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小野龍海’s歴史塾このホームページでは歴史研究の成果を資料化して公表しています。ono-no-tatsumi.amebaownd.com愛媛県には「伊豫豆比古神社」という古社がありますが、この神社の伝承には古代の愛媛県が今とは違う様子がありありと残されているのです、そしてその事から我々は古代の事を知ることができ、伝承地球物理学とでもいうべき新しいジャンルを確立できると考えています。伊豫豆比古神社この神社の伝承では次の様に伝えています、「伊豫豆比古命が神社の建つ地「舟
飯島町の太子という地籍には太子堂があった。聖徳太子がこの地を旅したとき、中田切川の洪水によって足止めされた。滞在中に川の流木を拾い、自らの像を彫り刻んで北河原の地に残した。これが「太子御影」の始まりだったしかし、正徳五年(1715年)、伊那だにを襲った大洪水によって、現在の地籍に移った。しかし、火災によって尊像が焼失したが、寺の後ろの松の木にお姿がありありと顕現したので、その松を太子御影の松と言い伝えられたが、本堂工事等の為枯れてしまった。今ではその跡地には史跡が残されてい
飯島の西岸寺は、広い池があり中島に弁天堂が建っている。この池は白玉の池と呼ばれていてお堂は柱や壁には青や朱が鮮やかに塗られている。お堂の前には杉の大木があり根元のほら穴に一匹の白い蛇が棲んでいた。人々は、白玉の池の主で弁天様の使いだと言っていた。杉の木に、スズメバチが巣を作っていて、その巣をとろうとこっそり火をつけた。たちまち火が広がって、弁天堂まで焼けてしまった。白ヘビの姿も、それ以外見ることはなかった。それから、村のあちこちで火事が起きた。そこで、弁天様と白ヘビをお祀り
百姓の娘が、山道でねむの木の花を見つけた。太い枝に足をかけて、降りようとした時、山犬が飛び上がって来た。大声で叫ぶと、孫三郎という若者が駆けつけ、こん棒で打ちのめしてしまった。命拾いをした、と丁寧に礼を言った。娘は、時々孫三郎とあっているうちに互いを好きになり、夫婦になった。やがて嫁は子を身ごもったが、病にかかってしまった。孫三郎の嫁さまが病気になったのは、祟りに違いないと、噂が広まった。犬神と刻んだ石塔を山犬を埋めた土の上に置いて供養した。不思議に嫁の病はよくなり、元
川奉行、中村新六の屋敷の近くを流れる天竜川の深い淵には河童が住んでいた。河童は時々、通行人を水に引き込んでいた。ある日、新六は馬を連れて、川辺で休んでいた。馬がいななき、見ると、河童がしっぽをつかみ、川へ引き込もうとしていた。馬は駆け出し、新六も追いかけた。屋敷の男衆は、馬だけ帰ったのを不思議に思い、かいば桶を見ると、河童がひそんでいた。河童を縛り上げると、命ばかりはお助け下さい。妙薬の作り方を教えますから。こうして新六に伝えられた妙薬は、家伝痛風薬という名で売れたとい
二十歳になった総右衛門は、お濃という娘と婚約した。ある日、惣右衛門は草を刈っているとどうしたことか眠気がさしてきた。目の前には大きな蛇がひと飲みしようと、迫ってくる。鎌を振り回すと、蛇の首に刺さり、草むらの中に消えていった。お濃と結婚した惣右衛門は顔色が青ざめていった。三日目の夜更け、お濃の顔を見ると大きな蛇の顔に変わっていた。この家から出ていってくれ。当てもなく山道を歩いていると駒ヶ岳の頂に池が見えてきた。池に映った顔を見ると、大蛇の顔だった。お濃は、池に身を
おはようございます。本日10月15日は『きのこの日』だそうです。仏教を開かれたお釈迦さまの入滅のきっかけとなったのがチュンダ・純陀(ジュンダ)が供養したキノコ料理との伝承があります。純陀が供養した食事は『スーカラ・マッダヴァ』でスーカラは豚、マッダヴァは美味、柔らかいと訳されることから豚肉料理の説がありますが・・・漢訳経典では『栴檀茸』(せんだんに)とあります。栴檀に生えるキノコを意味するとも、豚を使って探すトリュフのようなキノコではないか・・・とも考えられています。日本では、毒キ
