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こちらの施設では、会津藩の展示を通じて、太平洋戦争後、日本人が失ってしまった気高い精神を後世に伝えています。自分はここを訪れて、義和団事件時に連合軍を率いた柴五郎少佐が会津藩出身と知り、深い関心を持ちました。時は1900年の北京、押し寄せる暴徒と清国兵士を55日間大使館で応戦し、8カ国の指揮を取った柴少佐。その類稀なる指揮能力は、後の日英同盟締結を大英帝国が推す理由となりました。彼の指揮能力が無ければ日英同盟は結ばれることなく、日露戦争で大日本帝国はもっと苦戦を強いられていたことでしょう。
🔗松本潤「ちるらん」松平容保潤くん、容保やるのね✨️私、松平容保役にはうるさいんです(笑)風間杜夫さんの松平容保役(「白虎隊」)を越えるお方はいまだ私のなかでは現れません♡そっかぁ〜潤くんが容保かぁ、もうそんな役をやれる年齢&キャリアになってきたのね!!松平容保の生真面目さとか潤くんぴったりな感じする〜(*^^*)あ!しかもさ、松平容保役を最期まで演じるストーリーならば、日光東照宮宮司だよ?エモい。まあ、そこまでやるストーリーか分からないけどね。新撰組メインな感じなのかな?山田裕
カエルの子はカエル最近、二人の息子がガンダムにハマっている(2014年当時)。手先が器用になるようにと長男にガンプラを買い与えたのがきっかけだった。最近のガンプラはとにかくヤバイ。関節部分の可動範囲などタカラ(現・タカラトミー)のミクロマンを凌駕するのではないか。筆者は、やせてもかれても金型屋(零細の鉄工所だが)のセガレである。さらには、金型用のCAD・CAMの営業マンをやっていた経験もある。セミプロとしてコメントさせていただこう。バンダイの射出成形技術たるや恐るべし。第
酒井忠宝(さかいただみち)書類上の会津藩12万石最後の藩主庄内藩主第11代酒井忠発の5男として安政3年(1856)庄内で出生明治元年(1868)12月、戊辰戦争の罪にて兄忠篤が謹慎し、城地を一旦召し上げられた。出格の家柄ということで忠宝が家督を継ぎ12万石を許されたが、会津若松12万石への転封を命ぜられるしかし、頑として行かなかった(そのため会津藩は廃藩置県の施行より半年早く若松県となるのである。)それではと、翌年、再び今度は磐城平への転封の命があったが、領民の反対運動も
「容保桜」を金戒光明寺に移植会津若松から京都へ、両市の絆再確認(福島民友新聞)-Yahoo!ニュース福島県会津若松市の鶴ケ城に植えられた「容保(かたもり)桜」の1本が7日、京都市の金戒光明寺に移植された。同寺は会津藩9代藩主松平容保が京都守護職として本陣を置いた場所で、関係者が両市の絆を再確認しnews.yahoo.co.jp2月7日土曜日。福島県会津若松市の鶴ケ城に植えられた「容保桜」の1本が、京都市の金戒光明寺に移植された。金戒光明寺は会津藩9代藩主松平容
現在福島県立博物館で開催されている「勢津子さまのお雛様展」に行ってきました。小さな繊細な作りの雛びなを楽しみつつ、皇室に嫁いだ勢津子さまと、その親、作り手の気持ちを想い拝見してきました。全てミニミニおひなさま。これが素敵なんです!(私はミニが好き♪)以前、徳川美術館でみた初音の調度品の中にも素敵なお雛様があったのを思い出しました。会津藩松平容安保の孫で大正天皇の第二皇子の秩父やすひと殿下とご結婚され皇室に入られた勢津子妃。
#先斗町歌舞練場近く先斗町通り脇道雰囲気いいですね近藤勇が池田屋に向かったルートかもしれませんね京都遠征から10日経過してたんですね(早い)#幕末松風録おすすめ大河(幕末)#花燃ゆ⇒長州藩#西郷どん⇒薩摩藩#新選組⇒新選組#龍馬伝⇒坂本龍馬#八重の桜⇒会津藩
