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※2025年6月15日訪問※八幡山古郭跡を散策し、小田原駅の西口に向かって坂を下った先の道路上に【八幡曲輪】の石碑が建てられていました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼この地は古くは「裏大門」と呼ばれたところで「八幡曲輪」の地名は武家屋敷地としての名である。東西に延びる坂道の両側には藩の中堅武士の屋敷があり、江戸時代を通じて五軒の住まいがあった。幕末にはこの地名は単に「八幡山」とも呼ばれるようになった。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲ということで今回の小田原城散策は以上と
※2025年6月15日訪問※小田原高等学校の敷地内東側に設けられ散策路から東側の住宅地に降りて来ました住宅地の一角には【小田原城八幡山古郭】と書かれた案内板が建てられているので確認して行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼県立小田原高等学校と周辺一帯は、戦国時代の小田原北条氏の山の手側の中心部でした。その一角に北条氏と江戸時代大久保氏によって「八幡社」が祀られていたことから「八幡山古郭」と呼ばれています。いま天守がそびえている城址公園は、江戸時代の姿で整備が進んでいま
※2025年6月15日訪問※神奈川県立小田原高等学校の北側の道路の付近に【西曲輪西堀と三味線堀】と書かれた案内板が設置されていました発掘調査の結果、学校敷地の各所で戦国時代の遺構が検出されました。注目される成果としては「西曲輪西堀」「藤原平入堀」の大規模な「障子堀」の発見があげられます。「障子堀」とは、堀の中での敵兵の動きを封じるなど堀底の各所に壁状に土を堀り残して畝状の仕切りを設けた堀で、戦国時代の北条氏が多用したのが特徴です。両側の段上壁面は土砂の崩落を防ぐためのもので、遺構では
※2025年6月15日訪問※テニスコートとなっている鍛治曲輪跡の南側、現在は小田原高等学校への通学路となっている道路上に何やら石碑を発見【八幡山】と彫られた石碑が建てられているので確認してみましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼この地には二つの八幡社があった。その一つは北条氏が鎌倉八幡宮から勧請したといわれ、江戸時代には「元宮」または「本丸八幡」と呼ばれた。他の一つは江戸時代初期小田原城主大久保忠世が祀ったものです。「新御宮」または「若宮八幡」とも呼ばれた。地名はこのよう
※2025年6月15日訪問※【三の丸外郭新堀土塁】の遺構を堪能し、神奈川県立小田原高等学校の西側の道路から北側に曲がったところにテニスコートが見えて来ましたこのテニスコートの周囲がかつての【鍛治曲輪】の跡だそうです✨【鍛治曲輪】と彫られた石碑が建てられているので確認してみましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼鍛治曲輪は丘陵地に位置し、小田原北条氏時代の重要な曲輪であったと考えられる。この地は早くからこの地名があったが、江戸時代前期の寛文二年(1662)小田原城主稲葉正則に
※2025年6月15日訪問※引き続き【三の丸外郭新堀土塁】を見て行きましょう✨こちらにも【国指定史跡小田原城跡三の丸外郭新堀土塁】の案内板が設置されていますね▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼小田原城を本拠地とする小田原北条氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉との小田原合戦を迎えるまでに、堀と土塁で周囲9㎞に渡る総構を構築しました。それ以前には、総構の内側に「新堀」と呼ばれる外郭がありました。この場所は新堀と土塁の名残が色濃く残る場所になります。ここは小田原城の西端で一部
