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本日の言霊2020.05.01佐藤優氏は現代日本の最高の叡智とも言える人物である。作家で元外務省主任分析官、同志社大学客員教授であり、政治から宗教、アニメからドラマまでオシント(OSINTOpenSourceINTelligence:オープンソースインテリジェンス、公開されている情報)を駆使して探索してしまう人なのに、突然そこに志村けんを参照例に出してしまう辺りが並みの人間とは次元が違うことを物語っている。ウクライナ戦争の勃発から世界の構図は激変、真新しい『シン世界地図』
天皇陛下は万世一系でなければならないというのは、日本だけが連綿として一つの王朝が続いてきたからです。それを神話として否定する人たちは、そこにこめられている我が民族の心が理解できないからでしょう。私たちの祖先は争いを好まず、和を尊ぶことをもって国柄を保ってきたために、天命を受けて王朝を交代させる易姓革命を排してきたのです。南朝の重臣であった北畠親房は「第日本者神國(おほやまとはかみのくに)なり。天祖(あまつみおや)はじめて基(もとゐ)をひらき、日神(ひのかみ)ながく統を傳給(つたえたま)ふ。
皆様、こんばんは。BODYPITKYOTO院長藤崎進一です。明日の営業について大切なお知らせです。4月4日(土)皇紀2686年令和8年丙午一白水星卯月4日誠に勝手ながら、明日は臨時休院とさせていただきます。🧹阿部野神社での清掃奉仕明日は大阪市阿倍野区に鎮座する阿部野神社さんへ、清掃奉仕に伺います。境内を清めさせていただくのはもちろんですが、実はその後の時間が、私にとって最大の楽しみなのです。🎓もはや「極上の授業」!宮司講話清掃のあとに行われる**「宮
本書は日本の南北朝時代に吉野朝(南朝)の重臣として主導的立場にあった准大臣・源親房(北畠親房)による、吉野朝の正統性を説いた歴史書です。今回読んだのは岩波文庫版(1975年11月17日第1刷発行)です。そんな親房の著した、意図が明確な歴史書だけに強いバイアスがかかった内容であることも事実で、その思想はやはり同時代の記述に色濃く反映されています。足利尊氏を終始「高氏」と表記し、「天の功をぬすみてをのれが功とおもへり(P173)」と辛辣な評価を浴びせています。『神皇正統記』、北畠親
北畠親房公墳墓(賀名生)~南朝悲史~|高坂正澄タイトルには「賀名生皇居跡」の文字を使いませんでしたが、順番として最初に皇居跡を訪ねます。その後に、「南朝三帝賀名生皇居跡碑」「北畠親房公墳墓」へ回ります。歩くコース:「賀名生旧皇居」→「南朝三帝賀名生皇居跡碑」「北畠親房公墳墓」賀名生皇居跡「JR五条駅からJR西日本バスで南へ約20分、丹生川の渓流を何回か渡り、短い神野トンネルを…note.comタイトルには「賀名生かなう皇居跡」の文字を使いませんでしたが、順番として最初に皇居跡を訪
『神道百言』岡田米夫・著より『神皇正統記』北畠親房〈※1〉天地(あめつち)の初は今日を始めとす天地の初めなる天岩戸開きによって神の御光りを見うるか否か。それは、今日只今の自分の心の眼を開くか否かにかかっている。「天岩戸開きは神代の事とのみ思ふべからず」『度会元長(わたらいもとなが)百首』〈※2〉と同じである。古事記によると「天地始めて発(ひら)くる時」とは、天地万物の始原のときをいったもので、天地が始めて開けて、万物の生成化育が行はれたとある。即ち「天地の始め」と万物
令和8年1月18日(日)住吉大社から阿部野神社へ向かう。09:40住吉大社を出発する。↓(路面電車、阪堺線住吉大社⇒天神の森)10:00阿部野神社に到着する。阿部野神社は『知恵と勇気と学問の神』として崇敬されている神社である。〈阿部野神社〉西参道。石段を上がると左右には神馬像がある。由緒書き。手水舎。詩歌の道。お茶室がある。旗揚稲荷社への参道。旗上稲荷社の由緒書き。旗上稲荷社。祭神豊受稲荷大神、高倉大明神、白鷹大明神。土宮。祭神白姫大明神。鹿のつがい
