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こんにちは。前回は、令和6年秋の熊本小旅行のダイジェスト版をやりましたが、今回から本編にいってみたいと思います。と言っても、この旅行は今年6月にいった熊本旅行の宿題を市に行ったようなもので、やってきたことが限られてしまったこと、ご容赦くださいませ。では、いきますか、、、加藤清正(益城杉堂日眞寺)前回=今年の6月に伺った時は、熊本地震で負ったケガによる入院中だった杉堂の清正公さん。今年の夏に見事、退院=復活をなさったと聞き、ついに11月になった今、お会いすることができたわけです。
今夜はU-NEXTでこちらの配信を見ながら寝ます・・・・。「寺社仏閣と並んで、最も日本的な建造物は・・・・!?」と、もし質問されたら、それは城郭建築でしょう。石垣造りに、天守閣を備えた城郭が増えた、安土桃山時代~江戸時代初期に活躍した3人の築城名人、黒田官兵衛、加藤清正、藤堂高虎にスポットを当て、日本一の築城名人は誰かを選びます!城郭ライターの萩原さちこさんをナビゲーターに、ゲストには、滋賀県立大学教授の中井均さん、そして、私が大好きな静岡大学名誉教授の小和田哲男先生で
歴史好きな旦那様、折角名古屋に来たので秀吉に関する博物館に行って見たいとリクエストして来ました。調べてみたら名古屋市中村区に生まれた豊臣秀吉と加藤清正、2人の武将に関する資料を収集、展示した歴史博物館があったので「名古屋市秀吉清正記念館」へ。この博物館は尾張中村で生まれた2人の武将、豊臣秀吉と加藤清正の事績を紹介しています。秀吉が信長に仕えたころから、天下統一への道、秀吉死後の関ヶ原の戦い、大坂の陣での豊臣氏滅亡までを、実物資料や複製により展示し
母親の希望の熊本城にも行ってきた熊本地震から7年半。地震の爪痕も見られ…復旧工事中もまだまだあちこちに…復興した天守閣お城好きの石原良純さん曰くこちらが正面。天守前の大イチョウに由来して別名「銀杏城」とも言われてるらしい。加藤清正お手植えのイチョウは火災(1877年)で焼失してしまったけれどその後、根元から出てきた新芽がこんなに大きく成長してる両方入れようと思って撮ったつもりが………後から見てみればお城、隠れすぎ並んだ大天守と小天
あか牛丼をいただき、お腹は満たされました。さくらまちバスターミナルを出ると、遠くに熊本城の天守閣が見えました。地震から復活してよかったです。こうやって、通りの向こうにお城が見える町っていいなぁ~うらやましいですね。少し歩くと、立派な像がありました。加藤清正です!熊本城を難攻不落、鉄壁のお城に造り上げた、立派なお殿様です。加藤清正は、清正公(せいしょこさん)と呼ばれて今でも親しまれています。築城の名手で、名護屋城(朝鮮出兵)、熊本城、江戸城、名古屋城などの名城造りで有名です。武
やっぱり超絶晴れ男!
