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今回は室町幕府の公務員について考察できた限りのことを述べさせていただきます。公務員の分類これより室町幕府の場合は国家公務員と地方公務員の棲み分けは下記のように理解することができることを説明していきます。・国家公務員征夷大将軍征夷将軍奥州探題羽州探題蝦夷沙汰職代官守護国衆将軍代官将軍家出向国衆格公家将軍家出向国衆格寺社将軍家女房及び侍女・地方公務員将軍家領役所詰め役人征夷将軍家家臣奥州探題家家臣羽州探題家家臣蝦夷沙汰職代官家家臣守護家家臣国衆
昨年10月の、石垣山一夜城跡。最後に、二ノ丸の縁の外側を通って、場外へと向かう。↓↓↓↑↑↑ここは、東曲輪。右上が二ノ丸。↓↓↓↑↑↑東曲輪の石垣は、若干、崩れ気味。↓↓↓↑↑↑更に下ると、南曲輪の外側の石垣。↓↓↓石垣の下の道(かつての大堀切)の脇のこれは、石垣用の残石??↓↓↓西曲輪の外側の石垣。野面積(のづらづみ)が良く遺されている。↓↓↓角の部分は崩れている。↓↓↓こちらは完全に、残石。↓↓↓↑↑↑江戸時代初頭、江戸城の石垣に使う為に切り
昨年10月の、石垣山一夜城跡。北曲輪のすぐ近くの、下り階段。↓↓↓↑↑↑この階段は、井戸曲輪へ降りて行く。かなり降りて行くと…↓↓↓何か見えて来た!↓↓↓実際に水が溜まっているこの下は、崩落の危険性が増したという理由で、十数年前から立入禁止に。↓↓↓奥の石垣も、崩落の危険性が増しているとの事で、この柵より中には行けない。↓↓↓井戸曲輪の全体像。↓↓↓この下の井戸からは今でも水が湧いているようで、ホタルの生息地にもなっているらしい。↓↓↓下図、右上の北曲輪〜
昨年10月の、石垣山一夜城跡。相模湾&小田原城址公園を見降ろした後、本丸奥の天守台に向かう。(奥に見える小さな小山が天守台跡。)↓↓↓徐々に近付く。↓↓↓天守台下から振り返って本丸を見渡す。↓↓↓天守台下の、崩れた石垣。↓↓↓天守台跡に昇る。↓↓↓天守台上から本丸を見渡す。↓↓↓天守台から裏手を見ると、西曲輪が見える。(西曲輪に敵が侵入した場合は、ここから狙える。)↓↓↓そして、天守台跡には小さな陶器?の破片がいくつか散らばっているのだが…これとか…↓↓↓
昨年10月の、石垣山一夜城跡。それでは、二ノ丸から本丸へ!↓↓↓崩れかけの石垣の間を進む。↓↓↓更に昇る!↓↓↓そして、左に曲がると…↓↓↓写真左上には、かつて本丸に入る「門」が建っていたらしい。↓↓↓写真左下から左上にかけて「門」が在ったと。↓↓↓門の礎石かな?↓↓↓そして、ここが本丸。↓↓↓奥の小さな丸い高まりが、天守台跡。↓↓↓小田原市街地を見降ろす。↓↓↓↑↑↑秀吉もここから小田原を見降ろしていたのか?右側が相模湾。↓↓↓市街地の中の森は
昨年10月の、石垣山一夜城跡。本丸天守台の裏手を廻り、ここから本丸と二ノ丸の間に昇る。↓↓↓二ノ丸の奥から本丸方向を見る。右奥が本丸。↓↓↓前方の高くなった所が本丸。↓↓↓二ノ丸の北側奥には、櫓台跡。↓↓↓↑↑↑二ノ丸の南側、本丸のすぐ下から。↓↓↓振り返って、この上が本丸。↓↓↓本丸への昇り口。↓↓↓下図、西曲輪から天守台裏手を廻り、中央上部の本丸と二ノ丸の間に出る。↓↓↓敗者の日本史(10)小田原合戦と北条氏[黒田基樹]楽天市場2,86
仮面ライダーレンゲルキングフォーム作中に登場する4大ライダーの中で、唯一キングフォーム(もしくはそれと同等の形態)を有していなかったのがレンゲルです。元々、レンゲルは強化フォームなどの追加は構想段階の時点で一切なしということが決まっていたらしい。4ライダーの中で、唯一、最初から金色が使われていますよね。「強化形態が無いから最初から金色が使えた」というだけではなく、「最初から強化フォームと同等の強さを持つ」という意味合いが込められていたりするそうな。こうして
