。歴史の教科書で必ず登場する割には、人間関係が複雑で
有翡(ゆうひ)〜legendoflove〜時は南北朝時代。江湖(こうこ)の48門派を集めて作られた「四十八寨(しじゅうはちさい)」の当主の娘・周翡(しゅうひ)は、義侠心に溢れる性格で武芸の修練に励む日々を送っていた。ある日、彼女は寨(とりで)の固い守りを破って侵入した軽功の名手・謝允(しゃいん)と出会う。彼の届けた文により、周翡の父親は山を下り、父娘は離れ離れになってしまう。修練を続け成果を認められた周翡は、任務のために下山した先で謝允と再会。そんな中、宿敵の地煞山荘(ちさつさんそう)が
こちらは日曜日に買ってきた本です。そして今気づいたんだが、室町幕府関連の本をここでとりあげたことがほとんどない!とりあえずこちらも。買ってから二年ほど経っています。室町幕府というとあまり知られていない、というイメージ。司馬遼太郎も室町将軍の誰一人として高く評価していませんでしたので、室町ファンだった旧友がアンチ司馬になっていました。ちなみに自分がアンチ司馬なのは別の理由で。小学生の頃は特に南北朝時代にハマッていたため、「鎌倉~南北朝」もしくは「南北朝~室町
南北朝時代の南朝の拠点。しらん。足利尊氏が落とし。北畠家、田丸氏、しらん。どうする家康の信勝が入る。本能寺の変の2年前に燃えているのか。
『五條家金烏御旗祭り』に出席しました。五條家は、およそ700年にわたり、南北朝時代ゆかりの宝物を守り伝えて来てあり、年に一度秋分の日に『御旗祭り』が行われ、『金烏の御旗』、『五條家文書』等の国指定文化財が一般公開されます。
前回の予告より1か月以上経ってしまいましたが何とか動画が出来上がりました(^^;)話の大まかな流れは決まっていましたが登場人物が増えたことで色んなエピソードを盛り込むことになりました。後は動画素材の配置と調整に時間を取られました(汗)ゆっくり解説・侯景宇宙を夢見た漢立身出世編侯景の生涯をゆっくり解説する動画です。今回は侯景が戦歴を重ねて出世していく過程を紹介しています。出演者の説明です。解説:魔理沙侯景:チルノ霊太后:霊夢爾朱栄:神奈子高歓:諏訪子慕容紹宗:早苗爾朱
皆様、ご機嫌YOです!建武の新政では自分達に明日は無いと怒った武士達に担ぎ出された足利尊氏。彼は一度は朝廷に敗れたものの九州で息を吹き返し京の都へと迫ります。東国のみならず西国の武士達も糾合した尊氏の大軍相手に真正面からあたるのは下の下。現実的な軍略眼を持った楠木正成は一時京を捨てて尊氏を誘い込んだうえでの包囲殲滅を進言します。しかし…ここで坊門清忠ら戦を知らぬ公家が反発、よりにもよって後醍醐もそれに乗ってしまいます。連中にあるのは下らない面子、さらに言うならば京を出たくない気持ちの
《十七条城(美濃国)》[読み方]じゅうしちじょうじょう(みののくに)[別名称]-[所在地]岐阜県[城分類]平山城[築城主]舟木頼胤[築城年]南北朝時代[城を観る](石碑春日局ゆかりの地)[YouTube](【城を観る+】《十七条城(美濃国)》2021〜舟木頼胤が築城!十七条城跡を観る〜)[登城日]2021/03/30にほんブログ村
天山(てんざん)は筑紫山脈に属する標高1046メートルの山である。佐賀県唐津市、小城市、佐賀市、多久市に跨り、佐賀県のほぼ中央に位置する。ブログを辿ると、10年ほど前の2012-10-02に朗誦の会メンバーと天山に登っている。なぜ、そのとき天山に登ったのかというと、山頂に阿蘇惟直の墓(供養塔)があるので、これに詣でるためだった。阿蘇惟直というのは誰あろう?南北朝時代、筑前国多々良浜の闘いで足利尊氏に敗れ、阿蘇まで退却の途、厳木町(きゅうらぎまち)天川で戦死したため、住民に
今月も、修験道総本山、吉野金峰山寺参拝です。ボクはまたまた車内待機。金峰山寺、今空晴れ。(実時間13時前)地上より涼しい今気温ですが、クーラーいれておきます。車内温度です。パパだけ急な階段を、ヒィヒィ言いながら登ります。ここは、南朝の後醍醐天皇が、仮御所を置いていた跡地です。国宝の蔵王堂で、ご本尊の金剛蔵王大権現様に、般若理趣経百字の偈、般若心経、ご真言を上げて、オカンの当病平癒、早期無事帰宅、虎哲の健康長寿、それに、ゴン君の当病平癒を祈願しました。何度見ても
津奈木町岩城に所在する津奈木城跡(舞鶴城跡)です。文化財の指定は受けていません。南北朝時代には名和氏の支城として、一族の加悦氏が城番を勤めていましたが、その後、相良氏の支城となり深水宗方などが城代となりました。現在は、舞鶴城公園として整備されています。※写真は2011年11月撮影
極楽征夷大将軍(文春e-book)Amazon(アマゾン)題名に惹かれて買ってしまいました。歴史小説の主な題材は、戦国時代か幕末が主である印象です。この小説は、珍しく鎌倉幕府の滅亡から、建武の新政さらに南北朝時代と進む時代が舞台という珍しい小説です。しかし、主人公は、室町幕府初代将軍である足利尊氏では、なく弟の直義です。また、足利家の執事と言う側近中の側近である高師直も主人公といえましょう。まずは、尊氏と直義の兄弟の幼少期から始まります。二人の兄弟は、父の貞氏の側室か