こんにちは。ついに昨晩エアコンで暖房を使ってしまったくらいさぶくなってしまったココ名古屋ですが、皆さまのエリアは如何でしょうか?今回は、今月の中旬に伺った熊本小旅行からになります。と言っても、熊本は今年の6月に伺ったばかり。今回の旅の目的は、この6月の遠征でやり残した宿題をしにいったのでした。具体的に言うと、、、・数年前の熊本地震で傷ついた杉堂の清正公さん修復完成を確認する・前回の旅の熊本空港で知った五木村の厚揚げを現地へ食べにいく(ついでに五木村の紅葉を確認に、、、)現
東京に、もう半世紀以上は住んでおりますがどうしても城南地区、世田谷・目黒・品川はじめ・・・なかでも大田区とはかなり縁が疎い生活を送っておりましたさて、徳持神社から池上通りを進み本門寺通りをやがて呑川に架かる霊山橋の袂に「南無妙法蓮華経」のお題目が正面に刻まれている題目宝塔が立ちその先に池上本門寺池上本門寺は、長栄山大国院本門寺と称する日蓮宗寺院宗祖日蓮が安房国から鎌倉へ向かう途中この地をみて「あらかじめ入滅の地と思ひけるとぞ」と入滅の地と定めた地と伝えられその
南光坊天海(68)利景は、滝坂山観音寺を建立すると、いよいよ満昌寺の再建に取り掛かった。ところが満昌寺跡地は岩村城にほど近く、藩主・松平家乗との調整が必要になったのである。やがて、家康から「早く駿府に戻れ。」という主命が来た。利景は後ろ髪を引かれる思いで、美濃明知城を後にしたのである。利景が駿府城に戻ると、家康は上機嫌であった。「よう戻った、勘右衛門。お前の兄貴も、比叡山から川越に連れ戻した。お前がいないと寂しくていかん。岩村の件、オレも手を貸すから安心せえ。」
令和6年11月17日(日曜日)昨日は満月🌕でした天気が悪かったので雲に隠れてました11月の満月はアメリカの農事暦でビーバームーンとも呼ばれます昨夜は文化会館で11月15日と11月18日を迎えての地区座談会でした総県総合長に入っていただきました1958年11月16日は池田先生が初めて熊本に来られた日です〈寸鉄〉熊本支部結成の日。先駆が使命の誉れの師弟城。火の国から希望の声拡大。一言発言した後に一人一人の発言を覚えていてくださり激
愛知と岐阜見にトリップx戦トリップデジタルスタンプラリー2024-2025地下鉄東山線中村公園駅1出入口大鳥居(1929年完成)太閤秀吉功路ポスト(2024年3月19日設置)豊國神社鳥居秀吉清正公園振り返ると鳥居の奥に大鳥居61豊國神社(戦トリップ>神社仏閣)GPSスタンプ太閤秀吉功路とひょうたん63太閤山常泉寺(戦トリップ>神社仏閣)QRスタンプ設置場所豊臣秀吉公御手植えの柊豊臣秀吉公銅像豊臣秀吉公産湯の井
南光坊天海(60)「慶長十六年十月廿四日、大御所本城にならせ給ふ。御所も大門まで出迎たまふ。若君幷国松君は庇まで出給ひ、左右に附そひ、大御所の御手をとらせ給ひ。御座につかせ給ふ。御台所にも御対面ありて、山海の珍美をつくし饗せられ、御所、若君にも御伴食あり。本多佐渡守正信一人侍し奉りて、大小の御政務枢機の御討論刻をうつされ還御なる。」(「駿府政事録」)慶長16年(1611年)10月24日、鷹狩をしながら、家康は江戸城に上り、秀忠の饗応を受けた。竹千代と国松もお出迎えを
本日は、初『名古屋城』です♪加藤清正公篠島の矢穴石遠く離れた篠島から取り寄せた大きな石が展示してあります天守1615年(慶長20年)徳川家康によって建てられた名古屋城は、黄金の鯱を頂き、史上最大の延床面積を誇った大天守、絢爛豪華な本丸御殿、さらに鉄壁の守りを固めた要塞としての機能を備え、城郭として国宝第一号に指定された名城でした戦災で焼失後も国内屈指の城郭として国の特別史跡に指定され、復元された本丸御殿などが往時の姿を鮮やかに伝えています本丸御殿本丸御殿は、尾張藩主の住居か
南光坊天海(58)清正の死は突然であったため、死因については色々取りざたされた。脳溢血との説もあるが、症状が一致しない。「当代記」には「虚」とあり、腎虚ではないかと言われる。「済生方」によると、腎虚は「膀胱から入る。」とあるから、当時流行していた「梅毒」ではないか、とも言われているのである。当然、「毒殺説」もある。家康は印籠の中に、常に毒薬を隠し持っていて、二条会見の折、この毒を饅頭に忍ばせたという。秀頼と輝政は饅頭を食べなかったが、清正と幸長は食べたので死んだ
