ブログ記事620件
二条城二の丸御殿のブログは今回が最終となります。(やっとですね😊)将軍のプライベート空間の白書院へ続きます。⑥白書院《二の丸御殿の最も奥に位置する建物。江戸時代には「御座の間」と呼ばれることから、将軍の居間と寝室であったと考えられている。(奥が将軍が座っている一の間、手前がニの間。右の部屋は三の間)一の間とニの間は襖で仕切られ、鍵もかけられるようになっている。大正4年(1915年)二条城で盛大に行われた大正大礼(大正天皇の即位礼と大嘗祭)の大饗宴時には、天皇の控え室として使われ
掛川城静岡県掛川市掛川城公園令和5年(2023年)12月14日㈭撮影掛川城天守閣4階から見た掛川城二の丸御殿*掛川城天守閣で撮影した画像はコチラ『掛川城1️⃣静岡県掛川市掛川城公園』掛川城静岡県掛川市掛川城公園令和5年(2023年)12月14日㈭撮影*掛川城戦国時代には東海道を扼する遠江国東部の中心、拠点として掛川はしばしば争奪戦の…ameblo.jp天守閣を出て二の丸御殿へ*重要文化財掛川城二の丸御殿1861年(文久元年)再建、1980年(昭和55年)に国の
二条城二の丸御殿の続きです。大広間の次は、「蘇鉄の間」と呼ばれる大広間と黒書院を結ぶ板敷の大きな廊下を通ります。「蘇鉄の間」《寛永行幸に合わせ、佐賀・鍋島藩から二条城に蘇鉄が献上されており、出入り口の杉戸や壁画に狩野探幽による蘇鉄を描いた杉戸絵が置かれている。かつて二の丸御殿の庭園には15本の蘇鉄が植えられており、これらを鑑賞する部屋であったともいわれている。》(テレビ番組からです)蘇鉄の間の奥は、将軍のプライベート空間が広がります。⑤黒書院《大広間より一回り小さく造られた黒書院
大河ドラマ「どうする家康」もいよいよ明後日で終わりを迎えます。今年中に「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」というテーマでブログをお届けしようと思っていましたが、つい「お城巡り」に足が向いてしまい「お城紀行」のブログを優先してしまうので、このシリーズは度々中断してしまい、「今年中」どころか「今年度中(2023年度)」に延長しそうです。しかし、暫くの間お付き合いくださいませ。「家康」の歴史を8期間に分けて、「家康」のでき事と併せて所縁ある「お城」を紹介しています。8期
二条城②の続きでラストです9:07土蔵西門北中仕切り門トイレ9:16展示収蔵館大休憩所こちらにも日本100名城スタンプがあります日本100名城スタンプ80点・・・インクがまんべんなくいきわたっていない感じです御城印タイミングよく限定御城印がゲット出来ました正確には入城記念符と言います。大阪城もそうだが御城印で統一すればいいのに...バス時間が表示されるので非常に助かり
テーマ:日本100名城二条城3回目の登城となる二条城を攻略します前回は2018年12月15日で五年ぶりの攻略となり、その時に販売が無かった御城印を入手します2023年8月10日8:44それではスタート東大手門本丸御殿は保存修復工事中のため観覧禁止🚧番所番所の向かい側に日本100名城スタンプがあります。終日、外に置いてあるにもかかわらず状態はいいですスタンプの印影にこだわる方は帰りもここを通るので、直ぐ近くにある大休
またも久しぶりのブログになってしまいました。二条城二の丸御殿の続きです。いよいよ大政奉還が表明された大広間の一の間とニの間です。大政奉還とは。《1867年(慶応3年)10月14日。江戸幕府15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上することを申し出て、翌15日に朝廷が許可し、江戸幕府の幕は降ろされた。これを日本史上、大政奉還と呼んでいる。徳川家康が朝廷から征夷大将軍を宣下されて以来、政治の大権を天皇から徳川家が預かる形で、日本の政治者として君臨してきたが、幕末、薩摩藩と長州藩が同盟を結んで
京都旅は、旅友N子さんにルートをお任せした割には〝パン活〟にも付き合ってもらったりで、案外わがままを通してしまってますパン屋さんを見つけたら素通りできないことはN子さんもよくご存知ですので(笑)まあ良しとしましょうホテルには、京都着からそのまま荷物を預かってもらう為一度向かっておりましたので、散策中は身軽なのですが、予定では錦市場→北野天満宮方面脇にあるポルトガル菓子のお店へ向かうことになっていました。そこは、N子さん御用達のお店で、ぜひわたくしを案内したいとおっしゃってくれていたんです。