※2025年6月15日訪問※小峯御鐘ノ台大堀切東堀を堪能し、市街地まで戻って来ましたこの小峯御鐘ノ台大堀切東堀から南東に接続するような形で造られていたのが【三の丸外郭新堀土塁】と呼ばれる遺構です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼三の丸外郭新堀土塁ここは、文献資料の記載から、天正15年(1587)には存在していたことが知られる「三の丸新堀」に伴う土塁を中心とした場所です。「三の丸新堀」は小田原北条氏の時代の堀の名称として、唯一確認出来るものです。総構が出来るまでは、小田原城の
午前中のお仕事を終えた後、午後から妻と小田原でした。ういろうのお店でスイーツ、小田原城天守閣とめぐりまして、帰りにアジフライを食べてきました。
※2025年6月15日訪問※平日の昼下がり、この広大な堀跡を独りで堪能しながら、新緑の中を歩いて行きます東堀の北側から南側に向かって歩いて行くと、正面に土塁が有り、左にクランク状に曲がる箇所にぶつかります✨いわゆる【横矢】が掛けられており、敵の侵軍を遅らせ、防衛する側は土塁上から多方面に攻撃をする事が出来る仕掛けですね✨当時の堀底には【障子堀】呼ばれる畝状の堀が存在していたようで、敵兵は楽に進むことは出来なかったと思われます小峯御鐘ノ台大堀切東堀の南端部分が見えて来ました写真やテレビ
※2025年6月15日訪問※東堀の堀底に入った場所には【小峯御鐘ノ台堀切東堀】の案内板が設置されているので確認しておきましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼現在、小峰御鐘ノ台大堀切東堀と呼んでいる堀は、本来は三の丸新堀の一部であり、もともとは小田原城の外郭の一部でもありました。その後、天正15年(1587)から、総構堀とともに小峰御鐘ノ台大堀切中堀、西堀が構築されたことで、小峯の丘陵を守る一連の堀切としての役割を担うようになりました。現状は土塁上から測った堀幅は25~30m、
※2025年6月15日訪問※北条氏時代の小田原城の遺構として、一番の見所と言っても過言ではないのが、【小峯御鐘ノ台大堀切東堀】です総構の最西端にあたる【水之尾口櫓台】から小峯御鐘ノ台大堀切西堀まで戻り、城山陸上競技場に続く道にガードレールを発見『川でも流れていて、橋が架かってちるのかな?』と思い、ふと右手を見てみると山の中を切り裂いたような巨大な堀切が目の前に現れたので、とても驚きました✨【小峯御鐘ノ台堀切東堀】と書かれた案内板が設置されていますね✨堀切に降りて行く柵には【小田原を守っ
※2025年6月15日訪問※先程の案内板とは違う案内板が道路の南側に設置されていたので、こちらも確認してみましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼天正18年(1590)、小田原北条氏は豊臣秀吉の来襲に備えて、小田原城と城下を周囲9㎞にわたって堀と土塁で囲んだ、総構を築きました。この場所は総構の最西端に位置し、標高120mの最高地点であり、箱根山からの尾根伝いの攻撃を防衛する位置にあたります。豊臣方の毛利家に伝来した『小田原陣仕寄陣取図』などには、海・陸から小田原城を取り囲む豊臣
※2025年6月15日訪問※小田原城の総構の最西端に位置する重要な拠点となったのが【水之尾櫓台】と呼ばれる高台です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼天正18年(1590)、豊臣秀吉は関東の覇者である小田原北条氏を攻めて、小田原を舞台に北条氏政・氏直親子と天下統一を決める合戦を行いました。北条方は秀吉の来襲に備え、小田原城と城下を周囲9㎞にわたって堀と土塁で囲んだ総構を築きました。この場所は総構の最西端の標高約120mの最高地点にあたり北条方と対峙した、豊臣方の陣地を望むことができま
※2025年6月15日訪問※小峯御鐘ノ台大堀切西堀のすぐ側には【香林寺山西土塁】と呼ばれる土塁が残されています✨よく見ると土塁の上に残る切株に【大外郭土塁】と書かれた案内板が設置されていますね✨土塁は奥に進むに連れて、削られてしまった為か高さが低くなってしまっています【←10m総構香林寺山西】と書かれた案内板が設置されており、土塁の向こう側は崖地になっているようでした土塁を見ながら更に西側に進んで行きます◆相模国・小田原城総構水之尾口櫓台/国指定史跡◆①に続く
