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崔瑩チェ・ヨン/崔瑩|続★同好大長今的「六龍が飛ぶ」ドラマガイド[都堂少数派]不敗の武将で、戦場で数多くの戦功を立てた。高麗の秩序を維持するために|都堂《トダン》((高麗後期の最高政務機関))の蛮行を知りながら黙認したが、最終的にはイ・ソンゲと手を握って都堂三人...daejanggeum.xii.jp今も尊敬される名家出身の清廉■名門貴族の息子。1316年、名家の息子として生まれた崔瑩は、体格はがっしりとたくましく、腕力が人並み外れており、文臣の家系な
天海㊼「李舜臣行録」『亀甲船の大きさは、板屋船とほぼ同じく上を板で覆い、その板の上には十字型の細道が出来ていて、やっと人が通れるようになっていた。そしてそれ以外は、ことごとく刀錐(刀模様のきり)をさして、足を踏み入れる余裕も無かった」、「前方には竜頭を作り、その口下には銃口が、竜尾にもまた銃口があった。左右にはそれぞれ6個の銃口があり、船形が亀のようであったので亀甲船と呼んだ」、「戦闘になると、かや草のむしろを刀錐の上にかぶせてカモフラージュしたので、敵兵がそれとも知らず
雑魚雑魚言われる朝鮮半島にはこんなに沢山の名将がいる。・近肖古王→百済の第13代王。高句麗の平壌に侵攻し高句麗王を戦死させた。・広開土王→高句麗の第19代王。高句麗の領土を最大限に広げ、さらに日本軍をも撃退した。・乙士文德→高句麗の将軍。隋の煬帝による100万もの侵攻軍を撃退した。・淵蓋蘇文→高句麗の将軍。唐の高句麗出兵を2度も撃退した。1度目は李世民や李勣、2度目は蘇定方という中国屈指の名将を撃退した。・楊万春→高句麗の将軍。1度目の唐の高句麗出兵による最大の決戦となった
こんにちは、こけしです週末、夫の会社の忘年会がありました本社が他県なので、そこまで行かなければならないのですが会社が交通費(ガソリン代・高速代)を出してくれ、ホテルで忘年会するので、そのままホテル1泊分出してくれるのですが、なんと、家族全員分なんですおまかせ広告です★というわけで、家族4人でありがたく出席させていただきました美味しいご飯をたべて、お酒も飲んで、子ども達もいろいろイベントで楽しま
李朝国使3000キロの旅嶋村初吉みずのわ出版朝鮮通信使に関する本だが、副題に「雑学」ついているだけに、まとまりがない。対馬から日光まで旅程をたどり、様々な話題を拾っている。さすが記者出身だとは思うが、単行本のスタンスではない。それでも学ぶことはあった。朝鮮は朝貢外交の大先輩だ。中国に国使を年百回も送っていた。このため、その手法も活かし方も十分承知していた。一方、彼らは日本を「野蛮国」だと見ていた。長年倭寇(日本時とは限らないが)にいじめられ、秀吉は朝鮮征伐を行い、優秀な人材や貴重な文
日本に擦り寄ろうとしているため余程追い詰められている模様ですあそこはどのみち消し去られるのですが韓国最高裁長崎県で盗難の仏像対馬市の寺の所有権認める判決|NHK【NHK】2012年に長崎県の寺から盗まれその後韓国で見つかった仏像をめぐり、韓国の寺が「中世の時代に倭寇に略奪されたものだ」とし…www3.nhk.or.jp
『マンガでわかる地政学』『地政学』とは、地理的条件が国際関係にどう影響するかを理解する学問今回も『中国』『中国』その2です■『朱子学』『清』は、『北虜南倭(ほくりょなんわ)』に苦しんだ『明(みん)』の後に誕生した北方民族による『征服王朝』ですそんな『清(しん)』が、19世紀後半、欧米列強の強力なランドパワー+シーパワーの脅威にさらされますペリー艦隊がやってきて開国を迫られた日本が明治維新に成功したのに対し、中国は、欧米列強に切り刻まれますその原因は、『朱子学』です『朱子学』で
