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長谷寺の参拝を終え、次に向かったのは、女人高野「室生寺」です。雨はやんでいますが、はっきりしない天気です。この先の道は、2018年秋に歩いた彼岸花の寺「仏隆寺」に至る「室生古道」です。室生川に架かる「太鼓橋」を渡ります。見事な紅葉です。「表門」には「真言宗室生寺派・大本山室生寺」とあります。奈良時代の白鳳9年(680)に天武天皇の勅命により修験道の祖・役小角(えんのおづぬ)が建てたと伝えます。また桓武天皇が皇太子の時病に臥し
小野龍海’s歴史塾このホームページでは歴史研究の成果を資料化して公表しています。ono-no-tatsumi.amebaownd.comサンスクリット語の「イサナ(支配者)」からイザナギ・イザナミという皇位が生まれた事を書きましたが、仏教で伊舎那天(いざなてん)という仏様がいる事を初めて知ったので、今日はこのマイナーな仏様を一緒に学ぼうではありませんか。私は宗教的な神様達が実在した人間に見えて居ますので有難味も何も無いのですが、神様の情報=人間の情報に見えますので、有りが
皇紀2685年令和7年乙巳神無月11日(土)大阪市阿倍野区に鎮座する阿部野神社へ清掃奉仕に上がりました⛩️今年の1月に初めて阿部野神社へ清掃奉仕に伺い、今回で4回目の皆勤賞(笑)宮司さんのお話が毎回とても面白くて、つい聞き入ってしまいます(^^)こんな先生が歴史を教えてくれたら、今頃歴史学者になってたかも…なんて思ったり(笑)今回はなんと銀杏拾い!最初は「楽勝だな🤭」と思ったのですが、見てはいけない世界が広がっていました😱大量すぎる銀杏、すごい臭い😂ポリバケツいっぱい
大阪市阿倍野区に鎮座する阿部野神社へ、「一万人のお宮奉仕」として清掃奉仕に上がります⛩️この地は、かつて北畠顕家公が足利軍と戦った古戦場。御旅所には顕家公のお墓と伝わる碑が残されています。1878(明治11)年2月、地域の方々の間で「顕家公をお祀りする神社を」との声が上がり、1881(明治14)年1月、政府によって御祭神を顕家公とその御父君・北畠親房公の御両神と定められました。1882(明治15)年1月24日には「別格官幣社阿部野神社」として創建され、1890(明治23)年3
名称:多気北畠氏城館城郭:居館築城年:1342年築城主:北畠顕能主要城主:北畠氏所在地:津市美杉町上多気1148指定文化財:国史跡続日本100名城入口跡礎石建物跡石垣跡井戸跡庭園留魂社詰城跡北畠親房銅像
名称:田丸城城郭:平山城築城年:南北朝時代築城主:北畠親房、北畠顕信主要城主:田丸氏、北畠氏、織田信雄他所在地:度会郡玉城町田丸114-1指定文化財:県指定史跡続日本100名城富士見門縄張図
令和7年7月7日に連休があったので、ふと思いたって三重県の2つの続日本100名城に取材してきました。福井県とどちらに行こうか迷ったんですが、去年福井(敦賀城跡、北ノ庄城跡)に行ったので、今回はこちらにしました。あと、南北朝時代に関して、北畠氏に関わる大阪南部の旅をしたので、三重県の北畠氏に関わる史跡に行きたいと思いました。多気北畠氏城館跡は1342年に南朝重臣北畠親房(ちかふさ)の3男である顕能(あきよし)が伊勢国司になり霧山城を作ると、その麓に城館を建てたところです。庭園は第7代国司北
【茨城県の歴史】南北朝時代、"茨城"では何が起きていた?北畠親房、高師冬らの激闘
【城名】田丸城【所在地】三重県玉城町【城の形態】梯郭式の平山城【天守の形態】三重複合式【築城年】1336年(延元1・建武3)、1600年(慶長5)【築城者】北畠親房、稲葉道通【文化財指定区分】県指定史跡【遺構】門、天守台、石垣、堀など【別称】玉丸城田丸城の概要南北朝時代、南朝の武将であった北畠親房により築かれた田丸城は、伊勢地方をおさえる城であった。しかしながら戦国期に織田信長により北畠氏は乗っ取られ、次男信雄が北畠氏を継いで田丸城を大修築し、城域を拡げたという。このとき天
