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❖何が原因なのかを一生懸命考えている大正十五年(一九二六年)、大阪で生まれた酒井雄哉氏、現在の酒井大阿闍梨を、私たちは親しみをコメテ阿闍梨さん、と呼んでいる。その阿闍梨さんが五歳のときに、父親は事業に失敗し、夜逃げ同然で東京へ引っ越した。それからも旧制中学の受験に失敗し、特攻隊として死を覚悟しても出陣の機会はなく、多くの仲間の死をただ見送るだけだった。戦後、東京で始めたラーメン屋は原因不明の火災で廃業に追い込まれ、株屋をしても大暴落にあい膨大な借金を背負った。結婚一ヶ月後に妻が家出をし
❖人生最後がかんじんだ行者は、千日回峰行を満行すると『大行満大阿闍梨』となり、京都御所への土足参内も許される。その後、満行した行者自らの発願で行う大護摩供がある。これは別名火あぶり地獄ともいわれ、その前の百日間『五穀断ち』といって、米、麦、粟、豆、稗という『五穀断ち手文』に従った五穀と、茄子、柿、西瓜、梅、桃などの果物、さらに海苔、昆布、ひじきの海草類の食物を断つ。大護摩供は全国の信者から寄せられた護摩木を一つずつ声を出して読み上げ、それを七日間て焚くもので、護摩木にはさまざまな願いが書
❖人間死ぬまでに何かいいことしたいね比叡山を開いた最澄は延暦七年(七八八年)、二十一歳の時に一乗止観院を建て、霊木に自ら刻んだ薬師如来の尊像を安置してこれを本尊とした。その霊前に法灯をかかげて『あきらけく後の仏のみ世までも、光つたえよ法(のり)のともしび』と詠んだ。そのとき以来、消えることなく灯り続けているのが『命の法』である。その最澄の言葉に『国宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝と為す』という有名な一節がある。仏の道を知る人々を国の宝とし、その育成に力をそそいだ。
❖一生涯の計画を立てて進めばよい一生涯の計画とは何だろうか。出家前の阿闍梨さんは、ただ漠然と目の前に起きる事柄や仕事をこなしていた。出家して僧となった阿闍梨さんの目標ははっきりしていた。人間はだれでもいつかは死ぬ。その命は限られており、時間とともに命は磨り減っている。その命のある間の計画を立てるというのは、『希望を持つ』ということではないか。もうだめだ、と思うほかないようか境遇にあって、阿闍梨さんは呆然としていた。その不安や迷いの最も深い底から、峰々に風を受けて立つまでになれたのは、
❖まずは三日辛抱『もう常行三昧はしないようにしてほしい』と遺言して、一人の僧が常行三昧行中に倒れて死んでいった。明治時代の話である。それ以来、常行三昧の行は行われなかった。阿闍梨さんは、比叡山の住職になるために必ずしなければならない三年籠山中にあえて『常行三昧』を断行した。昭和四十七年であった。常行三昧とは、堂内に籠って九十日間『南無阿弥陀仏』と唱えながら、日夜、本尊の阿弥陀仏のまわりをめぐる行。坐ることも体を横たえることも許されず、一メートル四方の縄床の椅子にもたれるようにして、日に
❖動があって静がある静があって動がある回峰行は、千日を七年かけて満行する。千日だから三年で終わりそうなものだか、七年である。阿闍梨さんは六年目の赤山苦行に入る直前に足を怪我してしまった。回峰行の道の中で嶮しいことで知られる赤山禅院への道を傷ついた足で歩まねばならない。しかし、行を途中で休むことはできないため、そのまま傷んだ足で行に入ったが、歩を重ねるごとに足の怪我は悪化して、山中でとうとう歩けなくなってしまった。歩けなければ死ぬしかない。阿闍梨について死に場所を探したという。それで
❖今だけが人生じゃない千日回峰行の最初の百日を、阿闍梨さんは手文にある道順や礼拝の場所、所作などを憶えながら必死に歩いた。時間に追われ、何故こんなに歩かなければならないのかとも思った。二百日、三百日の間は亡き妻や戦友のことなどが、いつも決まった場所、決まった時刻に頭に浮かび、そのたびに後悔の念にかられた。四百日を過ぎた頃から、阿闍梨さんの中で何かが変わり始め、少し余裕が生まれた。五百日を過ぎてからは、ただ、その日を無事に過ごすことに心を尽くすようになった。目の前の美しい自然に感動し、
