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三枚橋城の築城時期については幾つかの説がありますが、沼津郷土史研究談話会が発行している「沼津三枚橋城物語」によれば、天正7年(1579年)の7月に武田勝頼の命により築かれたという説が最も信憑性が高いようです。この時期は、謙信没後の上杉氏の後継者争い(御館の乱)をめぐる対立から、それまで同盟を結んでいた武田勝頼と北条氏政の関係は急速に悪化しており、武田が国境に新たな城を築くことは、北条に対する宣戦布告を意味していました。築城の名手として名高い馬場信春は長篠の戦いで討死し、甲陽軍鑑で有名な宿老
小田原にある伝心庵跡です。伝心庵跡地と伝わる場所。北条氏政、氏照の墓があります。天下統一を果たした関白豊臣秀吉は、天正16年(1588年)、関東八州の領主、後北条家当主・北条氏直とその父で先代当主の北条氏政に上洛して臣従するよう命じます。氏直は徳川家康の次女・督姫を正室としていましたが、家康上洛の際、秀吉は命の保証として妹の朝日姫を嫁がせ母の大政所を人質に出す厚遇をしたのに対し、関東の雄・後北条の上洛に何の配慮も見せないことに難色を示し、氏政の弟氏規を上洛させるにとどめます。名胡桃
小田原にある小田原城です。この地には鎌倉幕府初代将軍・源頼朝に仕えた御家人・土肥遠平の居館があったといいます。室町時代、土肥氏は上杉禅宗の乱で失脚、鎌倉公方・足利持氏側についた大森氏が一帯を勢力下におきます。15世紀末、小田原城主・大森藤頼は韮山城主・伊勢盛時(北条早雲)に攻められ小田原城を放棄。盛時の嫡男・氏綱が小田原城に入り、以降、2代氏綱、3代氏康、4代氏政、5代氏直の居城となります。氏綱以降は北条を称し、鎌倉幕府の執権北条氏と区別するため後北条氏と呼ばれます。氏綱が北条を名乗っ
史官~太田和泉守~本能寺7回目信長様は喜ばれた。人質は菅屋九右衛門殿に預けられた。二月二日武田勝頼父子と武田典厩が木曽殿の謀叛を知り、新府今城から出陣した。武田軍は一万五千ほどで諏訪の上原に至って陣を据えた。勝頼は各方面への出撃を命じた。二月三日信長様は各方面から武田領への攻撃を命じた。駿河口からは徳川家康殿。関東口からは北条氏政殿。飛騨口からは金森五郎八殿。伊那口からは信長様と織田信忠殿。諸口から進軍するように命じられた。織田信忠殿・森勝蔵殿・団平八殿
【問題】武田信玄の娘・黄梅院が北条氏政に嫁いだのは、次のうち何にもとづくものか?【選択肢】甲江和与甲相駿三国同盟甲越同盟甲相越三和【正解】甲相駿三国同盟【解説】黄梅院は、武田・北条・今川氏の甲相駿三国同盟にもとづき武田・北条氏との間で婚姻についての交渉が進められた結果、天文23年(1554)北条氏政に嫁いだ。
東京に出張があったので、帰りに小田原に寄ってみました。小田原は北条5代の後、大久保家、稲葉家、そしてまた大久保家と領主が変わりましたが、市内では圧倒的に北条が人気があるようです。小田原駅前の北条早雲像。とてもダイナミカルな像です。小田原城。立派なお城です。銅門銅門の中では北条氏直を中心に評定が行われていました。これが北条氏直小田原城天守閣市内にある北条氏政(中央右)と氏照(中央左)の墓。氏政は氏直の父、氏照は氏政の弟。2人は秀吉の北
中学生の頃に出た、ファミコン版の「信長の野望」というゲームの影響で歴史が好きになった。で、このゲームの北条氏政公のグラフィックが好きで後北条氏贔屓になった。今も色々な歴史小説を読んでるんだけど、後北条氏が題材になっている本は見つけ次第買っている。読んでいて気になるのが、北条家筆頭家老の松田憲秀さんがとても嫌味な悪いヤツとして描かれていること。いや、わかるのよ。最終的に裏切ってるからね。筆頭家老なのに。そりゃあ悪者にはうってつけのキャラですよ。でもさ、ある程度優秀でなくちゃあの大きな家の筆頭
期間:2025/09/12〜09/16天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額戦)島津家久:勇敢老練の将戦)浅井長政:湖北仁義戦)北条氏政:兄友弟恭の慈戦)本願寺顕如:栄諧僧正戦)松平元康:欣求浄土の冀戦)今川氏真:優美平明の調戦)明智光秀:神智明晰戦)九鬼嘉隆:海賊大名©コーエーテクモゲームス
