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吾祖父加藤義雄俳号芳丁家業の電気店を全て婆さまに任せて俳句放蕩の私のお爺ちゃん師匠は池上浩山人祖父の俳句のモデルに私のこと多かったことに気がつきました。父との大げんかも句になっている。そうそうあの時はお巡りさんが来たっけ^^❤️当時の電気店の経営状態もなるほどと思わず笑って読みました。抜粋して掲載浩山人の明治神宮句会の編集をしていたお爺ちゃんいつも着ている穴の空いたセーターから謄写版のインクの匂いと大好きなお酒の匂いがしました。江戸っ子で新橋芸者と深川の着物の染
二月廿三日春、春、春がきました。二三日なまけた、けふからしつかりはたらかう。三八九の原稿を書きつゞける。句もないほど、平穏な日だつた。酒はないけれど、米があり野菜がある、水仙がほのかに匂ふ。・こゝにふきのとうひらいてゐる・あるけばふきのとう(追加)・やつとふきのとう・藪椿、号外のベルがやつてくる・春がきた山から大きな木をはこぶ二月廿四日また雨だが、ぬくい雨だ、すつかり春めいた雨だ、油虫がどこからかのこ/\はいだしてきたほどだつた、午後は風がでゝ、だん
獺祭は、家で見るとなかなかの迫力がある。筆で書き殴ったようなお馴染みのエチケット(ラベル)のせいか、ダッサイ、という音の響きのせいか。つくづく凄みをきかせてなんぼ、というような酒である。どうだ、と言われるとごもっともでございます、と恐縮してしまうし、率直にえ?(まずい)というときは、感情を秘密裏に持ち帰り、旨いと感じることができなかった自身を責めるしかない。こちらはお土産でいただいたから、もうそれだけで旨い(に決まっている)。開けるのが楽しみです。え?っと感じても、
こんにちは森のかんごしです。今日も家の前で工事をしています。古くなった家庭用水道管の入れ換えをしています。ソファーに横になっても振動が、気分転換に庭にでました。庭の黄水仙も揺れています。何を思ったか一句水道の工事の横に黄水仙私は俳句王国、四国出身、そういえば30代には200人と少ない地元の「壺」という俳句結社に所属していました。壺の中には、読売新聞の俳句大賞を受賞された方もいました。実は私のお酒友達。もうお亡くなりになりましたが…千葉に行く時に先生が「天為」という結社に
二月二十日けふもよい日だ、寒いことは寒いけれど。桂子さんからうれしい手紙が来た、桂子女菩薩、女人に反感を持つてゐるのは誰だい。買物をする、第一は酒、第二は魚、諸払をする、酒屋、魚屋、そして湯屋。夕、樹明君を招待する、酔うて出かけた、そしてワヤ、いけなかつた、ゴロにぶつつかつた、君を送つていつて、とう/\泊つた(樹明君、もう歩きまはることは止めませう)。桑原、々々、敬遠、々々。けさをひらいた水仙二りん馬が尿する日向の藪椿二月廿一日樹明居で朝飯をよばれる、産
福岡のお土産をいただいた。三日月のクロワッサン。但し書きにオーブントースターで1〜2分と書いてあったが、1分過ぎたところで急に焼き色がついてくる。バターが多く含まれているからだろう。あやうくまる焦げになるところだった。お召し上がりの際はくれぐれもお気をつけください。旨い。空気を食べているような軽さだから、当然ふたつ目に手が伸びる。もちろん3つ目にも、と、ふとパッケージのカロリー表示を見るとプレーン412キロカロリーごま399キロカロリーえ?豆乳オレと合わせると
二月十九日今朝は早かつた、早過ぎた、四時頃でもあつたらうか、一切事をすまして、ゆつくり読書しても、まだサイレンは鳴らなかつた、しかし、早起はよい、朝の読書もよい、頭脳が澄みきつて、考へる事がはつきりする、あまり句は出来ないけれど自己省察、といふよりも自己観照――それが一切の芸術の母胎――が隅から隅まで行き届く、自分といふものが、そこらの一草一石のやうに、何のこだはりもなく露堂々と観照される。……今朝の片破月はうつくしかつた、星もうつくしかつた、空のすべてがうつ
