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8月9日・10日の産経新聞電子版から記事スクラップ20210809【産経抄】いのちの森づくり.pdfdrive.google.com20210810東京の軌跡パリにつなぐ.pdfdrive.google.com20210810[TOKYO2020+1】祭典のあと残されたもの.pdfdrive.google.com20210810【2020+1】58勇気の結晶.pdfdrive.google.com20210810【戦後70年に思う・正論】緒方竹虎が目指した対外
きっかけは、一枚のプリントでした毎月の広報と共に頂くプリント…この雪姫さまと言うのは、この伊勢国で南北朝時代から240年以上の間、勢力のあった北畠氏。8代目国司具教(とものり)さんの娘(雪姫)と織田信長の次男、信雄(のぶかつ)さんが政略結婚。北畠家の養子に入られました。なのに結局裏切られた格好で、織田軍は攻め入り、北畠は滅亡。雪姫も逃げましたが、御所の桜の木にくくりつけられました絶対絶命のピンチに白い狐が現れて、雪姫を助けたという伝説があります。その桜の
言えるで。日本とは、天皇を中心にして国民が皆、一つの家族のように仲良く助け合って暮らす国。私は日頃、産経新聞も含めて「マスゴミ」と揶揄していますが、それでもまだ産経新聞は取っています。媒体(メディア)として、外部の人の記事も載せるからです。今日は皇統の話ですが、産経は唯一の保守っぽい新聞なのでまだマシなのですが、それでも平気でnaniwakawaraban.jpこちらは上記のミラーサイトです。私は日頃、産経新聞も含めて「マスゴミ」と揶揄していますが、それでもまだ産経新聞は取ってい
先日、県内の山城へ行ってきました人間には誰一人会いませんでした。コロナ禍なので、それはよい事なのですが、会ってはならない者に会ってしまいましたもう帰ろうと駐車場へ向かっていると、左足首がチクチクする。草むらワサワサ入ったので枯れ草でも入り込んだのかしら?気になったので、その場でズボンの裾をまくり、枯れ草は除去したのですが・・・靴下の上を歩いているヤツがいますピンクっぽいような茶色で大きさは2mmぐらい。はじめはクモの赤ちゃんかと思いました。しかし、若干老眼の入った目でよ~く見ると、クモ
“三重県お城廻り”の三番目は、「田丸城」(三重県度会郡玉城町)です。各曲輪が重なり合っている石垣(一番上が「天守台」)「北畠家氏館」から再度国道「368号線」を使用して、16時20分に到着しました。遠くからでもこんもりとした丘陵が見えてきて、一目で「田丸城」跡であることが判りました。レンタカーを「紀州藩同心屋敷跡」で現在は役所駐車場にしている所に車を置かせてもらい探索を始めました。「紀州藩同心屋敷跡」(現在は役所駐車場)ところで、「田丸城」も「松阪城」同様に、「紀州
三重県お城廻りの二番目は、「北畠氏館群」(三重県津市美杉町)です。「北畠氏館庭園」JR「鳥羽駅」から快速で「松阪駅」に到着し、向かったのは「オリックスレンタカー」。ここで軽自動車を借りて、13時5分にいざ出発!ナビを入れると推奨道路で1時間23分の予定、事前にグーグルマップ調べの時間より約20分も多くかかるとの情報で少し焦りました。国道「368号線」を走るルートですが、途中からはこれが国道か!というような杉林の中を彷徨う極狭い道に入っていき、対向車が来ればどう対応すれば良
賀名生梅林を周った後、南朝の皇居跡を見に。南朝皇居跡。皇居前橋。後醍醐天皇堀家。南朝皇居。天誅組吉村寅太郎の筆。目の前が賀名生梅林です稲荷大明神。忠魂碑。南朝三帝賀名生皇居之址。五條高等学校賀名生分校趾山の上へ。忠臣北畠親房の墓。🙏また来たい梅林ですね歴史民族資料館前の梅。皇居跡まで戻って来ました。雨が降る前に退散🛵。。。お水取り(修二会)LIVE中継☝️1〜15日ニコニコ動画で。二月堂を遠景から。12〜15日のお松明youtub