BODYPITKYOTO院長藤崎進一です。明日1月18日(日)大阪市阿倍野区に鎮座します阿部野神社へ、清掃奉仕に上がります。今年最初の神社奉仕。そして「あ」から始まる阿部野神社からのスタート。なんだか、それだけでご縁を感じてしまいます。阿部野神社へ初めて奉仕に上がったのは、昨年1月。今回で4度目となり、ちょうど1年の節目になります。この1年を振り返ると、本当に濃くて、学びの多い時間でした。明日は今年の“初陣”。仲間たちとともに、感謝の氣持ちを胸に、静かに丁寧に奉仕してまい
長谷寺の参拝を終え、次に向かったのは、女人高野「室生寺」です。雨はやんでいますが、はっきりしない天気です。この先の道は、2018年秋に歩いた彼岸花の寺「仏隆寺」に至る「室生古道」です。室生川に架かる「太鼓橋」を渡ります。見事な紅葉です。「表門」には「真言宗室生寺派・大本山室生寺」とあります。奈良時代の白鳳9年(680)に天武天皇の勅命により修験道の祖・役小角(えんのおづぬ)が建てたと伝えます。また桓武天皇が皇太子の時病に臥し
小野龍海’s歴史塾このホームページでは歴史研究の成果を資料化して公表しています。ono-no-tatsumi.amebaownd.comサンスクリット語の「イサナ(支配者)」からイザナギ・イザナミという皇位が生まれた事を書きましたが、仏教で伊舎那天(いざなてん)という仏様がいる事を初めて知ったので、今日はこのマイナーな仏様を一緒に学ぼうではありませんか。私は宗教的な神様達が実在した人間に見えて居ますので有難味も何も無いのですが、神様の情報=人間の情報に見えますので、有りが
皇紀2685年令和7年乙巳神無月11日(土)大阪市阿倍野区に鎮座する阿部野神社へ清掃奉仕に上がりました⛩️今年の1月に初めて阿部野神社へ清掃奉仕に伺い、今回で4回目の皆勤賞(笑)宮司さんのお話が毎回とても面白くて、つい聞き入ってしまいます(^^)こんな先生が歴史を教えてくれたら、今頃歴史学者になってたかも…なんて思ったり(笑)今回はなんと銀杏拾い!最初は「楽勝だな🤭」と思ったのですが、見てはいけない世界が広がっていました😱大量すぎる銀杏、すごい臭い😂ポリバケツいっぱい
大阪市阿倍野区に鎮座する阿部野神社へ、「一万人のお宮奉仕」として清掃奉仕に上がります⛩️この地は、かつて北畠顕家公が足利軍と戦った古戦場。御旅所には顕家公のお墓と伝わる碑が残されています。1878(明治11)年2月、地域の方々の間で「顕家公をお祀りする神社を」との声が上がり、1881(明治14)年1月、政府によって御祭神を顕家公とその御父君・北畠親房公の御両神と定められました。1882(明治15)年1月24日には「別格官幣社阿部野神社」として創建され、1890(明治23)年3
名称:多気北畠氏城館城郭:居館築城年:1342年築城主:北畠顕能主要城主:北畠氏所在地:津市美杉町上多気1148指定文化財:国史跡続日本100名城入口跡礎石建物跡石垣跡井戸跡庭園留魂社詰城跡北畠親房銅像
名称:田丸城城郭:平山城築城年:南北朝時代築城主:北畠親房、北畠顕信主要城主:田丸氏、北畠氏、織田信雄他所在地:度会郡玉城町田丸114-1指定文化財:県指定史跡続日本100名城富士見門縄張図
令和7年7月7日に連休があったので、ふと思いたって三重県の2つの続日本100名城に取材してきました。福井県とどちらに行こうか迷ったんですが、去年福井(敦賀城跡、北ノ庄城跡)に行ったので、今回はこちらにしました。あと、南北朝時代に関して、北畠氏に関わる大阪南部の旅をしたので、三重県の北畠氏に関わる史跡に行きたいと思いました。多気北畠氏城館跡は1342年に南朝重臣北畠親房(ちかふさ)の3男である顕能(あきよし)が伊勢国司になり霧山城を作ると、その麓に城館を建てたところです。庭園は第7代国司北
