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今回の話は幾松について調べている間に偶然みつけたある事柄から思いついた僕の推論、いや妄想といった方が良いかも知れないような話です。ただ、ちょっと面白いんじゃないかと思うので、よろしければお付き合い下さい。幾松の実父は木崎市兵衛といい、若狭国小浜(現在の福井県小浜市)の出身らしいという話は『幾松と新三本木(二)』で紹介しました。若狭の木崎家は名家であったものの平民の家柄だったということも書きましたが、さかのぼれば元々は武士であり、戦国時代に敗れて平民になった家柄なのです。実は若
2025-11-12鳥羽離宮跡公園こちらは鳥羽伏見の戦で、旧幕府軍が集まってたとこらしいてことは、坂本龍馬を斬った刀の持ち主の桂早之助クンもここに集合して、足に鉄砲で撃たれて致命傷をおった所かもしれないね〜そんな場所で🍙食べてごめんなさい小山の上になんかある…行ってみよ♪後ろは…表をもっかい漢字ばっかりで分からん…小山を下りて〜あれ、こちらは城南宮に『長州』って書いてあるね薩摩だけってことはないか…公園を出て歩きますお仲間さん女子お二人に、小山に何があったのかを尋ねら
京都見廻組の幹部隊士(肝煎)で、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された近江屋襲撃事件の実行者の一人であった渡辺吉太郎という人がいます。同じく近江屋事件の実行者の一人今井信郎は、箱館戦争で降伏後、兵部省における供述の中に佐々木只三郎先立ち、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、櫻井大三郎、私共都合七人にて河原町三条下ル龍馬旅宿へ昼参り候ところ・・・同じく刑部省での供述においても渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助は二階へ踏み込み・・・とし、名前は「吉太郎」であっ
京都見廻組の今井信郎(いまいのぶお)は、坂本龍馬・中岡慎太郎が殺害された近江屋事件に関して「自分たちがやった」と自供したことで知られています。その今井信郎が剣術教授方として赴任していた上州高崎の岩鼻陣屋から江戸に呼び戻され、京都見廻組への編入を申し付けられたのは慶応三年(1867)五月二十二日のことでした。旅費等の支給が遅れ、実際に京都に赴任したのは同年十月初旬のことといいます。この時、今井に申し付けられたのは肝煎(きもいり)という役目で、これは市中見廻りの組を引率する隊長にあたりま
2025-04-08四天王寺から出て北上しています五條宮トコトコ〜鎌八幡(圓珠庵)中に入ってご挨拶しましたトコトコ〜真田丸顕彰碑心眼寺真田幸村のお墓があるのだけど、今日の目的はこちら京都見廻組桂早之助墓所入りまーすもう何回か来てるからね探さなくても場所は分かりますはぃお久しぶり〜桂早之助クン渡辺吉太郎クン霊山歴史館に坂本龍馬クンを斬った刀が展示されているのだけど、その持ち主がこの桂早之助クンはてさて、この文献をまろんが読んで分かるのだろか、、疑問です撮
(この記事は昨年2月15日に投稿したものを一部加筆して再掲するものです)安政四年(1857)二月一日、渡辺篤(当時は一郎)は十五歳で二条城御門番見習となります。そして元治元年(1864)二十二歳の時に、二条城において上洛中の将軍家茂の御前にて剣術上覧試合が行われ、篤もこれに参加し、褒美として丁銀五枚を授かっています。また、将軍警護のために上洛していた伊庭八郎と親交を結んだようで、伊庭の『征西日記』元治元年五月五日に「渡辺一郎兄弟暇乞いに参る。鱒を持参」と書かれています。伊庭八郎は同年一