沼津市で国指定史跡長浜城10周年記念講演会まで時間があるので、少し散策に行きました。中央公園JR沼津駅の南、旧国道1号線沿いにあります。この場所は、かつて城だったのです。戦国時代には甲斐の武田勝頼が三枚橋城として築城。今川義元が桶狭間の戦いて討死すると、甲相駿三国同盟を破棄した武田信玄が駿河国に侵攻。海を手に入れた武田氏が、北条氏に対抗するため狩野川を挟んだ地に築城。武田勝頼と北条氏政は、沼津で度々小競り合いをする。武田氏滅亡後、徳川氏が治めます。幕末頃の沼津城JR沼津駅南口は
雑誌「歴史街道」の今月号に、「北条氏康の子供たち」という記事が掲載されています。歴史街道2025年9月号(特集1「奇跡の駆逐艦『雪風』」)Amazon(アマゾン)戦国時代、関東で活躍をした北条氏は、伊勢宗瑞(北条早雲)に始まり、氏綱、氏康、氏政、氏直と続き、いわゆる「五代百年」に渡って、関東に、支配地域を広げることになる。これほど、長期に渡って、しかも、順調に、支配地域を広げ続けた戦国大名は、北条氏以外に、存在をしない。戦国大名の中でも、希な存在です。中でも、初代の北条早
お酒に合うお気に入りのおつまみ教えて!▼本日限定!ブログスタンプ塩か味噌ですね。さて、本日は本当は何の日かといいますと…アイドルマスターに登場する、クールなお花屋さん系アイドルの渋谷凛ちゃんのお誕生日です。おめでとうございま〜す。渋谷凛(以下、し)「どうも」し「なんか今年はケーキが用意してあるって聞いたんだけど…」し「あ、これだね」し「ローソンのうちカフェの『パリッとしたチョコのもち食感ロール』だね」し「今年はちゃんと用意してあってよかったよ」し「中はこんな感じだね」
名称:長浜城別名:重須の城(オモスノシロ)城郭:連郭式山城築城年:不明築城主:不明改修者:北条氏政主要城主:大川氏?所在地:沼津市内浦重須指定文化財:国史跡堀跡虎口第四曲輪第三曲輪第二曲輪主郭腰曲輪縄張図
※2025年6月15日訪問※八幡山古郭跡を散策し、小田原駅の西口に向かって坂を下った先の道路上に【八幡曲輪】の石碑が建てられていました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼この地は古くは「裏大門」と呼ばれたところで「八幡曲輪」の地名は武家屋敷地としての名である。東西に延びる坂道の両側には藩の中堅武士の屋敷があり、江戸時代を通じて五軒の住まいがあった。幕末にはこの地名は単に「八幡山」とも呼ばれるようになった。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲ということで今回の小田原城散策は以上と
※2025年6月15日訪問※小田原高等学校の敷地内東側に設けられ散策路から東側の住宅地に降りて来ました住宅地の一角には【小田原城八幡山古郭】と書かれた案内板が建てられているので確認して行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼県立小田原高等学校と周辺一帯は、戦国時代の小田原北条氏の山の手側の中心部でした。その一角に北条氏と江戸時代大久保氏によって「八幡社」が祀られていたことから「八幡山古郭」と呼ばれています。いま天守がそびえている城址公園は、江戸時代の姿で整備が進んでいま
※2025年6月15日訪問※神奈川県立小田原高等学校の北側の道路の付近に【西曲輪西堀と三味線堀】と書かれた案内板が設置されていました発掘調査の結果、学校敷地の各所で戦国時代の遺構が検出されました。注目される成果としては「西曲輪西堀」「藤原平入堀」の大規模な「障子堀」の発見があげられます。「障子堀」とは、堀の中での敵兵の動きを封じるなど堀底の各所に壁状に土を堀り残して畝状の仕切りを設けた堀で、戦国時代の北条氏が多用したのが特徴です。両側の段上壁面は土砂の崩落を防ぐためのもので、遺構では
伊達家に反発してきた真田家をひねりつぶしました。北条・真田には煮湯を飲まされましたが、優先したのは真田討伐でした。官位もそれなりのところにはいきました。これで朝敵指定はされないはず。でも朝敵指定してきた羽柴政権を許せるはずもなく、越前まで進出しました。ここまで来れば、羽柴政権を薙ぎ倒して上洛でしょうか。しかし、目の上のたん瘤・北条は許せないです。攻めたものの、追い返される始末。羽柴政権だけでなく、北条に手を出したのは失敗だったか。やり直しプレイも検討してます。優秀な娘ちゃんを