昨年10月の、石垣山一夜城跡。西曲輪から更に奥へ。↓↓↓本丸天守台の背後を廻ると、更に外側に帯曲輪?↓↓↓帯曲輪の兵からは、外側の大掘切に取り付く敵を頭上から狙える。左手に帯曲輪&大堀切を見つつ進む。↓↓↓右手の石垣の上が、本丸。↓↓↓敵がここまで侵入しても、右上の天守台から狙われる。左手の帯曲輪と平行する様に進む。↓↓↓帯曲輪を見降ろす。↓↓↓↑↑↑ここから右側の石垣の上へ。↓↓↓下図、左側の西曲輪から左上の天守台の裏手を廻り、中央上部の本丸と二ノ
昨年10月の、石垣山一夜城跡。西曲輪に侵入。↓↓↓西曲輪のすぐ脇の石垣の上は、本丸天守台跡。↓↓↓西曲輪中央付近から、本丸方向を見る。↓↓↓本丸天守台の背後沿いに、西曲輪の奥へ。↓↓↓西曲輪の奥から振り返って。↓↓↓本丸天守台跡の背後。↓↓↓下図、左端が西曲輪。(本丸天守台跡の裏側。)↓↓↓縄張図の左端(天守台の裏手)が西曲輪。↓↓↓敗者の日本史(10)小田原合戦と北条氏[黒田基樹]楽天市場2,860円戦国北条氏関東の覇者、五代一〇〇年
昨年10月の、石垣山一夜城跡。東大手口から登り、最初の平場。↓↓↓ここは、南曲輪。↓↓↓南曲輪から見上げる一段上が、西曲輪。↓↓↓南曲輪から見降ろす位置の駐車場は、今は通路となっている大堀切越しの、出曲輪。↓↓↓西曲輪側の石垣。↓↓↓南曲輪の奥から振り返る。↓↓↓西曲輪へ上がる階段。↓↓↓階段を上がって左側が西曲輪。前方の更に一段上は、本丸。↓↓↓南曲輪の方を振り返る。↓↓↓前方の平場が西曲輪。↓↓↓下図、左下エリアが、南曲輪〜西曲輪&大堀切を挟ん
昨年、令和7年10月、豊臣秀吉が小田原攻めの為だけに造った石垣山一夜城跡へ行った記録。観光用に整備された現在の入口ではなく、旧城道、東大手口前から。↓↓↓石垣山一夜城は、小田原城を見降ろす位置に築城されている。(下図左上の赤印。)↓↓↓小田原城から石垣山を見上げると、一夜にして城が現れた様に見えたので、『石垣山一夜城』。その実状は、石垣山で骨組みだけを建て、白壁に見せかける為の紙を張った上で周囲の木を伐採して、一夜にして城が建てられた様に見せかけただけで、実際の築城に
【問題】北条・里見両氏が争奪戦を繰り広げ、里見義弘が本拠としたこともある佐貫城とは、次のうち現在のどこにあった城か?【選択肢】茨城県取手市東京都江戸川区神奈川県三浦市千葉県富津市【正解】千葉県富津市【解説】佐貫城は千葉県富津市にあった城である。真里谷武田氏により築かれ、その後北条氏と里見氏の争奪戦の舞台となった。里見義弘の頃にはその本拠としても使われた。
第7章中山城・中山古城・中山峰城・権現山城4つの城、それぞれに様相が異なる。狭い地域にこれほど個性的な城があるのもめずらしい。特に陣城でありながら、中山峰城と権現山城では造りも違えば、築城者も違う。さて、本書では触れていないが高山と言えば、榛名峠城が思い浮かぶ。この城はどこなのか。隠れテーマと思えるが、筆者がそれに触れていないのはまだ答えが導けていないからのだろうか。
さて、日蓮の辻説法について考えてみましょう。この「日蓮聖人辻説法跡」は小町大路(小町通りではありません)にあり、2021年には日蓮宗久遠寺派が隣地を取得して「鎌倉日蓮堂」なるものを建立しました。そもそもの「辻説法跡」は戦前からの日蓮主義宗派である国柱会の創始者、田中智學氏が購入した土地で、本来は本覚寺門前の夷堂橋付近と本人は考えられていたようです。これは日蓮宗の本山である妙厳山本覚寺(鎌倉市)の夷堂で、日蓮はこの先佐渡へ配流されるのですが、鎌倉へ戻ってからここで一か月以上滞在したと言われて