❖何でもいいからこれがあると力が湧いてくる存在を持つこと回峰行者は満行した日数によって、身につけられるものが違ってくる。素足に草鞋ばきという姿から、三百日目以降は足袋が許され、また、それまで手に持っていた未敷蓮華の笠もこの日から被ることを許される。護法の杖の携帯を許されるのは五百日満行してからだ。一度、杖を持つともう離せなくなり、なくてはならないものになるという。長さ二メートル、最大直径四センチの単なる木の棒ではなく、まさに行をともにする相棒となる。出家前の阿闍梨さんには、その相
❖足を濡らす朝露の一滴とてやがては琵琶湖にそそぐ千日回峰行のコースには悲田谷という、熊笹で覆われた谷がある。そこを通ると熊笹の露で浄衣はびっしょり濡れてしまうという。ある日、阿闍梨さんは濡れないようにしようと、こそっとビニールを体に良い巻いて行に出発したことがあった。ところが、思ったとおり外から水滴は防げたものの、汗がビニール内に溜まって普段よりよけいに濡れてしまった。しかし、比叡山の山中に捨てるわけにもいかずごみ箱を探したが、そういうときに限ってなかなか見つからない。結局は人通りの
仙台にある慈眼寺千日回峰行を成し遂げた大阿闍梨様のお寺本日月一回護摩修業がありその後の大阿闍梨様のお話しですテーマは体は履歴書仕草やクセなどその人が積み重ねてきた経験言葉でなく所作に全てが現れる明日の自分のために今日を丁寧に生きること心に沁みました
❖体の最後の血一滴をしぼり出してでもしなければならないことがある比叡山はいわゆる観光寺院ではない。主な収入はドライブウェイの土地使用料と比叡山の森林伐採である。森林伐採は、環境保護と低価格木材の輸入のために大きな収入とはいえない。静謐な環境を守るためには、周囲の森林の存在が欠かせない。この森林を守るために、歴代の比叡山の指導者たちはさまざまな努力を繰り返してきた。また、末寺からの上納金制度がないことも大きな特徴である。末寺の経営を担当する組織は、仏の教えと学問の道を守る比叡山とは別
❖とにかく続けることそうすれば何か見えてくる阿闍梨さんに出会っていちざん驚くのは顔の艶である。顔の内側に電球でも入っているのではないかと思うほど、ピカピカ光っている。とても大正生まれとは思えない。『艶やかさの秘密を教えます』という本を出せば、たちまちに買い手が書店に殺到するであろうと思える。それほどまでに見事な艶だ。ところが阿闍梨さんの三十代の写真を見ると、あまり精気がなく、まったくの別人である。阿闍梨さんは出家以来、本業ともいうべき道をひたすらに歩んできた。四十歳直前に得度し
❖仏様は普段のままの気持ちで信じる人も信じない人も見守って下さる最澄、のちの伝教大師は、自分の生涯がどうあるべきかについつ希望と誓いの文章を著した。最澄二十二歳のときである。後に『願文(がんもん)』と呼ばれれこの文章の一節で、『愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿(じんとく)の有情低下の最澄』と自分自身の弱さ、愚かさを鋭く指摘している。当時、仏教の主流は、『悟りをひらくのは自分のためであり、人のためではない』という考え方にあった。けれど、大師が目標としたのは『伏して願はくば、解脱の味独
❖人生におちこぼれなし阿闍梨さんはあきらめなかった。親は事業に失敗し、長じては多くの戦友を亡くし、商売に失敗して全財産を無くし、かけがえのない妻に自殺をされた。普通に言えば決して順調ではない人生、失敗談続きの人生だった。だが、人生には何があるかわからない。阿闍梨さんの場合、義母(妻の母、伯母でもある)に連れられて比叡山を訪れたことが一つのきっかけになって、行者になった。行者になってみたら、これまであまりいい思い出とは思えなかった過去も、行者になるための準備だったと考えるようになり、生
❖勝手に自分で学ぶしかしょうがないこの賛語は弟子の藤波源信行者に向けて発したもの。自分に厳しい阿闍梨さんは、また弟子にも厳しい。『何かをするのは辛くないことはない。何をしたって、普通に生きていくことだって辛い世の中、それを承知で皆生きている。弟子の藤波も行をすると決めたなら、他の道にとらわれないで、ただその道をひたすらに進んでもらったらそれに越したことはない』と、阿闍梨さんは言う。その阿闍梨さんには、三人の師がいる。比叡山の仏門に導いてくれた小林隆彰師、仏教とは何かを学問として教えてくれ
