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またまた一年遅れの更新になんのん、時間の問題やででも・・・安心して下さい9月まで飛んでますヨ(パーンツ)家庭内の都合により、また夏は暑さに負けて、どこへも出掛けずにおりました。。久々の外出は、あるテーマを持って、チンチン電車乗り放題の旅。いざ出陣じゃ・・・って、散歩レベルやけど。。↓てくてくきっぷ天王寺駅から阪堺電車に乗り換え。一日乗り放題乗車券「てくてくきっぷ」600円を購入。↓安倍晴明神社東天下茶屋駅で降り、徒歩2分。安倍晴明神社からスタート。。↓安倍晴明神社_拝殿
『愛国百人一首』の選定された45首目は北畠親房です。『神皇正統記』を書いた方です。(著者所持の『愛国百人一首』の北畠親房の絵札)鶏の音になほぞおどろく仕ふとて心のたゆむひまはなけれどこの歌は、正平年間(1346~1370)の間に詠まれた歌です。歌の意(こころ)天皇にお仕えして、心のすきも油断もないと思っていたのに、ウトウトと眠ったようで、夜明けを知らせ鶏の鳴
朝日新聞小説「人よ、花よ、」第十二章「東条の風」492(1/5)~542(2/25)作:今村翔吾挿絵:北村さゆりレビュー一覧連載前情報1前半1後半234567891011感想決起の地と決めた隅田。堅い守りと言われていた隅田城を簡単に落とした楠木党。だが北進する先の紀見峠で邪魔をする吉野衆。情報がなく疑心暗鬼だった灰左が何ともカワイイ。だが南朝というより、主上に尽くすとの姿勢に感じ入る多聞丸。そして細川軍との衝突。まずは八尾城を中途半端に攻め
JR東日本の「キュン♡パス」を利用して、かみさんと日帰りで青森県に行ってきました。浪岡城⇒弘前城⇒根城と巡りました。東北新幹線と奥羽本線を乗り継いで10:19にJR浪岡駅に到着。駅に隣接の『あぴねす』で続日本100名城のスタンプをゲットして、あまり時間もないのでタクシーで浪岡城に向かいます。雪が多かった場合は『あぴねす』でスタンプだけ押して弘前城に向かう予定でしたが、タクシーの運転手さんの話によると今年は特に雪が少ないとのことでした浪岡城は戦国時代にこの
前回、紫式部の流れから思いもよらない人が出てくると書いたのだけど、さて❓誰でしょう❓実は南北朝時代に南朝の後醍醐天皇に仕えて活躍した、北畠親房がその人紫式部の子孫である藤原範子と土御門通親の間には3人の男子がいて、北畠親房は、その3人の中の中院通方の末裔になる中院通方という方、源頼朝の同母姉妹の坊門姫を妻としていて、2人の間に生まれた通成の流れからは北朝の光厳天皇に繋がるそして、別の妻、源雅頼の娘との間に生まれた北畠雅家のひ孫が親房更にその子孫の木造家の娘が織田信長の息子の信雄に嫁ぎ
今日は、近所の伊邪那岐神社(いざなぎじんじゃ)におまいりしました。お日様が眩しかったです。↑神社に貼ってある言葉、「すこしの事も心にゆるす所あれば、おほきにあやまる本(もと)となる」北畠親房『神皇正統記』よりは、どういう意味なんかな?って思っていたら、おまいりにいらしてた殿方が教えてくださいました。心にゆるすとは、油断をするということやそうです。少しのことでも、油断をすると大きな過ちのもととなる、と、言う意味だそうです。この言葉には続きがあり、「周易(しゅうい)に霜を履(ふ
「田丸城跡」三重県度会郡玉城町には、「田丸城」があり、この城は、古来、玉丸城といわれていました。延元元年(1336)御醍醐天皇吉野還幸の時期、北畠親房が伊勢の拠点として築きました。永禄10年(1567)織田信長の進行を請け、その後、天正3年(1575)より5年間、北畠信雄(小田信雄・おだのぶかつ)の居城となっていました。同8年、焼失までの間、大がかりな改修が行われました。関ケ原の合戦後元和2年(1616)、田丸城は、津城主藤堂高虎の所領となります。同5年、