2/4(水)ブリリア箕面ホール月組公演『侍タイムスリッパー』感想月組『侍タイムスリッパー』ほんとに観てよかった公演観劇前夜、アマプラで原作映画を観た。すごく面白くて、胸にじんとくる映画。そういえば、子ども時代は学校から帰ってきたら『暴れん坊将軍』や『水戸黄門』、『遠山の金さん』をみていたなあ。今はすっかり時代劇のこと忘れてしまっていた。そんなわたしにとって、めちゃくちゃ心に響いた。観劇前の軽い「予習」のつもりだったのに、ただただ夢中で観てしまった。ふぅー。そんな映画の余
呉聞番(おききばん)会津藩・最後の隠密高橋義夫1993年講談社文庫1996年大庭恭平は微禄の会津藩士大庭正吾の次男として生まれたが、3歳の時に父が死に、長男も夭折し、家は廃絶されたので、城下の武家長屋に住むことは許されなかったが、母と2人、常にお長屋の近くに住まい、いつかお家再興を夢見て文武両道の修行に勤めていた。そんな恭平は、時代が幕末の動乱期を迎えたことにより、隠密として召し抱えられることになった。さらに会津藩は、尊皇攘夷の浪士による暗殺事件が跋扈する京都の治安を守
会津の菊理姫松平節子様のちに秩父宮勢津子妃母が言う「勢津子様のお雛様が帰ってくるんだってお母さん、みたいなぁ〜」チラシをみたらなんと、今日1月31日から!母といそいそと福島県博物館へでかけた雪の博物館となりは会津鶴ヶ城撮影可って嬉しい😍ごあいさつ本展は、令和5年度に当館に収蔵された秩父宮妃勢津子旧蔵雛飾りを初公開するために企画されました。雛飾りと合わせて、会津に緑深い秋父宮妃の事績を紹介するとともに、雛道具研究家の川内由美子氏のコレクションから雛人形や雛道
蛤御門の音ォ〜。
ならぬことはならぬ会津藩御家訓(NHK大河ドラマ八重の桜より)●久々にBSNHKで、久々の「大河ドラマ八重の桜」の再放送を観てそして、あらためてハッとし、胸に刺さった。小さな子どもでも、この論理でしっかり教育を受ける姿。現代社会って、ならぬことも「まぁまぁ」で大目に見てしまう傾向にあるような。パパの育児でもドキッ・・・
中道を行く者福島の会津藩に幕末、西郷頼母(たのも)という家老がいた。徳川親藩として将軍家へ忠義を貫くか、それとも新政府軍に白旗を揚げるか。藩内の意見は割れていた▲要職を代々務めてきた西郷家。頼母は大恩を感じながらも、領民の困窮などから早期降伏を唱え、主戦派に「裏切り者」となじられた。〈中道を行く者の厳しさは右から見れば左に見え、左から見れば右に見える〉。立ち位置で異なる物の見え方、偏らず判断する難しさを語った▲「中道改革連合」なる新党を立憲民主党と公明党が立ち上げた。高市政権の対立軸を目指
皆様、ご機嫌YOです!テロリスト上がりの薩長が牛耳る薩長政権下においては、それ以外の人達、ましてや薩長のテロに抗った者達は不遇を強いられていました。そのような中で後に陸軍大将となった会津出身で今回の主人公である柴五郎です。戊辰戦争後、長州の逆恨みを買っていた会津藩は下北半島に流され過酷な暮らしを強いられたのですが、当時まだ十歳にもなっていなかった柴五郎少年もまたその地獄を味わった一人でした。今回は柴五郎がようやく世に出るまでの過酷な少年時代を一緒に見ていきましょう。
司馬遼太郎の『王城の護衛者』を読みました。この本は、表題の『王城の護衛者』では、京都守護職を務めた松平容保を描き、他にも大村益次郎、岡田以蔵、玉松操など、幕末の有名、無名の人々を取り上げた短編集です。会津藩という特異な藩を率いた青年松平容保は、その兵の強さと彼の律儀な人柄を買われて、無政府状態だった幕末の京都を鎮めるべく京都守護職に抜擢されます。固辞する彼を、松平春嶽や徳川慶喜が説得して無理矢理職に就かせます。権謀術数渦巻く当時の京都にあって、彼は正義の道を貫こうとしますが、上手く行きません。