※2025年6月15日訪問※稲荷森の堀切を堪能し、更に西側へと歩いて行くと、【↖️60m小峯御鐘ノ台大堀切西堀】と書かれた案内板が設置されています通路を進んだ平場には【史跡小田原城跡小峯御鐘ノ台大堀切西堀】と書かれた案内板が設置されているので確認して行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼城山公園の西側には、三つの巨大な堀と土塁が並列し、これらを併せて『小峯御鐘ノ台大堀切』と呼んでいます。このうち東堀は戦国時代の三の丸新堀と同時期につくられた堀ですが、西堀と中堀は、天正
※2025年6月15日訪問※山ノ神堀切からさらに西側に歩いて【稲荷森】と呼ばれる遺構を見学して行きます【史跡小田原城跡総構稲荷森】と書かれた案内板が設置されていますので確認して行きましょう▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼史跡小田原城跡総構稲荷森ここは字名から『稲荷森』と呼称している総構の一部で、総構の中でも最も良好に遺構が残っている場所のひとつです。ちょうど総構の堀が地形に沿って弧を描いている様子が確認出来る部分で、堀の姿が良く観察出来ます。内側には、わずかに土塁の痕
※2025年6月15日訪問※広大な土塁を見ながら奥に進んで行くと山ノ神堀切の【堀跡】と【土塁】を見る事が出来ます✨【史跡小田原城跡山ノ神堀切】の案内板が設置されているので確認して行きましょう▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼史跡小田原城跡山ノ神堀切戦国時代の小田原城の一画を形成した谷津丘陵上の通行を制約するために設けられた堀切が山ノ神堀切です。今のところ発掘調査が行われていないため、本来の堀の規模は確認出来ていませんが、現状よりさらに深い堀でかあったと考えられています。北
※2025年6月15日訪問※香沼姫の墓所に参拝し、北西に15分程歩いて、小田原城の総構まで戻って来ました細い道路を歩いていると、山の中腹に開けた平場を確認することができますが、こちらの遺構は【山ノ神堀切】と呼ばれる遺構ですこちらにも【総構】の案内板が設置されていますね✨草刈りもされており、非常に良好な状態で遺構が維持されていてありがたいですね✨画像ではわかりづらいかもしれませんが、実際に現地を訪れてみると、かなりの高さの土塁を目の当たりにすることが出来ます✨斜面を切り出した部分は壁の
帰りは一碧湖等行く予定でした?途中いつも切り花を購入する「いで湯っこ市場」によるS氏にとっては彼の奥様からの最大のミッションでありましたY氏も亡き奥様に購入私もつられて紫陽花が好きだった亡き母に購入(S氏が選定してくれました)あとホタテの佃煮をかったはずだが行方不明です。あっ!👀が点目の前に紫陽花があるではないかねむの木途中、熱海の海岸通にジャガランダが咲いていましたが、お構いなく小田原に向かったのでした。小田原城到着最上階から展望、歴史に名高
※2025年6月15日訪問※城山第一公園となっている香沼屋敷跡から住宅街に続く小道を南西に登った坂道の中腹に【香沼姫の墓】が建てられています住宅と住宅のわずかな隙間に残されているお墓なので、最初は気付かず通り過ぎてしまいましたが、細い道を入って墓所に参拝させて頂くことに香沼姫に関しては小田原北条氏二代・氏綱の娘と長らく伝わって来たようですが、現在では北条氏綱の子である高原院崎姫の娘という説が有力との事生涯を独身で過ごしたとされていますが、詳細な資料が残っておらず謎多き女性のようですね✨
※2025年6月15日訪問※小田原城総構《神ノ台地区》から坂道を15分程下って【香沼屋敷跡】まで歩いて来ました🚶香沼屋敷跡は現在【城山第一公園】として整備されています一見すると住宅街の中に有る普通の公園ですね⛲公園奥の壁面に【小田原城下香沼屋敷跡第Ⅲ地点】と書かれた案内板が設置されているので確認して行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼小田原城下香沼屋敷跡第Ⅲ地点入谷津地区には、北条氏綱の子である高原院崎姫の娘と言われる香沼姫の屋敷があったとされています。周辺は小田
※2025年6月15日訪問※小田原城総構の城下張出地区を散策し、住宅街を更に西側に登って行きます🚶10分くらい歩いて《神ノ台地区》と言う地区に到着ここにも【総構】の遺構が残されています✨【国指定史跡小田原城総構】と書かれた案内板が建てられていますね✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼国指定史跡小田原城総構この場所は小田原城の土塁と空堀の跡が良く残されていることから、貴重な国民的財産として後世に伝えるために昭和13年に国の史跡に指定されました。この土塁と空堀は、天正18年
