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今朝、早朝隣の双子ちゃんの妹Rちゃんが「ママが、持ってってって」と、仏花を持ってきてくれたママとは、G子さんです彼女は、誠実な子です相手を思う気持ちが、あることは、十分わかっているんですが……、少ぅし、ズレてるんですよね一昨日、お線香あげにきてくれた時に、お花飾ってあったのを見ていたと思うのに……「ありがとうジイジ喜ぶよ」と言ってRちゃんと一緒に花瓶に入れました・花瓶の丈に合せて、茎を切ること・水に浸かる部分の葉っぱを取り、水が傷むのを防ぐこと……など教え
JamesSetouchi2024.8.10*あの戦争関連の本(小説を含む)半藤一利「ノモンハンの夏」・・1939年(昭和14年)のノモンハン事件を扱う。半藤一利「ソ連が満洲に侵攻した夏」文春文庫・・1945年8月8,9日以降・・!藤原てい「流れる星は生きている」偕成社文庫・・敗戦後朝鮮半島を、子ども3人を連れて逃避行で南下。夫(新田次郎)は気象台に勤務していたが捕まった。次男が藤原正彦(お茶大教授)。高杉一郎「極光のかげで」岩波文庫・・シベリア抑留の経験。ソ連にも人
¶返信先:@thenewschina2「勝」→「胜」、「戰」→「战」、「園」→「园」は形声文字の音符(声符)を画数の少ないものに取り換えた簡略化で、「網」→「网」は元の字体への回帰か。#漢字論/午後7:30·2014年8月17日////1931年9月18日、満州事変の発端となる、南満州鉄道爆破事件が起きました。石原莞爾らの指揮の下に実行され、爆発を中国軍の仕業とした関東軍は瞬く間に満州を支配していきます。第二次若槻内閣は世界に「不拡大方針」を出すも、軍部をコントロール出来ず
【あらすじ:以下HPより引用】ねじまき鳥クロニクル|【公式】ホリプロステージ|チケット情報・販売・購入・予約『ねじまき鳥クロニクル』の公式サイトです。公演スケジュール・チケット情報・グッズ情報などはこちらから。先行販売手数料無料でホリプロ制作舞台のチケット予約・購入可能!演劇、ミュージカル、コンサートなど、ジャンルにとらわれない舞台作品の最新情報はホリプロステージで!horipro-stage.jp岡田トオルは妻のクミコとともに平穏な日々を過ごしていたが、猫の失踪や謎の女からの電話をきっ
敗戦の日のNHKスぺシャル「開戦太平洋戦争~日中米英知られざる攻防~」、何となく観てました。十五年戦争のうち日中戦争と太平洋戦争を繋ぐ中国・蒋介石のいかにも孫子的な外交戦略、個人的に何となくこうだったんじゃなかろうか?とぼんやり思ってた線に色々裏が取れて、おもろかったです…それにしても、日中戦争と太平洋戦争をわざわざ切り離そうとする昨今の傾向って、第一には言い訳のしようがない侵略戦争の日中を切り分けて先の大戦を大東亜なんたらの正義の戦争風を装う、って動機が一番なんでしょうが、中
本日は書籍紹介をいたします。今回はこちら、新野和暢『皇道仏教と大陸布教――十五年戦争期の宗教と国家』社会評論社、2014年仏教界の戦争協力についての研究書です。アジア・太平洋戦争の時代、超国家主義の大日本帝国のもと、仏教をはじめとする宗教界もまた皇国イデオロギーに包摂され、戦争協力に動員されたことについては、これまで多数の研究があります。各宗教、各宗派の協力の度合いや自発性の程度については、もちろんグラデーションがあったことと思われますが、戦後になってその点は反省され、1967
最近、12月8日は開戦の日だって、あんまり言わないような。前から、戦争回顧ものは8月15日の終戦の日に多くて12月には、あんまりやらなかったとは思いますが、そこそこ集会とかあったような。一つには先の戦争は、日中戦争から一続きだから、対米開戦だけを画期とするのはどうなのか、って考え方が広まったでしょうね。わたしの子ども時分は、太平洋戦争といえば子ども雑誌にもよく登場して、大学闘争を闘ったお兄さんたちもガキンチョの頃は「紫電改の鷹」とか読んでいたわけです。最近は、アジア・太平洋
原則1回の問題数は2問。アトランダムに出題する。センター試験前日まで、できるかぎり連日出題する。問19満州事変の勃発から太平洋戦争の終結までの一連の戦争を、十五年戦争と総称することがある。この十五年戦争期に含まれる出来事として誤っているものを、次の➊~➍のうちから一つ選べ。➊満州某重大事件が発生した。➋日本が国際連盟に脱退を通告した。➌日ソ中立条約が締結された。➍大東亜会議が開催された。問20織田信長がとった行動や政策について述べた文として
今年も八月に入りました。73年前の1945(昭和20)年8月15日、長かった戦争は終わったのでした。太平洋戦争が始まったのは1941(昭和16)年12月ですが、その前から中国との戦争は続いていて、その起点は1931(昭和6)年9月の柳条湖事件=満州事変勃発ですから、それ以来だと15年間(十五年戦争)ということになります。庶民レベルでいうと、十五年戦争が始まった頃から、身近な人に召集令状(赤紙)が来て戦地に赴く、運よく生きて帰ってくる人もいるが、戦死したという報せがきて家族が悲嘆にく
■「最高政治を知るの機会」十五年戦争期に、最も長期かつ身近な天皇側近となり、「国体(天皇制)護持」の立場から粘着質の政治行動をとりつづけた、華族出身の宮中政治家。木戸は、「維新の三傑」木戸孝允(たかよし)の養子孝正の長男として生まれ、学習院から京都帝国大学を経て1915年、農商務省に入省した。以後「十五年間は、純粋の行政官として……専(もっぱ)ら産業行政に参画」したが、1939年、近衛文麿(このえふみまろ)・原田熊雄・岡部長景らの推挙により、「日本で唯一の特殊の地位」である内大臣秘書