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2024/3/8(金)田崎橋→健軍町熊本市電A系統の始発駅、田崎橋田崎橋は熊本駅前の電停から2駅JR熊本駅から歩いて10分ほど熊本市電はA系統とB系統の2系統A系統は田崎橋から、B系統は上熊本から、いずれも健軍町に向かう熊本駅前の電停JR熊本駅からすぐ辛島町でA系統とB系統が合流するこのあたりから繁華街熊本城・市役所前熊本城の近くを走りますなお写真に写っているのは天守ではなく櫓の1つ熊本城周囲
あずみ2DeathorLove2005年3月12日公開刺客として戦い続けなければならない宿命を背負った少女剣士の生き様を描く時代活劇の続篇。あらすじ浅野長政、加藤清正の暗殺に成功した徳川軍の刺客・あずみとながらは、半蔵の部下として家康の側近・天海に仕える伊賀忍者衆のくノ一・こずえと共に、残る標的・真田昌幸を討つべく、彼が幽閉蟄居されている九度山に向けて旅を続けていた。だがその途中、あずみはかつて使命の為に自ら手にかけた初恋の相手・なちと瓜二つの野盗青年・銀角と出会う。彼の姿になちを重
おはようございますはるなです今回の熊本旅はビジネスホテルではありますが、事実上、ホテルステイになってしまいましたもう眠くて眠くてひたすらベッドの上でぐうたらしていたい観光なんて無理温泉入って食っちゃ寝してたいな、気分で、もう本能に従いましたそれでも熊本城だけは行ってきましたよ。ご城印と御朱印集めをしているので春バージョン加藤神社で御朱印もいただいてきました加藤清正さん、大好きな武将の1人です
天海(125)遠山邸での宴が終わると、康政は番替で江戸に戻っていった。年の瀬も押し迫った慶長3年(1598年)12月29日、義弘・忠恒父子が伏見城に登城した。西ノ丸の家康は、二人を手放しで歓迎したのである。「泗川での合戦、実に見事であった。前代未聞の大勝利であったと聞く。是非お話を聞かせてもらいたい。」と満面の笑みで言うのだ。謙遜する義弘を尻目に、忠恒は口角泡を飛ばして、武勇伝を話し始めたのだ。義弘が窘めるものの、話が面白いので、満座の者どもは大喜びである。
名称:丸岡城城郭:連郭式平山城築城年:鎌倉時代?築城主:武藤氏?主要城主:武藤氏、上杉氏、最上氏所在地:鶴岡市丸岡字町ノ内68指定文化財:県指定史跡水堀石敷道路馬出大手門御書院御袋様館御蔵長屋井戸水路御風呂屋案内図加藤清正墓碑
トラのことばかり考えていると「トラ脳」になるのではと本氣で思っているトラ子です先日、やっと都合が合った友人とランチへすみれ色のメロンソーダ色はすみれ色で飲むとメロンソーダビストロプレート女子が好む、多種類ちょこっとずつデザートはミニマロンシャンテリー楽しいランチでしたお祝いに、、、とプレゼントを頂きとてもhappyな気持ちにありがとうございます良かったネbyブラン相変わらずイケトラです実はこのランチの時もトラの話を聞いてもらってました今日は少し時間ができたので
名古屋駅のコインロッカーに大きい荷物を預け愛知の魅力発見ツアーに参加しました。ガイド付のバスに乗って先ずは名古屋城に行きました。この正門は馬車が通れる様に明治43年に皇居の蓮池御門が移築されたそうです。徳川家康が豊臣家を牽制するために建てた名古屋城、第二次世界大戦で焼けてしまった1945年に再築されたそうです。昭和実測図があったため外側は本物通りに再現できたが、現市長は中も鉄筋ではなく再現したいが文化庁が「石垣は当時のままだから壊さない様に調査する事」と言ってきていて、エレベーターをつける
「瓢箪ばかりが浮くものか~私の心も浮いてきた~♪」どーかいどーかーい、これは熊本の「ボシタ祭り」で。もう、かなり長く続いているらしく、加藤清正、の何ちゃら、同じ九州でも知らなかった、なぜならば放送できないから、らしい。「滅ぼした」・・・首を持ち帰った時の、滅ぼしたからの、ぼした「ぼぼした」(Hした)ぼぼしてぼぼして・・・説、浮かれたことは解ります。どちらにせよ。でも、なぜに放送できないかというと、馬を興奮させるんです。茶のカテキン?とか与えて、馬の瞳孔がギ
