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ひざしがまぶしいホーホケキョきょうことしはじめてウグイスがなきました邪馬臺(台)国と邪馬壹(壱)国、臺(台)與と壹(壱)與の発音等について私の考えをお話しします。邪馬台国の名は『後漢書』や『三国志』などの中国の史書に出てきますが、史書の表記は邪馬臺(台)国か邪馬壹(壱)国。台は臺の新字体で壱は壹の新字体。邪馬臺国も邪馬壹国も全国的に邪馬台国で定着していますが、私は臺も壹も「と」と発音するのが適切かと思っています。ネットで「臺(台)」の字を中国語発音で調べると、中国福建省で「と」
もう一ヶ月近く経っていますが、年末に福岡、熊本に行ってきました。目的は歴史旅ということで、後漢書や魏志倭人伝、そして飛鳥時代の古代城址を巡ってきました。この日も、前回の高知・徳島の旅と同じく、名古屋発7:06の「のぞみ277」で旅をスタートさせました。3連休の初日という事で、この日も指定券はすべて売り切れていました。前日に降った雪で、関ヶ原から滋賀県にかけては雪国のような景色でした。新大阪で、座席が埋まりましたが、広島を過ぎると空席も見受けられるようになりました。10:24に博
一年三ヶ月ぶりのブログの更新です。前回紹介した外猫の風来坊マロンは姿を現わさなくなりました。家猫のまりは来月で4歳になりますが、小柄なので子猫のような可愛らしさです。おひさしぶりでーす。ロングかぎしっぽでーす。にゃーんだ、これ?新刊を出版しましたので、ご案内します。天皇家のご先祖さまの物語なので、愛子さまに一冊寄贈しました。◎堀田はりい著『新・卑弥呼物語-卑弥呼と壹與の女王国』◎2026/1/7発売(本体1350円【税込み1485円】四六判122ページ発行:つむ
あけましておめでとうございます!!スタルペスです。今年もよろしくお願いします。昨年12月、テレビのローカルニュースで、あさぎり町の才園古墳(さいぞんこふん)から出土した、金メッキされた銅鏡「鎏金獣帯鏡(ときんじゅうたいきょう)」が、あさぎり町に里帰りしたというニュースを見て、鎏金獣帯鏡を見学することにしました。今回の特別展示は、あさぎり町の須恵文化ホールでの展示です。※あさぎり町須恵文化ホールメイン展示は免田式土器のようですが、私の中では、「鎏金獣帯鏡」がメイ
『歴史散策』日本の歴史上で「初めて名前を残した人」は誰か?黒井ドラゴン『記紀』に記された初期の天皇などを除いて、日本で歴史上「初めて名前を残した人」は誰だったのか、について調べたことがあった。1.後漢から金印をもらった奴国王か?『後漢書倭伝』に、建武中元二年(57年・光武帝の時代)に奴国王が後漢から金印を授かったことが書かれている。この記事が、倭国の王についての最初の記事だ。だが、残念ながら、金印をもらった奴国王の名前は記されていないので、名前はわからな
2025年12月12日の考察「何故唐津ではないのですか?」という質問を受けましたので、お答えします。唐津で上陸した方が、唐津川を渡らず伊都国(糸島の泊)まで真っ直ぐ33㎞の距離ですので、多少周り道をしても40㎞くらいでしょう。これなら500里で1里80mとなりかなり落ち着きます。しかし、方角が違います。魏志倭人伝には東南500里と書いてあります。実際には東北に歩いています。いくら何でも太陽が昇る方角の東を間違える訳はありません。もし中国の古地図のように45度間違えていたとしても、次に
コアラは1日に22時間以上も寝るそうです。もし、皆様がコアラ界に暮らしていたら寝る間を惜しんで働く勤勉な人たちばかり。このブログを読んで、少しゆっくりしていってくださいね。こんにちは。流石に、“人生”ではなく“コアラ生”を送ったら最大でも1日2時間しか楽しめないからちょっとつまらないなと思った“趣味の地理好き”つばさです。今回は、「妄想プチ移住生活」の第3弾です。遠く離れた地で生活を送ったらどんな生活を送るだろう、と想像(妄想)してみるという企画の3回目です。その