秋の京都の旅2日目二条城の二の丸御殿の部屋を見学した。豪華な障屏画であったが、写真は禁止されていた。初めて来て見て、素晴らしく良かった。ツアーで行ったので、駆け足で見て回った。その後、上賀茂神社、下鴨神社を見学したが、何度も見に行ったせいか特に特筆すべき感動は無し。二条城の大手門(入口)二条城の唐門豪華絢爛二の丸御殿城の石庭城に映える紅葉清水寺清水寺南禅寺琵琶湖疏水しょうざんの庭
ここのところ、ずっと首や肩の凝りが酷くてろくに何もできず、ブログも途中から書けずにいました。今でも痛いですが、なんとか書き上げました二の丸御殿の続きです。遠侍の虎の間を見た後は、式台の間です。式台は遠侍と公式の対面所たる大広間を繋ぐ棟です。(テレビの映像からです)②式台式台の間《式台は、将軍への用件や献上物を取り次ぐ場所とされている。式台はかつては色代ともいい、挨拶を意味する。表の「式台の間」と裏の「老中の間」からなる。式台の間は、老中(江戸幕府の政務を統括する最高職)と大
ずーっと世界遺産二条城のブログを書き続けてますが、ようやく二の丸御殿に辿り着きました「二の丸御殿」(国宝江戸時代)《江戸初期の慶長年間に築城された遺構を残す貴重な建築群。築地塀や土蔵で囲まれ、総敷地面積は3万平方メートル。寛永元年(1624)後水尾天皇行幸のために新造改修で現在の姿に。明治時代には一時、京都府庁や離宮ともなって手が加えられている。近世初頭の城郭の御殿建築として、今も建築時の姿を留めるのは二条城の二の丸御殿のみである。》6棟の建物に33部屋あり、使用された畳は計80
二条城。17世紀に徳川家康の孫である徳川家光が、将軍の宿所として使用するために建てました。城壁や門などの姿の良さも魅力ですが、二の丸御殿の障壁画や襖も良いです(休城日があるので行く場合には事前に要チェック)。春の二条城、夏の二条城、と季節ごとに行くのも良いです。
二条城へ。10月は修学旅行シーズンでもあるので、朝からたくさんのバスが。ざっと20台以上はあったと思う。それにかぎらず、人気の観光スポットですもんね。わたしも何度も訪れたことはあるのですが、そういえば!娘が京都在住になってからは一度もなかったんですよね~ほかに行くところが忙しかったというのもあるかも(笑)ではこのたびなぜ急に行こうと思ったか。そう!なんと京都検定合格の恩恵で、10月は入城料を無料にしていただけるんです(笑)せっかくな
世界文化遺産[二条城]二の丸御殿二の丸庭園天守閣跡-END-
京都二条城🏯二の丸御殿の唐門快晴だったのでとてもキレイに撮れましたまさに豪華絢爛
正観さんによると…。(知って楽しむ情報集~人間観察40年の情報いろいろ)●人生相談その人の人相や手相を観ながら一言ずつ何かを言っていくと、その3分の2の人が膝を一歩ズイッと進めて、「実は、私こういう問題を抱えているのです」と人生相談になるのでした。18万人のうちの3分の2,12万人ほどが人生相談に踏み込んできたものですから、どういう顔の人がどういう内容の相談ごとを持っているか、というのが統計的にわかるようになってきました。私は、15歳くらいのときから人相学の勉強をしていたので
こんにちは。朝晩はすっかり寒くなりました。夏は掛け布団を蹴飛ばして大ノ字になって寝ていたのが今では頭まで布団をかぶって丸くなって寝ています。日中も過ごしやすくなりましたので散策日和ですね。さてさていよいよ掛川もラストです。よくある構図、「部屋とYシャツと私」風にいうと「御殿と天守とソテツ」。二ノ丸御殿を取り囲む土塁。背が高い土塁で御殿を隠す目的だったようです。外側からはこんな感じ。道が堀だったことを考えると御殿の土塁にしては背が高いです。風を防ぐ役目も
二条城の敷地内にあるお茶屋さん。観光地価格な印象はありますが、綺麗な庭園を眺めながらゆっくり出来るの良いですね。白玉クリームあんみつ。他にはかき氷もありましたね。ご馳走様でした。お店からの景色二の丸御殿
前回はこちら『滑り込みの夏旅・漫画が読めるホテル』前回はこちら『滑り込みの夏旅・八ツ橋饅頭』前回はこちら『滑り込みの夏旅・京都駅でごはんと京風メロンパン』前回はこちら『滑り込みの夏旅・ならの小川』前回はこちら…ameblo.jp本丸御殿修理中のため1→2→3→5と周ります。唐門ぐぐります。抜けました。二の丸御殿の見学へ行ってきます。中は写真撮影禁止。続く『滑り込みの夏旅・二条城②』二の丸庭園本丸櫓門鯉うじゃうじゃ天守閣跡続くameblo.jp
こんにちは。朝晩には若干秋の気配を感じられるようになりましたが日中は夏が幅を利かせていますね。朝から蒸し暑くてイヤになります。さてさて掛川城の続きになります。いよいよ場内へ潜入。こちらは三日月堀。本丸の入り口を守ります。諏訪原城や大島城などに三日月堀があったことから場所的に近いので真似したのかもしれません。武田の遺臣もいるでしょうし。こちらは十露盤堀。位置関係はこんな感じです。全体的にコンパクトですが江戸城、大坂城、名古屋城などの大城郭や天下普請の