※2025年6月15日訪問※テニスコートとなっている鍛治曲輪跡の南側、現在は小田原高等学校への通学路となっている道路上に何やら石碑を発見【八幡山】と彫られた石碑が建てられているので確認してみましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼この地には二つの八幡社があった。その一つは北条氏が鎌倉八幡宮から勧請したといわれ、江戸時代には「元宮」または「本丸八幡」と呼ばれた。他の一つは江戸時代初期小田原城主大久保忠世が祀ったものです。「新御宮」または「若宮八幡」とも呼ばれた。地名はこのよう
※2025年6月15日訪問※【三の丸外郭新堀土塁】の遺構を堪能し、神奈川県立小田原高等学校の西側の道路から北側に曲がったところにテニスコートが見えて来ましたこのテニスコートの周囲がかつての【鍛治曲輪】の跡だそうです✨【鍛治曲輪】と彫られた石碑が建てられているので確認してみましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼鍛治曲輪は丘陵地に位置し、小田原北条氏時代の重要な曲輪であったと考えられる。この地は早くからこの地名があったが、江戸時代前期の寛文二年(1662)小田原城主稲葉正則に
※2025年6月15日訪問※引き続き【三の丸外郭新堀土塁】を見て行きましょう✨こちらにも【国指定史跡小田原城跡三の丸外郭新堀土塁】の案内板が設置されていますね▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼小田原城を本拠地とする小田原北条氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉との小田原合戦を迎えるまでに、堀と土塁で周囲9㎞に渡る総構を構築しました。それ以前には、総構の内側に「新堀」と呼ばれる外郭がありました。この場所は新堀と土塁の名残が色濃く残る場所になります。ここは小田原城の西端で一部
※2025年6月15日訪問※小峯御鐘ノ台大堀切東堀を堪能し、市街地まで戻って来ましたこの小峯御鐘ノ台大堀切東堀から南東に接続するような形で造られていたのが【三の丸外郭新堀土塁】と呼ばれる遺構です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼三の丸外郭新堀土塁ここは、文献資料の記載から、天正15年(1587)には存在していたことが知られる「三の丸新堀」に伴う土塁を中心とした場所です。「三の丸新堀」は小田原北条氏の時代の堀の名称として、唯一確認出来るものです。総構が出来るまでは、小田原城の
※2025年6月15日訪問※平日の昼下がり、この広大な堀跡を独りで堪能しながら、新緑の中を歩いて行きます東堀の北側から南側に向かって歩いて行くと、正面に土塁が有り、左にクランク状に曲がる箇所にぶつかります✨いわゆる【横矢】が掛けられており、敵の侵軍を遅らせ、防衛する側は土塁上から多方面に攻撃をする事が出来る仕掛けですね✨当時の堀底には【障子堀】呼ばれる畝状の堀が存在していたようで、敵兵は楽に進むことは出来なかったと思われます小峯御鐘ノ台大堀切東堀の南端部分が見えて来ました写真やテレビ
※2025年6月15日訪問※東堀の堀底に入った場所には【小峯御鐘ノ台堀切東堀】の案内板が設置されているので確認しておきましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼現在、小峰御鐘ノ台大堀切東堀と呼んでいる堀は、本来は三の丸新堀の一部であり、もともとは小田原城の外郭の一部でもありました。その後、天正15年(1587)から、総構堀とともに小峰御鐘ノ台大堀切中堀、西堀が構築されたことで、小峯の丘陵を守る一連の堀切としての役割を担うようになりました。現状は土塁上から測った堀幅は25~30m、
※2025年6月15日訪問※北条氏時代の小田原城の遺構として、一番の見所と言っても過言ではないのが、【小峯御鐘ノ台大堀切東堀】です総構の最西端にあたる【水之尾口櫓台】から小峯御鐘ノ台大堀切西堀まで戻り、城山陸上競技場に続く道にガードレールを発見『川でも流れていて、橋が架かってちるのかな?』と思い、ふと右手を見てみると山の中を切り裂いたような巨大な堀切が目の前に現れたので、とても驚きました✨【小峯御鐘ノ台堀切東堀】と書かれた案内板が設置されていますね✨堀切に降りて行く柵には【小田原を守っ
