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今朝の朝刊の「発言~みんなの声~」です。同年代の女性なのですが>戦国史はもともと好きでしたが・・・>相関図をメモしながら読み進め・・・>一色五郎が登場してからは手に汗を握る場面が増え・・・>続きが待ち遠しい・・・>登場人物の各視点で臨場感たっぷりに・・・>しかも立体的に語られる・・・いやあ、全く同感です。この女性の脳内では、映画のように進んでいるのでしょう。どこのどなたかは知る由もありませんがこの女性となら、よい友人関係
証拠はないと言うけれど、その当時、普通だった事をわざわざ記す必要は無いと思うけど。日記などの場合は、特記すべき尖った出来事を記し、書状は受け取る相手とのやり取りがメインなんだから。400年後の人間にとって男色関係が普通じゃなくなる事まで予見して記しちゃあくれない。蘭丸が美少年だったとか男色とかの記述が史料に全くないと勘違いしてる人もいるようだけど、あくまでも当時の日記や書状に特に書かれてないだけで江戸前期から中期の史料に集中して美少年だの男色相手だったというのは普通に書かれている。少年の愛
『信長公記』最終巻の巻15天正10(1582)年のその2は、甲州征伐が織田信忠による武田領に侵攻で始まり、崩壊する武田領についてです。武田家の崩壊信忠、武田勝頼と対決2.1苗木久兵衛が三位中将信忠卿に、武田勝頼方の信濃の木曽義政(義昌)が味方に加わったので御出兵くださるようにと使者を送ってきたので、三位中将信忠はすぐに平野勘右衛門を信長公に派遣してご報告になった。信長公は、「まず手近な国境に兵を派遣して人質を確保し、その上で自分が出陣いたす」とおっしゃられた。ただちに苗
信長公記によると、―荒木摂津守五六人召列、伊丹を忍出、尼崎へ移候…(『信長公記』より)(村重は5~6人の従者のみ引き連れ、密かに伊丹(有岡城)を抜け出して尼崎城へ移動した)とあるのは周知のことですが、これに対して歴史学者の天野忠幸氏は「村重は、実は数百の勢を率いて有岡城包囲網を突破し、尼崎城へ移動」と発表しています。荒木村重の戦いと尼崎城天野忠幸http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/publishing/bulletin/cont
『信長公記』巻14天正9(1581)年のその4は、豪華な信長公のお馬揃えについてです。信長公、豪華なお馬揃えを開催京都・安土でのお馬揃えに向けて信長公は、元旦から、安土城の北側、松原町の西方から琵琶湖端にかけ、御馬場を築くよう、菅屋九右衛門長頼・堀久太郎秀政・長谷川竹秀一を奉行に任じ、とりかからせた。正月8日信長公はお馬回りに、15日の左義長(どんど焼)の行事に、爆竹を用意し、頭巾をつけ正装し、準備しての臨むことを命じられ、爆竹担当の近江衆は、北方・南方それぞれに奉仕するもの