言葉にするとき、同じ意味合いで言ったり聞いたりするのに、どことなく違うニュアンスとして感じる、或いは受け取られる気がするときがある。例えば、天使とエンジェル。エンジェルの和訳は天使であることに、意義を唱える日本人はいないだろう。それでもなぜか、天使は天国にエンジェルは地上に近い存在のように感じるのだ。宗教を持たないせいなのか、幼少期に観たアニメやドリフターズの絶妙なコントの刷り込みなのか、理由はさっぱりわからない。でも、しあわせな時間を司るとき天使、と言ったり聞いたりすると
竹冷忌(3月20日記念日)明治・大正時代の俳人・政治家である角田竹冷(つのだちくれい)の1919年(大正8年)の忌日。この日は別号の「聴雨窓(ちょううそう)」から「聴雨窓忌」とも呼ばれる。角田竹冷について1857年6月4日(安政4年5月2日)、駿河国加島(現:静岡県富士市)に農業・角田彦右衛門の二男として生まれる。本名は真平(しんぺい)。姓は「かくた」や「すみだ」を正しいとする説もある。1874年(明治7年)に上京し法律学を修める。1880年(明治13年)、代言人(弁護士)試験に合
二月十七日サイレンが鳴る、お寺の鐘が鳴る、そしてしめやかな雨の音。めづらしい訪問者――猫がやつてきて、鰯のあたまを食べて行つた。歯がうづいて頭痛がする、暮れないうちから寝た、寝た、寝た、十二時間以上寝た。歯――抜ける前の痛みだ、去年は旅で上歯が三枚ぬけた、今年はもうすぐ下歯が二枚ぬけるだらう。噛みしめなければ、食物の味は出て来ない、それにしても酒が固形体でないことは、何といふ仕合だらう!・人も枯草も濡れてたそがれ・かあと鴉が雨ふる山へ遠く・茶の木もうゑかへ
ひとり飯は自由である。自分のために煮炊きなど、よっぽどのことがない限りしない。老後は、栄養のことなどどうだっていいから、これからもっともっと自由にシンプルに大胆になっていくのだろう。某日。昨晩のおでんを温め直し、にんじんステックと6Pチーズやナッツを齧りながらチョコレートプラネットの動画を観る。至福の晩酌である。チョコプラのらく〜にやっている(ようにみえる)コントは、こういうときにぴったり。本人たちがふざけ合ってるのがいいのです。それに10分程度というのも尚いい。YouT
二月十六日けさも早かつた、四時頃だつたらう、昨夜の今朝だから、感服しても差支ない。朝の読書はほんとうによい、碧巌第二則、至道無難、趙州和尚の唇皮禅に敬服する。そのものになりきる、――これこれ、これだ。午前は雪もよひで寒かつたが、午後は晴れて暖かだつた、そこで、樹明君と会して、鰯で一杯やらうといふのだ。焼酎即死!と思ひながら、どうしても縁が切れない。滓を飲んで旦浦時代を追憶した、滓なんて飲む人があるからおもしろいと、あの時代は考へてゐたが、今の私はその滓でさへろ
あっという間に過ぎる日々。東へ西へと現場に出かけ、事務所という名の自室では数字や原稿のチェックに勤しみ、なにもしていない時間がどこにもない。こんなふうにして作歌から遠のいてゆくのか。持続は力という、手垢のついた言葉があるが仕事のようなわけにはいかないものです。人生がかかっていないという決定的な違いが、そこにはある。短歌や俳句を作らないと生きていけないという、思い詰めた、というか、ある意味攻めた心情にある人たちに、最初から勝てっこないのだ。とはいえ、誰かと勝負しようとい
こんばんは🌛今夜は「伝統と言う形式」の中に自分の世界を盛り込んで行くことについて考えてみたいと思います。・麗らかにをとめのみのる午後の歌一昨日の夜に詠みました。季語は「麗らか」。俳句と言うと「古臭い」「昔のもの」と言うイメージはありませんかでも、そんなことは無いんです。例えば、春惜しむモーリタニアの蛸の足矢島渚男春の飲み屋さんで蛸のお造りを食べています。とても生き生きとした一齣で、タコも美味しそうじゃないですか?俳人は今も生きていて、このように日々俳句を詠んでいるのです。歳
朋誠堂喜三二は蔦屋重三郎と組んで、多くの出版物を世に出したが、突然筆を折って文筆活躍を一切止めてしまった。なせ喜三二が、筆を折ったのかを、詳しく見ていこう。朋誠堂喜三二は、1735年享保20年に幕府寄合衆の家士西村久義の三男として江戸で生まれた。14歳で秋田藩江戸詰の平沢家に養子入りし、平沢常富と称した。そしてまもなく、俊英な喜三二は藩主の小姓となって、これを出発点として近習役、刀番と出世を重ねていく。さらに1778年安永7年に喜三二は留守居役助役に上り、1783年天明3年に留守居役
