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皇紀2685年令和7年乙巳4月19日(土)大阪府大阪市阿倍野区に鎮座します阿部野神社へ清掃奉仕に伺いました。こちらは北畠親房公、北畠顕家公を御祭神として祀られている由緒正しき神社です。朝から正式参拝をさせていただき、その後は宮司を囲んで記念撮影。氣持ちを引き締めて、清掃奉仕へと移りました。今回は14名での奉仕。神社裏手の道路の落ち葉掃き、溝の落ち葉・草抜き、さらに鳥居周りの草抜き作業まで、心を込めて行いました。落ち葉を一枚ずつ掃き集めながら、感謝と祈りの気持ちを込めて
1336年、後醍醐天皇は足利尊氏に降伏し花山院(かさんのいん)に囚われの身となりますが、尊氏が押す光明天皇が新たな天皇である事を示すには三種の神器が無ければ世間は認めない為光明(こうみょう)天皇の次の天皇は成良親王(なりながしんのう)、つまり後醍醐天皇の皇子にすると約束し後醍醐天皇はこの条件を受け入れ三種の神器を渡しました😳しかし、尊氏に渡したのは偽物で後醍醐天皇は本物を持って吉野に向かいました😅この時北畠親房(ちかふさ)が天皇を迎える為に築城したのが当時「玉丸城」と
「邪馬台国の位置論」(直木孝次郎)より●古代・中世の位置論(奈良時代)『日本書紀』神功皇后紀三十九年、四十年、四十三年条神功皇后が卑弥呼と考えていた。→大和説:編纂時以降後代の学者がつけた注だとしても大和説が主流だったことになる。(鎌倉時代)『釈日本紀』耶馬臺・耶摩堆・耶靡堆は皆、倭(ヤマト)と称する音をとるなり。→大和説(南北朝時代)北畠親房著『神皇正統記』:神功皇后を卑弥呼と同一人物と見ていた。→大和説(室町時代)瑞溪
訪問した城郭が1000城を越えていますが、なかなか城巡りの記事作成が捗らず、現在280もの城が未だ記事が未作成のまま、どんどん宿題のみが溜まってしまっています。特に「これは素晴らしい!」と思った名城ほど写真を多く撮ってしまいますので、必然的に文量が多くなってしまい、後回しにしてしまう傾向がありまして(滝汗)そんなこんなで、いつの間にか溜まる一方。今年の夏場は外出を控えて、城郭紹介記事作成に専念しようかと思う次第。さてそういうわけで、なかなか「これは良い城だ!」という皆さまにお勧めしたい城
「あめつちの初は今日より始まる」北畠親房の言葉。一度や二度の失敗?人生は失敗の連続。失敗を友に生きていこう。椋鳩十:生きるすばらしさを動物物語に(伝記を読もう16)Amazon(アマゾン)1日1篇「人生を成功に導く」365人の言葉Amazon(アマゾン)
只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。はじめに↓『全国「城門」を巡る”はじめに”』「城郭建造物」の「御殿(居館)」シリーズを終えました。「御殿」には殿さまやその家族が居住したり政務を執る為の所謂「御殿」や、城主・家族の憩いの場や来客対応の…ameblo.jp「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ
コロナ、インフルエンザ、溶連菌、このところ、老若男女問わず感染する方々が増えてます。介護の現場でもお子さんたちの看病のために、お休みせざるをえない職員さんもいます。お子さんの発熱したとの連絡を受けて、早退する職員さん。申し訳ありません、と、繰り返しながら、保育園に迎えに行こうとしてる彼女。お母さんの代わりはおらんのよ。早く迎えに行ったげて。ご家族もあなたもご自愛くださいね。ご家族の風邪がうつってしんどそうなお声で今日はお休みさせてくださいと伝えてくる職員さん。ご家族の看病で疲れもた