『マンガでわかる地政学』『地政学』とは、地理的条件が国際関係にどう影響するかを理解する学問今回は、『中国』です中国は、地政学的強みをいくつも持っています○世界の5分の1を占める人口○その9割を占める漢民族(人口2位のインドは22の公用言語を持ち、最大のヒンディー語使用者は4割)のため、中国では民族紛争が起きにくい○中国系コミュニティーが世界各地に存在○世界第3位の面積、温帯に属する大平原と大河が農業大国にもなりえます○石油、鉄、レアメタルなどの天然資源も豊富○自然国境があるのも
対馬で、船江というと「お船江」を思い浮かべる人が多い。厳原町久田のお船江は県指定史跡で、対馬府中藩の御用船を係留していた場所だった。そのため船江ではなく御(お)船江としたのであろう。お船江が施設名か地名かは今後の問題にして先に進めたい。船江の地名は上県町佐護湊の西方、山を越えた無住の海岸にある。外海に面しており入り江もなく僅かな平地があるだけの寂寥の地。それでも戦後の台風が直撃するまでは防波堤のような石積みなどの施設が残っていたという。そもそも船江とは船の集まる港(
玄海灘を超えた朝鮮外交官李芸嶋田初吉編著明石書店中世に日朝協調のために奔走した朝鮮外交官の紹介。40回も来日したという。当時、朝鮮沿岸は倭寇で困っていた。プロの盗賊団に貧しい沿岸住民は武力では対抗できない。そんな力関係の中で日本にわたり、捕虜解放の交渉を何回か成功させている。その結果、交流が始まり、海難救助、貿易や技術交換、食文化交流が進んだ。今は国家単位になっているため、対立が軍備に結びつけられることが多いが、こんな時代があり、そんな人物がいたということを忘れてはならない。
日本史/倭寇(わこう)の侵略1「前期倭寇」|TOYONOTEこんにちは、TOYOです。これまでもお伝えしてきておりますが、私たちが教えられてきた歴史や科学、医学、経済学などの知識のすべては、その時代の権力者によって捏造された嘘だったことがわかっています。それは、日本史においても同じです。今回は、14世紀、南北朝~室町時代初期から16世紀にかけて、圧倒的な軍勢で他国を侵略していた日本の「倭寇(わこう)」につい…note.com日本史/倭寇(わこう)
今回は私が最近作業を行う際に視聴している動画を紹介しようと思います!もう10年近く動画視聴歴があるので、昔から考えれば様々な動画を見ているのですが、ちょうど今見ているものはこれです!「テイルズオブ医学生(全115件)」倭寇(わこう)さんのシリーズ-ニコニコ倭寇(わこう)さんの「テイルズオブ医学生(全115件)」シリーズです。うp動画総合→mylist/32090282www.nicovideo.jpテイルズオブエクシリア(特典なし)-PS3Am
海外に移住するなら最低英語、できれば現地語がペラペラでないといけませんよね。スウェーデン語って、どこで学べるんだ??そこは個人の問題では?少子化担当相がひろゆき氏に苦言テレ朝女子アナとの離婚「義母と小倉氏の嫌がらせ」に「前妻も否定」/デイリースポーツonline小倉まさのぶ少子化担当相が19日、ツイッターで実業家で「2ちゃんねる」創立者のひろゆき氏に、苦言を呈した。小倉氏は過去にテレビ朝日アナウンサーと結婚したが1年半で離婚した。ひろゆき氏は18日のツイートで、「子供が居ない小倉将
先日、岡谷に帰省する時に電話で母に頼んでおいたのは「倭寇でバイキングが食べたい‼️」でした。【倭寇】とは岡谷市今井の長野自動車道岡谷インター近くにある食事処で看板メニューがバイキング定食です。唐揚げでも山賊焼でもない独特な料理です。小学生ぐらいから機会ある度に親に連れられ何度も何度も食べた思い出の味。しかし帰宅して母から聞いたのは「今はテイクアウトだけで、土日のみ」という現実でした😭それで月曜日帰省する僕の為に日曜日に買いに行ってくれたので実家で何年か振りにいただくことができました😊母からの情
皆さん、こんにちは。いつも本当にありがとう。一橋大教室➀(第2回)、本日28日、新宿で実施です(ハイブリッド講座)。扱う問題は演習2。テーマは中世を中心とする国際関係次のことも考えてみてください。■組織的な海軍力がなかったにもかかわらず、倭寇の活動はなぜ終息するのか❓■宗教勢力(仏教やキリスト教)に対する武家の対応はどのように変化したか❓東大・京大・一橋大実戦演習Ⅰ中之島でも実施予定です。朝カルからの発表をお待ちください。新宿【