語り部アロマが紡ぐ「やまと語り十八」聞いていかれませんか。忠臣が次々に倒れて吉野に寂しい秋がきました。しかし、天皇の御志はいよいよ堅く、北畠親房・顕信らに、義良親王を奉じて奥羽にくだり、官軍の勢を回復せよとお命じになりました。御一行は伊勢から海路をとって東にお進みになりました。不幸にも、途中大風のため、義良親王の御船は伊勢へ吹き戻され、宗良親王の御船は遠江に、親房の船は常陸に着くという有様でした。その年も暮れて、また秋を迎えました。夜もろくろくお休みにならない長い御無理の為でしょ
読売新聞が昨日の15日付朝刊で、母方のみが天皇の血筋を引く前例のない「女系天皇」の可能性を排除せずに検討することを提言した。いうまでもなく、それは日本の国柄を否定することにほかならず、断じて容認するわけにはいかない。北畠親房の『神皇正統記』の冒頭の文では「大日本者神國(おおやまとはかみのくに)也。天祖(あまつみおや)はじめて基(もとゐ)をひらき、日神(ひのかみ)ながく統(とう)を傳給ふ。我國のみ此事あり。異朝には其たぐひなし。此ゆえに神國といふなり」と書かれている。南北朝時代に世に出た
筑波山神社から南へ10㌔ほどの小田城(つくば市小田)へ。「北畠親房が「神皇正統記」を書いた小田城」この関連・結び付きのみで記憶に残っている小田城、どんな城なのか?行ってみたかった。こじんまりした山城をなんとなくイメージしていただけに、いささか驚かされた、広い!これはいただいたパンフレット表紙の航空写真、でかい、広い!画面右奥がどうやら筑波山。奥州の古代の城塞のような方形の平城。東西、南北ともほぼ200㍍ほど。石垣はなく、堅固な土塁と水堀で周囲を固めている。立派な案内所
皇紀2685年令和7年乙巳4月19日(土)大阪府大阪市阿倍野区に鎮座します阿部野神社へ清掃奉仕に伺いました。こちらは北畠親房公、北畠顕家公を御祭神として祀られている由緒正しき神社です。朝から正式参拝をさせていただき、その後は宮司を囲んで記念撮影。氣持ちを引き締めて、清掃奉仕へと移りました。今回は14名での奉仕。神社裏手の道路の落ち葉掃き、溝の落ち葉・草抜き、さらに鳥居周りの草抜き作業まで、心を込めて行いました。落ち葉を一枚ずつ掃き集めながら、感謝と祈りの気持ちを込めて
1336年、後醍醐天皇は足利尊氏に降伏し花山院(かさんのいん)に囚われの身となりますが、尊氏が押す光明天皇が新たな天皇である事を示すには三種の神器が無ければ世間は認めない為光明(こうみょう)天皇の次の天皇は成良親王(なりながしんのう)、つまり後醍醐天皇の皇子にすると約束し後醍醐天皇はこの条件を受け入れ三種の神器を渡しました😳しかし、尊氏に渡したのは偽物で後醍醐天皇は本物を持って吉野に向かいました😅この時北畠親房(ちかふさ)が天皇を迎える為に築城したのが当時「玉丸城」と
「邪馬台国の位置論」(直木孝次郎)より●古代・中世の位置論(奈良時代)『日本書紀』神功皇后紀三十九年、四十年、四十三年条神功皇后が卑弥呼と考えていた。→大和説:編纂時以降後代の学者がつけた注だとしても大和説が主流だったことになる。(鎌倉時代)『釈日本紀』耶馬臺・耶摩堆・耶靡堆は皆、倭(ヤマト)と称する音をとるなり。→大和説(南北朝時代)北畠親房著『神皇正統記』:神功皇后を卑弥呼と同一人物と見ていた。→大和説(室町時代)瑞溪
