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ある大学では、模擬患者さんが参加する医療面接演習が毎年行われています。どうしたわけか、昨年の演習では学生たちの態度が、いつもきちんとしている例年とは全く違っていたとのことです。面接をしている後ろで、他の学生たちは雑談したり、黙って部屋を出て行ったり(トイレかもしれませんが)。雑談の声が大きくて、面接で医師役の声が聞こえなかったりしたこともあったとのこと。複数の模擬患者さんから同じような報告があったので、一つの研修室だけのことではなかったようです。指導教員が特に注意しなかったことにも
研修医オリエンテーションでは、医療面接演習をロールプレイで行っていますが、みんな「上手」です。優等生たちなので(?)、OSCEで学んだことをちゃんと覚えています。「解釈モデルを聞いたほうがよかったのでは?」「患者さんの希望を、もっと具体的に尋ねては?」「表情が良かった」「こちら(患者役)を見て、話を聞いてくれた」というようなコメントが次々に仲間から出てきます。(〈2022.12.21「溢れ出てくる言葉を両手で受け止める」〉にも書きました。)医療面接演習では、過不足なく患者さんの話
(前回の続きです)KJカードに「謙虚な心を持ち続ける」「謙虚」と書いている人が何人もいました。オリエンテーションで私が何度も「謙虚さ」について語ったためだと良いなあと思いつつ、でも、「謙虚」と言っているだけではたいてい「謙虚」でないほうに流されてしまうのにと少し心配になりました。謙虚とは、敬語で話せること、礼儀作法が守れること、挨拶ができることだけではないはずです(最低限それができないと困りますし、「まずそれができれば」と私は書いてきていますが)。さだまさしに「主人公」という
新入研修医オリエンテーションの最後は、「2年後にどのような医者になっていたいか」をKJ法でまとめてもらいました。2グループに分かれて、みんなの考え/思いを書いたカードを整理して、模造紙に絵としてまとめてもらいます。どちらのグループも人間の絵を描きました(そこに自分の考え/思いを書いたKJカードを張り付けています)。これまでも病院でKJ法を行ってもらうと、しばしば人体図が描かれます(いかにも医学生/研修医/医療者らしい)。そして、その真ん中の「心臓」のところには、医師/医療者の「
採用試験の時に場所がよくわからずキョロキョロしていたら、看護師さんのほうから「試験会場なら、あちらだと思いますよ」と声をかけてくれたことに(その気配りとやさしさに)カルチャーショックを受けたと、看護についてのディスカッションで言う研修医がいました。「どんなカルチャーで育ってたんや?」と思いましたが、「あなたも、これからそんなふうにできると良いですね」と話しました。病院へ講演に伺った際には、私はできるだけ約束の時間より早めに病院に着いて、外来でその病院の雰囲気を見るようにしています(
「人として、こうなりたい」と思うような看護師に何人も出会ったと言う研修医がいました。倫理についてのディスカッションの際(〈2024.5.7〉に書きました)、「治療が難しくなったガン末期の祖母にたいして、受持ち医が「あとどれくらい生きるつもりなの?」と尋ねた」という事例をあげた人でした。ホスピスに着いて緩和の看護師に出会った時、その看護師に「後光がさしている」ように感じたとのことです。その看護師は患者にも家族にも患者の療養環境にも細かい気配りをする人だったということですが、出会いの瞬間に
看護を支えているのは、人間科学であり哲学だと思います(医学もそのはずなのですが・・・)。医療の場での人間科学や哲学も、人間を対象として「観察」し「分析」するという“学問に共通する”性質を持つと同時に、目の前の患者さんと医療者である自分の関りのなかで考察され、日々新たに組み替えられていくという特別な性質を併せ持つものだと思います。「療養上の世話」と言われる患者さんの身の回りの援助=患者さんに「触れる」ことや、その人を気遣う目配りがこの哲学を生みます。具体的/個別的な人の生きることに根
