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今日は小倉陸軍造兵廠の外周を巡ってみる。【前回の記事】『他府県遺構(85)~小倉衛戍地⑪【小倉陸軍造兵廠(1)】(福岡県北九州市)』日清戦争から大東亜戦争終戦まで、門司・小倉には兵器・弾薬類の製造、修理、保管、補給を行う兵器工場が設けられていた。以下簡単に説明する。明治27年(1894)…ameblo.jp【参考記事】小倉衛戍地→→→北方兵営→→→小倉陸軍造兵廠の配置図(大手町公園の説明看板を加筆・引用)================北端の突角から逆時計回
前回訪れた北方一号公園の北にある国立病院機構小倉医療センターの前身は、陸軍の衛戍病院だった。【小倉衛戍地の説明記事】→→→【北方兵営の説明記事】→→→明治32年ごろの北方兵営の部隊配置明治8年(1875)、小倉に歩兵第十四連隊が創設、同連隊の医療機関として小倉城三の丸に設置されたのが「小倉営所病院」だった。明治21年・「小倉衛戍病院」と改称、30年・新設の第十二師団隷下に入り、32年・小倉城内から北方に新築移転した。37-38年の日露戦争で日清戦争に続き2回目の戦時
今日は「輜重兵第十二大隊」の兵営があった北方一号公園に向かう。【小倉衛戍地の説明記事】→→→【北方兵営の説明記事】→→→明治32年ごろの北方兵営の部隊配置昭和8年頃ごろの北方兵営の部隊配置輜重兵第十二大隊は、明治29年(1896)11月、熊本輜重兵第六大隊内において1個中隊をもって創設された。翌明治30年11月、大隊の編成を完結。明治31年11月、北方の新兵舎に転営。明治37年の日露戦争で動員され大陸で戦う。大正3年の青島戰役や大正7年のシベリア出兵にて一部派兵され
小倉南区南若園町に「工兵第十二大隊」のキーストンを掲げた隧道が残っている。工兵第十二大隊は、明治29年(1896)9月創設。明治30年6月に熊本から小倉の北方兵営に移転。大正14年5月、軍縮による軍備整理のため廃止となった。詳しく前回記事にて。『他府県遺構(81)~小倉衛戍地⑦【工兵第十二大隊】(福岡県北九州市)』北九州市立大学の場所には、かつて「工兵第十二大隊」の兵営があった。【小倉衛戍地の説明記事】→→→【北方兵営の説明記事】→→→明治32年ごろの北方兵営の…ameb
北九州市立大学の場所には、かつて「工兵第十二大隊」の兵営があった。【小倉衛戍地の説明記事】→→→【北方兵営の説明記事】→→→明治32年ごろの北方兵営の部隊配置昭和8年頃ごろの北方兵営の部隊配置工兵第十二大隊は、明治29年(1896)9月、熊本城内の仮兵舎にて第一中隊を創設。明治30年6月、北方兵営の一部落成に伴い熊本から小倉に移転。明治31年11月、第三中隊の創設をもって編成完結とした。明治37年に日露戦争で動員され大陸で戦う。明治38年3月の奉天会戦では大隊長が
「北方兵営」の北方(きたがた)は地名である。当時は企救郡東紫村、のち企救村→企救町となり、現在は北九州市小倉南区に位置している。小倉競馬場がある場所と言った方が馴染みがあるかもしれない。小倉駅からモノレールで約10分。なお、北方兵営の北側に位置する城野(じょうの)にも陸軍部隊が置かれていたので、併せて説明する。詳しくはこちらの記事にて。『他府県遺構(75)~小倉衛戍地①【概略】(福岡県北九州市)』北九州市の中心地である小倉は、明治期から大東亜戦争終戦の昭和20年までの間、陸軍の歩兵連
