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古川神明神社(川崎市幸区古川町63)(主祭神)伊邪那岐命・伊邪那美命宇迦之御魂神(相殿)(社格等)―(古川村の鎮守か)(沿革等)創建年代等不詳。風土記稿にある「相殿」「木鳥居」は現在でも同様の姿を伝えている。風土記稿は、当地旧家は北条氏政の庶子と母親が戦乱を逃れて土着化したことに始まるという。。江戸初期に開拓がはじまり、当村の鎮守として祀られたのであろうか。*新編武蔵風土記稿「古川村」【神明社】字鶴見田にあり、稲荷を相殿とす、前に木鳥居あり、例祭年々九月十九日
中公新書2895は、戦国時代初期に戦国大名となり、戦国時代の末期に本宗家が滅亡した戦国北条氏五代を扱った概説書です。戦国北条氏の研究はこの半世紀で急速に進み、かつては伊勢出身の素浪人と呼ばれていた初代伊勢宗瑞の出自も、将軍足利義尚の申次衆を務めるような将軍側近の一族の出であることが明らかになり、五代に渡り行われた政策についても様々な検討がされたことで戦国大名の中でも髄一の進展度合いを見せるようになりました。黒田基樹先生により、五代の当主それぞれの評伝は発刊されたものの、五代を総
史官~太田和泉守~本能寺25回目信長様は穴山殿に脇差・梨地蒔・金具所焼付け・地彫であった。小刀は柄まで梨地蒔、信長様は、「似合います」と穴山殿に言った。信長様は鞘袋・燧袋を付けて下さった。信長様は穴山殿の本領を安堵された。松尾掃部大輔殿が信長様に挨拶にあがった。松尾殿は信長様に馼の馬を進上した。この馬は信長様の意に適い、秘蔵された。信長様は松尾殿のこの度の忠節が比類なかったので、朱印状をもって本知安堵を認められた。矢部家定殿と森蘭丸殿の両人をもって伝えられた。
「開運!なんでも鑑定団」を見ていたら、秀吉にまつわる書状が出てきました。番組は秀吉の後半生を解説していました。(続きです。小田原城評定から)小田原攻め。戦況を見守ってきた伊達政宗が秀吉にはかなわないと観念し、命を預けるという意味の白装束で、秀吉の元に参上、その軍門に下った。そして1590年6月25日。秀吉が笠置山の木を一斉に切り倒させると巨大な城が出現。まるで一夜にして現
期間:2026/1/16〜01/20天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額戦)島津家久:勇敢老練の将戦)浅井長政:湖北仁義戦)北条氏政:兄友弟恭の慈戦)本願寺顕如:栄諧僧正戦)松平元康:欣求浄土の冀戦)今川氏真:優美平明の調戦)明智光秀:神智明晰戦)九鬼嘉隆:海賊大名©コーエーテクモゲームス
期間:2026/1/08〜01/20天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額覇)北条氏康:虎朱印の権威戦)北条氏政:兄友弟恭の慈戦)北条氏照:陣取りの手本覇)北条氏邦:北条堤の恩徳©コーエーテクモゲームス
-武田氏の滅亡-武田氏の滅亡によって戸倉城を奪還し、三枚橋城も手に入れた北条氏政でしたが、織田信長の戦後処理は、北条氏にとってはたいへん不利なものでした。織田家の重臣・滝川一益が関東管領として着任して上野の大半を領有、北条氏に対しては上野の一部を領国として認めただけでした。駿河一国は全て徳川領とされ、北条氏が占拠していた三枚橋城や戸倉城、長久保城も徳川方に引き渡されることになりました。※この時の信長の裁定では、現在の沼津市の大平地区まで駿河国とされたため、北条氏が新たに築いた大平新城まで
伊豆丸山城は北条早雲の配下となり北条水軍の中心的存在となって活躍した富永氏の城として知られています。北条氏政の代には対岸の敵である甲斐武田軍に備えるために大改修し、伊豆最大の水軍拠点となりましたが、天正18年(1590)に豊臣水軍の猛攻撃を受けて落城しました。攻城団紹介文よりって事でやま弥でお昼ご飯を食べた後は海岸線をひたすら進み土肥の丸山スポーツ公園に車を停めて先ずは出城に向かいます丸山城跡(出城)蘊蓄さて、国道を渡って本丸に向かいます