赤松円心(則村)は、南北朝時代の播磨守護大名で、家系は村上源氏の流れを汲む赤松氏第4代当主である。北畠親房との縁により、後醍醐天皇方に参戦した際に北畠家の属する村上源氏の末裔を自称することを許可された説があるが、定かではない。赤松本城・白旗城は兵庫県赤穂郡白旗山にある赤松三城のひとつである。
【茨城県の歴史】南北朝時代、"茨城"では何が起きていた?北畠親房、高師冬らの激闘
【城名】田丸城【所在地】三重県玉城町【城の形態】梯郭式の平山城【天守の形態】三重複合式【築城年】1336年(延元1・建武3)、1600年(慶長5)【築城者】北畠親房、稲葉道通【文化財指定区分】県指定史跡【遺構】門、天守台、石垣、堀など【別称】玉丸城田丸城の概要南北朝時代、南朝の武将であった北畠親房により築かれた田丸城は、伊勢地方をおさえる城であった。しかしながら戦国期に織田信長により北畠氏は乗っ取られ、次男信雄が北畠氏を継いで田丸城を大修築し、城域を拡げたという。このとき天
語り部アロマが紡ぐ「やまと語り十八」聞いていかれませんか。忠臣が次々に倒れて吉野に寂しい秋がきました。しかし、天皇の御志はいよいよ堅く、北畠親房・顕信らに、義良親王を奉じて奥羽にくだり、官軍の勢を回復せよとお命じになりました。御一行は伊勢から海路をとって東にお進みになりました。不幸にも、途中大風のため、義良親王の御船は伊勢へ吹き戻され、宗良親王の御船は遠江に、親房の船は常陸に着くという有様でした。その年も暮れて、また秋を迎えました。夜もろくろくお休みにならない長い御無理の為でしょ
読売新聞が昨日の15日付朝刊で、母方のみが天皇の血筋を引く前例のない「女系天皇」の可能性を排除せずに検討することを提言した。いうまでもなく、それは日本の国柄を否定することにほかならず、断じて容認するわけにはいかない。北畠親房の『神皇正統記』の冒頭の文では「大日本者神國(おおやまとはかみのくに)也。天祖(あまつみおや)はじめて基(もとゐ)をひらき、日神(ひのかみ)ながく統(とう)を傳給ふ。我國のみ此事あり。異朝には其たぐひなし。此ゆえに神國といふなり」と書かれている。南北朝時代に世に出た
筑波山神社から南へ10㌔ほどの小田城(つくば市小田)へ。「北畠親房が「神皇正統記」を書いた小田城」この関連・結び付きのみで記憶に残っている小田城、どんな城なのか?行ってみたかった。こじんまりした山城をなんとなくイメージしていただけに、いささか驚かされた、広い!これはいただいたパンフレット表紙の航空写真、でかい、広い!画面右奥がどうやら筑波山。奥州の古代の城塞のような方形の平城。東西、南北ともほぼ200㍍ほど。石垣はなく、堅固な土塁と水堀で周囲を固めている。立派な案内所
皇紀2685年令和7年乙巳4月19日(土)大阪府大阪市阿倍野区に鎮座します阿部野神社へ清掃奉仕に伺いました。こちらは北畠親房公、北畠顕家公を御祭神として祀られている由緒正しき神社です。朝から正式参拝をさせていただき、その後は宮司を囲んで記念撮影。氣持ちを引き締めて、清掃奉仕へと移りました。今回は14名での奉仕。神社裏手の道路の落ち葉掃き、溝の落ち葉・草抜き、さらに鳥居周りの草抜き作業まで、心を込めて行いました。落ち葉を一枚ずつ掃き集めながら、感謝と祈りの気持ちを込めて
1336年、後醍醐天皇は足利尊氏に降伏し花山院(かさんのいん)に囚われの身となりますが、尊氏が押す光明天皇が新たな天皇である事を示すには三種の神器が無ければ世間は認めない為光明(こうみょう)天皇の次の天皇は成良親王(なりながしんのう)、つまり後醍醐天皇の皇子にすると約束し後醍醐天皇はこの条件を受け入れ三種の神器を渡しました😳しかし、尊氏に渡したのは偽物で後醍醐天皇は本物を持って吉野に向かいました😅この時北畠親房(ちかふさ)が天皇を迎える為に築城したのが当時「玉丸城」と