公式ハッシュタグ令和6年3月21日骨董品ランキング3位なにしろ火薬の燃焼温度は6000度にも達する。膨大な回数の射撃が行なわれれば,いかに鉄で作られた銃身でも激しく劣化するのは当然である。トンネルのある暗いライフル射撃場での実験令和2年5月実験(以上の写真は若旦那提供(インスタID)takenoko.no.yama)しかも銃身末端に位置する火薬が燃焼する薬室部分は,銃身内部ばかりでなく,火皿から逆噴射される火薬ガスにより銃身外側にもダメージが加えられる。このため薬室部
('ω')ねぇねぇ今日は秀吉さまのお誕生日なのよ誕生日?主ちゃんの時代は生まれた日にお祝いするんだってななんか特別なことするわけ?('ω')贈り物をしたいんだけど思いつかなくて秀吉さまの欲しいもの知らない?秀吉なら、主ちゃんから贈られたら何でも喜ぶと思うぜそうそう肩たたき券とかな(笑)肩たたき券ね_φ(・ω・๑)ナルナルうわー本気で鵜呑みにした…秀吉…今年一番同情した(>д<)、;'.・ィクシッなんだろ?くしゃみが出る誰か噂してるのかな?
3/10(日)萩原堤(はぎわらづつみ)から球磨川を遡り人吉に向かう。球磨川の北側の道路を走り、加藤清正が造ったという遥拝の堰を通り過ぎて、西都大橋を渡り、国道219号線に出る。それからはまだ護岸工事個所があって、ゴーストップの信号機が連続して設置されている。そうこうしながら道の駅坂本・さかもと復興商店街にて一時停車。球磨川の川原に下りてみる。穏やかに川が流れているけれど、どうしても球磨川豪雨水害を思い出してしまう。この付近は浸水してしまったのだ。道の駅は閉鎖したままだし、対岸
天海(116)慶長3年(1598年)10月1日、家康、利家らの内命を受けて徳永寿昌、宮木豊盛が釜山に到着した。この日はちょうど泗川新城で義弘が中路軍を破った日であった。8日に、二人は泗川に赴き義弘と面会、さらに順天、蔚山と訪問した。二人は朝鮮在城の諸将に「明国軍が撤退すれば、釜山に集結し帰国するように。」という五大老の命令を伝えたのである。蔚山城の清正は麻貴の指揮する東路軍を寄せ付けず、慶州に退けていた。朝鮮での戦いに無意味さを感じていた清正は、撤退命令に素直に従い、1
・良い天気でしたね。kurimarometalの生活の中心・優先事項は趣味・お稽古事なので、余った時間で各種の手続きや家のDIY作業・投資活動等をしてFIRE生活を楽しんでいます。・さて中部・関西観光として最初に名古屋城編です。家を8時頃に出発して、10時前に駅近くの駐車場に到着。駐車場所を探しましたが、近隣で一番安い所なので満車状態。少し待ってたら、駐車しているトラックに乗り込む人がいたので「車動きますか?」と問いかける。返事は「すいません。まだ動かないです。」・仕方ないと諦
加藤清正が築城した難攻不落の熊本城。その石垣は絶対に登れない武者返し🏯その名を頂く肥後の銘菓のひとつがこれ!『武者がえし』パイ生地で上品なこし餡包んだ逸品は陣太鼓よりも甘さ控えめです。お菓子もそうですが「カッコいい」と言う言葉を熊本弁では「武者んよか」と申します。武士の様に颯爽としているからかも!武者がえし食べて武者んよか人になりまっしょ。JunJism
使うところはその器に従う清正の人材選定術秀吉が朝鮮に出兵していた軍を引き上げる際、清正は庄司という家臣に軍の引き上げを命じ、庄司はそのまま引き上げに成功します。その時、清正は1人の家臣の様子がおかしいことに気づき声をかけますと、軍を撤退させるという大事な役目を自分が指名されなかったことに落ち込んでいました。しかし、それを聞いた清正は笑いながらこう言いました。お前達はどちらも大切な我が家臣。使うところはその器に従う。これを聞いた