戦)北条氏政:兄友弟恭の慈戦)お市:薄幸の天女戦)瑞渓院:寸草春暉戦)冬姫:紫電清霜の操戦)宇佐美定満:武経要略の諭戦)長野業正:英邁の大器戦)稲姫:剛柔の妙戦)足利氏姫:確固たる矜持戦)江:純真無垢戦)三好義賢:五十の宝器©コーエーテクモゲームス
ウォーゲームゲームジャーナルNo.66「秀吉怒涛の天下統一」を買いました。本能寺の変に始まる秀吉の天下統一戦を描きます。本作は秀吉プレーヤーと反秀吉プレーヤーの二人のプレーヤーによって争われ、反秀吉プレーヤーは徳川家康、島津三兄弟、柴田勝家、佐々成政、伊達正宗、長宗我部元親、雑賀孫一などの強力な武将を擁し、野戦では圧倒的な破壊力を持っている。一方秀吉プレーヤーは正面からの野戦では不利だが、さまざまな強力なイベントカードを駆使し、謀略で強力な反秀吉陣営を切り崩していく。このために「大
三枚橋城の築城時期については幾つかの説がありますが、沼津郷土史研究談話会が発行している「沼津三枚橋城物語」によれば、天正7年(1579年)の7月に武田勝頼の命により築かれたという説が最も信憑性が高いようです。この時期は、謙信没後の上杉氏の後継者争い(御館の乱)をめぐる対立から、それまで同盟を結んでいた武田勝頼と北条氏政の関係は急速に悪化しており、武田が国境に新たな城を築くことは、北条に対する宣戦布告を意味していました。築城の名手として名高い馬場信春は長篠の戦いで討死し、甲陽軍鑑で有名な宿老
小田原にある伝心庵跡です。伝心庵跡地と伝わる場所。北条氏政、氏照の墓があります。天下統一を果たした関白豊臣秀吉は、天正16年(1588年)、関東八州の領主、後北条家当主・北条氏直とその父で先代当主の北条氏政に上洛して臣従するよう命じます。氏直は徳川家康の次女・督姫を正室としていましたが、家康上洛の際、秀吉は命の保証として妹の朝日姫を嫁がせ母の大政所を人質に出す厚遇をしたのに対し、関東の雄・後北条の上洛に何の配慮も見せないことに難色を示し、氏政の弟氏規を上洛させるにとどめます。名胡桃
小田原にある小田原城です。この地には鎌倉幕府初代将軍・源頼朝に仕えた御家人・土肥遠平の居館があったといいます。室町時代、土肥氏は上杉禅宗の乱で失脚、鎌倉公方・足利持氏側についた大森氏が一帯を勢力下におきます。15世紀末、小田原城主・大森藤頼は韮山城主・伊勢盛時(北条早雲)に攻められ小田原城を放棄。盛時の嫡男・氏綱が小田原城に入り、以降、2代氏綱、3代氏康、4代氏政、5代氏直の居城となります。氏綱以降は北条を称し、鎌倉幕府の執権北条氏と区別するため後北条氏と呼ばれます。氏綱が北条を名乗っ
史官~太田和泉守~本能寺7回目信長様は喜ばれた。人質は菅屋九右衛門殿に預けられた。二月二日武田勝頼父子と武田典厩が木曽殿の謀叛を知り、新府今城から出陣した。武田軍は一万五千ほどで諏訪の上原に至って陣を据えた。勝頼は各方面への出撃を命じた。二月三日信長様は各方面から武田領への攻撃を命じた。駿河口からは徳川家康殿。関東口からは北条氏政殿。飛騨口からは金森五郎八殿。伊那口からは信長様と織田信忠殿。諸口から進軍するように命じられた。織田信忠殿・森勝蔵殿・団平八殿
【問題】武田信玄の娘・黄梅院が北条氏政に嫁いだのは、次のうち何にもとづくものか?【選択肢】甲江和与甲相駿三国同盟甲越同盟甲相越三和【正解】甲相駿三国同盟【解説】黄梅院は、武田・北条・今川氏の甲相駿三国同盟にもとづき武田・北条氏との間で婚姻についての交渉が進められた結果、天文23年(1554)北条氏政に嫁いだ。
東京に出張があったので、帰りに小田原に寄ってみました。小田原は北条5代の後、大久保家、稲葉家、そしてまた大久保家と領主が変わりましたが、市内では圧倒的に北条が人気があるようです。小田原駅前の北条早雲像。とてもダイナミカルな像です。小田原城。立派なお城です。銅門銅門の中では北条氏直を中心に評定が行われていました。これが北条氏直小田原城天守閣市内にある北条氏政(中央右)と氏照(中央左)の墓。氏政は氏直の父、氏照は氏政の弟。2人は秀吉の北
