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2021年10月2日この日は、長女の「IKEAに行きたい」という強い要望があり、奥様と三人で出かける事とした………買い物途中には、三人でランチタイムなんだか、こんな時間は久しぶりだなあ次女は、用事でこれなかったけど、今度は四人で出かけたいなそして、恒例のココロパパのワガママで帰りに立ち寄ったのは………【建武中興十五社】のひとつである………【阿倍野神社(あべのじんじゃ)】大阪府大阪市阿倍野区北畠3丁目7−20ココロは昨年7月以来、2回目の参拝となる『阪堺電気軌道ツアー⑦〜阿倍
住吉大社から、南海本線で、岸里玉出駅で下車しました。歩いて5分くらいで、阿部野神社に着きました。阿部野神社の御祭神は、北畠顕家公と親房公です。御朱印は、9月限定のものをいただきました。また、境内社として、旗上芸能稲荷社があります。芸能上達の守護神として多くの人がお参りに来ています。御朱印は、9月限定の御朱印をいただきました。(下の写真右は、あべの2社まいりの御朱印です。)また、観月祭の飛び出す御朱印もいただきました。橋が立体的になっています。安倍晴明神社と旗上芸能稲荷社の御朱印
2021年9月13日。浪江町大字権現堂について勉強中の西村慎太郎です😊2回にわたって戦前の浪江における南朝顕彰運動を見てみましたが、そもそも中世の浪江を支配していた標葉氏における南北朝時代の動向について、従来の研究ではどのように評価されてきたかを確認してみたいと思います。まず前提として、南北朝時代について、「南北朝の内乱」として、『国史大辞典』における佐藤和彦氏の見出し的な説明は以下の通りです(この説明に続いて詳細な学説史と段階区分が掲載されています)。十四世紀の三〇年代か
2021年9月11日。浪江町大字権現堂について勉強中の西村慎太郎です😊前回は昭和10年(1935)11月から同13年12月まで刊行された月刊の郷土史雑誌、岩磐郷土研究会『郷土研究岩磐史談』について述べました。全体的に見て、会津と中通りに関する論稿や記事が多かったですが、浪江に関わる記事も見受けられます。今回は昭和13年10月号に掲載された「北畠顕家卿六百年祭標葉公懐古」について述べたいと思います(2頁)。そもそも「北畠顕家卿六百年祭」とは、北畠顕家が没した建武5年(1338)5月
2021年5月29日北畠顕家(きたばたけあきいえ)墓岸里-昭和町まちさんぽ(5)四つ橋線岸里(きしのさと)駅から、御堂筋線昭和町駅への阿倍野区横断ツアー最終回です。前回最後の⑧安倍王子神社から熊野街道を少し南下するとすぐに⑨経塚があります。晴明丘公園に⑨経塚の石碑があります。晴明丘公園とありますが、丘というわけではありません。説明もあります。18世紀終わりの「摂
どこの会社でもある派閥争いうちの会社も当然の如くあるでも別に派閥争いは今に始まったことではない1回目の緊急事態宣言終了後に行った阿倍野神社の北畠顕家卿の苦悩が目に浮かぶ。北畠顕家卿は当時の南北朝時代に後醍醐天皇率いる南朝の中心的な人だった。南北朝時代は二つの朝廷があったとはいえ、抗戦派と和睦派の対立が酷かった。顕家卿はそんな状況ではあろうとも、後醍醐帝のことを常に思った行動を取られた(上表文も後醍醐帝のことを思ってのことであろう)今の会社も自分の都合の良い事ばかり言うのではなく、全
(この表紙がお気に入りです)こんにちは、暖淡堂です。すばらしい小説作品は世の中にたくさんあって、自分が生きている間に、どのくらいそれに出会えるか、楽しみに暮らしています。書店に行ったり、図書館で過ごしたりして、偶然の出会いを多くしようとしています。北方謙三さんの「破軍の星」は、歴史好きの方には絶対おススメです。建武の新政で、後醍醐天皇が鎌倉幕府から政治の実権を取り戻したころ、奥州に派遣された北畠顕家の苦闘が描かれています。北畠顕家のさわやかな人柄、武人とし