※2025年6月15日訪問※先程の案内板とは違う案内板が道路の南側に設置されていたので、こちらも確認してみましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼天正18年(1590)、小田原北条氏は豊臣秀吉の来襲に備えて、小田原城と城下を周囲9㎞にわたって堀と土塁で囲んだ、総構を築きました。この場所は総構の最西端に位置し、標高120mの最高地点であり、箱根山からの尾根伝いの攻撃を防衛する位置にあたります。豊臣方の毛利家に伝来した『小田原陣仕寄陣取図』などには、海・陸から小田原城を取り囲む豊臣
※2025年6月15日訪問※小田原城の総構の最西端に位置する重要な拠点となったのが【水之尾櫓台】と呼ばれる高台です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼天正18年(1590)、豊臣秀吉は関東の覇者である小田原北条氏を攻めて、小田原を舞台に北条氏政・氏直親子と天下統一を決める合戦を行いました。北条方は秀吉の来襲に備え、小田原城と城下を周囲9㎞にわたって堀と土塁で囲んだ総構を築きました。この場所は総構の最西端の標高約120mの最高地点にあたり北条方と対峙した、豊臣方の陣地を望むことができま
※2025年6月15日訪問※小峯御鐘ノ台大堀切西堀のすぐ側には【香林寺山西土塁】と呼ばれる土塁が残されています✨よく見ると土塁の上に残る切株に【大外郭土塁】と書かれた案内板が設置されていますね✨土塁は奥に進むに連れて、削られてしまった為か高さが低くなってしまっています【←10m総構香林寺山西】と書かれた案内板が設置されており、土塁の向こう側は崖地になっているようでした土塁を見ながら更に西側に進んで行きます◆相模国・小田原城総構水之尾口櫓台/国指定史跡◆①に続く
※2025年6月15日訪問※稲荷森の堀切を堪能し、更に西側へと歩いて行くと、【↖️60m小峯御鐘ノ台大堀切西堀】と書かれた案内板が設置されています通路を進んだ平場には【史跡小田原城跡小峯御鐘ノ台大堀切西堀】と書かれた案内板が設置されているので確認して行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼城山公園の西側には、三つの巨大な堀と土塁が並列し、これらを併せて『小峯御鐘ノ台大堀切』と呼んでいます。このうち東堀は戦国時代の三の丸新堀と同時期につくられた堀ですが、西堀と中堀は、天正
※2025年6月15日訪問※山ノ神堀切からさらに西側に歩いて【稲荷森】と呼ばれる遺構を見学して行きます【史跡小田原城跡総構稲荷森】と書かれた案内板が設置されていますので確認して行きましょう▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼史跡小田原城跡総構稲荷森ここは字名から『稲荷森』と呼称している総構の一部で、総構の中でも最も良好に遺構が残っている場所のひとつです。ちょうど総構の堀が地形に沿って弧を描いている様子が確認出来る部分で、堀の姿が良く観察出来ます。内側には、わずかに土塁の痕
※2025年6月15日訪問※広大な土塁を見ながら奥に進んで行くと山ノ神堀切の【堀跡】と【土塁】を見る事が出来ます✨【史跡小田原城跡山ノ神堀切】の案内板が設置されているので確認して行きましょう▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼史跡小田原城跡山ノ神堀切戦国時代の小田原城の一画を形成した谷津丘陵上の通行を制約するために設けられた堀切が山ノ神堀切です。今のところ発掘調査が行われていないため、本来の堀の規模は確認出来ていませんが、現状よりさらに深い堀でかあったと考えられています。北
※2025年6月15日訪問※香沼姫の墓所に参拝し、北西に15分程歩いて、小田原城の総構まで戻って来ました細い道路を歩いていると、山の中腹に開けた平場を確認することができますが、こちらの遺構は【山ノ神堀切】と呼ばれる遺構ですこちらにも【総構】の案内板が設置されていますね✨草刈りもされており、非常に良好な状態で遺構が維持されていてありがたいですね✨画像ではわかりづらいかもしれませんが、実際に現地を訪れてみると、かなりの高さの土塁を目の当たりにすることが出来ます✨斜面を切り出した部分は壁の