【田丸城】昨日に続き再度の田丸城訪問です。田丸城は南北朝時代に北畠親房公が南朝方の拠点として砦を築いたことに始まります。1567年からの3年間に渡る織田信長公の伊勢侵攻で、信長公は次男の織田信雄公を北畠家の養子とする事で和睦を図り伊勢国の支配に成功しました。信雄公は田丸城の改修を行い3層の天守閣を築きましたが、1580年に焼失、信雄公は松ヶ島城に移ります。本能寺の変後、田丸氏が田丸城城主に返り咲きますが、東北地方に移封、その後稲葉氏、藤堂氏の支配と続き紀州徳川家の家老久野氏が城主となります。
こんばんは!@Ricoです。まだまだ、途中だったよね2024大阪巡礼シリーズ✨住吉大社さんから移動しまして続いては、神仏霊場巡礼地元別格官幣社阿部野神社さん⛩️テクテク👣テクテク👣大日本は神國なりうむ。このスタイルの鳥居⛩️は今までに何度か拝見しているけど、、、和文の感じは初めてかも。。。🤔→四字熟語的なものはありますよね☝️今年2024年が皇紀2648年なので、84年前❗️に本の見出しになっとりますね調べてみると、この言葉「大日本は神国なり」の書
皇居跡をみてから、続く目的地は北畠親房の墓。資料館の裏の山の上にあると聞いて…案内標識に沿って坂を上っていきます。ところが坂を上ったところで、ふと案内が途切れる。先には稲荷神社が。まずはお祈りしてきました。ちなみに今後ここを目指す方、この神社に来たらUターンです。いちおう資料館の方に要望出してきましたが、廃校の門のところに最後の案内板を設置してほしい。そうでないとわからん。神社の手前、向かって左に古い校門が。すでに廃校。その門の
南朝の皇居跡地と護良親王が隠れ潜んだ場所は何としても行きたい!そこで今回はレンタカーを借りて十津川までのドライブを楽しみました。目的地はこの三ヶ所。休日を利用してドライブという方が多く、十津川村までの一本道はところどころ渋滞。奥地まで行くと車を返す時間が迫ってくるため、余裕を持っての撤退となります。最初の目的地、賀名生の里。楠木正行が戦死した四条畷の合戦の後、幕府軍が大挙して吉野に迫りました。もはや少ない守備兵で守り抜くことは無理と判断した後村上天皇は豪族を頼って山間の
南北朝時代における後醍醐天皇川、南朝(吉野朝とも)の重臣・北畠親房の評伝です。ただし、彼が室町幕府に擁立された北朝(持明院統)ではなく、南朝(大覚寺統)に身を置いたのは後醍醐の政治思想に共感したからというよりは大覚寺統が皇統における「正統」であると親房が認識していたこともありますが、武家は朝廷を守護する武力であって、政権の中枢にいるべき存在ではないと強く思っていたから(武家政権を強く否定する思想)に他なりません。そうした親房の皇統観を著したのが『神皇正統記』であり、次男・顕能の
姿三四郎ゆかりの神社・霊山神社霊山神社の祭神は北畠親房と北畠顕家。創建は明治14年。北畠家は南北朝の時代に活躍した武将で、ここ霊山町が本拠地。北畠親房は学者でもあり、官僚としても優秀で、さらに武将としても実力もあって、つくば市の小田城、筑西市の関城、伊佐城を拠点に戦った人物なので、茨城県南部在住の自分にはなじみのある存在。その息子の北畠顕家はある種の英才教育が生んだ天才児で、12歳で参議に昇進。これは現代の内閣でいえば主要閣僚というポジション。15歳で陸奥守に任じられて東北に下向し
久しぶりに南北朝時代の話題です。先日書店で見て購入してきました、『結城宗広・親朝』。なんと6年も前のことだ。結城一族の居城を訪問していたのである。『結城氏の居城白川城~福島県白河市~』霊山~下神山摩崖仏~宇津峰城~ときて、関東に出る前に立ち寄ったのは、結城一族が居城とした白川城。白河というとどうしても白河の関が有名です。結城氏は「三木一草…ameblo.jp結城宗広は北畠顕家と共に二度も京都に向けて遠征、足利尊氏を苦しめますが、足利の勢いを止めるこ