気づけば一年以上も鉄炮関連の更新していませんでした!おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。令和八年は末広がりの一年となること間違いなしでしょう。という事で、研究会の諸事情で情報を更新しておりませんでしたがこの度事情が変わりましたので鉄炮研究関連の情報を更新したいと思います。今まで集めてきた鉄炮製作や修繕技術もここで紹介していこうと考えております。引き続きよろしくお願いいたします。本年から始める新研究発表の一環として、慶長期に東北に広まったと思われる津田流炮術、津田流
『世に棲む日日-二』-司馬遼太郎●暴発-⑦✪こういう怨念が、薩摩藩をこの時期、佐幕の代表の会津藩と結託せしめることになるのである。当時、この両藩は薩会といわれた。薩会が密盟して宮廷に工作したところ、意外にも孝明帝は長州人の暴走主義に対してきわめて濃厚な不快感を持っておられるということがわかり、---むしろ、薩会の穏健さを喜んでおられる。ということがわかった。薩会は大いに喜び、帝を秘かに自分たちの陣営に引き入れる秘密工作をしたあと、八月十八日早暁、にわかに宮門を薩会の武装兵で固め、-
大河ドラマ「独眼竜政宗」の再放送が終わり、1月からは福島県会津若松が舞台となった「八重の桜」🌸が始まりましたね。東北にある小学校なら、だいたい会津若松が修学旅行で、鶴ヶ城🏯に登り、戊辰戦争や白虎隊について知る機会になっています。ワタクシもその一人なんですが…。鶴ヶ城🏯に入った際に、藩主・松平容保公の写真が飾られてあり、子供ながらに御殿様の絵ではなく、写真が飾られているなんて、凄いなー👧と思ったものです。それにしても、會津藩のたどったその後の軌跡も大変なものでしたね。戊辰戦争に敗れて廃藩とな
「Youは何しさ会津に」の続きです☗吉田松陰(文政13年8月4日〈1830年9月20日〉-安政6年10月27日〈1859年11月21日)吉田松陰は長州藩(山口県萩市)出身の思想家、教育者、兵学者子供の頃から叔父である玉木文之進が主催した松下村塾で指導を受けます嘉永3年(1850)には九州遊学嘉永4年(1851)には江戸遊学を行ましたその中で、特に親交を強めた肥後藩の宮部鼎三と旧南部藩士(当時は脱藩)の江幡五郎と東北遊学を固く約束し、待ち合わせ場所と日時を決めまし
武蔵小山「山形中華そば麺や一球」へ初訪問。武蔵小山駅から徒歩三分程度で到着。本格的な山形ラーメンと聞いていましたので、楽しみに来ました。店前の看板メニュー。店内の店紹介によると、こちらの店主は北山形の「金ちゃんラーメン」というお店ご出身だそうです。今回は初めてなのでいつも通り、普通の中華そば(山形中華そば、880円)を注文しました。こちらです。本当に正しい中華そば。山形は山形市以南のラーメンは喜多方ラーメンにとても似ています。てか同じかな。おそら
WOWOWでやっていた。低予算でつくられた自主制作映画ながら、脚本が面白いからと、京都太秦の東映撮影所が全面協力し、いろいろな賞を受け、興行収入も2億円を超え、10億円いったという作品である。たしかに見ていて飽きなかった。現代にタイムスレップした幕末の会津藩士が京都の撮影所で斬られ役として暮らしはじめる。会津藩の最期を知り、愕然として肩を振るわせ涙する場面は迫真に迫っていた。撮影所で坂本龍馬と立ち会ったときも息が詰まった。ラストシーンにも息が詰まった。誰も有名な俳優が出ていない。監督は農家の人
『昭和という国家』・”江戸日本の多様さ-4”-司馬遼太郎※私は秋月悌次郎(1824~1900)という人が好きで、この人のこと思うと、心が涙ぐむような思いになります。幕末の会津藩士であります。会津藩の漢学者で非常によくできた人でした。ご存じのように幕末の会津藩主、松平容保(1835~93)は京都守護職をつとめました。京都の黒谷というところに、いまでもちょっとお城みたいなお寺がありますね。そこを陣営にしていました。藩士の半分は京都に駐屯した。その別働隊が新選組になったわけですね、だから