訪問した城郭が1000城を越えていますが、なかなか城巡りの記事作成が捗らず、現在280もの城が未だ記事が未作成のまま、どんどん宿題のみが溜まってしまっています。特に「これは素晴らしい!」と思った名城ほど写真を多く撮ってしまいますので、必然的に文量が多くなってしまい、後回しにしてしまう傾向がありまして(滝汗)そんなこんなで、いつの間にか溜まる一方。今年の夏場は外出を控えて、城郭紹介記事作成に専念しようかと思う次第。さてそういうわけで、なかなか「これは良い城だ!」という皆さまにお勧めしたい城
「あめつちの初は今日より始まる」北畠親房の言葉。一度や二度の失敗?人生は失敗の連続。失敗を友に生きていこう。椋鳩十:生きるすばらしさを動物物語に(伝記を読もう16)Amazon(アマゾン)1日1篇「人生を成功に導く」365人の言葉Amazon(アマゾン)
只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。はじめに↓『全国「城門」を巡る”はじめに”』「城郭建造物」の「御殿(居館)」シリーズを終えました。「御殿」には殿さまやその家族が居住したり政務を執る為の所謂「御殿」や、城主・家族の憩いの場や来客対応の…ameblo.jp「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ
コロナ、インフルエンザ、溶連菌、このところ、老若男女問わず感染する方々が増えてます。介護の現場でもお子さんたちの看病のために、お休みせざるをえない職員さんもいます。お子さんの発熱したとの連絡を受けて、早退する職員さん。申し訳ありません、と、繰り返しながら、保育園に迎えに行こうとしてる彼女。お母さんの代わりはおらんのよ。早く迎えに行ったげて。ご家族もあなたもご自愛くださいね。ご家族の風邪がうつってしんどそうなお声で今日はお休みさせてくださいと伝えてくる職員さん。ご家族の看病で疲れもた
【田丸城】昨日に続き再度の田丸城訪問です。田丸城は南北朝時代に北畠親房公が南朝方の拠点として砦を築いたことに始まります。1567年からの3年間に渡る織田信長公の伊勢侵攻で、信長公は次男の織田信雄公を北畠家の養子とする事で和睦を図り伊勢国の支配に成功しました。信雄公は田丸城の改修を行い3層の天守閣を築きましたが、1580年に焼失、信雄公は松ヶ島城に移ります。本能寺の変後、田丸氏が田丸城城主に返り咲きますが、東北地方に移封、その後稲葉氏、藤堂氏の支配と続き紀州徳川家の家老久野氏が城主となります。
こんばんは!@Ricoです。まだまだ、途中だったよね2024大阪巡礼シリーズ✨住吉大社さんから移動しまして続いては、神仏霊場巡礼地元別格官幣社阿部野神社さん⛩️テクテク👣テクテク👣大日本は神國なりうむ。このスタイルの鳥居⛩️は今までに何度か拝見しているけど、、、和文の感じは初めてかも。。。🤔→四字熟語的なものはありますよね☝️今年2024年が皇紀2648年なので、84年前❗️に本の見出しになっとりますね調べてみると、この言葉「大日本は神国なり」の書
皇居跡をみてから、続く目的地は北畠親房の墓。資料館の裏の山の上にあると聞いて…案内標識に沿って坂を上っていきます。ところが坂を上ったところで、ふと案内が途切れる。先には稲荷神社が。まずはお祈りしてきました。ちなみに今後ここを目指す方、この神社に来たらUターンです。いちおう資料館の方に要望出してきましたが、廃校の門のところに最後の案内板を設置してほしい。そうでないとわからん。神社の手前、向かって左に古い校門が。すでに廃校。その門の
南朝の皇居跡地と護良親王が隠れ潜んだ場所は何としても行きたい!そこで今回はレンタカーを借りて十津川までのドライブを楽しみました。目的地はこの三ヶ所。休日を利用してドライブという方が多く、十津川村までの一本道はところどころ渋滞。奥地まで行くと車を返す時間が迫ってくるため、余裕を持っての撤退となります。最初の目的地、賀名生の里。楠木正行が戦死した四条畷の合戦の後、幕府軍が大挙して吉野に迫りました。もはや少ない守備兵で守り抜くことは無理と判断した後村上天皇は豪族を頼って山間の