前回の続きです。今回は主郭を石碑から正門跡までです。下図⑤付近にある石碑です。⑤→⑨→⑩と歩きます。上図⑨付近です。赤い→方向に歩きます。見張台は沖縄では「アザナ」と言います。天守構造の無い沖縄の城ですが、日本の本土でも南北朝時代は天守構造がなく、見張台(物見台)がありました。先の方に正門に繋がる城壁が見えてきます。進むと下図⑩の正門跡が見えます。城門はきれいな切り石積ですが、その両側の城壁は野面積です。石垣に出来そうな石がゴロゴロして
今月も、修験道総本山、吉野金峰山寺参拝です。ボクはまたまた車内待機。金峰山寺、今空晴れ。(実時間14時前)地上より涼しい今気温ですが、クーラーいれておきます。車内温度です。パパだけ急な階段を、ヒィヒィ言いながら登ります。ここは、南朝の後醍醐天皇が、仮御所を置いていた跡地です。国宝の蔵王堂で、ご本尊の金剛蔵王大権現様に、般若理趣経百字の偈、般若心経、ご真言を上げて、オカンの当病平癒、早期無事帰宅、虎哲の健康長寿、それに、ゴン君の当病平癒を祈願しました。何度見ても
皆様こんにちは。沙貴誉(さきほまれ)です。途中で中断していた記事を、やっと再開です。いや、だってもう、華頂氏の存在を知ったら放置しておけなかったので、書いている記事を中断してまで皆様にお伝えしたかったのです。それでは早速、前回からの続きを書いていきます。マーカー部分は私が引きました。前回ご紹介したマーカー部分は引いてありません。一部、マーカー部分を増やしてあります。以下、歴史に関する記述については、歴史は諸説あります。気に
ついにやってまいりました、太田駅です。南北朝フェス開催地です。ブログ全体のながれ上、太田駅をタイトルにしてますが、太田駅で思ったことはまた別に書きたいんですよね。それはまた別記事で。いったいそれはいつになるのだ会場は、太田駅から朝日バスで4つほど行ったところからちょっと歩いたところにある太田市民会館。新しくてかっこいい建物でびっくり。思ってたよりでかい!新田フェス(いつの間に)にふさわしい会場ですわ。ところで会場の写真全然撮ってなかったんで公式さんの
ひさびさブログを書きます。去年の夏の旅も書き終わってないというのに気がつけばもう8月かよ!!今回来たのは、群馬県太田市。つまり新田荘(にったのしょう)新田義貞公推しとしては来なければならぬ地。ほんとうはGWに来るつもりでした。新田義貞が鎌倉へ挙兵したのはその時期ですから。が!GWはそれどころではなかったのです。今年上半期は転職してていろいろ大変でした。別に嫌なことがあっ
世間一般はお盆休みですよ!!わたしは普通にカレンダーの休みのみです・・・つら。でも今日は楽しみにしていたイベントに行ってきたのだ。こちらです、「第2回南北朝フェス」。NITTA×ASHIKAGAのロゴがかっこいいね!場所は群馬県の太田市です。ところでお盆の時期って帰省客で高速道路がすんごい渋滞するのじゃなかったっけ?かなり危ぶんでいましたが、渋滞したのは埼玉県以南などもっと都会の方だけ。新潟〜群馬はスイスイでした。(大丈夫なのかな・・・逆に心配になる)スムー
美濃の山城・・・杉原砦呼称地となります場所は藤橋城・西美濃プラネタリウムの川を挟んだ東側↓黄色の☆↑↓ヤマップデータ↑今回使用画像の撮影場所登り口が分からず登ってみましたが・・・↑の下山コースがおすすめの尾根が違いますが↓わずかな踏み跡を頼りに・・・↓?↓狭いが曲輪の様です↓?↓浅いが凸凹北側竪堀風地形の脇↓が西側の連続凸凹薄いですが・・・微妙な連続凸凹でした↓堀切これは高低差が3m程東は谷への
基本情報場所:群馬県太田市新田反町町896電話:開館:休館:料金:無料特記:側に「反町薬師駐車場(無料)」があります。新田荘遺跡(反町館跡)反町館は新田荘を代表する館跡です。昭和33年に群馬県史跡に指定されましたが、平成12年に新田荘遺跡として国史跡に指定されました。平面形は凸字型で、東西方向は南辺で138m、北辺で75mあり、南北方向は115mあります。周囲には常時水をたたえる堀が巡らされています。東側の堀の北半部は県道改修の際に二倍以上の幅に広げられていま
基本情報場所:群馬県太田市新田上江田町924-1ほか電話:0276-20-7090(教育部文化財課)開館:休館:無休料金:無料特記:説明板横に数台の駐車は可能新田荘遺跡(江田館跡)江田館跡は、木崎台地の西端部に立地しています。新田荘を代表する館跡のひとつで、昭和22年に群馬県史跡第1号に指定されていましたが、平成12年に新田荘遺跡として国史跡に指定されました。堀之内と呼ばれる部分は、東西約80m、南北約100mの方形で、堀がほぼ全周し、この内側には土塁が巡らさ
南北朝時代のお話。新田義貞というと、楠木正成に比べてどうしても二流で、酷い言い方だと凡将とか言ってる本もあります。(そこまで言うかなー、とわたしは擁護に回りたいが)がしかし。父亡き後の新田・楠木の子どもたちになると、ダントツで新田の評価が高いとな。その活躍は驚嘆に値するそうです。と言うわけで読んでみました、新田三兄弟〜〜〜それは新田義顕・新田義興・新田義宗。嫡子の義顕は父よりも先に戦死してしまうので、その後は脇屋義助の子供・義治が加わり、三人でめちゃく