今日は朝から晴れの1日となった。晴れたが風が強い日に…雨が降った次の日の晴れは花粉が凄いが風で更に厳しくなったな😣東村山で志村けんの銅像を見た後、近くにあった地図を見ると…地図には⛩や卍のマークがいくつかあるので行ってみる事に…こちらは地図の真ん中にあった猿田彦神社。かなり小さい神社だな。これは社務所?普通の民家のように見えるが…🤔猿田彦神社は全国に2000社余りあり、その総本宮は三重県の鈴鹿市にある椿大神社(つばきおおかみやしろ)で猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)がまつられてい
日光戦場ヶ原の神と神との争いは、渡来系と、大和グループとの争いでもあったと書いてきました。そして、その争いは赤と白の色で分けられ、赤城山と、二荒山に大黒様が祀られている事から、同じグループを含んでいると思われ、その白のグループを助けたのは、同じ渡来系の鉄のグループだったのではと想像したのです。「想像した」とは、資料として残っていないからですが、沢山の共通性が見られる伝説や、風習、地域に見られる特色に、現在、残っている資料を重ねてみると、一つのストーリーに乗っかっているのです。そう感じたの
2024年--------------------------------------------加藤清正、、、やっぱりかっこいいです。2023年--------------------------------------------大切な部下を思う、加藤清正。カッコイイですね。愛蔵版戦国名将一日一言Amazon(アマゾン)2,826〜3,410円
「誕生日に熊本城おもてなし武将隊会いに行こう!…モノチカと悩んだけど〜(っω<。)クゥ!な旅」【其の壱】でござりまする❀.*・゚前回から2ヶ月しか経ってないけど誕生日に熊本城おもてなし武将隊に会いたい!:(,,ŏŏ,,):ガマンデキナイ…モノチカもあるけど(・ὢ・)いや!一度は誕生日に熊本城おもてなし武将隊に会いに行きたい(っ;ω;)っと言うことで会ってきました(^O^)熊本城おもてなし武将隊の皆様に(⑉˙ᗜ˙⑉)今回も私のブログなので(*´ω`*)ゞエヘッ
天海(110)「移兵島山。只爇外柵。城將陷。賊丸如雨。天兵被害。不知其數。天兵日日挑戰。固守不出。不得已退師。大槩賊兵之衆。十倍於上年。城柵之險。又甚於前日。觀其兵勢。未知上策云。圍城一旬。賊勢日熾。一日李副總題送絶句于兵相云。蚌鷸持多日。王師久未旋。」(「乱中雑記」)「提督・麻貴は蔚山城を攻撃したが、城門の柵を燃やしただけで、城側から雨の様に銃弾を浴びた。明軍の被害はその数を知らぬほどである。その後も明軍は何度も攻撃を仕掛けたが、どうしても突破できず、退却を余
眼科手術のあと、元通りにはならんでも幾らかの回復期待市とったけど、なかなかな事で思ったようにはいかへん。そんな情けない目ん玉に変わって記録しときたい思てカメラも買うたけど未だに使い方判ってへん。それでもたとえちょっとでも見れるうちに見とかんと思て初公開やいう西小天守に行ってきた。ここな。図で見たら矢印の順路で大天守から反時計回り。3つの小天守は地上3階建て、それぞれの天守を繋ぐ渡り櫓は2階建て。2階部分を見学して、西小天守のみ3階も見学できるん。普段非公開のとこやから築城当時の手斧
天海(109)第一次蔚山城の戦いで敗北した明・朝鮮軍は、明本国から更に増援を受け、10万人の兵力を整えた。その布陣は、総督・邢玠、提督禦倭総兵官・麻貴、禦倭総兵官・劉綖、左都督・董一元らであった。明軍は日本軍に朝鮮南部を恒久的に支配されることを恐れ、「四路並進策」という反攻作戦を立てたのである。これは明・朝鮮軍を四軍に編成し、慶尚道南部に盤踞する日本軍を一掃するという作戦であった。その陣容は下記の如くである。①東路軍、提督・麻貴2万9千5百人蔚山城②