MATSUYAMA六時まえ447顕家AKI-IE日本酒ベースのカクテルを創ろう、と、意気込んでいる頃に、北方謙三さんが著した、北畠顕家を主人公とした小説「破軍の星」を読み、「顕家、カッコイイ!」と思っていましたので、これは、創るしかない、と。信玄より前に「風林火山」の旗を掲げていた、というのも響きました。(信玄好きなので)同じく南北朝時代、こちらは主に九州を舞台にした、懐良親王、菊池武光らの物語「武王の門」
きっかけは、一枚のプリントでした毎月の広報と共に頂くプリント…この雪姫さまと言うのは、この伊勢国で南北朝時代から240年以上の間、勢力のあった北畠氏。8代目国司具教(とものり)さんの娘(雪姫)と織田信長の次男、信雄(のぶかつ)さんが政略結婚。北畠家の養子に入られました。なのに結局裏切られた格好で、織田軍は攻め入り、北畠は滅亡。雪姫も逃げましたが、御所の桜の木にくくりつけられました絶対絶命のピンチに白い狐が現れて、雪姫を助けたという伝説があります。その桜の
キングダムの録画を見ました。万極という敵が、主人公に倒される回です。万極には、これは人を恨んでも仕方がないなと誰もが思うような、辛く悲しい過去があります。その恨みを怨念なエネルギーとして、主人公を襲うのですが、主人公がええこという!その怨念にとりつかれているのはお前自身だ!と。たしかに(´・ω・`)鬼滅の鬼のように、過去に色々あって悪いやつになっちゃって、更正されるように倒されるSTORYがなんか好きな私なのでした。色々あっても、人は前に進まなきゃいけないし。人の存在価値はいつ
先日、県内の山城へ行ってきました人間には誰一人会いませんでした。コロナ禍なので、それはよい事なのですが、会ってはならない者に会ってしまいましたもう帰ろうと駐車場へ向かっていると、左足首がチクチクする。草むらワサワサ入ったので枯れ草でも入り込んだのかしら?気になったので、その場でズボンの裾をまくり、枯れ草は除去したのですが・・・靴下の上を歩いているヤツがいますピンクっぽいような茶色で大きさは2mmぐらい。はじめはクモの赤ちゃんかと思いました。しかし、若干老眼の入った目でよ~く見ると、クモ
昨日は嫁さんと堺市の大鳥大社と、北畠顕家&南部師行の奮戦地であり、戦死の地と言われる太陽橋に行きました。大鳥大社は堺市鳳にあります。景行天皇の次男で、西征し、熊襲や薩摩隼人を平げ平定し、その後東征し中部、関東を平定した日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が大和へ帰ってる途中に伊吹山の賊と戦い、瀕死の重傷を負い、三重県亀山市能褒野で死去。古事記や日本書紀には、伊吹山の荒神を成敗するために、伊吹山に行ったが、荒神の祟りに合い負傷し、それが原因で死んだとありますが、大鳥大社の木札案内では荒神ではな
楽しかった2019年初夏の富山旅行、大分旅行を終え、このあとレス状態に。。お金もたくさん使ってしまい、当分旅行はお預けだな、こりゃ。。・・・・・と思っているうちに2020年春となり・・・実は、その後新型コロナの感染拡大により、この時以来現在に至るまで、旅行に全っ然行けてないし。。。今回からは、ほぼ近畿内のお散歩レベルとなっていきます、、ご容赦を。。*****天王寺から阪和線で下る事22分。信太山(しのだやま)駅にとーちゃく。徒歩10分。↓池上曽根史跡公園