こんにちは。今年の春は肌寒く感じる日が多いですね。この日は久しぶりに一日晴れ☀予報✨午後は孫を預かる事になってたので、午前中出掛けよう!!と以前から気になっていた神社へ出掛けて来ました。足のこむら返りが心配だったので、サポーター履いて徒歩少なめで出かけて来ました。新今宮駅、天下茶屋駅、天王寺動物園にマーカーを引きましたが、位置的には大阪の都会に近い場所にあります。天神ノ森天満宮新今宮駅から阪堺線に乗って6個目の駅(※1区間が短いです)天神ノ森駅を通るのですが、車窓から眺める大
和本明治摺り歴史書「神皇正統記」6冊揃い/北畠親房/古書古文書/木版摺りです。30、22、28、37、32、30+1丁。24.5cm×17.5cm。木版刷り。元題簽傷みあり。見返しあり。【書名】神皇正統記【巻冊】6冊揃い【著者】北畠親房【成立】明治摺り
女人高野室生寺高野山が女人禁制だったため、女性もお参りできるよう格式のある寺を弘法大師・空海が開いたと伝わっています。敷地内は国宝の五重塔や金堂、壁画、木造釈迦如来立像見どころ満載です。実際に女人高野と呼ばれるようになったのは時代がもっと下ってからで、記録に残る最初の女人参詣は1450年、九条家、不断光院の尼僧衆によるものです。しかしそれ以前から女性の参詣は行われていたようです。宝物殿で室生寺は長く興福寺の勢力下とありました。元禄年間に護持院隆光僧正と5代将軍徳
またまた一年遅れの更新になんのん、時間の問題やででも・・・安心して下さい9月まで飛んでますヨ(パーンツ)家庭内の都合により、また夏は暑さに負けて、どこへも出掛けずにおりました。。久々の外出は、あるテーマを持って、チンチン電車乗り放題の旅。いざ出陣じゃ・・・って、散歩レベルやけど。。↓てくてくきっぷ天王寺駅から阪堺電車に乗り換え。一日乗り放題乗車券「てくてくきっぷ」600円を購入。↓安倍晴明神社東天下茶屋駅で降り、徒歩2分。安倍晴明神社からスタート。。↓安倍晴明神社_拝殿
『愛国百人一首』の選定された45首目は北畠親房です。『神皇正統記』を書いた方です。(著者所持の『愛国百人一首』の北畠親房の絵札)鶏の音になほぞおどろく仕ふとて心のたゆむひまはなけれどこの歌は、正平年間(1346~1370)の間に詠まれた歌です。歌の意(こころ)天皇にお仕えして、心のすきも油断もないと思っていたのに、ウトウトと眠ったようで、夜明けを知らせ鶏の鳴
朝日新聞小説「人よ、花よ、」第十二章「東条の風」492(1/5)~542(2/25)作:今村翔吾挿絵:北村さゆりレビュー一覧連載前情報1前半1後半2345678910111213終章感想決起の地と決めた隅田。堅い守りと言われていた隅田城を簡単に落とした楠木党。だが北進する先の紀見峠で邪魔をする吉野衆。情報がなく疑心暗鬼だった灰左が何ともカワイイ。だが南朝というより、主上に尽くすとの姿勢に感じ入る多聞丸。そして細川軍との衝突。まずは八尾
JR東日本の『キュン♡パス』を利用して、かみさんと日帰りで青森県に行ってきました浪岡城⇒弘前城⇒根城と巡りました。東北新幹線と奥羽本線を乗り継いで10:19にJR浪岡駅に到着JR浪岡駅駅に隣接の『あぴねす』で続日本100名城のスタンプをゲットして、あまり時間もないのでタクシーで浪岡城に向かいます雪が多かった場合は『あぴねす』でスタンプだけ押して弘前城に向かう予定でしたが、タクシーの運転手さんの話によると今年は特に雪が少ないとのことでした浪岡城は戦国時代
前回、紫式部の流れから思いもよらない人が出てくると書いたのだけど、さて❓誰でしょう❓実は南北朝時代に南朝の後醍醐天皇に仕えて活躍した、北畠親房がその人紫式部の子孫である藤原範子と土御門通親の間には3人の男子がいて、北畠親房は、その3人の中の中院通方の末裔になる中院通方という方、源頼朝の同母姉妹の坊門姫を妻としていて、2人の間に生まれた通成の流れからは北朝の光厳天皇に繋がるそして、別の妻、源雅頼の娘との間に生まれた北畠雅家のひ孫が親房更にその子孫の木造家の娘が織田信長の息子の信雄に嫁ぎ