南北朝時代における後醍醐天皇川、南朝(吉野朝とも)の重臣・北畠親房の評伝です。ただし、彼が室町幕府に擁立された北朝(持明院統)ではなく、南朝(大覚寺統)に身を置いたのは後醍醐の政治思想に共感したからというよりは大覚寺統が皇統における「正統」であると親房が認識していたこともありますが、武家は朝廷を守護する武力であって、政権の中枢にいるべき存在ではないと強く思っていたから(武家政権を強く否定する思想)に他なりません。そうした親房の皇統観を著したのが『神皇正統記』であり、次男・顕能の
姿三四郎ゆかりの神社・霊山神社霊山神社の祭神は北畠親房と北畠顕家。創建は明治14年。北畠家は南北朝の時代に活躍した武将で、ここ霊山町が本拠地。北畠親房は学者でもあり、官僚としても優秀で、さらに武将としても実力もあって、つくば市の小田城、筑西市の関城、伊佐城を拠点に戦った人物なので、茨城県南部在住の自分にはなじみのある存在。その息子の北畠顕家はある種の英才教育が生んだ天才児で、12歳で参議に昇進。これは現代の内閣でいえば主要閣僚というポジション。15歳で陸奥守に任じられて東北に下向し
久しぶりに南北朝時代の話題です。先日書店で見て購入してきました、『結城宗広・親朝』。なんと6年も前のことだ。結城一族の居城を訪問していたのである。『結城氏の居城白川城~福島県白河市~』霊山~下神山摩崖仏~宇津峰城~ときて、関東に出る前に立ち寄ったのは、結城一族が居城とした白川城。白河というとどうしても白河の関が有名です。結城氏は「三木一草…ameblo.jp結城宗広は北畠顕家と共に二度も京都に向けて遠征、足利尊氏を苦しめますが、足利の勢いを止めるこ
こんにちは。今年の春は肌寒く感じる日が多いですね。この日は久しぶりに一日晴れ☀予報✨午後は孫を預かる事になってたので、午前中出掛けよう!!と以前から気になっていた神社へ出掛けて来ました。足のこむら返りが心配だったので、サポーター履いて徒歩少なめで出かけて来ました。新今宮駅、天下茶屋駅、天王寺動物園にマーカーを引きましたが、位置的には大阪の都会に近い場所にあります。天神ノ森天満宮新今宮駅から阪堺線に乗って6個目の駅(※1区間が短いです)天神ノ森駅を通るのですが、車窓から眺める大
和本明治摺り歴史書「神皇正統記」6冊揃い/北畠親房/古書古文書/木版摺りです。30、22、28、37、32、30+1丁。24.5cm×17.5cm。木版刷り。元題簽傷みあり。見返しあり。【書名】神皇正統記【巻冊】6冊揃い【著者】北畠親房【成立】明治摺り
女人高野室生寺高野山が女人禁制だったため、女性もお参りできるよう格式のある寺を弘法大師・空海が開いたと伝わっています。敷地内は国宝の五重塔や金堂、壁画、木造釈迦如来立像見どころ満載です。実際に女人高野と呼ばれるようになったのは時代がもっと下ってからで、記録に残る最初の女人参詣は1450年、九条家、不断光院の尼僧衆によるものです。しかしそれ以前から女性の参詣は行われていたようです。宝物殿で室生寺は長く興福寺の勢力下とありました。元禄年間に護持院隆光僧正と5代将軍徳
またまた一年遅れの更新になんのん、時間の問題やででも・・・安心して下さい9月まで飛んでますヨ(パーンツ)家庭内の都合により、また夏は暑さに負けて、どこへも出掛けずにおりました。。久々の外出は、あるテーマを持って、チンチン電車乗り放題の旅。いざ出陣じゃ・・・って、散歩レベルやけど。。↓てくてくきっぷ天王寺駅から阪堺電車に乗り換え。一日乗り放題乗車券「てくてくきっぷ」600円を購入。↓安倍晴明神社東天下茶屋駅で降り、徒歩2分。安倍晴明神社からスタート。。↓安倍晴明神社_拝殿