こんにちは。フランス・ドイツ・日本と引っ越しながら日仏バイリンガルの子ども二人を育てた日本語教師海外子育てにおける日本語継承サポーターベラール聰子です。皆さんは、おじいちゃんおばあちゃんに子どもを預けることについてどう思われますか?仕事や用事があるときに預かってもらえると親としてはとても助かりますよね。でも、フランスで子育てをしてきた私が今振り返って感じるのは祖父母に子どもを預けることには親が助かるというだけではないもっと大きな意味が
小瀬戸の湯から三峰川をさかのぼっていくと谷は狭くなり、その中程に巫女淵といわれる大きな淵がある。その淵の上には石の祠があり、巫女の霊を祀っている。むかし、平維盛は、本妻と白拍子の二人の妻を伴い、紀州より落ち延びた。浦という地籍に住居を構えて住みついていたが、狭い土地で、二人の妻が同居するのには適していない。白拍子は、自分が身を引くのが一番よいと悲しい決心をした。この場所をみつけて、念仏を唱えながら手を合わせて淵に身を投げた。そして、維盛は残していった鈴を祀って霊を慰めたと
愛知県春日井市上田楽町の「伊多波刀神社」「伊多波刀神社」(いたはとじんじゃ)では10月12日に、五穀豊穣や万民息災を祈る市無形民俗文化財「奉納流鏑馬」(やぶさめ)がありました保存会メンバーの5人が、馬上より矢を放って、全員が的を射抜いたのです「伊多波刀神社」の伝承などによりますと、毎年旧暦の8月に流鏑馬神事が行われて、江戸時代の絵図にも残されていました。しかし、明治期に断絶静止した馬から弓を射る形で残り、1950年に春日井市初の民俗文化財に認定されました
蓮華寺から100メートルほど奥にある、山のふもとの丘の上に七面堂がある。その昔、この七面堂に、徳の高い聖人様が村人を集め、ありがたい説教をしていた。村人は聖人様様を、七面堂と呼んでうやまっていた。ところがこの村人の中に、怪しいほど美しい女性が、熱心に説教を聞いていた。毎晩、この女性がどこからか現れるので、人々は聖人様の知り合いではないかとあやしんだ。これは妖しいもののけである。と、女性に向かって念仏を唱えたところ、一匹の白蛇となってどこかへ消えていった。その後、七面様の
着物👘を着ることはありますか?では、着物を自分で縫ったことはどうでしょう?母の時代は学校でも和裁の時間があり当たり前に着物を縫う機会があったようです母が押し入れの整理をしていたら大事に残していた本が出てきました『主婦之友和服一切お裁縫全集』パラパラ中を見てみるとそれはそれは細かく書かれています着物ってワンパターンじゃないの?たくさん載ってますが着物👘に関しては全く知識がないので残しておくべき記録とはわかるけど私には活用することができませんコレ、どれだけの人が受け継
高遠を流れる大沢がわの下流によきとぎ橋という橋がかかっている。きこりたちが、よきという小型の斧をといたところだ。きこりがこの橋のたもとで、といを作っていた。そこへ、傷を負った武士が助けを求めてきた。きこりはとっさに樋を裏返しにして、武士を潜り込ませた。まもなく追手がきて、ここへ武士がこなかったか。ずっとよきを研いでいた、誰もこんかった。追手はあわてて引き返した。娘と二人ぐらしのきこりは、武士を介抱した。やがて傷も癒えた武士は、刀を捨てきこりとなり、命の恩人と一緒に
川中島の合戦が激しい頃、武将は、身重の奥方を連れて、遠縁の伊那のお城に世話になっていた。ある春の日、お腹の子のために、外に出ようかと、野山に連れだした。2人は気が付くと夕闇につつまれ、山の中に迷い込んだ。仕方なく、木地師の家に一夜の宿を借りたが、夜中に産気づいて苦しみ出した。山奥ゆえ、医者も産婆もいない、すぐに生まれる気配はない。その家の男衆は、明神池の水を飲ませたら元気になる。奥方が水を飲むとやがて元気な産声が響いた。この池の横に社を建て、お子安さまと呼んで安産
昨日の集まり、話は福岡の近代史に流れてその内容の深いこと深いことおそらくや、10中9.9他県の方々からは大顰蹙買うと思うんやけど昔から、個人的には福岡は独立国家でもやっていけるんやないか❓…みたいな感覚があったん💦それを感覚やないで裏付けできそうな隠された歴史の話が証左と共にポンポン飛び出した🫢そして、歴史は表には見えないところから静かに動いて見せてはならないとこは闇に消されるか伝承かになって、正史には残らないその闇はなんとまあ人間の息遣いがあって魅力的なんやろ😍福岡は経済
