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美輪明宏主演の代表作映画『黒蜥蜴』(1968年)を鑑賞しました。(※画像お借りしました※)舞台公演の案内や告知で常に見掛ける『黒蜥蜴』がまさか映画化されていたとは初めて知ったのでこの機どんなストーリーなのか知っておこうと思い鑑賞😀。ザクッとあらすじ知人にこっそり教えられた東京のある秘密クラブに入店したものの居心地の悪さを感じていた探偵・明智小五郎(木村功)は左腕に蜥蜴の刺青をもつ【黒蜥蜴】(丸山(美輪)明宏)と呼ばれる謎めいた美
NHKBSで映画黒蜥蜴を見た三輪さん若ーい(この頃の芸名は丸山明宏)つーか三島由紀夫w松岡きっこさんと川津祐介さんこの映画、1968年だからおっさんが生まれた年だな
1968年/邦/深作欣二監督/丸山明宏木村功松岡きっこ宇佐美淳也川津祐介&丹波哲郎西村晃三島由紀夫2025年11月25日NHKBSプレミアムシネマ【あらすじ】<黒蜥蜴>こと緑川夫人(丸山)は、美しいものを愛する女賊。今度の標的は、岩瀬庄兵衛(宇佐美)の所蔵するお宝<エジプトの星>と、庄兵衛の娘早苗(松岡)であった。しかしてたまたま居合わせた探偵明智小五郎(木村)によって、夫人の計画は何度も阻止されてしまう。おのれ明智…憎さ余って愛しさ百倍?夫人の強盗作戦と、愛の行方は…
1.黒蜥蜴丸山明宏A1968年公開作品。丸山明宏扮する黒蜥蜴は秘密クラブで木村功扮する明智小五郎に話しかけてきた。江戸川乱歩作、三島由紀夫戯曲作、深作欣二監督作品とくれば面白くないはずはない。しかし全体的には不気味な雰囲気だな。特に黄門様が際立ってるね。三島由紀夫先生の登場シーンも刺激的だな。若干せわしい間が気になったけどね。
何のために撮られた写真なのかも不明ですが,手塚先生はベレーも被らず,当時連載中の「きりひと讃歌」の直筆Tシャツを着ているというレアなものです。(当時)丸山明宏さんの語る三島由紀夫。昔の週刊誌っていいですよね。#手塚治虫http://phoenix.to/syou/post/01-15.html
こんばんわ^^今夜も遣って参りやした何時もの今斐雄汰どすたい。❣(^艸^)プププッいやぁ、此処数日涼しくて朝方には寒い気がして毛布を出す始末のオイラの身体。トホホ(ノ_・、)折角、具合の好くなる@磁気ネックレスの取り付ける方法を色々と編み出しては実体験をBlog.にて報告したものの寒さ迄は勝てませんでしたねぇ^^体温計で測りましたら36.5℃今まで体験した事のない低体温症(?)^^オイラ自慢じゃぁ無いけど若い頃には39℃くらい在ったんとちゃうかなぁ^^←
きょう理髪店で順番待ちをしていたところ春日太一氏が書かれた映画『黒蜥蜴』についた書かれた記事を読んだ映画『黒蜥蜴』がついにブルーレイで発売されていたというほうが自分にはショッキングだったというのは長らくこの映画は上映などほとんどされずDVD化などはされておらず自分はアメリカで発売されていたいま思うと画質の悪いVHSソフトで持っていたのと劇中明智小五郎役の木村功が変装するのですがそれがディズニー・アニメーション映画
※ネタバレあり。『黒蜥蜴』と同時にル・シネマで公開していた映画。これも深作欣二なんだけど、美輪様の貴重な映像を残してくれて本当に感謝(^^;💦藤尾竜子(美輪明宏)は佐光が経営するクラブ「黒薔薇の館」で純粋至上の愛を歌い、男たちを陶酔させた。崇拝者たちは種々の手段を講じて竜子に近づこうとしたが、誰一人彼女の気に入る者はいなかった。佐光喬平(小沢栄太郎)もまた彼女を愛するもののひとりだった。ある日、竜子のかつての男が復縁を迫り混血少年のジョージと決闘して即死した。それから数日竜子は佐光