足利尊氏も実に魅力的な人というか、よく分からないというか、謎のカリスマのある人です。こういう人が現れるのも鎌倉幕府末期から室町時代初期の面白いところだと思います。意外に足利尊氏のことは深く知られていないのです。僕が思うに、織田信長よりも人間的にデカい人です。ただ、よく思考回路がわかりませんし、謎のカリスマ性があるので、不思議な人ですね。なぜ、足利尊氏のことがあまり知られていないかというと、南朝に味方する人達が明治政府を作ったため、その後の教育で足利憎しの傾向が出た為であると思われます。南朝が正
後醍醐天皇・記を読み終えて読みたかった本。兄にすすめられました。北方謙三/破軍の星父親房が後醍醐天皇の側近ということもあり、若くして陸奥鎮守府将軍に任命された北畠顕家。舞に秀でて眉目秀麗。後醍醐天皇の為、父親房の為、民の為、そして自分の志の為、公家でありながら先陣で指揮をとり、激動な時代を駆け抜けた一人の若者の生涯。https://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?isbn=4-08-748094-1破軍の星/北方謙三|集英社の
おかげさまで昨日からブログを始めた途端になぜか突然謎が解決しましたなぜ南朝と聞くと惹かれるのか。6年間の謎の熱量にも関わらずあっという間に解明されてしまった不思議これが噂の風の時代の春分の日パワー?(ブログ続けられたらいいことあるかな~)わたしの出身地も南朝ゆかりの地だったそうです。聞いたことありませんでしたが詳しい方がその住所を見たら「あ、南朝」と分かるそうです。なぜならそこにはかつてこういう武将がいたそのため南朝の本拠の一つだった、とのことです。もしど
三重県お城廻りの二番目は、「北畠氏館群」(三重県津市美杉町)です。「北畠氏館庭園」JR「鳥羽駅」から快速で「松阪駅」に到着し、向かったのは「オリックスレンタカー」。ここで軽自動車を借りて、13時5分にいざ出発!ナビを入れると推奨道路で1時間23分の予定、事前にグーグルマップ調べの時間より約20分も多くかかるとの情報で少し焦りました。国道「368号線」を走るルートですが、途中からはこれが国道か!というような杉林の中を彷徨う極狭い道に入っていき、対向車が来ればどう対応すれば良
前回はこちら手水舎です。古神札納所です。阿部野の露の説明板です。北畠顕家公由緒記の説明板です。南側の鳥居です。拝殿です。拝殿をバックに、自撮りをしました。境内社の三社です。御霊振之道の説明板です。境内社の勲の社です。境内社の祖霊社です。勲の宮は、工事中でした。続きはこちら
前回はこちら天神ノ森天満宮の後、阿部野神社に行きました。阿部野神社の鳥居です。阿部野神社の入口の石段です。阿部野神社由緒の説明板(石段付近)です。手水舎です。由緒記の説明板です。詩歌の道の入口です。境内社の旗上稲荷社の鳥居です。拝殿への鳥居です。阿部野神社由緒の説明板です。北畠顕家公像です。花将軍北畠顕家の説明板です。社務所です。祓戸大神です。続きはこちら
今回も近くのに登ることにする。美杉町の霧山に北畠顕能が室町時代(1343年)に築いた山城で続日本百名城に選ばれている霧山城跡です。先ずは北畠神社の手前にある「美杉ふるさと資料館」に立ち寄りガイドマップを貰い、管理人👴さんに話を聞くと車🚗はJAの駐車場🅿️に停めて登ればよいとのことでした。登山道は「北畠氏館跡庭園」を過ぎた辺りから急坂となり、丸太の階段が付けられている、これを登りきった所が多気城下を見渡せる「詰城跡」になる。此処から尾根伝いに階段と整備された杉林の登山道を800m程
