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ヤシの木に山藤が巻き付いている強風にもめげず根はどれくらい張っているのだろうさて、信長の棺加藤廣信長記を書いた太田牛一が主人公物書きが物書きを題材にして熱い思い入れが見てとれる信長に仕え後に秀吉に請われ徳川初期まで存命した一級史料ただ、出版には多くの元手が必要いわゆるスポンサーそのスポンサーの意向を無視して執筆はままならずましてや醜聞を書き散らす訳にも書かれた記録がないからと言って事実がないわけではなく書かれた記録があるからと言って事実があるわけではないこう
〖石川県能登地方での地震による被害を受けられた皆様へ心よりお見舞い申し上げます。〗義援金受付窓口↑ニセサイトではありません💦石川県のホームページのリンクを貼ってあります。力になりたいと思われたら訪問してみて下さい!みんなで助け合いましょう‼️⚫そろそろまた頑張ってみようかと、復活。⚫愛用です😉店頭よりかなり安く買える魅力🐸【第2類医薬品】フェイタスZαジクサス21枚Amazon(アマゾン)ドラゴンボールZ[お菓子チョコレート]仙豆チョコポット/バレンタインAm
今朝の朝刊の「発言~みんなの声~」です。同年代の女性なのですが>戦国史はもともと好きでしたが・・・>相関図をメモしながら読み進め・・・>一色五郎が登場してからは手に汗を握る場面が増え・・・>続きが待ち遠しい・・・>登場人物の各視点で臨場感たっぷりに・・・>しかも立体的に語られる・・・いやあ、全く同感です。この女性の脳内では、映画のように進んでいるのでしょう。どこのどなたかは知る由もありませんがこの女性となら、よい友人関係
【問題】『信長公記』に“昼夜、山も谷も動くばかり”と表現されたのは、次のうち何の様子か?【選択肢】天正の伊賀攻め鉄甲船の建造本能寺の変後の京安土城の普請【正解】安土城の普請【解説】安土城(滋賀県近江八幡市)の普請は、大量の人夫を動員して短期間で行われた。その様子は、『信長公記』に“昼夜、山も谷も動くばかり”と表現されている。
こんにちはー今日は曇り☁️ですーさてーのぶな、あっ、里芋を芽出しのためハウス中の土に埋めてたのが芽が出てきましたー週末に植えようかなーあと生姜やサツマイモも埋めてるけど芽はまだかなーサツマイモの近くにダンゴムシがワラワラいるけどまさか食べてない?どうでしょーねー改めて、信長さん情報です。滋賀県の安土城を建てたぐらいの頃かな、これは少し有名な逸話かもです。秀吉さんの奥さんねねさんと信長さんの濃姫さんが仲良いんでしょうか、ねねさんが秀吉の女癖にヤキモキしていると聞いて信長さんがね
こんにちはー今日も晴れですー昨日は仕事帰りに雨が降りそうだったのでホームセンターへ寄ってニンジンの種を購入して暗い中、懐中電灯を手に種をすじまきしておきましたー。もう野菜のことしか考えてません。愛知県北部は木曜日の夜と金曜日の夜が10℃近くまで冷え込むので開けっぱなし中のミニビニールハウスは夜閉めようと思います。Yahoo天気アプリの気温より現地はマイナス1℃2℃ほど低いようなので。あと、またまた若い頃の信長さんの逸話を二つ。興味ないかもしれませんが、言いたい!名古屋のある池で巨大
こんにちはー今日は曇りときどき小雨ですー昨日はゴールドラッシュの定植、ダイコンのすじ蒔きを進めました。今日の雨を期待してたけど今のところ霧雨程度だなー耕運機のこまめで畝を耕してたらまた大きい石が何個か出てきました。親に聞いたら昔ここらは水田地帯だったけど宅地に切り替えるときに山から土を入れたみたいです。それで大きな石がよく出るんだなーと。逆に重機じゃないと動かせない石が無くて良かったなとプラス思考としておきます信長さんが若い頃、よくこのエリアまで来てた資料は残っているので、水田の水路でウ