今日は、近所の伊邪那岐神社(いざなぎじんじゃ)におまいりしました。お日様が眩しかったです。↑神社に貼ってある言葉、「すこしの事も心にゆるす所あれば、おほきにあやまる本(もと)となる」北畠親房『神皇正統記』よりは、どういう意味なんかな?って思っていたら、おまいりにいらしてた殿方が教えてくださいました。心にゆるすとは、油断をするということやそうです。少しのことでも、油断をすると大きな過ちのもととなる、と、言う意味だそうです。この言葉には続きがあり、「周易(しゅうい)に霜を履(ふ
「田丸城跡」三重県度会郡玉城町には、「田丸城」があり、この城は、古来、玉丸城といわれていました。延元元年(1336)御醍醐天皇吉野還幸の時期、北畠親房が伊勢の拠点として築きました。永禄10年(1567)織田信長の進行を請け、その後、天正3年(1575)より5年間、北畠信雄(小田信雄・おだのぶかつ)の居城となっていました。同8年、焼失までの間、大がかりな改修が行われました。関ケ原の合戦後元和2年(1616)、田丸城は、津城主藤堂高虎の所領となります。同5年、
日頃の情報収集ツールは?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう•••••cut•••••・1293年(正応6年)1月29日、北畠親房が生まれる→北畠親房は、後醍醐天皇に認められて大納言になった貴族です。後醍醐天皇が正統な天皇であることを示す歴史書『神皇正統記』を書き残しました•••••cut•••••
1460年ごろ北畠氏により築城された浪岡城8つの館(曲輪)が扇のように広がる形が特徴案内所de資料をいただき散策start堀・土塁de区画された中世の館北館城主の家臣などが住みt武家屋敷町をつくっていた場所です
レビュー一覧連載前情報1前半1後半2345678910感想北朝に降ると言った時も、北朝を討つと決めた時も一丸となって多聞丸を支えようとする家臣たち。その筆頭が野田の親仁。北朝を討つのはあくまでも和議のため。それゆえ二年の間は全勝を貫く決意(453回)これで思い出したのは先の戦争で連合艦隊長官だった山本五十六が開戦時「半年や一年は暴れてみせましょう」と言った言葉。五十六も、初動で叩いて何とか講和に持ち込みたかった。そんな背景を抱えて開戦準備をする多聞丸らへの
明治37年御製かみかぜの伊勢の内外のみやばしら動かぬ國のしづめにぞたつ日本が神国であるという記述は、日本書紀の神功皇后紀に初出します。解釈はいろいろありますが、私は「神祀る国」という意味だったと理解しています。その後、南北朝時代の北畠親房が「神皇正統記」に「大日本ハ神国也」と述べたことで、日本=神国という思想が確立した感があります。ただ、ここでの神国は神が守る国という意味も含んでいました。それは鎌倉時代の元寇(弘安・文永の役)の経験が重なったからです。当時
2023.12.13◯六根清浄大祓奏上◯「日本を元気にする古事記のころろ」小野善一郎著・火神被殺についての解釈(後半)・黄泉の国ついての解釈(前半)◯「やまとことば五十音辞典」高村史司著・「に」の字の持つ意味・イメージ◯北畠親房公のお言葉・「代くだれりとて、自ら卑しむべからず、天地の初めは今日を初めとする理なり」◎リットリンク◯ココをクリック❗️
1,足利兄弟の争いさて、コラムですが。まず、ここに至るまでの情勢を簡単に。でないと、書いている方も話が分からなくなるのがこのあたりです。新田義貞が死に、足利尊氏は室町幕府を開きました。初期の幕府は「将軍」として尊氏が軍事、恩賞を、「副将軍」と称された足利直義が政務を司り、両者のバランスの上に成り立っていました。この兄弟は仲はよく、このまま幕府は安定するかに見えましたが、ですが、尊氏の息子である足利義詮(幼名は千寿王)が成長する頃には、不穏な空気が流れはじめます。それというのも