大阿闍梨の言葉〜どこで断ち切られても、自分の一生だったといえる今日の一日でありたい〜…2013年9月23日、比叡山の千日回峰行を2度も成し遂げた大阿闍梨・酒井雄哉氏が亡くなられました。千日回峰行は、比叡山中を7年間掛けて総計で千日間も駆け巡るのですが問題は、5年目の700日の回峰を満行した後に行なわれる自分の生死を神仏に判断して頂く「堂入り」です。「堂入り」は9日間、断食、断水、不眠、不臥(ふが:横に寝ない姿
❖世界の子供たちは生きるために目を輝かせている『堂入り』には、回峰七百日目を終えたその日から入る。九日間の断食、断水、不眠、不臥の行。普通の人間なら死んでしまうという。回峰行中で最も過酷で厳しい修行である。堂入り前、親しい人との今生の別れの儀式をする。それから明王堂に入る。お不動様が利他行わ許すとされれば生きて戻れる。それを試される九日間だ。堂内は内陣と外陣に仕切られ、内陣では、午前三時、十時、午後五時と日に三回、それぞれ約一時間、法華経を読経する。九日間で法華経全巻を読み終えなけれ
赤山禅院にやって来ました。澄み渡る青い空、まさに自転車日和です。この辺りは比叡山の西側であるため、西坂本と呼ばれる一方日吉大社のある東側は、延暦寺の表玄関とされ坂本(東坂本)と呼ばれています。この日は雲母不動堂で、比叡山大阿闍梨による新春護摩供がありました。赤山禅院は、千日回峰行と関わりが深いことでも知られています。比叡山と赤山禅院を往復する荒行は、赤山苦行と言われ約60kmの距離を100日間登降します。京都大廻りでは、比叡山の無動寺明王堂から峰々をめぐり雲母坂を
❖行に終りはない人生もまた同じ二千日回峰行満行はさ、十二年籠山も開け、自由に下界にでられるようになった平成二年(一九九〇年)三月から、阿闍梨さんは新たな自分の夢の実現に取り組み始めた。平成二年には伝教大師の説法巡礼『東下り』を、三年には中国五台山巡礼を、四年は東北巡礼、五年には西国旧跡巡礼、六年は中国地方を巡礼し、七年にはローマ教皇謁見と世界平和巡礼を、八年には中国天台山巡礼を実践した。いずれも阿闍梨さんにとって、また、比叡山にとって偉大な諸先輩たちの足跡を自らの足でたどる旅で、念願の巡
私もそうですけど、あまちゃんで温室育ちなんです。これはこの時代に生まれた我々の弱点です。苦労知らずで子供っぽい蛇口捻ればお湯が出る。コンビニチンして飯が食える産まれた時から、暖かい風呂に入るのが当たり前感謝もないしかし私達の相手は山で修行してる甘えを断ち切ろうとしているヤクザの上にいるイルミナティが自分はまだ足りないと言って山で修行して更に6000年引き継いだ知恵や技で敵を倒すだから我々も必死で戦わないと駄目なんだ敵を侮っちゃいけない修行して、千日回峰行とかや
❖風のように流れて雲のように散る長寿院のある飯室谷に行くとなぜかしら空気が変わる。温度が下界よりもいくらか低いということもあろうが、それだけではない緊張感にも似た霊気が漂う。比叡山で谷といえば僧坊を意味し、古くから三塔十六谷からなる谷があった。その谷のいずれも南北に走る比叡山の稜線の東側(琵琶湖側)にある。西側の京都側に谷がないのは、冬季に北西風(あなじ)とよばれる悪風が吹き、風害や寒気が厳しく、住むには適さないからである。その分、比叡山の夏は涼しい。山中には方々に風の道というも
❖道ははるかなり玄奘三蔵の『大唐西域記』、マルコ・ポーロの『東方見聞録』とともに人類の財産と称される旅行記が第三代天台座主慈覚大師円仁(七九四〜八六四)の著した『入唐求法巡礼行記』である。この円仁は後の円珍とともに、最澄の遺言『我がために仏を作るなかれ、我がために経を写すなかれ我が志を延べよ』を守り、天台教学を大完成した人である。阿闍梨さんは八三八年から八四七年の九年間に及ぶ円仁の唐での足跡を巡礼するために、平成三年(一九九一年)九月に中国、五台山に向けて出立した。中国の山西省にある五台
新月のハーブティーのお供は、満月の阿闍梨餅です・・・・・・写真1~4(↓):京都銘菓「阿闍梨餅」(京菓子司満月)新月(1月11日)の前日、偶然、満月の阿闍梨餅をいただきました・・・京都銘菓「阿闍梨餅」(あじゃりもち)は、比叡山の千日回峰行の阿闍梨がかぶる網代笠を模したことからこの名がついたそうです。餅粉をベースに、卵をはじめとする様々な素材を練り合わせた生地に、丹波大納言小豆の粒餡を包んで鉄板で焼いたもので、むっちりとした皮と歯ごたえのある粒あん