中学生の頃に出た、ファミコン版の「信長の野望」というゲームの影響で歴史が好きになった。で、このゲームの北条氏政公のグラフィックが好きで後北条氏贔屓になった。今も色々な歴史小説を読んでるんだけど、後北条氏が題材になっている本は見つけ次第買っている。読んでいて気になるのが、北条家筆頭家老の松田憲秀さんがとても嫌味な悪いヤツとして描かれていること。いや、わかるのよ。最終的に裏切ってるからね。筆頭家老なのに。そりゃあ悪者にはうってつけのキャラですよ。でもさ、ある程度優秀でなくちゃあの大きな家の筆頭
期間:2025/09/12〜09/16天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額戦)島津家久:勇敢老練の将戦)浅井長政:湖北仁義戦)北条氏政:兄友弟恭の慈戦)本願寺顕如:栄諧僧正戦)松平元康:欣求浄土の冀戦)今川氏真:優美平明の調戦)明智光秀:神智明晰戦)九鬼嘉隆:海賊大名©コーエーテクモゲームス
沼津市で国指定史跡長浜城10周年記念講演会まで時間があるので、少し散策に行きました。中央公園JR沼津駅の南、旧国道1号線沿いにあります。この場所は、かつて城だったのです。戦国時代には甲斐の武田勝頼が三枚橋城として築城。今川義元が桶狭間の戦いて討死すると、甲相駿三国同盟を破棄した武田信玄が駿河国に侵攻。海を手に入れた武田氏が、北条氏に対抗するため狩野川を挟んだ地に築城。武田勝頼と北条氏政は、沼津で度々小競り合いをする。武田氏滅亡後、徳川氏が治めます。幕末頃の沼津城JR沼津駅南口は
雑誌「歴史街道」の今月号に、「北条氏康の子供たち」という記事が掲載されています。歴史街道2025年9月号(特集1「奇跡の駆逐艦『雪風』」)Amazon(アマゾン)戦国時代、関東で活躍をした北条氏は、伊勢宗瑞(北条早雲)に始まり、氏綱、氏康、氏政、氏直と続き、いわゆる「五代百年」に渡って、関東に、支配地域を広げることになる。これほど、長期に渡って、しかも、順調に、支配地域を広げ続けた戦国大名は、北条氏以外に、存在をしない。戦国大名の中でも、希な存在です。中でも、初代の北条早
お酒に合うお気に入りのおつまみ教えて!▼本日限定!ブログスタンプ塩か味噌ですね。さて、本日は本当は何の日かといいますと…アイドルマスターに登場する、クールなお花屋さん系アイドルの渋谷凛ちゃんのお誕生日です。おめでとうございま〜す。渋谷凛(以下、し)「どうも」し「なんか今年はケーキが用意してあるって聞いたんだけど…」し「あ、これだね」し「ローソンのうちカフェの『パリッとしたチョコのもち食感ロール』だね」し「今年はちゃんと用意してあってよかったよ」し「中はこんな感じだね」
名称:長浜城別名:重須の城(オモスノシロ)城郭:連郭式山城築城年:不明築城主:不明改修者:北条氏政主要城主:大川氏?所在地:沼津市内浦重須指定文化財:国史跡堀跡虎口第四曲輪第三曲輪第二曲輪主郭腰曲輪縄張図
※2025年6月15日訪問※八幡山古郭跡を散策し、小田原駅の西口に向かって坂を下った先の道路上に【八幡曲輪】の石碑が建てられていました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼この地は古くは「裏大門」と呼ばれたところで「八幡曲輪」の地名は武家屋敷地としての名である。東西に延びる坂道の両側には藩の中堅武士の屋敷があり、江戸時代を通じて五軒の住まいがあった。幕末にはこの地名は単に「八幡山」とも呼ばれるようになった。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲ということで今回の小田原城散策は以上と
※2025年6月15日訪問※小田原高等学校の敷地内東側に設けられ散策路から東側の住宅地に降りて来ました住宅地の一角には【小田原城八幡山古郭】と書かれた案内板が建てられているので確認して行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼県立小田原高等学校と周辺一帯は、戦国時代の小田原北条氏の山の手側の中心部でした。その一角に北条氏と江戸時代大久保氏によって「八幡社」が祀られていたことから「八幡山古郭」と呼ばれています。いま天守がそびえている城址公園は、江戸時代の姿で整備が進んでいま