今回も近くのに登ることにする。美杉町の霧山に北畠顕能が室町時代(1343年)に築いた山城で続日本百名城に選ばれている霧山城跡です。先ずは北畠神社の手前にある「美杉ふるさと資料館」に立ち寄りガイドマップを貰い、管理人👴さんに話を聞くと車🚗はJAの駐車場🅿️に停めて登ればよいとのことでした。登山道は「北畠氏館跡庭園」を過ぎた辺りから急坂となり、丸太の階段が付けられている、これを登りきった所が多気城下を見渡せる「詰城跡」になる。此処から尾根伝いに階段と整備された杉林の登山道を800m程
最終回で端折られた部分も少なからずあったので、それを補筆します。1351年2月、打出浜の戦いなどで尊氏軍を破り、高師直一族を殺害して政務に復帰した直義でしたが、尊氏の将軍としての権限が温存(尊氏の居直り)されたため恩賞もままならず離反するものが続出し、同年8月には京を出て鎌倉に逃れ再興を図ります。すると尊氏は南朝に降伏して直義追討令を受け、東海道を下り薩埵山(静岡市)、早川尻(小田原市)の戦いで連勝し、遂には直義の死(毒殺?)をもって観応の擾乱を一応終結させます。南朝に降伏した際に
やんやん、高校卒業おめでとう!4月からは看護師を目指す道へ大変な道だと思うけど、あーやんなら大丈夫だと信じてる!先週の難波遠征時のブラアラキ公演前に早めに大阪へ到着し天王寺から阪堺電気軌道上町線に乗車北畠停留場で下車ちょっと歩いた所に北畠顕家のお墓南北朝期、楠木正成に並ぶ南朝方の英雄!この辺の地名は「阿倍野区北畠」顕家が阿倍野合戦で北朝の高師直に敗れた場所であることが由来北畠上奏文顕家卿が戦死する7日前に建武新政の失敗を諌める上奏文を後醍醐帝宛てに書いた訳で・・・最後
室町幕府の内紛状態の情報を得た、南朝方は京都に帰りたい一心で、無謀な作戦に出ます。楠木正成の息子、楠木正行に出陣を命じます。1347年8月、正行、23歳の時です。兵は約500。これで、幕府軍に挑めというのですから、最初から無謀です。しかし、楠木正行は父に劣らず、戦上手でした。隅田城を陥落させ、池尻での幕府軍を蹴散らしてしまいました。次に、幕府軍は細川顕氏を大将に藤井寺に布陣しますが、楠木正行軍が夜襲をかけ、藤井寺を奪取し、幕府軍は撤退を余儀なくされます。その時幕府軍は3000。楠木軍は500と
最近、ザ・コインロッカーズに嵌りつつある・・・コメ欄開いてたら某黒飴ンバーから「え、今更?」と水差しされたかも知れんねもう何年も絡みないし、これからも絡む気はないからええけど←3日の城巡りこの日も○ーじさんの車で今回は初めて、ナンカス○ゅんごろうさんも同行し3人で最初に向かったのは茨城県つくば市にある小田城鎌倉期~戦国期まで小田氏の居城南北朝時代には南朝方に属し、北畠親房卿がここに滞在したこともあり・・・かの有名な「神皇正統記」を執筆した場所!高まるぅううううう!!!久々に
正行が挙兵する三年前の興国五年(1344)、関東(常陸国)の小田城に拠って南朝勢力を拡大する試みに失敗した北畠親房が吉野の南朝に戻ってきました。彼は『神皇正統記』を著わしたことで知られ、折り紙付きの抗戦派でもあります。こうして南朝内の空気が一変します。正行は和平を旨としつつも、挙兵に踏み切らざるをえなくなったのです。正行はまず、正平二年(1347)八月、紀伊国隅田城(橋本市)を攻めました。当時、楠木氏の拠点は河内の東条城(富田林市)にあったとみられ、隅田
結束家から出土した大甕に入った渡来銭は北畠親房の軍資金であった北畠親房の軍資金ではないか阿見観光ガイドの安部次男会長は、結束家から出土した大甕に入った渡来銭について、「歴史的ロマン、想像力をたくましくすると、以下のように考えるのが一番面白いのではないか」と語っています。阿見観光ガイド安部会長の論考/北畠親房の軍資金であった「北畠親房は、南朝勢力拡大のため、結城宗弘と善良親王、宗良親王を奉じ伊勢大湊から東国へ渡ろうとした。暴風により両親王とは離散、常陸国神宮寺(小田治久の城
