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藤原摂関家という家は、合戦を経ることなく天下を取った家で、天下人の実質を失ったあとも臣下のなかでは最高権威の家として、昭和の敗戦まで続いて来たのですから、その世渡り術は凄いと言えます。昔は、天下は合戦をやって奪い取るものだったのに、初代の中臣鎌足が軍事面では役に立てなかったと言っているくらいで、歴代軍事は苦手で、家の地位を画期的に上昇させた藤原不比等も軍事的な才能はなく、律令の制度作りと日本書紀の編纂で辣腕を振るい、朝廷のなかで不動の地位を得ました。各豪族の代表者が1名ずつ
初めて観た蹴鞠(けまり)とっても楽しくかつ護神事みたいで神聖でした!神戸、異人館街に住むそれぞれの魂に原種の薔薇を咲かすアルケミック🌹ルルドのマリアです昨日はお米をいただきにいつもの奈良の桜井私たちの大物主のお父さん笑かずさんのところに行ってきました。ちょうど春のけまり祭りあるから談山神社へ行こう!って誘われて行ってきました!この談山神社めちゃくちゃすごいところです♡大化の改新の立役者である中大兄皇子と御祭神藤原鎌足公の出会いのきっかけとなったのが、元興寺(現
世の中GW真っ盛り、そうだ京都へ・・・。新幹線で京都駅に降り立つと、以前より中国人観光客は減ったものの、欧米の方々の多い事。予定を変更して、満員の京都を避けて滋賀に行く事に。京都駅からJR湖西線に乗って、たったの10分で大津京駅に到着。大津京の跡地に建てられた近江神宮へお参り。大津京駅から1.3km徒歩17分境内が思っていたより広かった、ゴールデンウィークなのに人少なっ。参道を進む。鳥居と階段、木々そして参拝者。凄く美しい世界観。普段、全てが圧縮された様な濃密な都心から来ると、異
乙巳の変(4)https://dic.pixiv.net/大化の改新の先端を切った暗殺事件。概要時は西暦640年代。当時の朝廷は聖徳太子というやかましい優等生が死んで以来、蘇我蝦夷・入鹿親子が掌握していた。蘇我親子は、聖徳太子の息子である山背大兄王を始末し、時の天...nyabecch.blogspot.com乙巳の変(4)-日本史nyabecch.blog47.fc2.com
4月15日現在の空き状況赤い字は先週と違っています。まなびたいむ1(17時から18時まで)月曜空きなし火曜1名木曜空きなし金曜空きなしまなびたいむ2(18時から19時まで)月曜3名火曜3名木曜2名金曜2名まなびたいむ3(19時から20時まで)月曜1名火曜空きなし木曜空きなし金曜空きなしまなびたいむ4(20時から21時まで)月曜2名火曜1名木曜空きなし金曜空きなし
飛鳥寺の西側には鎌倉時代に建てられたと言われる五輪塔あります中大兄皇子に討ち取られた蘇我入鹿の首がここまで飛んで来たんだって❗️飛鳥寺は蘇我馬子が596年推古天皇の時代に建立した日本初の寺院でした釈迦如来像は日本最古の仏像です酒船石を見てから右側にある道を歩いて行くと飛鳥寺が左手に現れます
乙巳の変(3)蘇我本宗家の滅亡と大化の改新古人大兄皇子は、私宮へ逃げ帰った(この時皇子は「韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ。吾が心痛し」(「韓人殺鞍作臣吾心痛矣」)と述べたという)。これは古来から難解な言葉とされており、対朝鮮政策をめぐる路線対立故に出た言葉であるとされることもあ...nyabecch.blogspot.com乙巳の変(3)-日本史nyabecch.blog47.fc2.com
「中臣」には天皇家と神の間を取り持つ臣という意味があり、中臣氏はもともと神職をもって朝廷に使える家でした。ところが、そういう立場に満足できない鎌足が中大兄皇子に近づき、クーデター後、その秘書的役割を果たして成り上がっていったのは事実でしょう。だからこそ、天智天皇8年(669)、鎌足が死に際して大織冠(官位の最上位)の地位と藤原の氏を賜ったと『日本書紀』に記載されるに至ります。その藤原は中臣一族の本拠があった大和国藤原(奈良県橿原市および明日香村の両説)の地名に因むとさ
