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慶応三年(1867)十一月十五日のこと。土佐陸援隊の隊長中岡慎太郎は昼八つ半(午後三時頃)に白川の屯所を出ました。四条河原町の土佐藩邸の目の前にある醤油商近江屋に下宿している坂本龍馬を訪ねるためでした。途中、河原町四条上ル東側にあった書店菊屋に立ち寄りましたが、中岡はかつてこの菊屋に下宿していたことがありました。中岡は菊屋の息子峰吉に手紙を渡し、今から麩屋町通錦小路上ルの薩摩屋という店に行ってこの手紙を渡してほしい。自分はこれから坂本を訪ねるから、返事は近江屋に持って来るようにと頼みま
二条城御門番組は北組と南組に分かれていて、それぞれ御門番頭の下に与力と同心が配属されていました。その数は『京都武鑑』によれば「与力二十騎同心四十人」とされていています。それぞれの組に与力十騎と同心二十人が配属されていたことがわかりますが、実は『大武鑑』の方では「与力十騎同心三十人」と異なる人数が記されています。誤記である可能性も考えられますが、どうして人数表記の差異があるのか、その真相は今のところ不明です。※.『京都武鑑』よりその与力と同心に関して、『近世京都
京都見廻組・桂早之助は京都所司代同心桂清助の長男として生まれました。生年については主に二説あり、『桂早之助略伝』(川田瑞穂/大正六年)では生年を明記していないものの、嘉永四年(1851)に十七歳で同心になったとし、慶応四年(1868)鳥羽伏見の戦いで戦死した際に「享年三十四」としていることから逆算して天保六年(1835)生まれということになります。一方、『霊山歴史館紀要(8)』収録の「龍馬を斬った男見廻組・桂早之助の履歴」(木村幸比古/1995)では天保十二年(1841)四月生まれと
※.二条城東大手門京都見廻組の肝煎で、近江屋事件に参加した一人とされる渡辺篤。その渡辺の家が代々与力をつとめた二条城御門番組は、その名のとおり京都・二条城の城門を警備するための幕府の組織です。「門しか警備しないの?」と問われれば、実はまったくそのとおりなのですが、ここでまず江戸時代の二条城の警備体制について解説したいと思います。二条城警備組織を統括するのは定番と呼ばれる役職で、二人体制になっていました。江戸幕府の役職をまとめた『大武鑑』によれば、たとえば元治元年(