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トップページ都道府県別索引へ静岡県の索引安倍城は安倍川が静岡の平野に出てきたところの右岸にある。国道1号静清バイパス羽鳥ICが最寄り。主郭の標高が435メートルで、麓(葵区西ヶ谷)からの比高は370メートルにもなる。建武政権で武者所に仕えた狩野貞長が城主で、南北朝の動乱が始まると南朝方について挙兵し、この城も戦乱の舞台となった。南北朝合一の後に廃城となったらしい。(電子国土webの図上に筆者作図)この日は午前中に山中城でのイベントに参加し、その足で突入したが入山が午後3時を
前回のアップから時間が掛かりましたが出来ましたので報告いたします。ゆっくり解説・侯景宇宙を夢見た漢宇宙回帰編侯景の生涯をゆっくり解説する動画です。今回は侯景が歴史上唯一の将軍号を名乗った様子を紹介しています。出演者の説明です。解説:魔理沙侯景:チルノ蕭衍:輝夜蕭綱:うどんげ祖皓:わかさぎ姫百済の使者:阿求蕭繹:レミリア王僧弁:咲夜陳覇先:美鈴徐文盛:にとり胡僧祐:小悪魔蕭正徳:てゐ王偉:大妖精宋子仙:リグル任約:ミステ...youtu.be本当なら今回で侯景シリーズは完了するつも
・『蒙古襲来と神風』は天野忠幸著『三好一族』を買った本屋で2年前に購入。・『観応の擾乱』は谷口克広著『織田信長合戦全録』を買った本屋で2年前に購入。・両方通読するのは二回目である。・通夜に読む本ではないだろうと自分にツッコミながら読み終える。・二年前より日本中世史への理解が深まった気がする。服部英雄著『蒙古襲来と神風中世の対外戦争の真実』260㌻中央公論新社中公新書2461860円(税抜)日本地図主要参考文献一覧有り2017年11月25日発行亀田俊和著上
【図解】室町時代の三河「松平一族の出自の真相を暴く」【中山十七名の征服と岩津の戦いの実態】南北朝時代から室町時代までの三河(現在の愛知県東部)における抗争と守護権力の移り変わりを3Dで描く詳細な地図で解説徳川家康の祖である松平一族についてその起源と中山十七名の征服や岩津城の攻略の伝承、幻となっている大平城の戦いについて詳細な地図を使って図解松平氏とはいったい何者であったのか?その真相について従来説や近...youtu.beいいぞ額田郡!もう幸田しかないけど。
『木屋家文書』県有形文化財古文書指定について八女市黒木町木屋の木屋家に伝わる古文書が、南北朝時代の一次史料として、3月13日に開催される県教育委員会において審議、議決される予定です。
トップページ都道府県別索引へ静岡県の索引主郭があると思っていた本城山の山頂を越えても何もなかったので、そろそろ奥の清水砦まで行けるかどうか判断しなきゃ…なんて思いながら尾根上を進んでいたら、何となく堀切のような尾根のヘコミが…降りてみると…やっぱり〜🙌掘ったり盛ったりが全然なくて山にそのまま建物を立てただけと思ってたら、主稜線をぶった切る立派な堀切があった😮幅7メートル、深さ3メートルぐらいか。このあと現れる説明板によれば幅8メートルとのことこうなってくる
トップページ都道府県別索引へ静岡県の索引徳山城は大井川を河口から40kmほど遡った左岸の山塊、無双連山のある尾根上にいくつもの曲輪などを並べていた。南北朝時代の始め、観応の擾乱のところで土岐(鴇)彦太郎なる有力領主が足利直義方とともに南朝に与したため、文和二年(1353年)に北朝方の今川範氏の攻撃を受けて陥落したとのこと。この前年の観応三年には安倍城を追われて大津城に立て籠もった南朝方の佐竹兵庫入道が、同じ今川範氏に攻められ徳山城に逃げのびるという合戦があり、駿河での南北朝動乱では