こんばんは!今日の山形は予報に反して、冬の空気に包まれましたが、晴れてお出かけ日和何故かそんな時に限って休日出勤。。。まぁ、これはこれで仕方が無いのですが知人から「入籍した」とのおめでたいメールが届きました!おめでとう‼幸せな家庭を築いてくださいねところでこの話とは別に、一昨年仲間と共に訪ねた神社があるのですが、その仲間がその後直ぐ、運命の人に出会い結婚!縁結びの神社が霊山の麓にあります霊山神社秀峰霊山登山口からは離れた遠い場所にあり、車で移動する
サリーのmyPickヤフー株式会社Yahoo!ショッピング(ヤフーショッピング)Amazon(アマゾン)ドッグス!オジーの大冒険(吹替版)今日は天気が良く行楽日和ですが〜コロナ感染者増えてる結局家の近所のお出かけへいつものドッグカフェKameno☕️サリーここが一番いいですからね。馬肉お皿まで綺麗に食べるサリーアイスコーヒーチョコレートパフェ生姜焼きサリーとひなた洋服購入早速着替えですが〜ひなた固まってしまった。Kameno出てからも中々歩かない阿倍野神社
南北朝時代を大河ドラマにしてほしい南北朝時代とは簡単に言って、朝廷から武士へと権力が完全に移行した時代です。これまで大河ドラマでは1回しか題材に選ばれておらず、また1991年の太平記では、南北朝が集結するまでは描かれませんでした。大河ドラマは2022年までで61作が決まっています。舞台となる時代には偏りがあり、戦国ものはまだ作れると思いますが、幕末はネタ切れだと思います。これは統計を取った上ではないただの偏見ですが、大河ドラマは、ほぼ毎年見ている視聴者層に支えられて、一定の視聴率を獲
後醍醐天皇には后妃が8人、皇子が8人、皇女が8人いたとされます。皇子を出生順に整理しますと、①尊良親王(たかよし)…母は二条為子。②世良親王(ときよし、よよし)…母は西園寺実俊女。北畠親房が乳父となり養育し将来を嘱望されるも20歳頃に早逝。③護良親王(もりよし)…大塔宮護良親王。母は民部卿三位。④宗良親王(むねよし)…母は二条為子。⑤恒良親王(つねよし)…母は阿野廉子。⑥成良親王(なりよし)…〃⑦義良親王(のりよし)…〃(後の後村上天皇)⑧懐良親王(かねよし)…母は二条藤子
足利尊氏と激しく対立していた護良親王派でしたが、自らの皇子に帝位を継がせたい阿野廉子派からも疎んじられ、建武新政府で冷遇されることになります。廉子の讒言を真に受けてしまう後醍醐天皇もどうかと思うのですが…。赤松則村(円心)は護良親王の令旨を受けて早くに倒幕の挙兵を起こし、六波羅攻めでも活躍しましたが、恩賞として与えられた地元の播磨守護職を取り上げられ(後に新田義貞に授与)元々の佐用庄の領有しか認められなかったため激怒し、大河では「公家に武士の心は分からぬ」と捨て台詞を残して領地に戻ってしま
こんばんはー続きです19~24人目は建武の中興に登場する6人これに4人目の護良親王を加えてメンバーが揃う感じか尊皇派はもれなく選ばれているまずは楠木正成後醍醐天皇のために鎌倉倒幕後は足利尊氏と戦った戦術家としても優れていたらしい騎乗姿の銅像が皇居外苑にある新田義貞鎌倉倒幕の主役やはり、足利尊氏と戦って破れた名和長年後醍醐天皇を救出したが、やはり足利尊氏に破れた北畠親房武将ではなく公家天皇中心の政治に戻れば自分たちの出番だとばかりに現れた後醍醐天皇の南朝こ
義輝が関白に叙任された翌月、幕府軍に同盟を結んでいる浦上家より使者がやって来た。「当家と共に別所家を打ち破りませぬか?」別所家は幕府包囲網の一員であった事もあり、義輝はその誘いに乗る。そして承諾して間を置かず浦上家より別所家へと兵を向けたとの一報と共同軍要請の使者がやってきた。「よかろう、当家の期待株の猛者を派遣しようではないか!」「有り難き幸せにござる!」そして幕府軍からは北畠顕家や柴田勝家らが参戦、彼らの奮戦もあり別所家は浦上家によって滅ぼされた。幕府軍は労せずに包囲網の一角を崩す