看護についてのディスカッションは、いつもオリエンテーションの最後のほうに行っています。研修医たちは、看護実習・クラーク実習を済ませています。そのうえで、看護についてそれぞれが考えていることや感じたこと、これまで経験したことについて語ってもらい、ディスカッションの後に看護部長や私がコメントしています。(〈2023.2.2看護実習の時期〉などにも書きました。)「看護師さんは忙しい」「思っていた以上に多岐にわたる業務を行っている」「たくさんの業務を同時進行的に「こなして」いる」「動いていない
今年も武蔵野赤十字病院の初期臨床研修医オリエンテーションのお手伝いをしました。「年寄りは引き際が大事だ」と思いながら、研修医たちと話せる機会をもらえることについつい嬉しくなります。「医療倫理」についてのグループディスカッションでは、自分の受療経験やBSLで見聞きした「医療倫理として問題があると感じたこと」について、一人ずつ話してもらい、その後ディスカッションしてもらいます。そこで語られた内容。・治療が難しくなったガン末期の祖母にたいして、受持ち医が「あとどれくらい生きるつもりなの
今年も武蔵野赤十字病院の新入職員研修で「温かいコミュニケーション」について、講演しました。話している内容が新人(それも緊張している)には少し難しいのではないかと毎年気にかかっているのですが、あまり「分かりやすい」ことを話すのもかえって失礼だという気がして(それに、言いたいことが少しずれてしまいそうで)、今年も同じ内容で話しました。それでも毎年新しいスライドが増え(このブログで書いていることから言いたいことが出てきます)、それに応じてこれまでのスライドやこれまで話していたことを減らすとい
共同親権が導入される民法改正案が衆議院を通過しました(今国会で成立しそうです)。いろいろな政治の“力学”が働いているようですし、一部修正は行われました(一部修正ではだめだと反対して、全面的に政府与党の思惑通りになってしまった入管法への反省があったのでしょうか)。とはいえ、あれほど法曹界や当事者から多くの懸念が表明され危惧されているのに、こんなに短い審議時間(=内容が薄い審議)で良いのでしょうか。その問題点や反対の動きについてのマスコミの報道も多くないので、問題点について知らない人
「医師の「上手い」コミュニケーションを、ACPが円滑に進むことにつなげたい」という趣旨の文章の後ろには、医師の説明の際にしばしば同席者と患者さんとの間に齟齬が生まれ、同席者が「うまく診療に参加できない」場合があることや、ふだん同居していない家族などにも「適切に役割を果たしてもらいたい」という思いがあるようです。そこに「患者さんの意志を尊重したい」という思い(タテマエ?)があるのは確かですが、「うまく参加してほしい」「適切に役割を果たしてもらいたい」という医療者(の都合)中心の発想が見え
ACP(アドバンスケアプラニング)が円滑に進むように、医療コミュニケーションを分析するという文章に出会いました1)。どうすれば、医療者が患者さんをACPにつなげる「仲立ち」をうまくできるかということをめざしてのことのようでした。そこに「多くの高齢者は終末期において住み慣れた家で穏やかに最期を迎えることを望んでいる」と書かれていたのですが、それだけで私は躓いてしまいました。「客観的」な文章のようですが、さりげなく価値判断的なことを言い、ある方向に「誘導」しようとしています。「住み
福田健さんが、『コミュニケーション・センス人間関係を豊かにする心と会話のスパイス』(文香社2001)という本の中で、作家/畑山博さんの言葉を紹介しています。「やさしさとは、品のいい思いやりのことではないかと僕は思っている。①それをしたら相手がどんなに慰められるかということが一つ。②そしてもう一つ。それをしたら相手がどんなに傷つくかということに敏感になること。その二つではないだろうか。」福田さんは、「朝食は八時半までです。八時半を過ぎると食堂を閉鎖します」という研修会館の館内放送を
会話分析の誕生は、社会学者のE.ゴフマン(1922-1982)に大きく影響されています。(『行為と演技―日常生活における自己呈示』誠信書房1974、『儀礼としての相互行為―対面行為の社会学』法政大学出版局1986など)人は、自分が接する人(単数/複数)に対して、自分の面子を保とうとして「演技」―「印象操作」をします(望ましい印象を強調し、望ましくない印象を隠ぺいしようとする/計画された「なにげなさ」)。目の前の人(たち)は自分の演技空間の観客(オーディエンス)です。相手に応じて「演技」