対馬で「サス」と言えば厳原町西岸に位置する佐須を指す。ところが佐須の地名は島内に複数存在している。現在、確認しているのは上県町佐須奈、同町佐護湊の砂洲、豊玉町曽と同町千尋藻間の海岸部の小サスと大サス、厳原町佐須、同町久根浜の佐須畑の六ケ所である。上県町佐須奈は旧上県町の役場所在地で、チョイトした商店街もあった。江戸時代には藩の番所が置かれ朝鮮半島の釜山と航路が開設されていた。また明治以降にも航路は設けられ近隣の住民は釜山に買い物や映画鑑賞などに出かけていたそうだ。古来より
長崎の盗難仏像韓国の寺側の所有権認めず韓国高裁が逆転判決https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230201/k10013967521000.html長崎の盗難仏像韓国の寺側の所有権認めず韓国高裁が逆転判決|NHK【NHK】長崎県の寺から盗まれ韓国で見つかった仏像をめぐり、韓国の寺が所有権を主張して引き渡しを求めている裁判で、韓国の2審の高等…www3.nhk.or.jp韓国窃盗団が長崎の観音寺から仏像を盗み、韓国政府が返還拒んでい
窃盗犯罪も日本相手なら「愛国」行為と称賛長崎県対馬のお寺から10年前に韓国人窃盗団によって盗まれた仏像について、韓国の高等裁判所は2月1日、韓国の寺に所有権があるとした一審判決を覆し、対馬のお寺に所有権があるとする控訴審判決を出した。韓国側は、600年前に倭寇によって盗まれた仏像だと主張し、一審の判決も「略奪があった状況と蓋然性がある」とした。つまり何の証拠も証明もないのに「たぶんそうだと思われる」という推定・推量だけで、韓国の寺の主張と所有権を認めたのである。仏像を盗んだのは韓国人4人組
今こそ、韓国に謝ろう[百田尚樹]楽天市場1,425円※盗品は無条件で返還するのが人間としての仁義。「韓国が国際法を守らない」事が理由で日韓対立の要因となっている事件に「対馬の仏像盗難事件」がある。これは対馬の寺にあった仏像が韓国人によって盗難され、韓国に持ち込まれたものの、韓国の浮石寺なる寺院が仏像の所有権を主張し、引き渡しを求める裁判を起こした所、1審で何故か寺の主張が認められ、検察側が控訴している状況だ。近く2審判決が予定されているとの事だが、またもや国際法無視の異常判
○前回案内した明人堂の近くには、同じように、中国との交流の関係から作られた六角井なるものが存在する。六角井は中国人がここに生活していて、掘った井戸である。ちょうど、この辺りが、昔は唐人町であったことを彷彿とさせるものである。○インターネットで検索すると、次のページがヒットした。六角井戸六角形をなす井戸の形状が珍しい。1540年(天文9年)、東シナ海を舞台に貿易商として活躍していた明国の五峰王直は、通商を求めて福江に来航しました。当時財政難だった領主宇久盛定公は、通
○五島列島、福江島へ渡った際、福江港のターミナ!ルで「ひと目でわかる!五島市見どころマップ」なるものを頂戴した。その中には、福江市街の観光地として、福江城(石田城)跡、武家敷通り、五島観光歴史館、明人堂、六角井戸、常灯鼻、などが案内されていた。○それで、福江市街を観光するのに、上記の観光地を順番に見て回った。ここまで、福江城(石田城)跡から武家敷通り、五島観光歴史館と見て来て、今回が明人堂になる。○明人堂が存在するのは、福江川の右岸、江川町の唐人橋のたもとに
夏の暑い日に外出すると、ものの数分で汗が凄い…。外出するにも覚悟がいるし、準備もある。ということで、面倒臭くなり、家に居る時間が長くなります。やはりエアコンの効いた部屋でのんびり過ごすのも僕的にはアリかなと思います。まあ、丸一日、家から出ないということはないけれど、出ている時間が微妙に短くなり、夜は全く出ることはないような生活をしています。そんななか、前回、読書のお話をしたのですが、実は読書をしようと思いたったのです。何を読もうかと思って、ピン!と来たのは古典を読もう!となり、まずは『徒然草』