トップページ都道府県別索引へ静岡県の索引この城は高低差にして最後の80メートルほどが道のない急傾斜の直登になります。崩壊地っぽい所もあるので地形図とGPSを使って慎重にルートファインディングする必要があります。単独での入山は避けたほうが良いでしょう。瀬戸谷城は国道1号藤枝バイパスの谷稲葉インターチェンジから瀬戸川沿いを登って、滝ノ谷不動峡の東側にそびえる城山の山頂にある。不動峡は両岸の崖が迫るなかなかの峡谷で、このあたりの山容が険しいことを教えてくれる。峡谷を挟んで西に滝沢西城
「吉野朝残党伝」天野純希潮出版社1月末に読み終えていた作品です南北朝と言われていた時代を過ぎ、山奥へ奥へと逃れた吉野朝(南朝)自らを後醍醐天皇の後胤と名乗る、玉川宮敦子と後鳥羽帝の後胤と名乗る、鳥羽尊秀「正しい政を行う世にするために、京の将軍・足利義教の打倒と南朝の再興するために共に戦おう」と同じ志の元、集まる南朝の残党たち主人公の多聞たち身寄りのない子供達を隠密部隊「菊童子」として訓練し、暗殺、奇襲、破壊工作など裏の仕事を担う過酷な訓練を乗り越え、子供ながら凄腕の兵士として数々
17:05八戸駅に到着。路線バスで根城に向かいます。『報恩会館根城前』という停留所から、足元が見えにくくなった歩道を少し歩きます。根城は南北朝時代に国司代に任じられた南部師行が城として修築し、陸奥の南朝方の一大拠点となったそうです南部師行公像旧八戸城東門事前にわかってはいたのですが、『八戸市史跡根城の広場』は終了していました暗くてよくわからなかったのですが、堀?『八戸市博物館』の入口の辺りにスタンプの入ったBOXがあります。
『愛国百人一首』の選定された41首目は藤原為定です。これより吉野(南北朝)時代の歌となります。(著者所持の『愛国百人一首』の藤原為定の絵札)限りなき恵を四方(よも)にしき島の大和島根は今さかゆなり歌の意(こころ)天皇の無限の御恩恵が、日本の隅々に及んで、弥栄えに栄えています。藤原為定は、藤原定家の6世の孫で、後村上天皇の時代に正二位の権大納言にまで昇進した人で
JR東日本の「キュン♡パス」を利用して、かみさんと日帰りで青森県に行ってきました。浪岡城⇒弘前城⇒根城と巡りました。東北新幹線と奥羽本線を乗り継いで10:19にJR浪岡駅に到着。駅に隣接の『あぴねす』で続日本100名城のスタンプをゲットして、あまり時間もないのでタクシーで浪岡城に向かいます。雪が多かった場合は『あぴねす』でスタンプだけ押して弘前城に向かう予定でしたが、タクシーの運転手さんの話によると今年は特に雪が少ないとのことでした浪岡城は戦国時代にこの
2024年2月17日。西村慎太郎です。標葉氏の顕彰運動について、諸史料(補足。「史料」は文字資料のことを指します。具体的には古文書などの紙媒体の文字資料です)から検討しています。前回は昭和8年(1933)12月19日付の「いはらき新聞」を見てみましたが、そこには建碑を主導した鈴木松五郎(「いはらき新聞」では松本松五郎と記されています😅)以下の人名が記されています。次の方がたです。・松本(ママ)松五郎・岩野庄助・植田松左衛門・未田富次郎・齋藤清七・田中武・鍬野松太郎
2024年2月16日。西村慎太郎です。標葉氏の顕彰運動について、諸史料(補足。「史料」は文字資料のことを指します。具体的には古文書などの紙媒体の文字資料です)から検討しています。この顕彰運動については新聞にも掲載されていますので、その記事を見てみたいと思います。前回は昭和8年(1933)12月20日付の「福島新聞」を見ましたので、今回は昭和8年(1933)12月19日付の「いはらき新聞」を見てみたいと思います。(適宜読点を追加しています)------------------