義貞の旗Amazon(アマゾン)335〜6,380円久々に安倍龍太郎さんの本を読んでみました。鎌倉時代末期の武将新田義貞に関するものです。現在大河ドラマ「太平記」が再放送中でして、いいタイミングなので読みました。従来の私が知っている太平記とは少し違うアレンジされた部分があり、何点かあげます。1.義貞が鎌倉討伐の兵を新田荘で挙げたのは、護良親王からの令旨を受けたからというもの。ここは吉川英治さんの「私本太平記」では義貞は足利尊氏と盟約して尊氏の六波羅探題攻撃と時期を同じくして、鎌倉に攻
やんやん、高校卒業おめでとう!4月からは看護師を目指す道へ大変な道だと思うけど、あーやんなら大丈夫だと信じてる!先週の難波遠征時のブラアラキ公演前に早めに大阪へ到着し天王寺から阪堺電気軌道上町線に乗車北畠停留場で下車ちょっと歩いた所に北畠顕家のお墓南北朝期、楠木正成に並ぶ南朝方の英雄!この辺の地名は「阿倍野区北畠」顕家が阿倍野合戦で北朝の高師直に敗れた場所であることが由来北畠上奏文顕家卿が戦死する7日前に建武新政の失敗を諌める上奏文を後醍醐帝宛てに書いた訳で・・・最後
21.1/17sun.15:30-18:45JR南田辺駅から高架沿いを北へすぐ東側に楠大樹で、右折紫金山法楽寺おおさか十三仏霊場第1番近畿三十六不動尊霊場第3番摂津八十八箇所第40番役行者霊蹟札所神仏霊場巡拝の道第47番創建1278年(治承2年)開基平重盛山門を潜って平成8年(1996年)落慶三重塔正面奥に不動明王を祀る本堂山門から右に鐘楼本堂の左に大師堂左、西側に鎮守社秋葉大権現を祀る並んで観音堂東側に不動明王楠大明神稲荷社
母系社会は、鎌倉時代の源頼朝の頃まで、続いていたのではないか?と考えられるそうで、頼朝没後、戦国時代から村の女も子供も、殺害された痕跡があるそうです。(東北地方の歴史では)南北朝時代にいろいろ内乱があった時代でしたが、岩出山の大崎八幡神社に三峰神社の石碑がありました。照井城鎮座:三峯神社藤原国衡(くにひら)の方をサポートしてきたのが、有壁氏と照井氏だったということは前回の話しでした。しかし、藤原国衡は、畠山重忠の家臣によって殺害されている。国衡の母は側室で
人生は選択の連続です。どんな天才でも、どんな軍略家でも、どんなに力を持っている人でも、選択を誤れば、悲劇になります。選択する際に、感情ではなく、理性や合理性を重んじた方が、良い選択になるということは歴史を見ていると明らかです。北畠顕家は若干、20歳の若者ですが、軍略家、公家なのに、武士を凌ぐ戦いのできる強者。そして美少年?という比類なき軍事の申し子と言われていました。その若さで、あの強さ。まさしく敵にすると厄介な存在です。北畠顕家は1338年1月28日に足利軍を青野原の戦いで撃破します
【北畠神社(きたばたけじんじゃ)】三重県津市美杉町多気1148御朱印もいただいた【拝殿】で参拝を済ませた我々は、『北畠顕家公銅像』を見にいく………BSで再放送されている大河ドラマ『太平記』では、顕家役を演じていたのは、なんと後藤久美子さんだった女性をキャスティングするとは、当時でもなかなかの冒険だったのではと推察する。花将軍【北畠顕家公銅像】おおーーーーーっこれだーーーーっ大河ドラマ『太平記』でも放送されていたが、悲しい最後を和泉(大阪)で遂げた北畠顕家父である親房の悲しみの
松阪市の【樹敬寺】を出発した我々は、この日最後となる目的地に到着した……到着したのは………【北畠神社(きたばたけじんじゃ)】三重県津市三杉町上多気1148国の史跡「多気北畠氏城館跡」に鎮座し、初代伊勢国司として南朝奉護に尽くした北畠顕能(きたばたけあきよし)を主祭神とする。もちろん…『建武中興十五社』のひとつだ十五社で唯一、近世以来の由緒を持つ。由緒によれば、北畠具房(ともふさ)の4代孫にあたる鈴木孫兵衛家次が、寛永20年(1643年)3月、旧縁の地に小祠を設けて『北畠八幡宮』と称