2025-04-01坂本龍馬を斬れ/近衛龍春霊山歴史館に、坂本龍馬を斬った刀が展示されているんだよねその刀の持ち主は、桂早之助クンその桂早之助クン目線のストーリー心眼寺にある桂早之助クンのお墓渡辺クンは2人名前があるのだけど…右側の吉太郎クンが、心願寺のお墓の人みたいでね、でねね〜『心願寺』って出てきてるぅ〜こういうのって、なんだか嬉しい京都の如来寺は、行ってないのだけど、機会があれば確認しに行きたいなぁ桂早之助クンの当時の立ち位置がよく分かる本でしたキャラが分からな
二条城御門番組は北組と南組に分かれていて、それぞれ御門番頭の下に与力と同心が配属されていました。その数は『京都武鑑』によれば「与力二十騎同心四十人」とされていています。それぞれの組に与力十騎と同心二十人が配属されていたことがわかりますが、実は『大武鑑』の方では「与力十騎同心三十人」と異なる人数が記されています。誤記である可能性も考えられますが、どうして人数表記の差異があるのか、その真相は今のところ不明です。※.『京都武鑑』よりその与力と同心に関して、『近世京都
※.二条城東大手門京都見廻組の肝煎で、近江屋事件に参加した一人とされる渡辺篤。その渡辺の家が代々与力をつとめた二条城御門番組は、その名のとおり京都・二条城の城門を警備するための幕府の組織です。「門しか警備しないの?」と問われれば、実はまったくそのとおりなのですが、ここでまず江戸時代の二条城の警備体制について解説したいと思います。二条城警備組織を統括するのは定番と呼ばれる役職で、二人体制になっていました。江戸幕府の役職をまとめた『大武鑑』によれば、たとえば元治元年(
「桂早之助」の検索ワードでのアクセス数が多く以前にアップした記事を多少画像をアップして再録します。今井信郎(いまいのぶお)の刀の鞘、襲撃時に使用したと伝えられます。龍馬の蝋人形・・桂早之助の龍馬を斬った刀・・佐々木只三郎の血染めの鎖帷子・・京都見廻組を束ねて、今井信郎や桂早之助らと近江屋に乗り込みます、龍馬暗殺から2ヶ月もたたないうちに鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争で腰に銃弾を受け敗走中、和歌山の紀三井寺で亡くなりました・・慶応4年ですが明治元年にあたります。八坂神社、中岡慎太郎と坂本龍馬
京都見廻組の渡辺篤について書いているうちに、彼の父親・時之進がつとめていた二条城御門番組についても、ちょっと触れておこうと思い、調べているうちに知らなかったことが色々と出て来てしまい、1回で紹介しようと思っていたら、とても1回ではまとめ切れそうにないことがわかりました。計画性のなさに我ながらうんざりしますが、そんなわけで、その中から今回は御門番組の頭である御門番(御門番頭とも)の二人について書きたいと思うので、どうかおつき合いください。まず、江戸時代における二条城の警備体制で
渡辺篤の生い立ちについては以前記事にしました。なのでリンクでも貼っておいて省略しようかとも思ったのですが、もう一度まとめることにします。なので、ほとんど同じ話を繰り返すことになりますが、どうかご勘弁下さい。二条城北城番組与力・渡辺時之進と、その妻・瀧の長男として天保十四年(1843)十二月十八日に生まれた篤は初名を一郎といい、慶応二年くらいまでは一郎を名乗っていました。諱(いみな)は子信といいましたが、「子」は人名としては「さだ」「さね」「つぐ」「とし」「しげ」「たね」「ちか」「やす」
前回は渡辺家のルーツについて述べましたが、今回はその後の京都見廻組渡辺篤につながるまでの話をしたいと思います。生涯のほとんどを浪人として過ごした後、息子・勘右衛門を見事徳川家に仕官させることに成功しながら、その名前すら伝わっていない渡辺家中興の祖・某。その父親の苦労の甲斐あって京都二条城御門番組与力という地位を手に入れた渡辺家の祖・勘右衛門でしたが、わずか二年ほどで病を得て急死してしまいます。その時、跡を継ぐべき子はまだ幼かったため、勘右衛門の跡目の与力職は親族の助之進が引き