最初に結論を書いてしまえば「本能寺の変はなぜ起こったか」に関しては諸説ありますが、誰も分からないとなりますよね。「秀吉がなぜそれほど早く戻れたのか」は天が味方しただけなのか。本能寺の変の真相は書かれていませんが、織田信長の人生をある程度正確に描かれたものが信長公記です。太田牛一が残したとされています。本物の信長公記を読むのは一般人では無理でしょう。そのような時に役に立つのが分かりやすく書かれた解説書です。「眠れないほどおもしろい信長公記」です。200ページほどの本で、難解な部分がないのが嬉
長らく夏休みを頂いておりましたが、姫路城甲冑隊の活動が再開の運びとなりました旨お伝えいたします当版におきましては3ヶ月近く休載しておりました長き休みの間、コロナ等体調を崩したり致しませんでしたか?某も未だ運良くコロナにかかることなく過ごしてますさてテレビでは信長公記にて永楽通宝がよく映っておりますね?見ていますか?私の手作り甲冑武具作品の中にもコレがあります2年半ぶりに見に纏おうかと思います(この写真からそれほど経っておりますwww)世情に入り込むのは私の活動のポリシーです
舅である美濃の斎藤道三に、居城の那古屋城(名古屋市)の守りを託すという賭けにでた織田信長は村木砦(愛知県東浦町)を総攻撃しました。しかし、砦はなかなか落ちません。砦陥落に手こずれば、本当に舅に城を奪われかねません。『信長公記』によると、織田勢はなんども突き落とされそうになりながら砦の大堀を攻め上り、「手負死人その数知らず」という戦況でしたが、早朝の午前7時ごろから薄暮のころまで攻めたて、ついに今川勢は多くの死傷者をだして降伏したといいます。ただ、織田
素晴らしい動画を紹介します心震える・・・「敦盛〜平家物語より〜」信長の辞世の句として有名な敦盛の幸若舞人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり一度生を享け、滅せぬもののあるべきか太田牛一の残した『信長公記』によれば、桶狭間の戦いの前に信長が舞ったという紹介していただいたこの動画和楽器ひとつひとつの効果の高さを細胞レベルで実感する素晴らしい和楽
『歴史の中の邂逅(かいこう)』-司馬遼太郎●荒木村重について-⑤✪村重は織田方と毛利方を天秤にかけて大博奕を打ってみたいと思ったのかもしれず、たとえそうであっても戦国期におけるこの種の飛躍は当時の倫理には必ずしも反しない。「10月21日、荒木摂津守、逆心を企つる由、方々より言上候」と『信長公記』にあるから、播州上月城の陣で噂が立ってより4ヶ月後のことである。信長自身はこれを聞いて、やはりそうであったか、というようなものではなかったらしく、まさかと思い、意外に思ったようである。
伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定第19回記紀記紀と書けば日本書紀と古事記のことになりますが、この二書に限らず、紀と記の二通りの史書があります。日本書紀、続日本紀、続日本紀、続日本後紀、などは紀となっており、古事記、扶桑略記、太平記、越後軍記、信長公記、太閤記、徳川実記、明智軍記、など記となっている史書は多数あります。記は書き記すことで、これはどのような書籍にも当て嵌まります。紀は特殊で、歴史書のなかで国王・皇帝の実績を書いたものを本紀、または紀と呼び、紀となっている
昨日夜帝国ホテル東京「天一」の料理人さんと少し話して、その後新橋の一応ホテルに泊まりました山田杏奈氏(アミューズ)が「新・信長公記」にて日下部みやび(くさかべみやび)役やられてますが、山田杏奈氏(アミューズで出ているひと(「普通でなくて」)?)が日下部氏(昔かっこよすぎた??)を落としたことの一応のメディア確証になります。。(そういえば、東京大学に山田杏奈氏いるみたいですが、てこ入れなければキツい((か改名の余地))と考えています。)「普通でなくて」スポンサードに関しては、私西村幸一郞は「