日頃の情報収集ツールは?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう•••••cut•••••・1293年(正応6年)1月29日、北畠親房が生まれる→北畠親房は、後醍醐天皇に認められて大納言になった貴族です。後醍醐天皇が正統な天皇であることを示す歴史書『神皇正統記』を書き残しました•••••cut•••••
1460年ごろ北畠氏により築城された浪岡城8つの館(曲輪)が扇のように広がる形が特徴案内所de資料をいただき散策start堀・土塁de区画された中世の館北館城主の家臣などが住みt武家屋敷町をつくっていた場所です
レビュー一覧連載前情報1前半1後半2345678910感想北朝に降ると言った時も、北朝を討つと決めた時も一丸となって多聞丸を支えようとする家臣たち。その筆頭が野田の親仁。北朝を討つのはあくまでも和議のため。それゆえ二年の間は全勝を貫く決意(453回)これで思い出したのは先の戦争で連合艦隊長官だった山本五十六が開戦時「半年や一年は暴れてみせましょう」と言った言葉。五十六も、初動で叩いて何とか講和に持ち込みたかった。そんな背景を抱えて開戦準備をする多聞丸らへの
明治37年御製かみかぜの伊勢の内外のみやばしら動かぬ國のしづめにぞたつ日本が神国であるという記述は、日本書紀の神功皇后紀に初出します。解釈はいろいろありますが、私は「神祀る国」という意味だったと理解しています。その後、南北朝時代の北畠親房が「神皇正統記」に「大日本ハ神国也」と述べたことで、日本=神国という思想が確立した感があります。ただ、ここでの神国は神が守る国という意味も含んでいました。それは鎌倉時代の元寇(弘安・文永の役)の経験が重なったからです。当時
2023.12.13◯六根清浄大祓奏上◯「日本を元気にする古事記のころろ」小野善一郎著・火神被殺についての解釈(後半)・黄泉の国ついての解釈(前半)◯「やまとことば五十音辞典」高村史司著・「に」の字の持つ意味・イメージ◯北畠親房公のお言葉・「代くだれりとて、自ら卑しむべからず、天地の初めは今日を初めとする理なり」◎リットリンク◯ココをクリック❗️
1,足利兄弟の争いさて、コラムですが。まず、ここに至るまでの情勢を簡単に。でないと、書いている方も話が分からなくなるのがこのあたりです。新田義貞が死に、足利尊氏は室町幕府を開きました。初期の幕府は「将軍」として尊氏が軍事、恩賞を、「副将軍」と称された足利直義が政務を司り、両者のバランスの上に成り立っていました。この兄弟は仲はよく、このまま幕府は安定するかに見えましたが、ですが、尊氏の息子である足利義詮(幼名は千寿王)が成長する頃には、不穏な空気が流れはじめます。それというのも
朝日新聞小説「人よ、花よ、」第十章「牢の血」399(9/30)~454(11/26)作:今村翔吾挿絵:北村さゆりレビュー一覧連載前情報1前半1後半2345678910感想大立ち回りの末、後村上帝を守りきった多聞丸たち。そして一族を引き連れて吉野へ参内。上奏文を懐に、重大な決意を以って帝に対峙する多聞丸。普通ならこんな不敬はヘタをすれば手討ちもの。でも村上クンの命助けたんだから、そんな事にはならない(笑)帝と二人きりになった時、ホンネを引
トップページ都道府県別索引へ阿波崎城は霞ヶ浦中央部やや東の南岸から南に5kmほど、丘陵の東端にある。この丘陵は龍ケ崎市の方から霞ヶ浦と利根川の間を通りつつ続いていて、阿波崎城はその突端にあたる。建武新政が失敗して南北朝時代が始まった頃、このあたりに流れ着いた南朝の重鎮北畠親房は、最初西に5kmほどの神宮寺城に籠もったが程なく北朝方の攻勢により落城し、次いで頼ったのがこの阿波崎城だった。しかしここも程なく落城し親房は小田城に落ち延びたという。1980年代に行われたゴルフ場開発により主郭