皆さん加藤清正を知っていますか。加藤清正と言えば豊臣秀吉に仕えていた人物です。加藤清正は寺で、読み書きをならっていたそうです。ですが、母が風邪にかかってしまいました。そこで帰り道カキを見つけてカキを盗みました。カキを取ったら犬に気づかれ服をかみちぎられました。母に盗んだことがばれてしまいました。そこで母と約束をしました。1つ目は盗まない事2つ目は噓をつかない事それを約束した母はお父さんの脇差しを加藤清正に渡しまし
連休最終日はなんとか宿題を終わらせて、お手水の森に行ってきました。名水百選にも選ばれている湧水地です。加藤清正も水を汲みに来たそうな。この石像は加藤清正。なんだか色々気になる加藤清正。左手どうなってると思います?バランスおかしくないですか?左手下ろしたら右手より長くなりそうじゃないですか?そもそも肘の位置がおかしくないですか?それにしても足短すぎませんか?それはいいか。私も短いし。いや、でも腕が長過ぎません?左手下ろしたら膝下までありそう。この加藤清正にこんなにモヤるの
今日は朝ちょっと仕事してここにhttps://www.city.nagoya.jp/kurashi/category/19-15-2-5-0-0-0-0-0-0.html名古屋市:名古屋市秀吉清正記念館(暮らしの情報)豊臣秀吉、加藤清正の生誕地に建つ歴史博物館。www.city.nagoya.jp常設展に新しいものが入ったってことでそれと、こちらの企画展を令和4年に収蔵した(市の税金で購入した(笑)「収蔵」ってエエ言葉やな(笑))豊富秀吉さんに関する文書類の公開17日(日)ま
南光坊天海(57)「大坂の奴らは兵法を知らぬから、堅牢な大坂城に引きこもって籠城しようとするだろう。しかし、援軍の来ない籠城は死を待つだけだ。ここは、2万ばかりの兵で大垣まで出て、名古屋城を脅かすのが良い。美濃を前線とする。その間に別動隊は二条城、篠山城、彦根城を焼き払う。池田は福島を恐れて、容易に討って出ることはあるまい。そして我らは姫路を落すのだ。ここまで来れば、面白いことになるぞ。」というと、昌幸は満足そうに頷いた。「大垣の地はさほど要害でもなく、大坂城や名古
豪華なランチ🍱のあとは、豊国神社⛩️に行きました。馬像加藤清正公銅像豊国神社の護衛をしています。秀吉子飼いの武将、賤ヶ岳七本槍の一人。秀吉親衛隊長として近辺を警護。秀吉亡き後は、秀頼の傅役として豊臣家に忠誠。秀頼が徳川家康と対面するときには、秀頼警護のため懐に短刀を隠して参上。天満宮虎石由来稲荷社狛犬ではなく、狐になっています😳拝殿天井には、四季花鳥が画かれています。色彩が鮮やかで綺麗です✨羽柴秀吉銅像豊国神社羽柴秀吉(豊臣秀吉)が長浜城主時代に、善政をしたこ
南光坊天海(56)慶長8年(1603年)、石舟斎の長男・厳勝の次男・利厳は、熊本藩主・加藤清正から500石の知行を得て仕官する。しかし、領内で起きた百姓一揆の対応に手間取っていた伊藤光兼をその場で斬り捨てると、全軍で総攻撃をしかけ、一揆勢を鎮圧した。利厳はこれを清正に報告すると、そのまま熊本を去ったのである。その後、福島正則から2千石で召し抱えたいと申し出があったが、応じなかった。慶長9年(1604年)には、祖父・石舟斎から「新陰流皆伝」の印可を得ている。このように柳生
加藤清正公像どんだけ戦国の大河ドラマ見ても、武将の名前も何をした人かも覚えられない熊本城主です!!秀吉に仕えてた武将です熊本の人からすると、城や道路・河川など領土整備をしてくれた人々から慕われるリーダーだったようですお城のお堀ってさ…流れもなくて汚れが沈殿してて…きったないのが普通が、この熊本城のお堀って…川を利用している場所によってはすごく流れもあって珍しいそして何より、やっぱり水がキレイ。ステキ城だーーーーー桜の馬場城彩苑旅行客向けな感じの施設