説明は以下の記事にて。『他府県遺構(75)~小倉衛戍地①【概略】(福岡県北九州市)』北九州市の中心地である小倉は、明治期から大東亜戦争終戦の昭和20年までの間、陸軍の歩兵連隊や兵器廠など各種部隊が駐屯する軍都だった。明治6年、全国6つの軍管…ameblo.jp昭和8年頃の配置を示す。********************************第十二旅団本部(司令部)の正門から北の鉄門跡の石段を再び上がる。第十二師団司令部の正門の左手に「重砲兵第二旅團司令部跡」の記念
説明は以下の記事にて。『他府県遺構(75)~小倉衛戍地①【概略】(福岡県北九州市)』北九州市の中心地である小倉は、明治期から大東亜戦争終戦の昭和20年までの間、陸軍の歩兵連隊や兵器廠など各種部隊が駐屯する軍都だった。明治6年、全国6つの軍管…ameblo.jp大正5年頃の部隊配置を示す。********************************第十二師団正門から南の鉄門跡の石段を下ると松の丸跡に入る。松の丸。旧第十二旅団本部の正門が残っている。説明書き
今日は小倉城内を歩く。説明は以下の記事にて。『他府県遺構(75)~小倉衛戍地①【概略】(福岡県北九州市)』北九州市の中心地である小倉は、明治期から大東亜戦争終戦の昭和20年までの間、陸軍の歩兵連隊や兵器廠など各種部隊が駐屯する軍都だった。明治6年、全国6つの軍管…ameblo.jp小倉城は戦国時代の1569年に毛利氏が築城したとされる。関ケ原の戦いで功績を挙げた細川忠興が豊前国の領地を与えられ、1602年から7年かけて城を改築して小倉藩の藩庁とした。2代目以降は小笠原氏が転封し
千代田区九段下の靖國神社を参拝する。由緒書き靖國神社は、幕末の嘉永6六年以降、明治維新から大東亜戦争に至るまで、国内外の事変や戦争に際して戦没された246万6千余柱の神霊を祀る神社である。明治2年、明治天皇の思し召しによって建てられた東京招魂社が始まりで、明治12年に靖國神社と改称されて今に至る。第一鳥居(大鳥居)の先に大村益次郎銅像が見える。鳥居右手に常陸丸殉難記念碑が建っている。題字の揮毫は東郷平八郎元帥。説明書き。常陸丸(ひたちまる)は日露戦争開戦
今日は、阪神甲子園球場から程近くにある鳴尾八幡神社を訪れる。この地の現在の行政区画は西宮市だが、昭和26年に西宮市と合併するまで「鳴尾村」として単独村制を取っていた。鳴尾村沿岸部の鳴尾浜には、阪神競馬場(明治40年開業、現在の阪神競馬場は戦後に移転)と、甲子園大運動場(大正13年開業、現在の阪神甲子園球場)があり、さらに昭和4年には阪神パークが開業し、スポーツや行楽の施設が充実したが、大東亜戦時下に競馬場と阪神パークの地は海軍に接収され、鳴尾飛行場となった。参道を進むと左手に砲
平尾台(ひらおだい)は、福岡県北東部に位置するカルスト台地である。北九州市小倉南区を中心に、行橋市、京都郡苅田町・みやこ町、田川郡香春町に跨っており、北九州市のHPでは「南北約6km、東西約2km面積約1,500ha、その周辺が約40度の急斜面によって囲まれた標高300mから700mのわが国有数の石灰岩台地」と紹介されている。昭和27年11月、国の天然記念物に指定されたが、この地には昭和20年の終戦まで陸軍の演習場があった。明治45年(1912)7月、陸軍は小倉衛戍諸隊戦闘射撃場の
前回、軍艦防波堤を取り上げたが、防波堤として利用された駆逐艦「冬月」「涼月」「柳」の慰霊碑が、高塔山の中腹に建っている。高塔山は若松区東部に位置する標高122mの山で、現在は公園として整備されているが、大東亜戦時下には八幡製鉄所を守る陸軍の防空陣地が築かれていた。[参考記事]『北九州の防空⑪~高塔山高射砲陣地』今回は高塔山周辺の防空陣地を見ていきます。場所は下記リンクにて。『北九州の防空①~概略』本日から新しいカテゴリーを投入します(・∀・)大東亜戦争3年目と…ameblo.