“言葉”についての、いろいろな言葉。(〈2022.8.25病むとはどういうことか(11)通過点の光景〉にも書きましたが、それに追加しています。)神田橋條治さんは、道元の“不立文字”という言葉を「真実は言葉では捉えられない、言葉を使えばかえって真実から遠ざかる」という意味として紹介しています(禅の教えとは少しずれるところもあるようですが)。(『神田橋條治医学部講義』創元社2013)「人は、言葉を、真実を表すために語るのではない。人はウソを作り出すために言葉を用い、隠れるための城
語ろうとしない患者さんは分析者の視野から抜け落ちてしまい、その思いは宙に漂うばかりです。仏教では「最も愚かなコミュニケーションは言葉である」と言うそうですし、コミュニケーションの裏をかくのも言葉です。自分の言葉が分析されていると感じたら、それだけで不愉快になってしまう人もいるかもしれません。「ちゃんと言葉にして語り合わなければ、通じるものも通じない」ということも確かですが。精神科医の宮地尚子さんが提唱する「環状島」は海に浮かぶドーナツ状の島で、内側に内海があります。(『環状島=
自分が病むという「嵐」の中に患者さんはいます。聞いたこともない医療用語に取り囲まれます(ネットや本で調べると、ますますわからなくなります)。医療者に向かって何をどう話せばよいか分かりませんし、「適切な言い方」を考える余裕もありません。そのような中で「口走ってしまう」自分の言葉が「緻密に」分析されるのは、楽しいことではありませんし、ますます何も言えなくなりそうです。患者さんは、・思っていることを話すとは限りません。・言いたいことがあっても我慢して黙っているかもしれません。・思ってい
(以下は〈2022.5.27〉に書いたものに加筆したものです。会話分析については〈2022.11.11〉にも書きました。)コミュニケーションというと、どうしても言葉のやり取りに受け止められがちです。「話す人」、「聞く人」、その間を媒介する言語の三者の関係として。話す人が、それまでの人生を踏まえてその言葉にどんな「思い」「意味」を込めているのか。たくさんの意味合いをはらんでいるその言葉は、どの意味を、どのように、どれくらい伝えられるのか。言葉を聞くほうは、それまでの人生を踏まえてそ
本田美和子さんは「「広い面積で、ゆっり、優しく」触れること、これがユマニチュードの『触れる』技術の核心です」と書いています(『ユマニチュード入門』医学書院2014)。以下は、〈2022.5.27~28「「ふれる」ということ」〉に書いたことの一部です(少し加筆)。人間の五感の中で視覚と聴覚とは高級感覚とされますが、それは「対象から距離を置いている」感覚でもあります(鷲田清一『メルロ=ポンティ可逆性』講談社19971))。視覚は、見る者-見られる者の接触不可能性を基礎にしています。
認知症ケアについて“ユマニチュード”ということが言われるようになりました。以下、LIFULL介護ホームページからユマニチュードとは「人間らしさを取り戻す」ことを意味するフランス語で、フランス発祥の認知症のケア技法のことです。「人間らしさと優しさに基づいた認知症ケア」を表現する言葉として、日本でも注目を集めている考え方です。“人間は生まれながらにして自由であり、尊厳と権利について平等である”という理念を実現させる手段としてケアの技術を捉えているのがユマニチュードです。
アサーション・トレーニングも一時流行りました。自分自身を大切にすると同時に相手のことも大切にするさわやかな自己主張のことと言われます。平木典子さんによると(『自己カウンセリングとアサーションのすすめ』金子書房2000)、自己表現には4つのスキルが必要だとのことです。自分の気持ち・考えを正確にとらえる周囲の状況や相手を観察する要求や希望を明確に表現する言葉以外の信号を活用するそして