トップページ都道府県別索引へ神宮寺城は霞ヶ浦の中央やや東側の南岸から3kmほど入った台地の上にいくつかの曲輪、空堀、土塁などを遺している。建武新政が失敗して南北朝の対立が始まって間もなくの延元三年(1338年)9月に南朝の北畠親房がこの地に漂着し、この地の地頭東条氏の援護でこの城に拠点を構えたが、1ヶ月ほど後に北朝方の攻撃で落城したという。今残っている遺構は堀の幅や土塁の高さなどが大きく、戦国時代の城のように見える。この日は午前中に訪問した。成田空港に着陸する飛行機が上空をひ
『保守の原点』宮崎正弘小川榮太郎博学二名の重厚な対話。冒頭で小川氏がイギリスの保守主義について問題提起。故江藤淳氏は、保守とは感覚である、と述べた。これに対し中川八洋氏は、江藤氏はバークすら読んでいない。バークは闘争のイズム。サッチャーもイズムではないか、と批判した。小川氏はイギリスの保守主義は「感覚」と「戦うイデオロギー」の両面がある、とまとめている。宮崎氏は日本の保守主義として本居宣長を挙げる。本居は漢意を排斥し、もののあはれ、日本の真の精神へ立ち返ろうとした。正に「感覚」である
700年近く前の南北朝動乱、関東に南朝の拠点を作ろうとしていた北畠親房、北朝の足利尊氏の命を受けて関東の南朝勢を滅ぼそうとした高師冬、両者が戦いました。この大宝城は、その戦いの舞台の一つです。写真の石碑から坂があって高台になります。この高台全体が城跡だったようです。大宝八幡宮という大きな神社があります。訪問した時は美しい菊の展示が行われていました。良学舎/豊四季駅前学習塾小学・中学・高校柏流山おおたかの森野田(goodstudy.jp)
みなさんおはようございます~(*^^*)涼しいのですが、なぜか室内は暑い…27度?雨だから窓は開けないでいるから?室内23度~24度ぐらいが一番過ごしやすいよね阿倍野神社です…いわゆる高級住宅地の中にある神社なのに広いのです…まず、西側の参道、もうかなり近づいてからです案内の看板からはもうかなり入ってきてあの正面が神社の境内車の方はここじゃなくてぐるっと回って来てくださいという看板簡単に書いてますが結構遠いよ~横のスロープから上がってきました…もう疲れてるのです
「大日本者神国也。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を伝へ給ふ。我国のみ此事あり。異朝には其たぐひなし。此故に神国と云いふ也」これは神皇正統記の冒頭にある文章です。神皇正統記とは、南北朝時代(1337–1392)に北畠親房(1293-1354)が、後村上天皇(1339-1368)の為に、南朝の正統性を述べた書として知られています。幼帝に国の尊厳を語るところから始まりますが、そこに神国という語が登場します。古事記(712)と日本書紀(720)を踏まえて、神国である我が国にのみ神の
文武両道神社仏閣・パワースポット105…阿倍野神社@大阪府【阿部野神社】(あべのじんじゃ)大阪市阿倍野区-kazu1000のブログ/社寺仏閣巡り(muragon.com)Addedby@hamastagram.jpnInstagrampost大阪市阿倍野区・阿部野神社参拝文武両道、戦の天才、スピード昇進を極めた南朝軍(後醍醐帝)側の若き英雄である北畠顕家公とその父、北畠親房公を主祭神としてお祀りされています。後藤久美子さん演じる顕家公凛々しいな~😍#阿倍野
昔話桃太郎評釈西一著東海道書肆明治42年発行著者は漢学者と思われるが来歴は不詳桃太郎像を理想化し絶賛する「桃太郎」の作者を北畠親房としている文章は難解で素人の手に負えません
南北朝時代はわかりにくい時代だ。大河ドラマ「太平記」(1992年放映)は面白かったが、人間関係のつながりが難しかった。昔からのなじみのある武将が極めて少なかったからだろうが。北畠顕家を女優の後藤久美子さんが扮したのには驚かされたのを覚えている。先に見た田丸城は、その顕家の父、後醍醐天皇の南朝方の有力者(公卿)、あの「神皇正統記」を著した北畠親房が、伊勢の南朝の拠点として築城した。しかし1342年、田丸城は北朝・足利方の攻撃で落城、北畠氏は逃れて拠点を遷した。その地が松阪市から