2025年12月4日の考察今まで女王国は、筑紫地方の小国家群を指すと結論づけてきましたが、今一度他の説の方の理論を調べてみました。どの方も松浦半島に上陸して伊都国(糸島)に向かった事は、間違いないようです。中には伊都国は、多久市と言われる方も居られましたが、積み荷を検閲するのに内陸まで持って来ること自体おかしなことで、通常の感覚から離れています。松浦半島から伊都国までが500里このことを忘れたかのように奴国を志賀島とする説もありますが、糸島から志賀島の距離が現在の道路で50㎞です。こ
本日は糸島市二条田中熊野神社です。注連柱とその奥に鳥居神額ご由緒左に社号標二対の狛犬さんと拝殿佐賀とはちょっと違う肥前ちゃん阿吽が逆置き吽形の頭に角があるわりと大きい奥の狛犬さんふくよかで優しいお顔拝殿内部本殿静かでゆっくり参拝できました
2025年10月24日の考察渡海してきた帯方郡の使者建中校尉の梯儁らは、測量の為次官らを呼子の小友漁港に降ろした。梯儁は、「われらはこのまま船で伊都国へ向かい検閲を受ける。お前らは、歩測してその記録を取りながら来なさい」。次官らは小友漁港で船を見送った。船は伊都国方面の東南に向かっていたのが見えたはず。次官らは先ず唐津方面に南南東に歩き唐津を過ぎてから山の中腹を東に向かった。これは、海岸線では歩く道が無かったためと思われる。伊都国までの500里を20日くらい掛けて歩き奴国の手前で合流
【「自女王国以北特置一大率検察諸国畏憚之常治伊都国」】「自女王国以北特置一大率検察諸国畏憚之常治伊都国」岩波版の読み下し文は以下のようになっている。「女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す。」女王国の北側には「一大率」を置いて有力国を検察しており、諸国はこれを恐れているとある。一大率とは中国における「刺史」(郡国を刺挙し、その政績を奏報する官。前漢武帝の元封五年(前106)に始めておかれた:岩波版注)のようだとも記されている
2025年9月7日の検証これまでの検証で、伊都国の【郡使往來常所駐】【皆臨津捜露】の場所の特定が、女王国を探し出す重要な場所となった。糸島市に泊と云う地名を見つけた。糸島半島の中央で、昔伊都国と志摩国との中央あたりだ。志摩=島なので、半島は後に繋がったと分かる。泊=船をとめておく。と云う意味なので、ここに帯方郡からの使者の船を停泊させ積み荷を検査したと想像できる。この泊近くが、帯方郡からの使者を留め置いた地となる。平原遺跡は、あくまでも王の墓の場所なので首都の中央に墓を造るとは思えないので
【「丗有王皆統属女王国」】魏志倭人伝の中に伊都国に関する情報が前後二回に分けて記されている。前半は行程文の中で官の名称、戸数、の他、倭国にやってきた帯方郡使が毎回とどまる所などの基本情報がある中で、「丗有王皆統属女王国」と記されている。岩波版には、「世々王あるも、皆女王国に統属す。」と訳している。しかし、普通に漢文法に従うと、「世々王あるも、皆女王国を統属す。」と読める。この問題は当然のことながら以前にも勃発していたようだ。【古田武彦氏の解釈】古田武彦氏は『邪馬一
【「伊都国」は糸島半島周辺でよいのか】森浩一氏は、「伊都国」を三王墓遺跡(三雲・井原・平原)や志登遺跡群がある糸島半島周辺、「奴国」を須玖岡本遺跡から博多湾岸にかけての地域にすることを既定事実としているようだ。久住猛雄氏も、何の疑いもなく糸島半島周辺の遺跡に対して「伊都国」を使用している。「伊都国」を三王墓がある前原市周辺であると仮定すると、倭人伝の行程と食い違いが生じることになる。倭人伝には、上陸した「末盧国」から「東南陸行五百里」に「伊都国」があると記されている。倭人伝
【「奴国」の工業生産力】森浩一著『倭人伝を読みなおす』の第二一回は「奴国の工業生産力」。須玖遺跡群をはじめとする春日丘陵の遺跡からの発掘物に注目している。「1~3世紀ごろ工業生産の盛んなところで、那珂川右岸にある春日丘陵上には90個所ほどの弥生遺跡が密集し何らかの工業生産にたずさわっていた。」とし、さらに、「ここでの青銅器の製作は弥生中期から後期に盛んで、銅矛、銅戈、銅鏃、銅鏡、銅釧、銅鋤先と多種類に及んでいる。」とこの地域の先進性に注目している。大陸からの影響を受けやすい