津柳は「つやなぎ」と読みます。対馬西海岸に位置し小さな入り江に面する半農半漁の集落で民家二十数戸は海岸部に密集しています。三方を急傾斜の山に囲まれ東方からの小川が薬研のような地形を形成している。ツヤナギの意味については諸説があり定説はありません。そんなことから、困った末に津柳という漢字をあてたのでしょうか。地名の調査には類似の地名を探すことや語意に適した漢字を考える必要でしょう。ツヤナギは、つや・な・ぎと分割して仮説を組み立てました。「つや」は津屋で上県町に西津
倭寇というから日本の海賊と思っていませんか。しかし、倭寇と名乗ったのは日本人だけではないようです。最もこの頃日本人と言う概念は今とはずいぶん違っていましたが。年表年事柄1223高宗10年(1223年)5月条「倭寇金州」1350『高麗史』1370朝鮮北部沿岸にも及び南部では内陸深くまで侵入1380李成桂が荒山、崔茂宣、羅世が鎮浦で1383鄭地らが南海島観音浦で、倭寇軍に大打撃を与え1419朝鮮王朝太宗は倭寇を撃退し、227隻、17,285名
敵の小舟が思った通り散らばった!これでは、無謀に攻めても、どこから来るかわからない。「取り敢えず、待つとするか!」「お…い…頼む…水をくれ…」「あんなに騒ぐから喉が乾くのだ!泣くわ喚くわ笑うわ!忙しいな?」「怖いし恐ろしいし、いつになったら、毒はぬけるのだ?」「さあな!術もかけられたみたいだから、彼奴の言った事は、そのまま残るであろうな。もしもだ、この毒は抜けぬ!と術をかけられたのなら、抜けないと思うぞ?術に関しては俺もよくわからぬ!」「香は何処で手に入る?」「
ウダルチは、冬もカズ姐さんの宿屋にいた。テマンは将軍の居場所を知っていたのだ。みんなは、なるたけ側に居たくて、スリバン宿に居る事にした。チュンソクもいい年だが、戦ばかりでまだ一人身だ!他の者もだ!皆んなが居るのは、ヨンにはお見通しだった!カズ姐にお金を払い、不自由がない様に頼んでいた。バレてるとわかると、三月も目の前のある日、皆んなで将軍を訪ねた。おじしゃん、こんにちわ。とぉしゃま、かぁしゃまといっしょ。もう、昼近いと言うのに、まだお二人は?勝手に想像が膨らむ
宮古島南部の丘陵にあった14・15世紀の集落跡で、倭寇の根拠地や貿易で栄えた港町などの説がある。石碑のある入口から密林を抜けて進むと、住居跡などが復元されている。
所在地〒906-0203沖縄県宮古島市上野宮国特徴久場嘉按司と争った土豪、又は倭寇の隠家ともされる城跡で、畑の中に方形の台地が残る。大正時代までは石垣が残っていたが、現在はその基壇が見られるだけ。感想城内も鬱蒼とした森で、遺構の確認はできない。
着いた先は、雪がある祠。見覚えのある場所だった。チュホン?少し重いけど、頑張ってくれ!と頼むと四人と荷物を乗せて、チュホンは、走り出す。屋敷に着くと叔母上が待ち構えていた。ほお!忙しいのに四人で私に黙って鉄原か?ああ、まあな!早馬を遣わしたが来ておらんと帰ってきたぞ?そうか?行き違いであろう?凄い荷物だな?こっそり温泉宿にも行ってきたのか?荷物を中に入れると、倭寇が来た!ウダルチと禁軍が昨日出立したぞ?そうか?時がかかるであろう。カヤ?子供達を暖めてやってく
長らく、室町時代の足利義満まで、この日本の歴史をお話してきました。もとをただせば、保元の乱の前からお話してきたのですが、次々にお話していくうちに、足利義満まで来てしまいました。足利義満の代で何とか、大戦乱や大混乱は終息していきますが、それまでのまあ、長いこと。ただ、足利義満という大政治家、巨星が死んだことによって、またまた混乱の芽は出てきて、そして、応仁の乱というところで花が咲いてしまいます。一旦、足利義満の死で、今回のお話は〆みたいなことにして、次回からは足利義満の死後、どうなっていくかのお