南光坊天海(55)「与右衛門、ご苦労であった。」と家康は声を掛けた。高虎は、ここのところ、家康に随伴していて、この度の秀頼上洛にも、京都の入り口でお出迎えをした。「はっ、ありがとうございます。」と高虎は大きな体を屈めた。「お主もでかいが、秀頼は大きかったな。」というと「御意。ただ大きいだけではなく、鍛えられておりました。中々のご器量と思われます。」と高虎は答える。「やはりそう見たか。オレも意外であった。人の言う事はあてにならんと思い知らされたよ。」と家康
南光坊天海(54)天海が奥の間に入ると、珍しく家康は居住まいを正し、お悔やみを伝えた。天海はこれに丁重に謝意を述べると、さっそく二人は本題に入った。「オレが最後に秀頼に会ったのが11歳の時だ。太閤殿下には、似ても似つかぬ温厚な少年であった。それが成人してどうなったと思う。」と家康は楽しそうに話す。「さて、見当もつきません。」と天海が言うと、「とんでもない大男よ。」というと家康は声をあげて笑った。「身の丈は六尺(およそ180cm)を超えて、重さは、おそらく
--------------------------------------------2024年みんな、どこかには見所がかる。2023年11月4日--------------------------------------------加藤清正、、、こんな上司になりたい。2022年11月4日--------------------------------------------怒るのを抑えて、良いところを見つけてあげる。いい上司ですね、加藤清正。愛蔵版戦国名将一
まちづくり熊本城へ。震災の痛々しい姿もある中。堀割の美しさ!加藤清正の凄さを見た。家康が恐れる筈である。
南光坊天海(53)秀忠が将軍になったとき、徳川家は18万の兵力で上洛し、秀頼に上洛を促した。それでも淀殿はこれを拒絶、母子とも自害すると言い放った。「あの時はまだ、機が熟してはいなかった。あれから6年、打てる手はすべて打った。」と家康は思う。「これでもなお、上洛を拒めば、豊臣家討伐の大義名分が立つであろう。」と家康は考えている。いわば最後通牒であった。家康からの使者を受け入れた大坂城では早速評定が行われたのである。「会いたいと申すなら、大御所自ら大坂に出
10月14日から4泊5日の名古屋旅を綴っています。名古屋4日目は名古屋城へ名古屋旅行4日目となりました。前日買っていたのは市バスと地下鉄乗り放題パス。1人870円。オアシス21内の観光案内所で購入しました。『【名古屋・伊勢日記15】超穴場な夜景が見える場所へ』10月14日から4泊5日の名古屋旅を綴っています。超穴場な映えスポットへ名古屋旅行3日目の夜です。名古屋の街でまだまだ景色を楽しみます。中部電力MIRAI…ameblo.jpパスを使って観光しまくる作戦。というか天気予報が
小泉策太郎生年月日:1872年12月3日申刻1.命式年壬申月辛亥日甲申時壬申空亡:寅卯、午未大運2壬子、12癸丑、22甲寅、32乙卯、42丙辰、52丁巳、62戊午、72己未、82庚申、92辛酉2.格局比木2点、印水162点、官金8点格局:内格身強か従強格だが、喜忌は共に不一致喜神:内格身強だと食傷(火)、財星(土)従強格だと印星(水)、比劫(木)・運が良い大運は、甲、乙、卯、丙・運が悪い大運は、癸日主甲は水を得て生木、冬生まれ
清正製菓のおまんじゅう。愛知では加藤清正の名前を見かけることも意外とあって、大河ドラマ「どうする家康」をみて、この縁はなるほど!とひざをたたきましたが、なぜ膝じゃないといけないのか笑話そこひろげてる場合じゃない笑ワンピースと熊本城。奇跡の出会いねって清正製菓さんのホームページ見てみたら、北斗の拳と走るくまモンのパッケージ、ひざたたいとかなければ中は、桜あんと、栗あん。しっかりとした栗の味でした。今年、生栗買
きのうは【チーム南鷹講談会】でした。開演前に稽古をする。安田くん(元りあるキッズ)は、非常に貪欲で、さすが〝天才〟と称されただけのことはある。安田くんの加入で、南也、南喜のギアも上がった。安田『般若寺の焼討ち』…僕の持論として、講談師にとっては『般若寺』と『那須余一』は必須で、南也、南喜も僕のところに来てから、やってもらった。それは安田くんも例外ではなく、このあと、余一をやってもらう。中村仲蔵に魅せられて、講談をやろうとしたというから、軍談や上方の演目をやるのは、好みと合わないかもしれ