❖あんたには徳があるんだよ駐車場に車を停め、慈覚大師が発見したといわれる閼伽井の霊水脇を通り、石段を上がると正面に不動堂があり、左に鐘つき堂、右には阿闍梨さんの住まいである長寿院の庫裡がある。阿闍梨さんがいるときは、玄関が開き放たれ、蛍光灯が灯いている。庫裡の入口にさがる巨大な魚鼓(はんぽう)を二回大きく叩くと、中から『はーい、どうぞ』と阿闍梨さんの声が聞こえる。約束はいただいているものの、上がっていいのかなと少し不安に思いつつ奥に進むと、まるで古くからの顔なじみのようなやさしさで、阿闍梨
焼津市花沢の里の法華寺にて山梨県石割山の山頂へと続く山道今日は「千日回峰行」と「四無行」を満行した塩沼大阿闍梨のお話です。満行したのはもう20年以上前になるんですね。難行苦行には人一倍憧れの気持ちが強くありますが、でも人生は人それぞれだと思いますので、自分が与えられた環境の中での仕事や生活を通じて、唯唯一心不乱に今この瞬間「中今」を一生懸命生きていくことが大事なことだと思うようになりました。塩沼大阿闍梨が千日回峰行を達成された大峯山は、私が奈良県桜井市に住んでいるときに割と近かったので
❖夜が明けるいつものように朝が来る寺の朝は真夜中に始まる。まだ夜の帳(とばり)が上がりきらないうちに、朝の仕事は始まっている。日々繰り返されるお勤めをいつものように勤めているうちに、木々のざわめき、小鳥の声、やがて木漏れ日の輝きが谷に届く。こんなにも穏やかな朝、こんなにも満ち足りた朝が、暗い闇の夜の後に来る。いつもの朝をいつものように迎えられる幸せを、阿闍梨さんは噛みしめる。今となっては『夢の一コマ』と、激励の人生をも振り返られる。仏さまから授かった『歩く』という才を生かして、残された
ジャズ学習法〜籠もらず外に出ましょう人と関わりたがらない人は恥をかきたくないだけ。籠もらず外に出ましょう。いろいろ理由をつけて外と関わりたがらない人がいます。結局は失敗をすること恥をかくことを避けたいというだけです。↓映像系の学校に教えに行ったときにいろいろと感じるんですが、その一つは、とにかく人に見られずに映像がつくれること。自分で撮ってパソコンに入れると、一人だけで完成品ができる。それで、作製の途中で人に見てもらって、「これ、わかんないよ」とか「これ、つま
❖基本がなかったら何もならないして良いこととしてはいけないこと、言って良いことと言ってはいけないこと。人間が生きていく上で基本となるべきものが今は見失われていると、阿闍梨さんは言う。生きる上での基本とは何だろうか。お互い、大切な命をいただいているのに簡単に傷つけあったり、儲けることだけに目を奪われて周囲のことが見えなくなったり。友人、知人だけでなく、家族の中でもお互いが何を考えているのかわからない。信じ合えない。そんな現代の中でいちばん忘れられている基本。それは結局『きずな』ではないか、と
❖回峰行で得たものは何もないだけどおかげで今がある阿闍梨さんが起居する飯室谷は、慈覚大師円仁が自ら隠棲修行の場所として開いた谷である。その後、第十八代天台座主慈慧大師良源が横川教学としと引き継ぎ、大いに賑わした。良源は比叡山中興の祖で、俗に元三大師と称される。また、おみくじを始めとした大師として民間信仰も篤く、『厄除け大師』『おみくじ大師』とま称されている。比叡山の僧には珍しく神秘話が多く、『角大師』『木葉大師』『降魔大師』『御廟大師』『御鏡大師』の話など多くの逸話を残している。その良
❖つまんないことでも全力投球全力投球という言葉を使うところに、阿闍梨さん独特のおかしみがある。阿闍梨さんの正式尊称は『比叡山北嶺大行満大々先達大阿闍梨總一和尚長寿院酒井雄哉』(哉は正式には『「弋」』)という。大々先達とは『葛川夏安居』という回峰行者の荒行に二十五度参加を表す。これは、相応和尚の遺徳を讃えるとともに、その苦行の一端を体験し、自分も不動明王に一歩でも近づこうとする行だ。總一和尚とは、行者最高位の称号であり、阿闍梨とは、千日回峰行を満行したものに贈られる称号で、サンスクリット