おぃ!主ちゃん!どういう了見だぁ!('ω')犬千代どしたの?どうしたもこうしたもねぇ!三月三日のゆーちゅーぶのこめんとに『秀吉を筆頭に朔夜、犬千代はお笑い要素強め』って書かれてるじゃねーか!?えっ?わんこくんはともかく、俺は毎回真面目なんだけど…お笑い系って言われるのが不本意秀吉…お前はまごうことなくお笑い系だぞしかも主ちゃんのオカン…この駄犬が何を言う!秀吉を愚弄するとは不届き千万!たたっ斬る!ねぇねぇそれよりも正則さまの作ったちらし寿司美味しいわよ()ˇωˇ(
正月、帰省してひさしぶりに卒業した小学校まで行ってきた。母校は当時は「野津原東部小学校」と呼ばれていたが、いまは当時四つあった町内の小学校が統合され、「野津原小学校」となっている。何度も書いたが、この小学校は肥後熊本藩の「お茶屋」があった場所である。小学校がほぼ「御茶屋」の範囲と思われ、東西南北ともに100mほど。北と東は10mほどの段丘となっている。その下は福城禅寺から水路が巡っている。さらに外に七瀬川。絵図によると段丘面以外(東と南)は堀になっている。で、数年前にここが発掘
名古屋楠郵便局愛知県名古屋市北区楠味鋺5-2407名古屋楠郵便局(愛知県)-日本郵政グループこちらは名古屋楠郵便局のページです。住所愛知県名古屋市北区楠味鋺5-2407。電話番号052-901-4211。map.japanpost.jp味鋺神社の清正橋楠正成が植樹したとされる楠の木ときどきこうやって風景印の説明を渡してくれる郵便局があるけど、愛を感じる63円の切手しか買わないのに申し訳ない
熊本まで来たら、やっぱり熊本城を見なくっちゃ!徳川方の間者まめクロ、熊本城の諜報活動がお役目ですから。ゼッケンを受け取ったその足で熊本城へレッツらゴー☆タケさんと熊本城来るのこれで2度目ですね。前回2020年の時はまだ天守閣の復旧工事が終わってなくて足場だらけでしたね。↓2020年時の熊本城の様子もちろん内部見学もできず。でもこの修復過程を見学することも重要。天守閣の復旧が完了して、2021年から見学できるようになりました!私の過去2回のチャリティエントリー
戦国武将イケメンエピソード/加藤清正加藤清正の名が知れ渡ることになったのは、柴田勝家と羽柴秀吉が、織田信長の跡目をめぐって起こった権力争い「賤ケ岳の戦い」です。賤ケ岳の戦いで功績のあった武将のうち、特に大きな働きをした7人「賤ケ岳の七本槍」にも選ばれています。そして、賤ケ岳の戦いの恩賞で約500石の知行から約3,000石の武将になったと言われています。「大事な場面で、功績を上げる」まさにイケメンエピソードですねそんな加藤清正も登場するイケメン戦国絵合わせゲ
3月24日撮影。関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603(慶長8)年に江戸幕府を開きます。しかし、大阪城には未だに幕府にとって脅威だった豊臣家が拠点を置き、次の戦(後の大坂冬の陣と大坂夏の陣)に備える必要がありました。家康は1610(慶長15)年に加藤清正、福島正則など豊臣方の恩顧(おんこ)の西国大名20家に命じ、天下普請として名古屋城の築城を開始します。それは豊臣方の包囲網と東海道の防衛を固めると共に、諸大名への抑止効果も兼ねていました。春の訪れを告げる梅の花ですが、この日
今年1月、子供の部活の全国大会へ送迎ついでに色々な所へ行きましたわたしは子供の部活のことはノータッチなのにいつの間にか…好きなことは何も言われなくても頑張るんだねぇ。↑まずは羽田空港久しぶり☆長崎発着は搭乗口から駅のホームまで遠いのです~変わらないねぇ…。ぱんだランは7年くらい前まで船橋市に住んでいたので、帰省で年に2回ほど羽田空港を使っていました↑イチョウとさくら🌸かな?↑自由時間に会場近くの清正公寺卍へ。↑加藤清正公はわが長崎県の大村藩にもお馴染みの武将で、彼をお祭りするお堂や