【賀名生(あのう)皇居跡/堀家住宅】を出発した我々は………【賀名生の里歴史民族資料館】背後にある小高い丘の上を目指す………いい天気やけど………暑いすでに汗だくになってきたおっ【北畠親房公墳墓0.2K】案内看板も、きちんとあるぞっ【北畠親房】鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿、歴史家。著書の『神皇正統記』で名高い。後醍醐天皇側近「後の三房」の筆頭。後村上天皇の治世下でも、興国5年/康永3年(1344年)春に吉野行宮に帰還してから、正平9年/文和3年(1354年)に没するま
さてさて【賀名生の里歴史民族資料館】を出発し、到着したのは………【賀名生(あのう)皇居跡(堀家住宅)】奈良県五條市西吉野町和田いい雰囲気だあ建武中興に失敗した後醍醐天皇は、延元元年(1336年)12月21日に京都から密かに脱出して、吉野地方に逃れて来たその時、まず留まったところがこの地(旧賀名生村)である。『太平記』にその事が象徴的に記されている。大河ドラマ『太平記』の後醍醐天皇は、品格がありカッコいい演じるは片岡孝夫(現:片岡仁左衛門)だ当時の賀名生は「里遠く人煙幽に、山
北畠親房『神皇正統記』を読むシリーズ全14回をアップしました。https://ameblo.jp/silentmajority-urayasu/theme-10112970033.html6年前にインドで悶々としていた時に書いた文章です。いまも悶々としてますが。北畠親房は建武中興を支えた忠臣です。
『阪堺電気軌道』阪堺線天神の森駅で下車した我々は、次なる目的地へと向かった………到着したのは…………【阿倍野神社(あべのじんじゃ)】大阪府大阪市阿倍野区北畠3丁目7-20その地名の通り、南朝方について各地を転戦した北畠顕家(きたばたけあきいえ)と、その父の北畠親房(きたばたけちかふさ)を祀る神社なのだという。力強い【神馬】が迎えてくれる【阿倍野神社】は、延元3年(1338年)に北畠顕家が「石津の戦い」で高師直(こうのもろなお)に敗れて亡くなったと伝承される地に、明治8年(18
年が明けると、足利家一万一千は北畠家の居城、霧山御所へと攻め入った。「敵は四千あまり、思ったより少ないようですな。」「ああ、とは言えあの顕家卿…いや、北畠顕家が従軍している。油断は出来んぞ。」霧山御所の方を向きながら正房と正成が言葉を交わした。「足利軍、ついに来たな。よし、我が力を見せてくれん!!」城門を目指して攻めてくる足利軍を前に北畠顕家の心は高ぶっていた。「者ども、突撃だ!私に遅れるでないぞ!!」顕家は門を開け放つと眼前の足利軍に突撃を敢行した。その突撃の勢いは凄まじく、
小田城は、常陸国筑波郡小田邑(現在のつくば市小田)を本拠とした小田氏十五代の居城。小田氏の祖八田知家が1185年(文治元年)に築いたのだと伝えられています。南北朝期には、南朝の後醍醐天皇の側近北畠親房が拠って『神皇正統記』を起稿したことで知られています。戦国期になると、佐竹氏の侵攻を受けて小田氏は小田城を失い、1602(慶長7年)、佐竹氏の秋田移封に伴って廃城になっています。1935年(昭和10年)、小田城跡周辺約21.5haが国の史跡に指定され、現在は「小田城跡歴史ひろば」として公開さ
車返しの桜がある住吉大社を後にして北畠親房の阿倍野神社⛩に行きました。後醍醐天皇の鎌倉討伐、足利尊氏の謀反の時の天皇の側近として活躍されました。立派な社に祀られてました。狛犬ならぬ神馬親子で祀られてましたが、長男の頼家は福島県の霊山神社⛩の方が感じられた。思い入れが強いのかもしれない。神獣⁉️メガネ忘れて読めません穏やかな空間素敵な社でした。続く