今年は、城野遺跡が2020年3月に福岡県史跡に指定されて5年、当会発足時の「城野遺跡の現地保存をすすめる会」が専門家を迎えて活動再開して10年を迎える節目の年です。それを記念し、城野遺跡のすごさと魅力、そこに刻まれた古代ロマン、この地を北九州市で初めての本格的な遺跡公園にしようと取り組んできた当会の活動、その間の東エリアと西エリアの変貌など、ふるさとの遺跡を再発見しよう!と下記のとおり“城野遺跡フェスティバル”を開催します。夏休みの自由研究にもおすすめです。ブログでの案内が遅くなりま
【二か所に出てくる「自女王国以北」】魏志倭人伝の中に、「自女王国以北」が二か所に出てくる。ひとつは、自女王国以北其戸数道里可得略載其余旁国遠絶不可得詳もうひとつは、自女王国以北特置一大率検察諸国諸国畏憚之常治伊都国於国中有如刺史【「自女王国以北」その1】「自女王国以北其戸数道里可得略載其余旁国遠絶不可得詳」は、帯方郡からの道程記事の中で、狗邪韓国、対海国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国までの九か国が記された後の文章である
【起稿2025年8月6日記事】※画像はイラストAC(https://www.ac-illust.com/)より引用しました。今回の「歴史の話(妄想😅)」は、いよいよ「天孫降臨」です。しかし、日本神話で天孫降臨は2回あります。1回目は前回の記事で取り上げた饒速日命の話です。『歴史的解釈(その11饒速日命)』【起稿2025年7月30日記事】葦原中国を出雲の大国主命から譲り受けた高天原の天照大神は、いよいよ念願の葦原中国を支配すべく、高天原嫡流の神を降臨させることと…ameblo.jp前
【伊都国に関する倭人伝の文章】魏志倭人伝に登場する女王国内の30国のうち、最も多くの字数(117字あるいは155字)を使って記されているのが伊都国であることに森浩一氏は注目している。邪馬台国の45字よりもはるかに多い。(対馬国64字、壱岐国57字)伊都国に関しては、前文(6~7行目)後文(28~30行目)の2ブロックに分かれて記されている。〈前文〉東南陸行五百里到伊都國官日爾支副日泄謨觚柄渠觚有千餘戸丗有王皆統屬女王國郡使往来常所駐(東南陸行五百里で伊都
もし、あなたの人生に、理由なき不幸が連鎖していると感じるのなら。もし、努力が報われず、いつも同じ過ちを繰り返してしまうのなら。もし、身内に不可解な病や不運が代々続いているのなら。それは、見えない鎖があなたを縛っているのかもしれない。太古の昔から、私たちは血縁という見えない絆で結ばれてきた。その絆は、時に温かく、時に冷たく、そして時に、呪縛となる。祖先が犯した過ち、心に秘めた怨念、あるいは不本意な死。そうした「澱(おり)」が、時を超えて子孫に影響を及ぼ
2025年7月20日の考察魏志倭人伝に記載されている、【末廬國。有四千餘戸、濱山海居】【東南陸行五百里、到伊都國。有千餘戸。郡使往來常所駐】【東南至奴國百里。有二萬餘戸】【東行至不彌國百里。有千餘家】の場所は何処なのでしょうか。この中で、はっきりしているのは伊都国の場所です。【郡使往來常所駐】ですので、海に近く【王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國。及郡使倭國、皆臨津捜露、傳送文書、賜遣之物詣女王、不得差錯】とありますので、船が近くに無ければ帯方郡からの使者たちは安心できないでしょうからこの伊都国(
伊都国三雲南小路王墓は1822年に発見されました。発見された時の状態や遺物は福岡藩の国学者青柳種信が「柳園古器略考」で克明に記録しています。原本は福岡県立図書館に所蔵されていましたが空襲で焼失しました。昭和5年に東西文化社が限定50部を影写版で復刻していて、昭和51年にその昭和5年版の一冊から更にまた復刻されました。王墓は江戸期に発見された後に忘れられていましたが大正時代に九州帝国大学の中山平次郎が青柳種信の筑前国續風土記拾遺の記述を元に場所を推定しました。その後昭和49・50年に江戸期の王