軍艦防波堤は、北九州市若松区北東の埋立地に存在している。大東亜戦争敗戦後、日本海軍の残存艦艇の多くは接収・解体されたが、一部の艦艇は国内の港湾において防波堤として利用された。この内の一つが若松の軍艦防波堤である。石炭集積港として栄えた若松港は、戦前より産業用地として埋立が行われていたが、戦後、資材不足を補うため、駆逐艦3隻を防波堤として洞海湾入口の砂州に設置することになった。使われた駆逐艦は「柳」「涼月」「冬月」で、佐世保にて上甲板の構造物を撤去後に若松に曳航、昭和23年9月、内部
対馬の美津島町鶏知(けち)の住吉神社の境内に機雷が置かれている。石段を上がり切った左手に機雷がある。機雷(浮標水雷罐)廃兵器を記念品として下付されたと思われるが、史料では確認できず、台石にも由来が書かれていないため経緯は不明。日清および日露戦争の勝利で数多くの戦利品を獲得したが、これら戦利品は日清戦争後に組織された陸軍戦利品整理委員会によって整理・分類された。軍用に適する物は兵備品としたが、戦利品の多くは記念品として各府県を通じて神社・仏閣・学校などに下付されることに
大分県別府市にある吉弘神社は、戦国の武将吉弘統幸(よしひろむねゆき)を祀る神社である。戦国大名大友氏に仕えた吉弘統幸は多くの合戦で武功を挙げたが、1600年、石垣原合戦で敗死した。忠義を貫いた豊後最強の武将を祀るため、1632年ごろに神殿(石祠)が、1854年に拝殿が造営された。神社裏手には統幸の墓がある。現在の拝殿は平成期に造営。なお、吉弘神社は石垣原合戦が行われた場所に建っており、この一帯は大正の頃から石垣原公園として整備された。大正14年の「最新案内別府温泉20版
愛知縣護國神社は、戊辰戦争から大東亜戦争までの愛知県ゆかりの英霊を祀る神社である。明治2年、尾張藩主徳川慶勝が旌忠社を創建したのが始まりで、その後招魂社と呼ばれたが、昭和14年に愛知縣護國神社と改称、昭和10年に現在地の名古屋城三の丸地区に遷座した。なお、名古屋城内には明治期より陸軍の第三師団が駐屯していた。境内には戦前戦後の記念碑が数多く建っているので、時計回りで見ていく。近衛歩兵二聯隊献木殉職警察官之碑と殉職消防員之碑殉職警察官之碑は大正6年建之。揮毫は、総理
小倉城の北側に小倉祇園で知られる八坂神社があるが、一の鳥居のそばに日清戦争記念碑や忠魂碑が建っている。八坂神社は9世紀から祀られていたようだが、江戸時代初期に小倉藩初代藩主・細川忠興が小倉城近くに移転した。元々祇園社とよばれていたが、明治元年の神仏分離令により八坂神社に改名した。なお、神社が現在の場所に置かれたのは昭和9年。ちなみに夏の祭りでお馴染みの小倉祇園太鼓は、細川忠興が小倉に京の文化の一つとして取り入れたもの。石碑が置かれている広場が八坂神社の境内にあたるのかはよく分からな
中間市上底井野(かみそこいの)地区の御座瀬山に建つ忠魂碑を訪れる。この地は旧上底井野村があった地域である。江戸時代の福岡藩主黒田長政の時代に底井野に遊猟場が設けられ、2代藩主忠之の代には御座瀬山に別荘が建てられた。これが底井野の御茶屋といわれるもので、3代藩主光之時代には、藩主や家老などが月見や花見、舟遊びなどを楽しんだといわれる。なお、行政区分としては、明治22年の町村制施行で底井野村となり、昭和7年には中間町に編入、昭和33年に中間市が誕生して今に至る。御座瀬山は標高10m
前回紹介した宇原神社の斜め前に、苅田町有志が建立した「海軍中将廣瀬正經之碑」が建っている。全く知らない名前だったので調べてみた。廣瀬正經(まさつね)は、苅田町馬場の出身で明治20年3月15日生まれ。海軍兵学校36期として入校。同期には大東亜戦争で機動部隊の司令長官を務めた南雲忠一がいる。明治41年卒業後は少尉候補生として任官。軍艦勤務を経て大正元年に海軍航空術研究委員に任命された。当時、航空機の研究は陸軍主導の臨時軍用気球研究会で行われていたが、海軍は水上機研究を独自に行