2024年2月15日。西村慎太郎です。標葉氏の顕彰運動について、諸史料(補足。「史料」は文字資料のことを指します。具体的には古文書などの紙媒体の文字資料です)から検討しています。この顕彰運動については新聞にも掲載されていますので、その記事を見てみたいと思います。今回は昭和8年(1933)12月20日付の「福島新聞」です。-------------------------------------(見出し)「南朝の忠臣標葉父子の墓標発見浪江町の正西寺墓地から
前回の観心寺さんの参詣記から間が空いてしまいましたが、今回も正月五日の河内国でのお寺めぐりの記を…河内長野市寺元にある高野山真言宗の寺院、観心寺さんを陽が傾きかけた頃お詣りして、どうしても日暮れ前に河内長野市天野町の金剛寺さん(ウィキペディアはこちら)をお詣りしたかった〝火打石〟、観心寺さんの霊宝館の拝観を泣く泣く諦めて、いざ詣でん、日没と一刻を争い天野山寺(金剛寺さんの別称)へ…※金剛寺さんについては河内長野市観光ポータルサイトの「天野山金剛寺」も
2024年2月14日。西村慎太郎です。標葉氏の顕彰運動について、諸史料(補足。「史料」は文字資料のことを指します。具体的には古文書などの紙媒体の文字資料です)から検討しています。前回は昭和8年(1933)頃に標葉清隆らの位牌を新調した際に関与した標葉氏一族や旧臣たちの名前を浪江町川添鈴木家文書の中の「位拝新調予算書」を確認しました。20名の人物の中で、最も著名かなって思うのは「旧重臣」として挙げられた苅宿俊風。福島県の自由民権運動を牽引し、県会議員となった苅宿仲衛の孫で、標葉神社の
さてさて………………【呂川(りょせん)と津川(りつせん)】大原の魚山は仏教音楽である天台声明の発祥の地であるという。その魚山を源とする呂川と津川は、和楽の旋法に因んで名付けられたという。調子が外れた『呂律(ろれつ)がまわらない』という言葉の語源となっているまたひとつ勉強になったこんな道をてくてく歩く……………「今日は【音無の滝】【来迎院】は予定してたけど諦めよう」とつぶやく。【念仏寺】方面に少し歩いて見ると……………すぐに到着したのは………………【大原念仏寺(ねんぶつじ)】
南北朝時代南部師行によって築城された城館根城遺跡はこ〜んな感じだったようです八戸城東門からstartと〜っても綺麗に整備された広場を歩いていると東屋があったり空堀があったり本丸を目指します
2024年2月11日。西村慎太郎です。標葉氏の顕彰運動について、諸史料(補足。「史料」は文字資料のことを指します。具体的には古文書などの紙媒体の文字資料です)から検討しています。今回は昭和8年頃の「標葉公旧碑顕彰建碑」後の位牌新調に関わる史料です。孔版印刷(ガリ版印刷)であり、そのあとに墨書があります。(適宜読点を入れています)-------------------------------------肅啓標葉公旧碑・顕彰建碑に際しては一方ならぬ御厚情御助成を蒙り、千
おはようございますこんばんは~五條市までリハビリ兼ねた撮影に行ったならもう一足延ばして賀名生の里へねまだまだとはわかっていましたが梅の開花は全くダメでした時間潰しに南朝の皇居跡のある賀名生の里に寄りました少し写真撮りましたけどいつものポイントばかりでしたので4年前の記事を再アップでね奈良県五條市の賀名生(あのお)梅林に行ってきました梅林の梅の花は咲き初めでまだまだでしたので「賀名生の里」の歴史民俗資料館というところを訪ねてきましたここは南北朝時代に後醍醐