歯医者の待合室に置いてあった『糸島』という雑誌に掲載されていた中村萬里さん(筑紫女学園大学教授)の糸島を紹介する記事を読んでびっくり「魏志倭人伝」に書かれている伊都国と邪馬台国の関係を、従来「伊都国が邪馬台国に従属していた」と解されているが、漢文の文法や伊都国には「世王有」と記録されていることなどを根拠に「邪馬台国が伊都国に従属していた」と解釈すべきとのこといろいろな邪馬台国論を読むけどさすがにこれは初めて考察結果は違うけど、「到・至」の使い別けや「魏志倭人伝」の各国の説明文字
糸島医師会病院近くのハーブガーデン『プティール倶楽部伊都国』さんでランチ『糸島『プティール倶楽部伊都国』ランチ。』久しぶりのランチデート糸島医師会病院近くのハーブガーデン『プティール倶楽部伊都国』さんへレストラン·【福岡県糸島市】ハーブガーデン・プティール倶楽部伊都…ameblo.jpいつ行ってもゆったりしてて好きです今回は初めてデザートランチ¥2,050にしてみましたサワラのムニエルカシスのアイスアップルパイレモングラスのシフォンケーキデザートまで余裕でした♪
生野先生が今後の課題とされていたものの一つ、倭王となった卑弥呼が糸島平野に進出する前の祖国「(旧)邪馬台国と伊都国」についてあれこれ考えながらネットの記事や動画を見ている。動画に「伊都国」の「都」を表意文字として解釈している意見があった。生野先生は、平成19年(2007年)に出版された『魏志倭人伝解読(愛育社)』で「侏儒国・裸国・黒歯国」は表意文字で書かれているがそれ以外の国名は表音文字だと、他の中国文献を揚げて説明されていました。ところがその後、令和5年(2023年)7月の勉強会
【伊都国は怡土郡(糸島郡深江付近)か】「邪馬台国」までの行程の登場する国名の中で、末盧国に上陸した後、東南方向に進行した場所にある国名が伊都国と記されている。岩波文庫版の注には、「怡土郡。今の糸島郡深江附近であろう。伊斗、伊蘇、伊覩にもつくる。」とある。糸島郡は三雲・井原遺跡などに代表される弥生時代の遺跡群がある場所。現在の地名が「伊都国」と似ていることと、弥生時代の遺跡が集中していることを根拠に、伊都国=糸島郡と比定している。倭人伝には、末盧国から「東南陸行五百里至伊都
【帯方郡使は複数回倭国を訪問している】帯方郡使は何度も倭国を訪問しているが、「邪馬台国」まで到達していたかどうかは疑問である。帯方郡使が複数回倭国を訪問していたことは倭人伝の次の文章によって確認することができる。東南陸行五百里到伊都國中略丗有王皆統屬女王國郡使往来常所駐〈拙訳〉東南に五百里陸行すると伊都国に到達する。中略(伊都国には)代々王がいるが、皆女王国の支配下にある。帯方郡からの使者が往来するときには常に滞在する場所である。帯方郡からやってく
【帯方郡使は卑弥呼と実際に会ったか】魏志倭人伝の記事から、帯方郡使が女王卑弥呼に会ったかどうかを確認してみたい。実際に会ったとも考えられる記事がある。「正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拝暇倭王」(正始元年、帯方郡の太守弓遵は建中校尉梯儁等を遣わして、皇帝からの詔書と印綬を持参して倭国を訪れて倭王に拝仮した。)魏の皇帝から「親魏倭王」の位が正式に認定されたことを証明する詔書と印綬を持参してきた使者と直接会わないことなどありえないのではないだろうか。
【行程文の再解釈】魏志倭人伝は、魏使(帯方郡使)が倭国を訪れる時の行程文を冒頭に載せている。倭人伝を最後まで読むと、帯方郡使は何度となく倭国を訪問していることがわかる。行程文には邪馬壹国に至るまでに九つの国が登場している。古田武彦氏は行程文の中に動詞+至国名となっている場合は実際に訪れており、動詞が省略されている場合は其国の存在を伝聞で知ったと解釈した。一度だけの訪問であればそのような解釈が成り立つが、何度も訪れているのなら、倭人伝では動詞が使われていない国にも訪れることが
【伊都国へ】⑤-1東南陸行五百里到伊都國東南に陸行すること五百里にして伊都国に到着する。⑤-2官日爾支副日泄謨觚柄渠觚有千餘戸丗有王皆統屬女王國郡使往来常所駐官は爾支と曰ひ、副は泄謨觚、柄渠觚と曰ふ。千余戸ある。代々、王がいて、皆、女王国に統属す。郡の使者が往来して常に滞在する所である。【奴国】⑥-1東南至奴國百里(伊都国から)東南、奴国に至る。百里である。⑥-2官日兕馬觚副日卑奴母離有二萬餘戸官は兕馬觚と曰ひ、副は卑