京都見廻組の隊士で肝煎であった渡辺篤は、近江屋事件の襲撃グループに加わり坂本龍馬を斬ったのは自分だと晩年に手記に書き残しています。その前半生に関しては以前、簡単に記事にしましたが、後半生は近江屋事件のことを書いたあとにと思っていた。・・・のですが、近江屋事件についてなかなか書き始められないので、先に渡辺のことを書くことにしました。その渡辺篤について書いたのは去年の十月ぐらいのことかと思っていましたが、二月のことだったようで、もう一年近く前のことだったのかと我ながら驚いております。
坂本龍馬と中岡慎太郎が殺害された近江屋事件、その現場となった近江屋の主人新助をはじめとする井口家の墓が金戒光明寺の黒谷墓地にあるというので、先日探しに行って来ました。※.金戒光明寺文殊塔(三重塔)。井口新助は代々京都に住んでいた町人の家柄で、少なくとも同名の父新助の代(天保~嘉永期)には四条河原町で商売を営んでいたことがわかっています。当時の京の有名店舗を紹介した『商人買物独案内』には「萬貸物業風呂桶安売川原町四條上ル二丁目近江屋新助(原文ママ)」と紹介されており、父の
このブログは、私(鯛)の元に現れてくれた様々な偉人・神々との会話を記していくものです。現れた偉人たちは皆、口をそろえて現代の日本人に伝えたいことがあると言っています。神々には日本の行く末が見えてはいますが、あくまでも人間の意志を尊重していると言います。神々に救ってもらおうと考えるのではなく、人間が自分たちの手で社会をどう変えるかが大事なことのようです。信じる、信じないはあなた次第。一つの物語としてお楽しみください。佐々木只三郎シリーズ前回のお話はこちらから『佐々木只三郎⑦「SN
2024-11-30はぃ、こちら〜心眼寺あとこちらもあります桂早之助クンの坂本龍馬を斬った刀が、霊山歴史館に展示されているのを見たよ〜入ります六文銭柄の門、九度山でも見たね〜まずは幸村クンにご挨拶そして、京都見廻組のお二人のとこへそーっと手を合わせます出まーすトコトコ〜善福寺(どんどろ大師)寄っていくかぁ〜ご挨拶〜トコトコ〜三光神社ご挨拶しまーす幸村クンとこにも行ったよ〜でんっ♪こちらの幸村クンは結構オジサマなのねん真田の抜け穴…って書いてあるのかな〜?
このブログは、私(鯛)の元に現れてくれた様々な偉人・神々との会話を記していくものです。現れた偉人たちは皆、口をそろえて現代の日本人に伝えたいことがあると言っています。神々には日本の行く末が見えてはいますが、あくまでも人間の意志を尊重していると言います。神々に救ってもらおうと考えるのではなく、人間が自分たちの手で社会をどう変えるかが大事なことのようです。信じる、信じないはあなた次第。一つの物語としてお楽しみください。佐々木只三郎シリーズ最近のお話はこちらから『佐々木只三郎
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このブログは、私(鯛)の元に現れてくれた様々な偉人・神々との会話を記していくものです。現れた偉人たちは皆、口をそろえて現代の日本人に伝えたいことがあると言っています。神々には日本の行く末が見えてはいますが、あくまでも人間の意志を尊重していると言います。神々に救ってもらおうと考えるのではなく、人間が自分たちの手で社会をどう変えるかが大事なことのようです。信じる、信じないはあなた次第。一つの物語としてお楽しみください。佐々木只三郎シリーズ前回までのお話はこちらから『
このブログは、私(鯛)の元に現れてくれた様々な偉人・神々との会話を記していくものです。現れた偉人たちは皆、口をそろえて現代の日本人に伝えたいことがあると言っています。神々には日本の行く末が見えてはいますが、あくまでも人間の意志を尊重していると言います。神々に救ってもらおうと考えるのではなく、人間が自分たちの手で社会をどう変えるかが大事なことのようです。信じる、信じないはあなた次第。一つの物語としてお楽しみください。佐々木只三郎シリーズ前回のお話はこちらから『佐々木只三郎①