福岡県京都郡苅田町(みやこぐんかんだまち)の宇原神社を訪れる。鳥居前に忠魂碑と機雷(浮標水雷罐)が置かれている。佐賀の乱~日清~日露~日独戦役に出世した苅田町出身の千百四烈士の忠魂碑で、台石に芳名が刻まれている。===========================戦役の説明はこちら→→→===========================「國光顕彰」と彫られた台石の上に機雷が置かれている。日清および日露戦争の勝利で数多くの戦利品を獲得したが、これ
行橋市の北東に位置する蓑島神社を訪れる。境内に明治三十七八年戦役紀念之碑が建っている。題字の揮毫は奥保鞏陸軍大将。日露戦争では第2軍を率いて日本の勝利に貢献した。ちなみに近隣の北九州市出身。蓑島神社後方の山に登る。標高60mの山頂に鉄塔の残骸がある。反射板のように見えるが位置的に?なので、近隣にある築城飛行場関連の航空灯台の残骸かもしれない。知らんけど。蓑島は名前が示す通り元々は島だったようで、戦後の干拓事業で昭和28年に陸続きとなったとのこと。
地元では今井祇園として親しまれている今井津須佐神社を訪れる。由緒書き二の鳥居の前に支那事変記念燈篭が奉献されている。側面。昭和十二年七月七日支那事変〇〇川邊〇〇郎裏面。奉献者の名前か。灯籠に刻まれている昭和12年7月7日は、日中両軍が衝突した盧溝橋事件の日で、これを契機として日本と中華民国との全面戦争が始まった。この争いを当時の日本では支那事変と呼んだが、昭和16年12月8日に対米英戦争開始にあたり、支那事変を含めて大東亜戦争とすることが閣議決定された。
芦屋町北東の狩尾岬にある狩尾神社には、日露戦争関連の石造物が建っている。========================【日露戦争の説明→→→】========================浜辺に建つ鳥居二の鳥居石段を上がると参道の先に本殿があったはずだが、現存していない。「日露戦役紀念明治四十一年五月」と彫られた台石がある。おそらくこの上に砲弾が置かれていたのだろう。****************************旅順白玉山表忠塔模型と
2022年に放映されたフジテレビの番組「世界の何だコレ!?ミステリー」で、『兵士が海を見張る詰め所跡』と紹介された建物が宗像市にある。*******************************建物は宗像市北方の鐘崎に位置する織幡神社の脇から山道を5分ほど歩いた場所にある。織幡神社にやってきた。鐘崎は海女発祥の地らしい。忠貫日月、孝動山川の石柱は日露戦争の記念として従軍者が建立した。建物があるのは岬の先端だが、沖ノ島の遥拝所にもなっている。
宗像市の沖合に浮かぶ筑前大島(宗像大島)の「宗像大社中津宮」には、明治三十七八年戦役紀念と刻まれた鳥居が建っている。大嶋村出征軍人奉納の鳥居砲弾を模した鋳物に鳥居奉納の詳細と出征者氏名が彫られている。========================【日露戦争の説明→→→】========================参道本殿ところで、宗像大社は日本神話に登場する日本最古の神社の一つである。ご祭神は天照大神の三女神で、本土の辺津宮、大島の中津宮
宗像大社辺津宮の南側に位置する「宗像護国神社」は、昭和38年に鎮祭され、日清・日露戦役から大東亜戦争に服した英霊が祀られている。拝殿由来書き日露戦争の殉国者芳名「敵弾」と刻まれた台石の上に砲弾が祀られている。砲弾は日露戦争の戦利品。宗像郡海軍人紀念。出征者芳名と経緯が刻まれている。========================【日露戦争の説明→→→】========================