播磨の黒田武士顕彰会が主催した「西播磨城巡り」に参加しました。好天気に恵まれ、有意義な城巡りでした。上月城主・上月景貞の妻は黒田官兵衛の妻・光姫の姉だったので前々から訪ねたかった城跡です。この登山口から頂上まで約20分くらいだそうですが、今回の行程では上りませんでした。頂上に上っても上月城主・赤松政範の供養塔があるのは知っているが私の目的は、城主・上月景貞の情報を得たいのみなので、がっかりはしませんでした。歴史資料館前で、案内人さんの説明に聞き耳たて
乃至政彦さんという作家さんがいます。この方は、戦国時代の合戦の様相を、江戸時代以降に書かれた「軍記物」などの二次史料を排除し、一次史料や、同時代史料を元に、真実の姿を解明しようと本を書いている人のようです。いくつか、この方の本を読みましたが、なかなか、興味深く、個人的にも、後世に書かれた二次史料ではなく、同時代に書かれた史料を、忠実に検証し、戦国時代の合戦を明らかにしようという考えは、共感の持てるところ。しかし、この「同時代史料」や「一次史料」に書き残された情報は、少なく、限られたもの。
「上街道」を進みます。旧道は右に入るのですが、直進してしまいました。冬桜でしょうか、可憐に咲いています。あんこの自販機…珍しいと思いませんか。こんもりとした森があり、神社があります。この一帯西南に天正年間(1573~1592)安井将監浅野長勝(秀吉の妻ねねの養父)が安井城を築き、鬼門の守護神として大山祇神を勧請し「山神社」と称したという。城(館)は、東西約160m、南北約150m規模の大きな館だったと伝えられます。
明智秀満(94)割と著名な歴史家でも、「光秀が中国に援軍に行かされたのが謀叛の原因の一つ。」と主張する人がいる。しかし、長秀、一益、光秀はもともと各方面に援軍に行っているのだ。丹波攻めの時、長秀が光秀の援軍に入っているが、それで長秀のメンツがつぶされたと主張する人はいない。一益も何度か光秀の援軍に入っているが、それで一益が拗ねたという話も聞かない。そもそも光秀を含め織田勢が、秀吉の援軍に行くのは今回が初めてではないのだ。今回は秀吉の指揮下に入るので屈辱的であった、と
信長の遺書~マキアヴェリチェーザレ・ボルジア御留書~Amazon(アマゾン)太田牛一の信長公記には正篇があった。秀吉の天下かつ禁教令を恐れ、太田牛一がヴァリニァーノに正篇を託したものがイタリアで見つかった。副篇では削られたキリシタン司祭や信徒の記述がそのまま記載されているという。イタリア統一を目指したチェーザレ・ボルジア。それを側で見ていた君主論のマキアヴェリ。君主論を携えたイエズス会のヴァリニャーノ。信長は、チェーザレがどのように戦ったのか、世界では何が起きてい
NHKNEWSWEB2023年9月17日5時39分戦国時代、豊臣秀吉が織田信長に仕えていた時期に、合戦に早く駆けつけた自分の家臣に対し、褒美を受け取るよう伝えた書状が、静岡県内の一般の住宅に保管されていたことが東京大学史料編纂所の研究者によって確認されました。信長の家臣だった時期の秀吉の動向が分かる書状が発見されるのは珍しく、持ち主が書状の写真をSNSに投稿したことをきっかけに、解読が進んだということです。この書状は、静岡県在住の宮田岳さんが豊臣秀吉に仕えたと伝わる先祖の
残暑厳しいのに秋🍁なのか疑問…だけど暦の上では秋🍁…信長公記を読み始める…
「尾張平定戦:織田信長、天下統一戦略の萌芽」をKindleで配信中。父の急死により一八歳で家督を継いだ織田信長は、「四周皆敵」の中で尾張を平定していかなければならなかった。「信長公記」を時系列に整理し、ゲームデザイン的手法で分析。尾張平定戦:織田信長、天下統一戦略の萌芽(歴史ソウゾウ文庫)
織田信長が現在の滋賀県に築かせた安土城は、築城から僅か数年で焼失した城でありながら、フロイスらの報告を通じてヨーロッパにもその華麗さ壮大さが伝えられた城であり、日本の城の歴史を大きく変えたことで有名です。城の外観や内装については文字資料では伝えられているもののこの城の姿を描いた図面は、伝えられていません。信長が描かせ、天正少年使節団を通じてローマ教皇に献上させた屏風の消息は現在では不明になっています。滋賀県はローマに副知事を派遣し改めて再調査を依頼したのですが、結果はまだわかりません。