交渉が決裂し、薩摩藩兵の包囲陣の真っ只中の赤池集落に陣取っていた見廻組は、戦闘開始と共に集中砲火を浴びることになります。絶対的に不利な状況に、たまらず敗走してしまったため、警護していた滝川播磨守と共に後世に汚名を残すことになってしまいます。『旧桑名藩士中村武雄手記』薩藩より銃先揃えて不意に打ち出せり。見廻組は銃は持す歩兵も銃に玉を込めおかず、右往左往に立ち騒ぎ、矢庭に死する者もあり。手負いはもとより数知れず。『旧幕勘定方坂本柳左談話筆記』(『史談会速記録』)それでその
慶応四年(1868)一月三日、入京をめざしながら「確認するから待て」と、鳥羽小枝橋の南側で薩摩藩により朝から足止めを食らっていた旧幕府軍先鋒の見廻組でしたが、日も落ちかけた夕方七つ時(午後4時頃)、ついに堪忍袋の緒が切れて「左様ならば罷り通るべし(それならば押し通るまでだ)」と啖呵を切って使者の藤沼幸之丞・所谷健三郎の二人は薩摩藩の陣地に背を向け、赤池集落の見廻組陣地に向かって歩きはじめました。薩摩藩五番隊長の野津七左衛門(鎮雄)はこれを攻撃開始のタイミングと判断しました。急速喇
慶応四年(1868)一月三日、入京をめざして鳥羽街道を北上していた旧幕府軍の先鋒見廻組は、上鳥羽村付近で薩摩藩兵に引き止められます。「通してよいか朝廷に使者を送って確認するから待て」といわれ、上鳥羽村の南、小枝橋の少し南に位置する赤池集落に陣を布いて待機していました。※.赤池から小枝橋方面をのぞむ朝五つ時(午前8時)頃から赤池に待機していた見廻組でしたが、薩摩からの返答はなく、何度も使者を小枝橋の薩摩藩陣地に遣わして返事はまだかと確認しましたが、薩摩側は「使者はまだ帰
赤池集落に駐屯し薩摩藩からの連絡を待っていた見廻組でしたが、一方の薩摩藩は既に赤池を包囲するように陣を布いていました。この所、味方の地理十分の場所なれば二三軒百姓家を借り入れ、陣所を定め、大砲隊、六番隊等談合し、城南宮社前に前後左右へ手配し、街道正面へは大砲一門、左脇に五番隊そのまた左に横打ちに大砲三門、城南宮うしろの油小路にかけ加世田隊、高岡隊、伊集院隊を立ちつける。右の方、川原竹山中へ六番隊横矢を打ちわけにて隠れ伏す。~『薩藩本府五番隊長野津鎮雄日記』街道へは御城下五
慶応四年(1868)一月三日の七つ半刻(夕方5時頃)、鳥羽伏見の戦い、そして戊辰戦争のはじまりを告げる最初の砲声が鳴り響いたのは、鳥羽街道小枝橋の南の付近でした。前日に討薩の表を掲げて大坂を出陣した旧幕府軍のうち、淀城を経て鳥羽街道を北上した部隊は『復古記』第九冊収録の「軍配書」によれば陸軍奉行竹中丹波守重固の指揮のもと秋山下総守歩兵一大隊小笠原石見守歩兵一大隊谷土佐守砲兵二門桑名藩四中隊砲兵六門騎兵三騎築造兵四十人松平右近将監家来三十人と
鳥羽伏見の戦いは慶応四年(1868)一月三日、入京をめざす旧幕府軍の先鋒・見廻組と、それを阻止しようとする薩摩藩兵との間の「通せ」「通さぬ」の押し問答がきっかけとなって戦闘がはじまりました。その最初の戦闘に関する文章の中でよく出てくるのが四ツ塚関門です。たとえば『沢太郎左衛門手記』慶応四戊辰年正月三日、東軍の使者大目付滝川播磨守、伏見鳥羽の関門を過ぎんと番兵に乞いしに(滝川播磨守の使者として四ツ塚関門に行きしは京都見廻組肝煎藤沼幸之丞、所谷健三郎両人なり)、京軍これを拒み、遂に
慶応三年(1868)十二月九日、王政復古の大号令が発せられると京都の幕府勢力は大坂への移動を余儀なくされるのですが、小御所会議における辞官納地(徳川家の所領のほとんどを献上せよとする命令)の決定に続いて、江戸の薩摩藩邸を拠点とする浪士たちの暴挙に憤慨した新徴組などによる薩摩藩邸焼き討ち事件が発生すると、大坂の幕臣たちの間にも再び京に上って薩摩藩を排除しようとする機運が高まりました。こうして旧幕府軍は討薩表を掲げて京をめざし、入京を阻もうとする薩摩・長州・土佐など新政府軍との間に戦闘が発