『大河ドラマ「太平記」インタビュー記事/護良親王』鎌倉宮旧官幣中社大塔宮鎌倉宮鎌倉市二階堂154御祭神:大塔宮護良親王先日久しぶりの鎌倉宮へ参拝しました。夏空に白い鳥居が映えます〜昔の獅子頭が並べられ…ameblo.jp鎌倉宮に展示されているレジェンド大河「太平記」出演者インタビュー記事。続いては北畠親房と顕家親子近藤正臣さんと後藤久美子さんです蘭陵王が好きすぎて、YouTubeで見ては惚れ惚れしているのですが(笑)、後藤久美子さんも舞っていましたよ〜後醍醐天皇自らが吹
文武両道神社仏閣・パワースポット82…霊山神社@福島県霊山神社-福島県伊達市公式ホームページ(fukushima-date.lg.jp)霊山神社–伊達市観光物産交流協会(date-shi.jp)伊達市の寺社仏閣-霊山神社│福島・伊達市・初詣・貫通石|福島県北最大級ポータル『ぐるっと福島』(gurutto-fukushima.com)霊山神社-ふくしまの旅(tif.ne.jp)
『霊山神社北畠家親子の祭神陸奥国府の地』広瀬川の支流不忘橋を渡ると霊山神社霊山神社-Wikipediaja.m.wikipedia.org🍁北畠親房鎌倉…ameblo.jp昨年、30数年ぶりにお隣、福島県伊達市霊山に行ってきましたが初めて行った時は梅雨の頃で、福島県相馬市から霊山を見ながら宮城県丸森町に抜けて車を走らせていましたもちろん、当時は神仏さま、寺社にも興味はまるでなくただ、墨絵のように浮かぶ霊山の稜線を眺めてい
くろごませんべいですこんばんはまた、日頃隠してる墓マイラーの欲望が出て来て関城というマイナーな城跡を探検して畑仕事してる地元民を取っ捕まえて聞き出し考察した話を載せます人の仕事を中断させる図々しい変人5月頭頃の事です先ずは情報をネットで下調べネット情報って歴史もいい加減だったりするんですよ6割イエスかなぁ位で良いかと思う関城とはネット情報によると南北朝時代の城で築城年不明マイナー過ぎて記録がないのかも私は関という人物は知らない
明治24年御製千早ぶる神ぞ知るらむ民のため世をやすかれと祈る心は千早ぶる(ちはやぶる)とは、神に関する語や宇治にかかる枕詞です。元々の意味は、勢いが強い、霊力が盛んである等ですが、神威の表現の一つになっています。日本は神国である、という考え方は、日本書紀の神功皇后紀に初見出来ます。ただそれは「吾聞東有神国謂日本」という新羅の王の言葉です。南北朝時代中期に成立したとされる「神道集」にも「神国」という語書きされていますが、ここでは神のいる国という意味でした。この神の鎮
先月、阿倍王子神社、安倍晴明神社に参拝した時から、阿倍野神社が気になっていたのですが、近くに八大龍王がお祀りされていると知り、5月8日に参拝してきました。場所は、旧熊野街道沿いにある晴明丘中央公園内。大きな公園だったので、見つけにくかったです。公園の奥にひっそりとあり、木や葉っぱで隠れてるので、意識している人でないと、気付かないと思います。北畠八大龍王ワタシは大きな神社にも参拝しますが、このような見つけにくい場所にお祀りされている神様に呼ばれるのもワクワクします。✨生駒山の八大龍王
和本江戸期有職故実「職原抄」上下2冊揃い/北畠親房/古書古文書/木版摺りです。46、48+21+6丁。26.5cm×19.5cm。木版刷り。元題簽。見返しあり。奥付あり。中世日本の有職故実書。全2巻。鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿北畠親房が、常陸国小田城で後村上天皇のために書いたものとされる。『データ』【書名】職原抄【巻冊】上下2冊揃い【著者】北畠親房【成立】江戸期