※2025年6月15日訪問※神奈川県立小田原高等学校の北側の道路の付近に【西曲輪西堀と三味線堀】と書かれた案内板が設置されていました発掘調査の結果、学校敷地の各所で戦国時代の遺構が検出されました。注目される成果としては「西曲輪西堀」「藤原平入堀」の大規模な「障子堀」の発見があげられます。「障子堀」とは、堀の中での敵兵の動きを封じるなど堀底の各所に壁状に土を堀り残して畝状の仕切りを設けた堀で、戦国時代の北条氏が多用したのが特徴です。両側の段上壁面は土砂の崩落を防ぐためのもので、遺構では
伊達家に反発してきた真田家をひねりつぶしました。北条・真田には煮湯を飲まされましたが、優先したのは真田討伐でした。官位もそれなりのところにはいきました。これで朝敵指定はされないはず。でも朝敵指定してきた羽柴政権を許せるはずもなく、越前まで進出しました。ここまで来れば、羽柴政権を薙ぎ倒して上洛でしょうか。しかし、目の上のたん瘤・北条は許せないです。攻めたものの、追い返される始末。羽柴政権だけでなく、北条に手を出したのは失敗だったか。やり直しプレイも検討してます。優秀な娘ちゃんを
※2025年6月15日訪問※テニスコートとなっている鍛治曲輪跡の南側、現在は小田原高等学校への通学路となっている道路上に何やら石碑を発見【八幡山】と彫られた石碑が建てられているので確認してみましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼この地には二つの八幡社があった。その一つは北条氏が鎌倉八幡宮から勧請したといわれ、江戸時代には「元宮」または「本丸八幡」と呼ばれた。他の一つは江戸時代初期小田原城主大久保忠世が祀ったものです。「新御宮」または「若宮八幡」とも呼ばれた。地名はこのよう
※2025年6月15日訪問※【三の丸外郭新堀土塁】の遺構を堪能し、神奈川県立小田原高等学校の西側の道路から北側に曲がったところにテニスコートが見えて来ましたこのテニスコートの周囲がかつての【鍛治曲輪】の跡だそうです✨【鍛治曲輪】と彫られた石碑が建てられているので確認してみましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼鍛治曲輪は丘陵地に位置し、小田原北条氏時代の重要な曲輪であったと考えられる。この地は早くからこの地名があったが、江戸時代前期の寛文二年(1662)小田原城主稲葉正則に
※2025年6月15日訪問※引き続き【三の丸外郭新堀土塁】を見て行きましょう✨こちらにも【国指定史跡小田原城跡三の丸外郭新堀土塁】の案内板が設置されていますね▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼小田原城を本拠地とする小田原北条氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉との小田原合戦を迎えるまでに、堀と土塁で周囲9㎞に渡る総構を構築しました。それ以前には、総構の内側に「新堀」と呼ばれる外郭がありました。この場所は新堀と土塁の名残が色濃く残る場所になります。ここは小田原城の西端で一部
※2025年6月15日訪問※小峯御鐘ノ台大堀切東堀を堪能し、市街地まで戻って来ましたこの小峯御鐘ノ台大堀切東堀から南東に接続するような形で造られていたのが【三の丸外郭新堀土塁】と呼ばれる遺構です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼三の丸外郭新堀土塁ここは、文献資料の記載から、天正15年(1587)には存在していたことが知られる「三の丸新堀」に伴う土塁を中心とした場所です。「三の丸新堀」は小田原北条氏の時代の堀の名称として、唯一確認出来るものです。総構が出来るまでは、小田原城の