“コーチング”を職員教育に取り入れる病院が出てきてから、だいぶ時間が経ちました。奥田弘美さんは、コーチングのポイントを次のようにまとめています1)。(『メディカルサポートコーチング入門―医療者向けコミュニケーション法』日本医療情報センター2003)〈コアスキル〉聴くこと人は聴いてもらえないと動かないので、相手の話は最後まで聴く/白紙の心で聴く。質問する相手の中から考えや行動を引き出すために、開かれた質問/未来型・肯定型質問で
研修医教育についての講演スライドの続きです。こんなことをお話ししていたこともあります(最近ではこのスライドは使っていません)。【軽度発達障害の子どもとの接し方】・「悪い子」のレッテルを貼らないほめて、「やる気」を出させて、頑張らせる好ましい行動⇔褒められる⇔さらに頑張る・予告してから、本人の注意を引いて、きっぱりとわかりやすく指示、少しでも従ったら褒める・CCQ穏やかにcalm近くでclose落ち着いた声でquiet・してほしくない行動を注目せ
研修医教育についての講演スライドの続きです(私のオリジナルではありません)。【臨床教育における効果的なフィードバック】1.共通の目標を認識した上で、批判的でない雰囲気で行う。2.フィードバックの時期を考慮し、学習者の受け入れやすい時に行う。うけいれやすい状況を指導医がつくる。3.直接の情報をもとに行う。4.修正可能な行動に対して、どのような修正が望ましいかと明らかにする(一般論で述べない)。5.評価とフィードバックの違いを考慮し、
研修医教育についての講演では、次のようなスライドを入れています(現役でなくなった最近では、指導医養成講習会の場を除いてこのテーマで講演することはなくなりました)。指導医の仕事・研修医の力を信じて、バックアップする・研修医の力・素質を引き出し、個性を伸ばす・研修医ともに学ぶ(学ぶ姿勢を伝える)・研修医とともに悩む(患者への姿勢を伝える)・研修医とともに成長するその根底には、研修医への敬愛が必要望ましい医師の姿を、自分の姿勢で伝える・
北陸新幹線が敦賀まで開通しました。金沢や福井、富山には何度か行きました(そもそも妻の実家が金沢です)。初めて行った時には、上越新幹線で長岡経由でした。京都から行ったこともあります。1997年に“北越急行ほくほく線”ができてからは、越後湯沢経由で行くことになり、早く着くようになりましたが、日本海が見える時間は減りました。2009年には3回も金沢で講演しました。1回目の講演の帰りには寝台特急「北陸」で帰りましたが、間もなく廃止になってしまいました(2003年鹿児島大学講演の帰りに
つい先日、武蔵野赤十字病院に行った折、偶然、医学教育にも熱心な若い救急医に久しぶりに会いました。「最近の研修医はどうですか」と尋ねたところ「なんか、ビジネスライクになってきている感じですね。課題をこなして、それで終わりという感じの人が増えてきて、“ハートフル”1)な医療をしようという感じではなくなってきているようです」と言われました2)。がっかりしないわけではありませんでしたが、むしろ「やっぱり」という気がしてしまいました。医学教育では、教えられる(学ばねばならない)ことがいっ
ベッドサイドを離れて1)の談笑(前回書いたことです)によって医療者の緊張が解きほぐされることで、頑張れるということがあります。それでも「陰で患者さんのことをあしざまに言ったり、笑い話にすることは、必ず医者の退廃に繋がります。「P(精神疾患)が来ちゃった」「生保だって」といった言葉が、研修を開始してしばらくすると、研修医たちの間でも救急外来で交わされるようになります。患者さんの「勘違い」を笑うようになり、患者さんの言動を小馬鹿にしたりします。しばしば面と向かって「フンッ」と鼻で笑
ずいぶん前のことですが、医師向けの情報サイトで「最も非常識な患者やその家族の言動」を医師に尋ねていました。このようなサイトそのものが5ちゃんねる的なので、まともに取り上げるのもどうかとは思うのですが、その中に「部屋の外で談笑するな」というものがありました。「談笑」という言葉で、40年以上前のことですが、ある母親の言葉を思い出しました。「器械がつながっていた頃の思い出で、気になることがあるんです。ナースステーションで看護婦さんや先生が何か楽しいことを話しているらしくて、みんなの大