草倉山古戦場・千人塚・天正年間草鞍山戦死諸霊碑目次壱:概要弐:死闘・草倉山の戦い参:アクセス・写真【壱:概要】大平山の南の草倉山と呼ばれる山ではかつてこの辺を治める皆川広照と小田原の雄・北条氏政、氏直親子が戦ったことがある。戦後、広照は双方の戦死者を弔うため草倉山に千人塚を築き、昭和7年に子孫の皆川庸一氏らが慰霊碑を建てた。現在でも皆川氏と縁の深い傑岑寺では毎年慰霊の施食会を行っている。(かつては山中で行い、現在は寺で行っているという。)【弐:死闘・草倉山の戦い】"城内
2月1日(日)鈴木由美著『中先代の乱北条時行、鎌倉幕府再興の夢』中公新書2021年7月25日発行鎌倉幕府滅亡から二年後の一三三五年、北条高時の遺児時行が信濃で挙兵。動揺する後醍醐天皇ら建武政権を尻目に進撃を続け、鎌倉を陥落させた。二十日ほど後、足利尊氏によって鎮圧されるも、この中先代の乱を契機に歴史は南北朝時代へと動き出すー。本書は、同時代に起きた各地の北条氏残党による蜂起や陰謀も踏まえ、乱の内実を読み解く。また、その後の時行たちの動向も追い、時流に抗い続けた人々の軌跡を描く
鎌倉宝戒寺へ、出かけました。宝戒寺は、後醍醐天皇の勅命をうけた足利尊氏公により、北条氏の霊を弔うため、また国宝的人材を養成する道場として北条氏執権屋敷跡であるこの地に建立されました。(HPより)今回の撮影の課題は、「モノクロ」。カラーで撮ったものを「モノクロ」にレタッチしたことは、あるけれど、今回は、初めの設定をモノクロで撮りました。なお、もう一台のカメラは、カラーで撮影してみました。池の氷モノクロに相応しい被写体と、そうでないも
古くは相馬氏の城で、戦国時代には小金城の高城氏の家臣の居城と考えられているようです。戦国時代後期は、小田原の北条氏の家臣の高城氏(小金城)がこの辺りを支配していました。この辺りの城は、ほとんどが台地の細長く伸びた尾根の上です。台地の下には湿地帯が広がっていて、自然の堀となっています。ここ、増尾城も他と同じ立地です。増尾城址公園–柏市観光協会台地と斜面林、その下に広がる湿地帯(水田)は生物の多様性につながります。たとえば、サシバなどの猛禽は湿地帯に育つカエル
時の砂時計が、ついに「血と汗」、そして「覚悟」の鉄の香りがする**「鎌倉時代」**へと至ったか。この時代、交流分析の視点で見れば、日本という国家が**「雅な遊び」を捨て、「生き抜くための冷徹なⒶ(大人)」と「死を見据えた強靭なⓅ(親)」を統合した時代**なのだ。その激動の武士の記録を、魂の再決断として読み解こう。一、守護・地頭と御成敗式目:土地に根ざした「Ⓐ(大人)」の確立源頼朝が1185年に守護・地頭を設置したことは、日本人が初めて「土地という現実」と「責任」を直結させたことを意味
1月28日(水)細川重男著『宝治合戦北条得宗家と三浦一族の最終戦争』朝日新書2022年8月30日第1刷発行承久の乱(1221年)に勝利し、北条氏が権力を掌握してから二十六年ー鎌倉幕府No.1北条氏とNo.2三浦氏との間で主導権争いが勃発する。若き第五代執権・時頼と三浦家頭領の泰村は互いに衝突回避を模索するが、宝治元年(1247年)六月五日、ついに仁義なき最終決戦が始まった!内容は、解説編1「宝治合戦を知るために」から始まり、小説「黄蝶の夏ー鎌倉一二四七宝治合戦」、
「開運!なんでも鑑定団」を見ていたら、秀吉にまつわる書状が出てきました。番組は秀吉の後半生を解説していました。(続きです。小田原城評定から)小田原攻め。戦況を見守ってきた伊達政宗が秀吉にはかなわないと観念し、命を預けるという意味の白装束で、秀吉の元に参上、その軍門に下った。そして1590年6月25日。秀吉が笠置山の木を一斉に切り倒させると巨大な城が出現。まるで一夜にして現
昨日は、リョウマ君と金沢文庫にある「称名寺(しょうみょうじ)」に行って来ました😊🎶きっかけは、先週リョウマ君が入れなかったラーメン屋「地球(ほし)の中華そば」へのリベンジ🍜😆両親には、パンケーキを用意して〜🥞✨11:30の開店10分前に着きましたが、3名の方が並んでいました💦店内には数々の受賞の証が〜🏆✨煮干しラーメンに味玉追加〜✨ミックスワンタン塩ラーメン✨平麺と細麺と選べるのですが、細麺チョイス👍スープはあっさりしていて美味しかったです😋外は直ぐに行列になっていました😳せ