時々ネットで大河ドラマの評価、感想などを見かけます。その中で「今回の話は史実と反する」ということを見かける気がします。まあ確かにそう思うこともありましたが、よく見るYouTube・市橋先生が本当のところ史実は当時の人以外はわからない、歴史資料に記されていることはどれも事実であって、真実・史実とは限らないとおっしゃられていたので、確かにそうだなと思うようになりました、中々奥が深いコメントですね。よく見るYouTubeです。歴史にご興味のある方は、考え方に幅を広げる意味
昨日からの流れで…今日は「織田信長と占い」についていくつかの逸話をご紹介していきたいと思います🔮占い好きでは右に出る者がいなかったとされた武田信玄とは反対に、織田信長は占いを軽蔑していたといいます。戦国時代の日本を訪れ、織田信長や豊臣秀吉らとも面識のあったキリスト教宣教師ルイス・フロイスが書簡を残しているのですが、それによると信長は「よき理解力と明晰な判断力を備え、神仏やあらゆる類の偶像、一切の異教的占いを軽蔑している」とあります。うーん、昨日の記事にも書きましたが、織田信長は神職の家系で
瓢箪は古くから器として利用されてきたが、とくに水入や酒器としてのほか、割って皿や柄杓としても使われていた。ペポカボチャ(おもちゃカボチャ)小説や映画などに登場する信長の若き人物像では、荒々しい装束がよく知られる。ペポカボチャ(おもちゃカボチャ)信長が舅の斎藤道三と初めて会う「信長公記」の記載には以下のように書かれている。湯帷子の袖を外し、のし付けの太刀と脇差二振りを縄で巻き、太い麻縄を腕輪にし、腰には
明智秀満㉟「信長公記」『三月十日(注4月10日の誤記)信長、御小姓衆五、六人召し列れられ、竹生島御参詣。長浜の羽柴筑前所まで御馬に召され、これより海上五里、御舟にて御社参。海陸ともに片道十五里の所を、日の内に上下三十里の道、御帰城なさる。希代の題目なり。併せて、御気力も余人にかはり、御達者に御座侯のところ、諸人感じ奉り侯なり。遠路に侯へば、今日は長浜に御逗留候はんと、いずれも存知のところ、御帰り侯て御覧侯へば、御女房たち、あるいは、二丸まで出でられ、あるいは、桑
明智秀満㉝「信長公記」『遠州高天神、家康御取り巻きの事遠州高天神の城、武田四郎人数入れ置き相拘へしを、家康公押し詰め、鹿垣結い回し、取り籠めをかせられ、御自身御在陣侯のなり。』徳川家康は天正8年(1580年)8月には「高天神六砦」と言われる包囲を完成した。これにより高天神城は完全に包囲されたのである。家康は10月になると自ら5千の兵を率いて布陣したが、敢えて力攻めにせず、鹿垣を巡らし、兵糧攻めを強化した。この辺は光秀の八上城攻め、秀吉の三木
明智秀満㉔「信長公記」『一丹波国日向守働き、天下の面目をほどこし侯。次、羽柴藤吉郎、数ヶ国、比類無し。然して、池田勝三郎小身といい、ほどなく花熊申し付け、これまた天下の覚えを取る。ここを以て我心を発し、一廉の働きこれあるべき事一柴田修理亮、右の働きに及び、一国を存知ながら、天下の取沙汰迷惑に付きて、この春、賀州に至りて一国平均申し付くる事一武篇道、ふがい無きにおいては、属託を以て調略をも仕り、相たらはぬ所をば、我等に聞かせ相済むのと
「どうする家康」特別展に行ってきました。家康の誕生の祝いの鎧がありました。岡崎市立美術博物館2023/07/19昨日7月19日(水)、岡崎市立美術博物館で開催されているNHK大河ドラマ「どうする家康」特別展に行ってきました。東京、岡崎、静岡を一年かけて巡回するもので、多くの家康、信長、秀吉の資料が集められていました。家康に関わる資料が中心でした。家康の誕生の祝いに東浦町の入海神社に奉納した家康の鎧も展示されていました。現在熱田神宮の宝物殿に預けられていて観ることができ