二月十五日涅槃会。けさは早かつた、御飯をたべて、おつとめをすまして、しばらく読書してゐるうちに、六時のサイレンが鳴つた。朝月夜がよかつた、明けゆく風が清澄だつた。読書、読書、読書に限る他に累を及ぼさないだけでもよろしい。アメリカは黄金を抱き込んで、しかも貧乏に苦しんでゐる!これに似た人間が日本にも存在する、黄金を食べても餓は凌げないのだ、胃は食物を要求してゐるのだ、物そのものの意義を理解しなければ駄目だ。くわう/\として日が昇る、かたじけないと思ふ。小為替一
俳句を書道で書く書道正師範高須番長書道ブログ七人の孫'sグランマさんブログよりモコままセレクトさせていただきました。山口誓子日本の俳人(1901-1994)山口誓子(やまぐちせいし、1901年(明治34年)11月3日-1994年(平成6年)3月26日)は、日本の俳人。京都府京都市出身。本名は山口新比古(やまぐちちかひこ)山口誓子(やまぐちせいし)山口誓子(やまぐちせいし、1901年(明治34年)11月3日-1994年(平成6年)3月26日
月斗忌(3月17日記念日)俳人・青木月斗(あおきげっと)の1949年(昭和24年)の忌日。この日は「鶯忌」とも呼ばれる。青木月斗について1879年(明治12年)11月20日に現在の大阪府大阪市中央区船場に生まれる。本名は新護(しんご)。別号に月兎(げっと)。家業の薬種業を継ぎ、かたわら俳句に親しむ。正岡子規に認められ、大阪満月会、三日月会を結成して、1899年(明治32年)に俳誌『車百合』を創刊。1920年(大正9年)に俳誌『同人』を創刊・主宰。家業を廃して俳句一途の生活に入り、関
二月十三日降霜結氷、つめたいけれどうららかだ、冬三分春七分。けさ、はじめて笹鳴が耳にはいつた、ずゐぶんヘタクソだつた、それでよろしい。内容充実の手紙が来ないので、山口行乞を実行した、山口は雪もよひで寒かつた、行乞三時間、悪寒をおぼえるので、急いで帰庵した、途中で一杯ひつかけて元気回復。行乞は求めてすべきものではないが、しようことなしの行乞を活かすだけの心がまへは持つてゐなければならない。・朝月ひやゝけく松の葉に・葉がない雲がない空のうらゝか・枯葦の水にうつれ
二月十一日紀元節、そして建国祭。晴れると春を感じ、曇ると冬を感じた、春を冬が包んでゐるのだ。周囲を掃除しながら、心臓の弱くなつたことをまざ/\と感じた、余命いくばく、忙しいぞ。藪椿一輪を活ける、よいかな、よいかな。午後、風が出た。樹明君が吉野さんをひつぱつてきてくれた、三八九第六集の裏絵として、裏から見た其中庵を写してもらつた。おだやかな、あまりにおだやかな一日だつた。夜は早くからぐつすりと寝た、そして夢を見た!・月が照らしてくれるみちをもどらう・月かげの
二月九日晴曇さだめなし、風邪発熱、だるくて慾望がない。いろ/\の手紙がきた、手紙は差出人の心を表白すると同時に受取人の心をも表白せしめる。はじめて、雲雀の唄をきいた。買物いろ/\、すぐまた無一文、それでよい/\。一杯やるつもりで仕度をして樹明君を待つ、やつてきてくれた、気持よく飲む、ほろ酔機嫌で街へ出かける、そこで一杯、また一杯、すこしワヤをやつて、それ/″\の寝床へもどつて寝た。今日の買物一金拾三銭醤油二合其他一金壱円酒壱升一金拾弐銭ゴマメ
白牡丹といふといへども紅ほのか流れ行く大根の葉の早さかな高浜虚子角川書店の「俳句」3月号で上の句を挙げたある論者は「一物の凄みが感じられる」と言っている。ほんとうだろうか。前句は「いふといへでも」と捻って読者に期待を持たせ、「紅ほのか」という意外な表現へ展開したところがすごい。後句もはほぼ同じで、「早さかな」という表現がなんとも意外なのだ。つまり、一物の凄みがこれらの句にあるわけではない。ちなみに、以上の展開の意外性は一種の取り合わせがもたらしている。はっきり言っておこう。「一
二月八日あたゝかい雨、もう春が来たかと喜ばせるやうな。朝、樹明君が見舞に来てくれた、貧乏見舞に!そして、雨の其中庵はなか/\よいなあといふ、しめやかなものですよと私が答へる、お茶をのんで別れた。いよ/\食べる物がなくなつた、明朝までも餓死もすまいて。朝はお茶、昼は餅を焼いて、晩は野菜汁ですました、すませばすませるものである。ふくろうが濁つた声でヘタクソ唄をうたつてゐる、どこかにひきつけるものがある聞いてゐると何となく好きになる、彼と私とは共通な運命を負うてゐるやう