※ネタバレあり。期間限定で美輪明宏の『黒蜥蜴』を上映するというので行ってみた。まだ美輪明宏じゃなくて丸山明宏。監督は深作欣二ですごく時代を感じる(^^;💦舞台のほうは2015年を最後にもう上演しない、ということだったので残念に思っていたけど、映像があるということに感激した。ありがとう深作欣二。世界的宝石商の岩瀬は娘早苗の誘拐と、時価一億円のダイヤ「エジプトの星」の強奪を予告する女賊黒蜥蜴におびえ、探偵明智に警護を依頼した。岩瀬父娘は大阪のホテルに姿を隠したが、隣室には岩瀬の店の顧客
「新宿二丁目」という場所がある。アドレスとしての新宿2丁目は、東京メトロ新宿三丁目駅の東側、北に靖国通り、南に新宿御苑を挟んだエリアを指す。その中でも新宿通りから靖国通りに抜ける200m超の「仲通り(なかどおり)」がメインストリートとなり、ここを中心にバーや飲食店などが軒を連ね、ゲイグッズを扱うショップ、同性同士で利用可能なホテルなどもある。DJバーやイベントスペースなどもあるため週末には何かしらイベントが行われていて、終電前後まで賑やかなことが多い地域だ。1960年
ジョリ・シャポーJoliChapeau丸山明宏(美輪明宏)アンドレ・クラヴォーの「ジョリ・シャポー」を「メケメケ」の頃の丸山明宏が自分で日本語歌詞を書いて歌っている。クロンボ仲間でもおいら一人だけがジョリー・シャポーを被り酋長どもも跪くとっても賢い俺様はこのジョリー・シャポーと引き換えに首輪、耳輪、花飾りをみんなシロンボにくれてやった「メケメケ」のEPに収録されている曲なので、主人公はマルチニーク(カリブ海のフランス領)の黒人なのかもしれない。それとも、酋長
ヨイトマケの唄アナザー・ストーリー小学生の時、学校から家に帰ると、母が涙ぐんでいた。何か不幸なことが起こったのかもしれないと、「どうしたの?」と尋ねると、テレビでとても感動する歌を聞いたのだと言う。それは、NET(現在のテレビ朝日)の「木島則夫モーニング・ショー」で、丸山明宏(美輪明宏)がゲスト出演し歌った「ヨイトマケの唄」だった。母は、生放送で聴きながら思わず泣いてしまったのだが、息子(私のこと)が学校から帰って来たので、母と息子の関係から「ヨイトマケの唄」を思い出し、再
ヨイトマケの唄丸山明宏(美輪明宏)丸山明宏(美輪明宏)が銀巴里で「ヨイトマケの唄」を最初に披露した時、「父ちゃんのためならエンヤコラ」と歌い出したら、観客席が思わず笑い出してしまったと言う。素敵な繁華街・銀座でフランスのお洒落なシャンソンを聴こうという意識の観客にとっては、それは決して責められない反応だったと思われる。丸山明宏は、已む無く暫くの間、銀巴里のレパートリーから外したそうだ。銀巴里以外の場では歌っていたが、最初のうちは拒絶反応があったものの、徐々に観客から確かな手応えを感
運命思想家の檜原有輝です。待ち受けにしている人がいるくらい運にあやかれるという神々しい方を鑑定するのも憚られますが…(^^;それでも同じ人間ではあるので恐縮ながら、運勢を拝見します。この方は本名ではありませんが認知度使用頻度によって運勢は誘導します。1971年にご自分で画数を見て完全無欠にてつけられたとのこと。では見てみましょう。画像元美輪明宏天格24画火人格23画火吉人格15画土吉外格16画土吉総格39画水
丸山明宏(美輪明宏)さんと園まりさんが夫婦という設定で撮られたユーモアグラフの切り抜きです。
5月15日生まれの歌手美川憲一北見恭子瀬口侑希伊勢大貴美輪(丸山)明宏藤田恵美(LeCouple)常田大希(KingGnu)長澤知之南明奈おススメ曲は…日本コロムビア美輪明宏「メケメケMEQUEMEQUE」1957年発売のヒット曲作詞C.Aznavour作曲G.Becaud訳詞美輪明宏美輪明宏のデビュー曲wikiによると…「メケメケ」(MequeMeque)は1954年発表のフランスのシャンソンが原曲ジョー・ダッサンが歌
▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようみなさんごきげんよう。二輪明宏です。うん、ニワじゃなくてミワな。美輪明宏な。黙れ小僧!昔は丸山明宏でした。どうぞお手やわらかに♡正負の法則でプラマイゼロ。帳尻合わせになるのよね。一番手は大変なのよ?二番手、三番手のほうがラクよ☆美しすぎると大変ですよ?ワタシのように。石を投げられたりだとかね、やれオ●マだオトコオンナだと罵られたり、お前が触ったものは腐る!とまで言われたわw■■はジ殺、◆◆は毒蛇に…、●●は56さ
丸山(美輪)明宏は、銀巴里でシャンソンやジャズだけではなく、古い日本の叙情歌や自作の大衆歌も歌っていました。ある日、大正時代に流行った「船頭小唄」を♪俺は河原の枯れススキ...♬と歌うと、三島由紀夫は顔をしかめたそうです。後で訊くと、「(あの歌は)不愉快だ。」と言ったのだそうです。丸山と同年代の寺山修司は、退廃的なもの、自堕落なものを認め、貧しさや田舎臭さの中にも美しさや抒情性を見出した人だったのですが、三島由紀夫は、そうではありませんでした。都会的で人工的なものを好み、ヨーロッパの
丸山明宏が国立音楽高等学校に入学するため上京したのが1951年です。その年、越路吹雪は宝塚を退団し、東宝へ移籍、帝劇で「モルガンお雪」に主演するなど、既にスターでした。そして、1957年に丸山明宏が「メケメケ」でメジャーデビューしましたが、その5年前から越路吹雪は日本で初めての歌手一人だけのリサイタルを始めていました。それから、丸山明宏には、挫折と努力の10年間がありました。そして、1968年2月16日付の朝日新聞に或る記事が掲載されました。タイトルは、「芸域をひろげる二人越路
私は野坂昭如の著書が好きだった。好きだったと過去形で書いたのは、単に今は読んでいないからで、今でも好きだと書いても良いと思ったりもするが、好きだったと書いた方が私にはしっくり来るので、好きだったと書く事にする。野坂昭如が書く世界は戦後の事やエロ・グロ・テロの事が多いと思うが、どれにも共通している事は死を感じる事で、私はその独特のユーモアを交えて書かれる戯作的世界観が好きだった。しかし今回書くのは野坂昭如の著書の事ではなく、シャンソン(?)歌手"クロード野坂"の事である。と言っても、私
寺山修司は、若き日に短歌で世に出たのですが、それがいろんな方面から俳句の模倣、盗作ではないのかと批判を浴びました。寺山にとって、過去の俳句や短歌はすべからく「本歌取り」の対象でした。その後も、詩、作詞、ラジオ・ドラマ、映画脚本、戯曲、エッセイとありとあらゆる先行作品からの引用を駆使しています。その寺山が「青森県のせむし男」の次に丸山明宏のために書いた戯曲が「毛皮のマリー」でした。もちろん題名は、イヴ・モンタンの"LaMarie-vision"から採り、初演でもそのシャンソンが流
丸山明宏(美輪明宏)が銀巴里で「ヨイトマケの唄」を最初に披露した時、「父ちゃんのためならエンヤコラ」と歌い出したら、観客席が思わず笑い出してしまったと言います。素敵な繁華街・銀座でフランスのお洒落なシャンソンを聴こうという意識の観客にとっては、それは決して責められない反応だったと思われます。丸山明宏は、已む無く暫くの間、銀巴里のレパートリーから外したのだそうです。銀巴里以外の場では歌っていたのですが、最初のうちは拒絶反応があったものの、徐々に観客から確かな手応えを感じ始めたと言います。
日本初のシンガーソングライターが誕生した1963年の「丸山明宏リサイタル~丸山明宏作品集」ですが、音楽評論家の蘆原英了も観客の一人でした。コメントを求められた彼が語ったのは...「リサイタルを拝見した感じを一口でいうと、まあなかなか大へんだなあ、ということですね。ちょっとそれ以上のことは、私の立場上言えないことなので...」シャンソン界のご意見番として、いつもは歯切れのよい発言をする蘆原英了が言葉を濁すというのは判ります。なぜなら、日本人の生活感情から生まれた精神性の強い歌という