香雲亭で朝の湯葉粥御膳を頂いた後は二条城を散策このイベントに参加するには勿論二条城の入場券も買わなくては行けませんからね。(1300円)でも、まだ午前中だというのに暑い二条城は1,2回いや3回目思い出せない位昔に来た事ある。最後でも20年近く経ってるようなまあ、とにかく超久しぶりです。石垣の上にはススキ秋の気配はあるんだけどとにかく暑い唐門二の丸御殿中の撮影は禁止です。人もいっぱいで、人をよ
9/4(月)~6(水)にかけて、「青春18きっぷ」を使っての恒例「夏のお城巡り二泊三日の旅」に出かけました。今回は、富山県と石川県にある山城(中世城郭)と近世城郭巡りです。※「松倉城」「富山城」「増山城」「高岡城」「金沢城」「福井城」(雨やトラブルの影響で「末森城」「大聖寺城」は断念、「高岡城」「福井城」は計画外で訪城しました。本日は、「金沢城」(石川県金沢市)の「五十間長屋」をジックリと見学しつつ、現在「五十間長屋」の北西に拡がる「二の丸御殿」跡の発掘調査についても情報収集をしていきた
『豊年』作詞〜横瀬夜雨(1878〜1934)一、晩稲(おくて)も早稲(わせ)も頭を下げた半年がかりの涙と汗は変わった変わった黄金の花に二、我等はもとより百姓の日がな一日蚯蚓(みみず)を切っておんぼろさんぼろ下げもすれ三、蛭(ひる)に責められ田蜂に刺され血みどろちがひに田の草取った土用の辛さは忘れねど四、水戸のお館光圀さんは蓑笠出立ちの農人形を二の丸御殿に置いたとさ五、穂に穂重ねるめでたさを祝へ、子持の嫁ん女が明日は鶏起き早稲か
京都御所の参観順路も、行き止まりとなり。で、『御内庭』の前にある建物が、『御常御殿』。「清涼殿内に設けられるようになっていた常御所が、天正18年(1590)に建物として独立したものである。天皇のお住まいであるとともに、南側に上段・中段・下段の間を備えて儀式や対面の場としても使われた。内部は、神器を納める剣璽の間や天皇が寝室として使用された御寝の間など15室からなり、すべて畳敷きになっている。」(パンフレット)ここまでが、順路。戻りながら、途中から、出口、つまり、清所門へと。細かな装飾
…その舞台となった二条城の建造物は?江戸幕府15代将軍・德川慶喜は、慶応3年10/11、在京の諸藩重役などに同月13日の二条登城を求めた。登城した約50名は、「二の丸御殿」大広間でそれぞれの主君宛の書付を大目付・戸川安愛(ヤスチカ)から渡される。大政奉還の意志を示し、対する意見及び上洛を求めたものである。ここで将軍への言上希望が問われ、薩摩の小松帯刀土佐の後藤象二郎・福岡藤次安芸の辻将曹(ショウソウ)の他、備前と宇和島の出席者が応じた。6人は大
二条城に来ました。酔い止めは2錠のみますか元離宮二条城Amazon(アマゾン)198〜5,716円【ファセット】ペーパークラフト日本名城シリーズ1/300国宝二条城二の丸御殿Amazon(アマゾン)2,640円「二条城~戦国から太平へ~」Amazon(アマゾン)
尼崎から福知山線で北に向かい篠山口駅で降り、駅からバスに乗って篠山の城下町を目指します。明治以降に建てられたものと思える東西に連なる町並みを南に抜けると、篠山城があります。篠山城は、八上城を廃止して大坂城の豊臣氏の抑えとして、1609年に幕府が藤堂高虎などの大名を動員して、天下普請で築かせた城です。大坂城包囲網の要とするために、築城を急いだため、この城には天守は築かれませんでした。天守はないものの、捲らされた石垣や水濠の壮大さには心を奪われます。石垣の下にある犬走りは、藤堂高虎が築城を
今日は夫とお出かけ。二条城特別入室二の丸御殿「遠侍勅使の間」の学芸員による障壁画解説会へ参加してきました。興味深く拝聴しました。ありがとうございました。説明会の後、二の丸御殿に入場し、説明にあった障壁画(模写)や天井画(原画)を間近で鑑賞。そして、展示収蔵館にも寄り、「勅使を迎える青楓〜〈遠侍〉勅使の間〜」の原画も鑑賞してきました。説明会の会場と展示収蔵館は冷房が効いていて涼しかったのですが、他は、当たり前ですが暑い!暑すぎる!せっかくですが、二の丸庭園はパス!二条城をあと
…障壁画を描いた絵師は何派か?二の丸御殿(国宝)の障壁画は、江戸幕府3代将軍・徳川家光が寛永3年に後水尾天皇の行幸を迎えるにあたって二条城の大改築を行った際、「狩野派」の絵師たちによって描かれた。「狩野派」は室町期の狩野正信が始祖、元信が発展させ、安土桃山期の狩野永徳が画壇の覇者となり、家康が開いた江戸幕府の御用絵師を務めた狩野探幽が狩野派の活動基盤を盤石にした。その探幽が中心となり、狩野派の精鋭を結集して取り組んだのが二の丸御殿の障壁画の制作。