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今年の県内の桜は、大きな地域差がなくほぼ同じ時期に見ごろを迎えた感じです。中通りを鑑賞してからおもむろに会津へと向かうことができた例年と違って、あわただしく桜を追っかける感じです。会津のメインスポット、鶴ヶ城の桜です。博物館わきの高遠コヒガン桜、初代藩主保科正之の縁で高遠町(現伊那市)との親善交流都市の締結を結び、贈られたものです。その花形はやや小ぶりで赤味を帯び、その可憐さと規模の大きさから「天下第一の桜」と賞されるほどで、長野県の天然記念物にも指定されています。桜の枝を透かして
↑神田川の桜並木昨日、夜桜花見を行ってきました。去年に比べて今年の桜は咲くのがやたら遅かった。去年は三月の終わり頃にもう咲いていたが、今年は四月の頭はまだつぼみで、今週に入ってようやく咲いたという感じ。咲いた時点でもう葉が出てしまって、満開だが葉桜だというのが残念。さらに残念は続き、コロナ流行直前で死去してしまった親友大久保氏に研究家あさくらゆう先生が加わった形での追悼花見でもあります。大久保氏は私が就職で東京に出てきたその日から知り合いで、何でも相談できる間柄で、コミケで幕末ヤ撃団
これから書くことは(*/∀\*)❣️勝手な美海おばさんの考えで~歴史的な何かとか宗教とか…なーんにもわからずに私の魂の思いだけで書きますので賛否両論あるかと思いますそこは、多様性の時代まあ、変なおばさんがいるな…くらいでおおめに見てねでは本題~大和魂(やまとだましい)や武士道って聞いたことありますか英語に訳すとわかりやすいのだけど◆大和魂「theJapanesespirit」そうスピリット!🇯🇵民族固有の勇敢で潔いことが美徳とされる~精神をさす言葉として
会津藩家老西郷近光の墓参りです。西郷近光は、幕末会津藩家老の西郷頼母の祖父になります。西郷近光とは会津藩番頭西郷近寧の子として生まれる。天明3年(1783年)藩主松平容頌に初めて拝謁する。天明8年(1788年)に物頭となり、寛政10年(1798年)奉行、享和3年(1803年)若年寄と累進し、文化7年(1810年)には加増を受け、知行1000石となり家老職を拝命する。文化9年(1812年)には功績を賞されて300石の加増を受ける。文化10年(1813年)藩主松平容衆の家督相続の御礼言
近江屋襲撃の指揮をとったとされるのが京都見廻組の与頭・佐々木只三郎です。佐々木只三郎は天保四年(1833)に会津藩士佐々木源八の三男として生まれました。名は唯三郎とも書き、また諱ははじめ泰昌を名乗りましたが、安政六年(1859)二十七歳の頃に幕臣で同姓の佐々木弥太夫(矢太夫とも)の養子に入ると諱を高城と改めています。実兄に会津藩公用人の手代木直右衛門(勝任)がいます。また養子先の佐々木家は親戚だったとも、縁戚関係はなかったともいわれていてハッキリしません。青年時代までを会津で過ごした只
我が家(ハナリンオフィス)から徒歩3分ほど。金勝寺旅館の隣、「さくらやま」と呼ばれる、歴史的な場所があります。残念ながら半分は道路拡張で削られ、しかも、個人の所有地なので入れないのですが、ここは、寛政の改革で有名な松平定信と、会津藩から貴族になって明治を生き抜いた山川大蔵(浩)の別荘があったところなんですねー!松平定信https://ja.wikipedia.org/wiki/松平定信山川浩https://ja.wikipedia.org/wiki/山川浩
会津は、戊辰戦争で新発田が裏切ったと言います。では、新発田の当時の立ち回りをザックリ見てみます。新発田藩は、新政府軍と旧幕府の奥羽越列藩同盟のどちらにつくか迫られていました。米沢藩と会津藩の兵に囲まれ、結局は、奥羽越列藩同盟に入ることを宣誓させられます。しかし、それを聞いた江戸駐留の新発田藩士が、新政府側にゆき、「新発田藩は、圧力をかけられて、やむなく奥羽越列藩同盟に加担させられた、天皇に弓を引くつもりはない。」と申し出ます。新発田藩は、会津や米沢から、新政府軍と戦うための兵を差し出せと迫ら