日本初のシンガーソングライターが誕生したのは、1963年の「丸山明宏リサイタル~丸山明宏作品集」だと言われています。シスターボーイの呼び名で登場し、「メケメケ」でレコードデビューし、一時期人気を博した丸山明宏でしたが、その後、ブームが去るように表舞台から退いていました。地道にライヴ活動しながら、これまでにない日本人の生活感情から生まれた精神性の強い歌を50曲以上作詞・作曲していました。そして、一か八かの思いで「丸山明宏作品集」のリサイタルを企画したのでした。その挑戦の姿勢と意気込みと
「ふつうの女の子に戻りたい」キャンディーズは、芸能界引退の理由をそう言いました。同年代の私は、もちろんその引退を応援していました。当時、山口百恵が口にしたクールな一言を私は知りませんでした。de酒井正利は、彼女がこう漏らすのを聞いたと言います。「私たちがふつうの女の子になんて戻れるわけがない」スター街道をひた走っている山口百恵は、そんな簡単に普通に戻れないことは気付いていたのです。その言葉どおり、キャンディーズは、結局、それぞれの形で芸能界に復帰しました。逆
歌謡界の三人娘で思い浮かぶのは誰でしょう?世代によって違ってくると思いますが、私にとっては、小柳ルミ子、南沙織、天地真理になります。もしかしたら、そんな三人娘ってあったの?とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが...de表側は、綺麗に彩られて見える芸能界ですが、裏側は想像を絶するような濁流が流れていると言われます。南沙織は、自分を大切にするタイプだったので、そんな芸能界の汚さを嫌って、休業の後、あっさりと引退してしまいました。反対に芸能界に馴染み、プロ根性を発揮した
丸山明宏のレコード・デビューは、彼が自分で訳詞した「メケメケ」で、1957年のことでした。その訳詞ですが、当時の日本でよく歌われていた日本語歌詞と比べると、相当くだけた言葉が使われていました。かなり意識して、一般人が日常の会話で使うような言葉が使われました。安い酒にくだまいているクロンボの色男別れの盃だよ涙をふいておくれお前も達者でくらしなネェあんたあたし一人おいてけぼうはやんだあたしは死んじゃうよこれはまあお気の毒なこったよバカヤロー情なしのケチンボ
デビューしたばかりの美空ひばりを評して、「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ。」と批判的な記事を書いたのは、サトウハチローでした。ステージママであるひばりの母・加藤喜美枝は「ゲテモノ」の意味がわからず、「東京キッド」を作詞した藤浦洸(詩人・作詞家)に尋ねたという逸話が残っています。サトウハチローは、きっと子供は子供らしいのが良いという価値観の持ち主で、かなり風変わりで大衆的で粗悪なもの、つまりゲテモノに見えたのだと思います。若き日に同じように「ゲテモノ」と
丸山明宏(美輪明宏)が三島由紀夫から「天上界の美」と呼ばれた1957年頃、銀巴里でどんなシャンソンを歌っていたのか、非常に興味がありました。そこで、調べてみると...リュシエンヌ・ドリール「ユダ」アンドレ・クラボー「ジョリー・シャポー」ジルベール・ベコー「メケメケ」ティノ・ロッシ「便りを給え」時代が時代だったので、メケメケは別にして、結構優雅で甘美な曲を歌っていたんだなぁと思いました。日劇ミュージックホールの正月公演(1957年)では、アルゼンチン・タンゴや、「べサ
美空ひばりは、ステージママの母親が苗字の加藤を美空に替え、名前は和枝のままで、「美空和枝」として活動していました。そして、1947年に伴淳三郎の劇団・新風ショウに参加し、そこで演出をしていた岡田恵吉に「美空ひばり」と名付けて貰ったのでした。丸山明宏(美輪明宏)は、霊理学派姓名研究会の伊藤晴康の鑑定に従って、本名の丸山臣吾から明宏に改めました。ここまでは、岡田恵吉は登場しません。丸山明宏は、16歳から銀座のサロンで歌い始め、18歳の1952年のある晩、前座をつとめたシャンソン歌手の橘か