「邪馬台国の位置論」(直木孝次郎)より●古代・中世の位置論(奈良時代)『日本書紀』神功皇后紀三十九年、四十年、四十三年条神功皇后が卑弥呼と考えていた。→大和説:編纂時以降後代の学者がつけた注だとしても大和説が主流だったことになる。(鎌倉時代)『釈日本紀』耶馬臺・耶摩堆・耶靡堆は皆、倭(ヤマト)と称する音をとるなり。→大和説(南北朝時代)北畠親房著『神皇正統記』:神功皇后を卑弥呼と同一人物と見ていた。→大和説(室町時代)瑞溪
訪問した城郭が1000城を越えていますが、なかなか城巡りの記事作成が捗らず、現在280もの城が未だ記事が未作成のまま、どんどん宿題のみが溜まってしまっています。特に「これは素晴らしい!」と思った名城ほど写真を多く撮ってしまいますので、必然的に文量が多くなってしまい、後回しにしてしまう傾向がありまして(滝汗)そんなこんなで、いつの間にか溜まる一方。今年の夏場は外出を控えて、城郭紹介記事作成に専念しようかと思う次第。さてそういうわけで、なかなか「これは良い城だ!」という皆さまにお勧めしたい城
「あめつちの初は今日より始まる」北畠親房の言葉。一度や二度の失敗?人生は失敗の連続。失敗を友に生きていこう。椋鳩十:生きるすばらしさを動物物語に(伝記を読もう16)Amazon(アマゾン)1日1篇「人生を成功に導く」365人の言葉Amazon(アマゾン)
只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。はじめに↓『全国「城門」を巡る”はじめに”』「城郭建造物」の「御殿(居館)」シリーズを終えました。「御殿」には殿さまやその家族が居住したり政務を執る為の所謂「御殿」や、城主・家族の憩いの場や来客対応の…ameblo.jp「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ
コロナ、インフルエンザ、溶連菌、このところ、老若男女問わず感染する方々が増えてます。介護の現場でもお子さんたちの看病のために、お休みせざるをえない職員さんもいます。お子さんの発熱したとの連絡を受けて、早退する職員さん。申し訳ありません、と、繰り返しながら、保育園に迎えに行こうとしてる彼女。お母さんの代わりはおらんのよ。早く迎えに行ったげて。ご家族もあなたもご自愛くださいね。ご家族の風邪がうつってしんどそうなお声で今日はお休みさせてくださいと伝えてくる職員さん。ご家族の看病で疲れもた
【田丸城】昨日に続き再度の田丸城訪問です。田丸城は南北朝時代に北畠親房公が南朝方の拠点として砦を築いたことに始まります。1567年からの3年間に渡る織田信長公の伊勢侵攻で、信長公は次男の織田信雄公を北畠家の養子とする事で和睦を図り伊勢国の支配に成功しました。信雄公は田丸城の改修を行い3層の天守閣を築きましたが、1580年に焼失、信雄公は松ヶ島城に移ります。本能寺の変後、田丸氏が田丸城城主に返り咲きますが、東北地方に移封、その後稲葉氏、藤堂氏の支配と続き紀州徳川家の家老久野氏が城主となります。
こんばんは!@Ricoです。まだまだ、途中だったよね2024大阪巡礼シリーズ✨住吉大社さんから移動しまして続いては、神仏霊場巡礼地元別格官幣社阿部野神社さん⛩️テクテク👣テクテク👣大日本は神國なりうむ。このスタイルの鳥居⛩️は今までに何度か拝見しているけど、、、和文の感じは初めてかも。。。🤔→四字熟語的なものはありますよね☝️今年2024年が皇紀2648年なので、84年前❗️に本の見出しになっとりますね調べてみると、この言葉「大日本は神国なり」の書