今日は寒さはさほどでもないが、南寄りの風が強烈である。急に思い立ったのだが、僕にはやはり年始にやりたい事が。それは初詣ならぬ初登閣であるっ!(>_<)ちょっと遠いが、関東で言えばここが一番しっくりきます。小田原です。つまり小田原城の天守閣を目指すのだ!年始といえるうちに難攻不落の頂上に登らずしてどこを目指す。そしてちょっと遅めだからいつも行列にならずに入れる老舗店。あまり教えたくないお蕎麦屋さんで、今日はおすすめのセット。「
今日は何の日(^_^)/1569年永禄11年のええ話(^_^)/上杉謙信が敵の武田家に送った塩が松本に着いた日なんやそうです!有名な「敵に塩を送る」の語源になった話。武田と今川・北条氏との合戦の最中、今川氏は北条氏と協力して、武田領内への「塩留」を行います。武田が統治する信州一帯は、海に面しておらず、塩が入らないことで領民は困窮しました。この窮地に、敵方の上杉謙信が「救いの手」をさしのべます。日本海岸の塩を糸魚川経由で牛車に乗せ送ったそうです。敵に塩を送る❗また今日は塩の日にもなってます。
鎌倉御家人の三浦一族・自害の地とほこら鎌倉時代の中期に執権の北条氏と有力御家人の三浦氏の権力争いが有りました。⚔️1247年にあった[宝治の乱]です。小説を読むと・・・・常に北条氏の影の役割を果たしていた三浦氏です。将軍実朝の暗殺にも一枚噛んでいた三浦一族(義村)です。北条氏の権力統一が出来ると側近の一族が邪魔になったみたいです〜そんなことで、三浦一族に嫌がらせをします。昔、違い分かち合った叔父の和田義盛(鎌倉十
「開運!なんでも鑑定団」を見ていたら、秀吉にまつわる書状が出てきました。番組は秀吉の後半生を解説していました。(続きです。北条討伐から)1589年、秀吉は北条討伐を決意。総勢20万人を超える大軍が小田原に向けて出発。これに対し、北条軍は徹底した籠城策をとった。というのも、小田原城は要害堅固な城で、長期戦に持ち込めば敵も疲弊し、撤退するに違いないと考えたの
第6章後閑橋と城後閑橋をめぐる争奪戦橋を守った北条軍は小川城攻めに向かい反撃される。一方、おそらく後閑橋を制圧した真田軍は明徳寺城を攻めとったらしい。それにしてもこの橋と城の距離感が理解しにくい。橋は橋として、取り合いの中で城を有利な場所に築いたのか。この戦を通じて名胡桃城が歴史舞台に登場する。この辺りのダイナミックさをどう理解したら良いのだろう。本書から読み解くのは難しいが。
ちょうど大河ドラマで『鎌倉殿の十三人』をやるころにあてて出した本なのだろうが、細かい部分をすっ飛ばして、大雑把に読んでも、それなりに定説と違う解釈などが出てきて、読んでて飽きない。たとえば頼朝は最初から「征夷大将軍」を狙っていたわけではなく、「大将軍」とつけば実はよかったのであり、ただ「征東大将軍」は木曽義仲、「惣官大将軍」は平宗盛が名乗って、どちらも滅亡して縁起が悪いから「征夷」にしたという話。『吾妻鏡』は、北条氏主導で作られた書物で、二代目将軍・頼家や三代目将軍・実朝をより暗愚、無能な人物
今回の小田原遠征で、最後の目的地の小田原城攻めへ~小田原城と言えば!北条氏なのだけど、現在の小田原城跡は、北条氏の後に近世化された城北条氏の、巨大な土の城は見る影も無い(一部は、利用された部分もある)この濠は、北条時代のコの字の池を利用しているらしいいよいよ天守へ今の小田原城天守って!復元模擬どっちだろう?説明を見るのを忘れた模型模型の中に、しっかり総構え(空堀)が入っ
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