鹿児島市内の谷峰城跡へ行って来ました埋蔵文化財情報センターのデータベースでは原良にあると記載されていましたが実際は常磐町らしい🤔更に調べてみると樟南高校の野球グランドの裏手との事所在地鹿児島市常磐町二ノ迫立地丘陵現況山林・宅地残存度消滅築城者肝付氏在城者肝付氏・鮫島氏存続期間南北朝時代~文和元年満足です2城目は辺田城跡所在地鹿児島市中山町辺田立地山頂現況宅地規模200×300複
2024年2月10日。西村慎太郎です。標葉氏の顕彰運動について、諸史料(補足。「史料」は文字資料のことを指します。具体的には古文書などの紙媒体の文字資料です)から検討しています。昭和8年(1933)12月に作られた「標葉清隆公父子墓碑建立趣意書」の発起人を見てみたいと思います。発起人・鈴木松五郎(川添。越後国北蒲原郡水原町より来住)・植田松左衛門(川添。越後国羽鳥町より移住)・迫田幸右衛門(川添)・岩野章助(川添。越後国東蒲原郡中権村より移住)・齋藤清七(川添。伊達
皆様、ご機嫌YOです!鎌倉幕府の打倒から建武の新政を支えた朝廷方の武士の中には「三木一草」と呼ばれた人たちがいました。その中の一人に結城親光がいますが、今回のお話は彼ではなくその父である結城宗広です。彼は南北朝を題材とした松井優征氏の漫画「逃げ上手の若君」でも、一見穏やかな好々爺風の人物として登場しています。彼は一貫して朝廷方につき、鎌倉幕府や足利尊氏との戦いを繰り広げました。今回はそんな彼の生涯をまずは動画にて見ていきたいと思います。ちなみに、彼の生き様については下の楠木家の末裔の御
2024年2月9日。西村慎太郎です。標葉氏の顕彰運動について、諸史料から検討しています。前々回のブログで昭和8年(1933)12月に作られた活版印刷の「標葉清隆公父子墓碑建立趣意書」について翻刻してみました。再録すると以下のとおりです。-------------------------------------標葉清隆公父子墓碑建立趣意書抑々浪江町大字川添八幡山正西寺は元の香積山華光院の旧地にして同院は標葉の城主標葉家代々の菩提所なり、記録を按ずるに標葉氏は建武
🟢皆さんご存知の一休禅師が住んだ寺院です。🟢見事な庭園ですね。
久しぶりに積もる雪が降りましたなあ。朝から雪かきをして、運動不足をこじらせている者としてはいささかヘタレ気味ですけれど、それはともかくとして…。昨2023年の大河ドラマ『どうする家康』なんかも同様ですけれど、歴史上の人物をドラマ・映画や小説に描いて、何度も何度も取り上げられる場合がありますですねえ。その度に何かしらの特徴を出す必要があるわけで(でなければ作り出す意味が問われましょう)、工夫を凝らすあまり「えええ?」というものになったりすることもあり。ですがその一方で、歴史イベントとしてはた
四條畷市の四條畷神社が明治天皇陛下から賜り所蔵している旧国宝「日本刀・備州長船住長守(びしゅうおさふねじゅうながもり)が初公開されたので観に行って来ましたこの刀は、約700年前の南北朝時代に鍛造されたもの。四條畷神社が南北朝時代の武将楠木正行をまつることから明治天皇から賜ったとのこと。(詳しくは産経新聞2/2朝刊の記事を読んでください)新聞を見て家内とお参りを兼ねて実物を見て来ました帰りには社務所で厄除けぜんざいをいただきましたbymakky
そして日曜日(28日)は仙台駅前の丸善へ。なにか面白い歴史の本でも出てないかと見たらです。おお、南北朝の本があるぢゃないですか。早速2冊、購入してきました。ところでこのサイズの本には、ダイソーで売ってるブックカバーのA5サイズが役に立つ。文庫、新書にはサイズが合わなくて無駄な買い物になってしまったものの、A5くらいの大きさになると多少デカくても気にならない。さて左の本から。楠木一族に関する研究です。なんといっても楠木正成ですが、有名な赤坂城、千早城