私にとって詩はその時感じた心情を表に出したもの。俳句は記憶を振り返り、物思いにふける時表に出したくなるもの。最近お会いする機会のあった日本の俳人で現代俳句の重要人物の1人である高野ムツオ(たかのむつお)さんは特に震災や戦争といった社会的・歴史的な背景をテーマにした俳句を多く詠んだことで評価されている。戦争を体験されたご婦人が高野さんにこんなことを質問していた。「戦争を経験したことを、俳句にしようとするがその時のことを思い出すと何も書けなくなってしまう。どうしたらい
二月七日けさも早起だつた、朝のうちだけでもかなり読書が出来た、書かなければならない原稿があるけれど、気乗りがしないから、裏山へ登つて遊んだ、ぽか/\とぬくい日である、かういふ日には何だか老を痛感する。小松一本、ぬいてきてうゑた、この松の運命は。――近来、疳の虫が出てきてゐる、いろ/\の事に腹が立つ、つまらない事が癪に障る、昨夜も胸中むく/\があつたので、それには何のかゝはりもない樹明君に対して礼を失したに違いないと今朝考へて恐縮してゐる、これではいけない、
午前中外来はほとんどフォローアップ外来、20年以上の付き合いである数少ない男性患者で俳人、人生の先輩、Y氏が来られていて、「忙しいことはいいことだ、あちこちに呼ばれて手術に行くのは求められているのだから頑張れ」と励まされた。夕方のANA便で北海道にやって来た。2月の混雑ぶりから一転、新千歳空港には異国人の姿は目立たず静かだ。快速エアポートの指定席も空いていた。札幌駅でもタクシー待ちもなく、常宿の京王プラザホテルで荷物を預けて、藤井先生と美味しいイタリアン、Agodaへ!間近に迫ったJPOP
二月六日けさはまつたく早すぎた、御飯、御勤、何もかもすんでしまつても、まだ/\なか/\明けない、禅書を読んだ。ぬくうてなごやかだつたが、だん/\つめたくなり、小雪ちりはじめた、畑仕事の手が寒かつた、そしてとう/\雨になつた。今日も行乞には出かけられさうにもない、餅でも食べてをるか!夕方、樹明君から来状、今夜は宿直だから、夕飯と晩酌とを御馳走しようとの事、大に喜んで出かける、飲む食べる話す、そして別れてHおばさんのところで、一品の二本、それから二三軒をあるきまはつて
宋淵忌(3月11日記念日)臨済宗の禅僧・俳人の中川宋淵(なかがわそうえん)の1984年(昭和59年)の忌日。中川宋淵について1907年(明治40年)3月19日に山口県玖珂郡岩国町(現:岩国市)に生まれる。本名は基(もとし)。号は密多窟(みつたくつ)。東京帝国大学文学部を卒業。1931年(昭和6年)に山梨県の向嶽寺で得度。山本玄峰に師事し、1951年(昭和26年)、その跡を継いで静岡県三島市の龍沢寺に住し、多くの弟子を育成する。また、1949年(昭和24年)からはたびたびアメリカに渡り
『現代俳句ハンドブック』(雄山閣)には「現代俳句用語100語」があるが、そこに「一物仕立て」があり、本井英さんが「内容的にも音調的にも明確な句切れを持たない句」が一物仕立ての句だと解説している。一物仕立ての例として本井さんが挙げているのは高浜虚子の「箒木に影といふものありにけり」。この句、虚子の写生句として有名だった。句の構造としは正岡子規の「鶏頭の十四本もありぬべし」とほぼ同様。子規のこの句もかつて俳人の間で有名だった。でも、俳壇を超えて有名になったかというとそうでもないのではないか。
二月四日立春。すこし夜の雪がつんでゐる、寒いことは寒いが、大したことはあるまい。たよりいろ/\――俊和尚、孝志君、緑平老、敬治坊、そして雑草二月号。下痢で弱つた、酒のためか、寝冷のためか、それとも麦飯のためか、とにかく腹工合も悪いし、懐工合はなほさらよくないし、節食断酒の好機である、しばらくさうしよう。昨夜、樹明君と立ち寄つたおぢさんのところで、血書の話を聞いて、みんな微苦笑したことであつた、血書もかう流行的になつてはインチキがあるのも当然だらう、黒い心を赤