高鳥谷山のふもとに井上掃部という男が住んでいた。イノシシ追っているうちに道に迷い、大雨のため、岩陰に閉じ込められた。ようやく雨がやんだが、方向が分からず途方にくれた。道案内の神様の猿田彦におすがりしよう。猿田彦を拝むと、目の前にヤマドリが舞い込んだ。掃部は、弓矢をつがえた。しかし、ヤマドリは向こうの木の枝にとまった。近づくとまた飛んでいき、まるでからかわれているようだった。山を越えて谷を下ると、見覚えある橋まで来た。猿田彦の神様がヤマドリに道案内させてくださった。家に
富県にある薬師堂の本尊は薬師如来であり、人々の災害を救い、難病を治すといわれ、味噌薬師として名高く、多くの参拝者が来た。ところが、1860年十月に火災があり、お堂を全焼した。すぐに再建する費用もなく、信徒は困っていた。そのころから、信徒百五戸の味噌の味が急に悪くなった。本像のお堂を、焼けたままにしていたからに違いない。と気づいた信徒たちは、薬師堂を再建し、本尊を安置した。火災に遭った十月十九日を縁日と決め、盛大な仏事を行った。味噌造りの季節には、薬師堂の水をもらい、お
みなさん、こんにちは😃沖縄旅行、いよいよ最終日!最後は古宇利島のハートロックへ🏝️海の上に長い橋が架けてあり橋を渡ると古宇利島です駐車場から浜辺へ降りるには結構な坂がありますヨイショ、ヨイショと下っていってこの絶景が見えたときうわーーきれーーい人生も同じなんですよねw笑足が悪くこの絶景が見えなかった祖父母にサンゴを見せてやろうとパリャリ📸そして、那覇の波上宮へ。よく見て!沖縄は狛犬ではなくシーサー!笑沖縄の神さまに最後のご挨拶をして、無事に旅を
東春近の百姓やに猿の親子を飼っていた。あるとき、おかみさんが洗濯用の灰汁を作ろうとして、焼きたての灰と熱湯を桶に入れたまま仕事に出た。その留守に子猿が桶のふちから熱湯の中に落ちてしまった。親猿は泣いて悲しんだ。百姓夫婦はなぐさめると、親猿は桶の蓋を持ってきて、桶にかぶせた。こうすれば落ちないものを、と教えたのであろう。小夫婦は自分たちのうかつさを悔いて、親猿を山へ帰してやろうとした。親猿は恨めしげに、子猿を抱いて出て行った。主人は親猿の様子が気になって、後をつけていく
京都の公家の娘、長姫がいた。早くして母を失い、お蝶を乳母として慕っていた。父は、二度目の母を迎えたが、長姫を憎み、ひそかに亡き者にしようとたくらんでいた。心を痛めた父は、お蝶とともに東国の縁者のもとへ送り出した。長姫は、長い旅路の疲れで、病にかかってしまい秋が終わりに近づくと、その地で生涯を終えた。お蝶は、石工に頼んで、長姫の像を造らせた。都を出るとき、虫籠に入れて持って来た鈴虫は、草むらに放した。お蝶は命を絶った。村の人は、お蝶さまを神さまに祀った。今でも洞のまわりに
南箕輪の長者の家に、サヨという娘が奉公していた。サヨは十年という約束で、年季奉公していたが父親がなくなり、母親一人になってしまった。サヨは母親と暮らしたいと思って、長者に頼んだ。長者はしばらく考えて一番大きな二反田の田植えを、一人で二日の間にすませりゃあ帰してやる。こんな話をサヨは引き受けるはずがないと思っていたが、サヨは本気だった。広い田んぼを二日でやりとげたが、サヨは力尽きて田の中で倒れ、息を引きとった。長者は、無茶な約束を悔やんで、クルミの木を切って塔婆を作り、
八ヶ岳の麓にたくさんの狼が棲んでいた。人や馬を襲って、村人はこわくて山に入って草を刈ることもできない。そこで、高島藩では、鉄砲撃ちを雇ったが、相変わらず悪さは絶えない。そのうちに狼は村の近くまで下ってくるようになった。なんとしても狼を退治しようと村々では藩に相談した。文政5年、1822年に藩の指導を受けて狼落としを作った。直経は二メートル、深さ三メートルの落とし穴で、底の方が広くなっている。これは狼の捕獲のため、落して落ちた狼がはいあがれないようになっている。今でも、立
伝承(山)居士岳(津軽岩)の話第一話荒瀬部落から三十町程(三キロメートル以上)西南に露熊山峡があって秋田県三十景の一つになっている。その山峡中に居士岳また津軽岩とも言われ、削られたかのような奇岩があって、その形はいかにも「またぎ」の犬を連れたような姿に見えるので、土地の人は「またぎ岩」と称している。これには、むかし猟師が雪中犬を連れて猟に出たが、寒気が厳しいために凍死してそのまま化石になったのだという伝説がある。また阿仁発達史によれば、昔、盤司万三郎という者があって、「またぎ