※2025年6月15日訪問※先程の総構(城下張出(平場))から坂道を少し下った所には【総構(城下張出(堀・土塁))】の遺構を見る事が出来ます【国指定史跡小田原城跡総構城下張出(堀)】と書かれた案内板が設置されていますね✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼国指定史跡小田原城跡総構城下張出(堀)この場所は小田原城跡総構城下張出の東側を巡る空堀が位置した場所です。現在でも雛壇状に東側へ下がって行く堀の様子が確認出来ます。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲こちらにも【総構城
※2025年6月15日訪問※浄源寺地区から西側、住宅街の中の細い急坂を登って行くと小田原城の【総構(城下張出(平場跡))】にたどり着きます✨【国指定史跡小田原城跡総構城下張出(平場)】と書かれた案内板が設置されているので確認して行きましょう▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼国指定史跡小田原城跡総構城下張出(平場)戦国時代に小田原北条氏が総構を造った際、地形を利用して総構のラインから張り出す形で突出させた部分を『城下張出』と呼称しています。これにより総構に取り付く敵兵に
※2025年6月15日訪問※数年振りに神奈川県小田原市の【小田原城跡】を散策して行きたいと思います以前、小田原城を訪れた際は再建された天守などを含め、いわゆる『江戸時代に整備された小田原城』を散策しましたが、今回は『戦国時代の北条氏の小田原城の遺構』を中心に見て回りたいと思います小田原駅西口を出て西側に歩いて行くと県道74号線にぶつかります🚶この県道74号を右に曲がり坂道を登って丘陵を越えた辺りに【小田原城総構~谷津御鐘ノ台から城下張出一帯~】と書かれた案内板が建てられています✨▼▼▼
ブログ主です。当ブログへのご訪問ありがとうございます。27日、気象庁は「九州南部、九州北部、四国、中国、近畿の各地方が梅雨明けしたとみられる」と発表しました。沖縄地方が今月8日に平年より13日、昨年より12日早く梅雨明けした時点で、本土も梅雨明けが早いとは思っていましたが、九州南部、九州北部、四国、近畿がそれぞれ例年より18~22日も早く梅雨明けしたという事で、近畿地方を例に取ると、梅雨の期間自体も18日と1951年以降二番目に短いとの事です。そうなると、まず心配なのは十分な降雨量
ひでです。お早うございます。川越城は11月14日に行ったお城です。これで去年行ったお城シリーズは終わりです。今年行ったのは・・・夏ごろ書きます。笑場所:埼玉県城主:太田道灌→扇谷上杉氏→北条氏→堀田氏→大河内松平氏→柳沢氏→秋元氏→結城松平氏→松井松平氏石高:酒井時代1万石。最大は結城松平時代で17万石別称:初雁城来歴:当時古河公方と争っていた扇谷上杉家が太田道灌に命じて作ったのが川越城の最初だと言われています。その後、扇谷上杉家の居城となった川越城ですが、当初は規模も小さかったと思わ
戦国時代関東の覇者として君臨した、後北条氏の本拠地小田原城に行きました。前回は平成の大改修が終わった時に登城、実に9年ぶりです。正規登城ルートから天守閣へ行きます。お掘り馬出門平成21年に復元隅櫓と学橋内冠木門銅門と住吉橋切石敷井戸跡馬屋曲輪二重櫓雁木二ノ丸観光案内所無料で小田原城のガイドをしています銅門平成9年に復元本丸へ行く大手筋に設けられた枡形門住吉橋を渡り門を潜ると広い枡形になっています敵が侵入しても、正面・側面から攻撃が出来ます。扉の飾り金具に銅が
さて、こちら『【信長の野望20XX噺】第10回総選挙・祝賀の宴(4)』さて、前回『【信長の野望20XX噺】第10回総選挙・祝賀の宴(3)』さて、前回『【信長の野望20XX噺】第10回総選挙・祝賀の宴(2)』さて、昨日『【信長の野…ameblo.jpの続き。いよいよラスト。本日最初は星4戦術家浅野長政さん吟味済み。『【信長の野望20XX噺】武門の源流』せっかく大河で鎌倉やってるんだから、同じ平安でも末期か、いっそ鎌倉時代を実装すれば良いのに……と思うのは私だけか?商売っ気ってもっと