こんにちはクリスマス🎄も終わりました。いかがでしたか?私はファンキーなシドニーの友人からサンタ🤶になって踊ってる謎動画届きましたさて…今日は久々ツインレイ記事✨私とツインレイの前世は幕末です。『正義を賭けた戦い〜でも誰も幸せにはなれなかった前世』こんにちはハイヤーが視せた私と彼の前世ハイヤーセルフに今世の私と彼に一番強く影響与えてる過去世をみせてくださいとお願いしましたそしたら戦国武将のような姿で馬に…ameblo.jp薩摩藩と会津藩敵同士の出会いでした。一瞬で惹きあった
2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」がNHKBSで1/5毎週月曜日午後6時から再放送されます。画像はお借りしました地元会津出身の新島八重の数奇で波乱に満ちた生涯を描いた大河ドラマ綾瀬はるかさんが主演の新島八重を演じています。もう放送されて12年になるんですね。2011年の原発事故の直後は風評被害で観光客は激減し大変な年でした。そんな中でこの放送にどんなに助けられたことだか・・・そう思いながら初回から改めて観てみたいと思います
蔵王連峰夕方赤く染まる。オ一ロラか?宮城県沖地震を思い出す。ゆかり酒場に行く途中に会津藩白虎隊藩士飯沼貞吉さんの終地。ここに家があったんだろうね。飯沼さんは飯盛山での自決を逃れた。ホテル白萩私が昔結婚式した場所。久しぶりに来ました。ゆかり酒場ハッピ〜ンクゆ〜じ忘年会飲んだ飲んだゆるくバカ話をして盛り上げました。ハノイFCテグさんのサインが。楽しい忘年会でした。
會津通寳形態:楕円形穴あき銭分類:地方銭/創作銭サイズ:縦49mm、横34mm、厚さ2.5mm量目:14.5g材質:銅お宝度:◎◎◎◎◎◎作銭度:下会津藩は、藩祖保科正之が徳川二代将軍秀忠の庶子であった関係で代々幕府を補佐し忠勤を誓う家訓がありました幕末、藩主松平容保は、京都守護職の任に就き新選組を配下に京の治安維持にあたったことで孝明天皇の信任を得、幕府の威信回復に務めましたしかし討幕派勢力、薩長の
日本の文化は、多種多様である。漆器について調べている。江戸時代各藩などが独自の漆器を開発した。会津藩会津塗16世紀後半に当時の領主である蒲生氏郷が近江国日野から日野椀の木地師と塗師を招き、会津漆器の基礎を作り上げた。
▲小笠原長時(永正11年10月23日(1514年11月9日)~天正11年2月25日(1583年4月17日)戦国時代の武将。信濃国守護で戦国大名。信濃小笠原氏の当主。信濃林城主。小笠原長棟の長男。信濃四大将のひとり大龍寺にお墓がある永禄5年(1562)に、長時は先祖伝来の小笠原流弓馬術礼法の伝統を絶やさないため、同族である赤沢経直(小笠原貞経)に糾法的伝と系図、記録類を譲渡し、弓馬術礼法の宗家の道統を託したこの時、長時の小笠原総領家と小笠原貞経に
①伝書に記された「傘取り」技法の矛盾(本編補足)「傘取り」は、「傘を差した状態で敵に対処する技法群」なのだが、江戸時代、「武士は傘を差さない」ことがタテマエだった。流儀の公式文書である伝書も、この「タテマエ」に則して作成されるはずなのだが、・・・。詳細は以下、参照の事。■最後の合気論《追記1》■■最後の合気論《番外編:「傘取り」についての補足》■②大東流以前に「合気」を遣う武術はあったのか?大東流の存在が世に知れ渡る以前、西洋婦人の怪力術を見て、「これは柔術で用いる合気と同
朝比奈茂吉(嘉永4年(1851年)~明治27年(1894年)7月14日)と、名前をあげても分からない人が多いと思います表題の「鶴ヶ城を落とすな」は次の本からもじりました「凌霜隊(りょうそうたい)は、慶応4年(1868)に郡上藩の脱藩士によって組織された部隊戊辰戦争において、幕府側に立って新政府軍と戦った部隊で、その隊長が朝比奈茂吉です幕末の動乱期、郡上藩でも、勤王派、佐幕派に分かれて激論が繰り広げられて、藩は勤王に付くと決まったのですしかし、徳川家譜代の