武衛門は、顔はひげだらけ、赤いふんどしでいつもはだかでいる。着物なんか着るもんだから、体が弱くなるというのが武衛門の口癖だ。ある日、武衛門が道を歩いていると、大粒の雨がふりお堂で雨宿りをした。そこには、白ずくめの着物を着た疫病神がいて、2人は気が合い、兄弟分の約束をした。兄弟分になったしるしに、おまえを疫病神の武衛門にしてやる。しばらくすると、疫病が流行り、村の人は苦しんだ。武衛門が、一軒一軒たずね、呪文を唱え薬草を煎じて飲むように、といった。しばらくすると病人は元気にな
こんばんは今朝は陽が出るもどちらかというと雲の多い天気でした。久々にチャリ男君のチェーンと簡単にフレームを清掃しました。クルマによる排気とアスファルトのオイルで車輪フレームもボディフレームも黒い汚れがどこそこ付いてしまいます。AIで病気にたいする現在の自己流リハビリを照会しても全部(姿勢を正したウォーキング・ロードバイク・スイミング)反対されてしまいました。しかし、チャリ男君には病気発症時からかれこれ10数年お世話になっています。右手の不自由さからメンテナンスも思うように行えません。
むかし、八ヶ岳が煙を吐き出していた頃のこと。活火山の富士山の女神、木花咲耶姫は、八ヶ岳の女神、磐長姫に向かって富士山は八ヶ岳よりもはるかに高いと、誇らしげに言った。争いは五年も十年も続いた。この様子を見かねて阿弥陀如来様は、水は高いところから低いところへ流れるもの。わしがその水で裁判をしてやろう八ヶ岳の峰から富士山の頂上へ長い長い樋をかけて水を注いだ。するとどんどん富士山の方へ流れていった。承知できない富士山の女神、花さくや姫は、八ヶ岳をけり八つに裂けて、富士山より低く
八ヶ岳にある神秘的な湖は白駒の池といい切ない恋の伝説が眠っている。昔、ある長者の娘キヨと作男の清太が恋に落ちた。しかし、激怒した父親によって、せいたは山奥へ追い払われてしまった清太を捜して山に入り、霧に迷ったキヨの前に一頭の美しい白馬が現れて、こう告げた。清太はこの池の奥にいる。私の背に乗りなさい長者の家を追い出された清太は、生きる望みを失ってこの池に飛び込んだのだ。キヨを乗せた白馬は、池の底へと消えた。キヨは池の中を覗くと白馬にまたがった清太がいるではないか。今でも、こ
じじ穴とばば穴下諏訪町の上水道貯水池付近に、二つの古墳がある。この古墳は火の雨伝説と呼ばれる昔話の舞台となっている。古墳時代後期の円墳で、火の雨がふったとき、男はじじ穴へ、女はばば穴に逃げ込んで助かった。恐ろしい火の雨が止んで、静かな夜が明けた。世界に生き残ったのは、お前と俺だけになってしまった二人はお互いを見つけて、手を取り合って泣いた。それから二人はめおとになって、誰もいなくなった広い諏訪の土地を、一生懸命に耕し、新しく開拓したやがて二人の間には、たくさんの元気な子ども
伝承(山)姫ケ岳の伝説阿仁銀山の西の方に、そびえている姫ケ岳は高さ六百五十一メートル、そこに姫ケ滝があって、釣不動という山路を分けて、蛇腹、牛頭戸などという危い峰の細道を越え、手繰り杉というのにすがって、頂上の薬師様にお詣りするのである。ある日、(またぎ)はいつもの通り狩りに出かけたところ、山の中腹あたりまで来ると、美しい首飾りを着けた一匹の犬が、さまよい回るのを見つけたので、「よい獲物でざんなれ」とばかりに、ねらいを定めて急所を射ったところ、犬は苦しみながら山の奥へと逃げていった
神々が日本の国を治められた頃、毎年、陰暦の十月に、全国の八百万の神々が、出雲の国に集まって世の平穏を願った。この集いには、思い思いの姿で集まり、諏訪明神は立派な龍の姿で参加され、その厳かな姿は多くの神々の心をとらえたという。いつも立派なお姿で参加されるけど、体と尾はいずこに、とたずねられた。体はいくつもの国にまたがり、尾は信濃の国、諏訪湖のそばの高い松の木にかけてある。神々は驚き、前もって意見を聞いたり、会議の様子を知らせるように取り計らった。この時から出雲に出かけなくて