本日も動画から始めます。高野誠鮮和尚がナサから持ってきた宇宙に関する展示物から。いつかは行きたい羽咋の宇宙館宇宙人はヤバイ!#01住職が案内する実物の宇宙船【能登半島・北陸応援企画】この動画は、住職高野誠鮮さんがコスモアイル羽咋の展示室を案内する動画です。先日配信した3人のトーク「宇宙人はいる!1-2-3」の前に収録したものです(2024.3.20)実物の宇宙船やロケットを見に「宇宙科学博物館コスモアイル羽咋」に行こう!!石川県羽咋市鶴多町免田25番地TEL:0767-22-9
大河ドラマ『光る君へ』ハマって見てますいつか大河ドラマにはとってもやって欲しい題材があります。それは…『大化改新』蘇我氏が勢力を振るう時代の中で中臣鎌足が中大兄皇子に近付き計画を練って実行に移すまでを1年掛けてじっくりやって欲しいなぁ中大兄皇子は…そうだなぁふと思ったのは神尾楓珠くんとか蘇我入鹿は…鈴木伸之さんそしてたぶん主人公になるであろう中臣鎌足には中村倫也さんなどはどうでしょうか…😅(あくまで個人の意見です)そもそも大化改新の時点で中大
ネタが切れた時の不定期企画『天皇陵巡り』第38代天智天皇山科陵即位西暦661年退位西暦672年皇位年数11年天智天皇より、即位前の名「中大兄皇子」の方が有名かも。西暦645年に中臣鎌足らと一緒に、蘇我入鹿を暗殺するクーデター=大化の改新を起こした人。御陵印所在地天智天皇陵がある事にちなんで、この辺りの地名や駅名は『御陵(みささぎ)』になってる。あと、皇位年代を見たらわかるんやけど、第50代桓武天皇が平安京遷都をするより遥か100年以上昔
乙巳の変(2)蘇我入鹿暗殺神祇を職とする一族の中臣鎌足は、蘇我氏の専横を憎み蘇我氏打倒の計画を密に進めた。鎌足はまず軽皇子に接近するが、その器量に飽き足らず政変の中心にたりえる人物を探した。法興寺の打毬で、中大兄皇子の皮鞋が脱げたのを鎌足が拾って中大兄皇子へ捧げた。これが縁...nyabecch.blogspot.com乙巳の変(2)-日本史nyabecch.blog47.fc2.com
こんばんは、mmm(まーママ)です。3月17日(日)奈良観光4ヶ所め。お天気が下り坂なので、駆け足で観光します。飛鳥寺奈良県高市郡明日香村飛鳥682588年、蘇我馬子が建てたと伝わる日本最古の本格的仏教寺院。大化の改新の主役、中大兄皇子と中臣鎌足が知り合ったのも飛鳥寺で行われた蹴鞠の会であったといわれています。通称「飛鳥大仏」の銅造釈迦如来坐像。(仏師鞍作鳥作)飛鳥大仏は609年には完成したとされ、鋳造年が絞れる仏像としては日本で最古級。
中学校の歴史の教科書に記載されている重要人物を紹介します。第11回は「中大兄皇子」です。☟詳細はこちら☟-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。youtube.com
愛子さまが皇太子になるべき100の理由No.36大化の改新(645年)を、昔小学校で習って覚えたのではないでしょうか。最新の研究では、大化の改新は645年ではなく、もう少し後れて、しかも長い年月をかけて行われていることが研究によって明らかとなり、今は乙巳(いっし)の変(645年)が切り出されて教科書に残っているそうです。せっかく覚えたのに『乙巳の変』中大兄皇子と中臣鎌足が、権力を持ち専横を極めた蘇我入鹿を討ったクーデターこの乙巳の変が起きた際、時の天皇
暴君とされている殷の紂王が持っていた宝石の名前は天智玉舒明天皇の第二皇子である中大兄皇子は645年中臣鎌足たちと乙巳の変を起こす668年即位672年崩御和風諡号は天命開別天皇奈良時代淡海三船が神武天皇から41代持統天皇までの漢風諡号を一括撰進中大兄皇子の漢風諡号は…
多賀城は神亀元年(724年)大宰府と共に平城京の鎮守府として創建されました。天智2年(663年)朝鮮半島での白村江の戦いで大和政権と懇意にしていた百済が新羅と唐の連合軍に敗れ、さらに新羅はその後唐を退け高句麗を滅ぼし朝鮮を統一します。白村江の戦いに参戦していた中大兄皇子(後の天智天皇)は大化の改新を経て673年に天皇に即位。人民把握のため戸籍制度も導入します。大和政権はまだ国家というより地方自治程度の政府でしたので、早急に日本全体を天皇中心の律令国家として新羅からの侵略を防ごうとしました。
くたっぷりイチゴ🍓を堪能した後は「談山神社」に向かいました~談山神社(たんざんじんじゃ))【公式】談山神社|大和多武峰鎮座(tanzan.or.jp)多武峰(とうのみね;奈良県桜井市南部にある山及びその一帯にある寺社を示す)にある藤原鎌足公をお祀りしている神社です飛鳥・法興寺で行われた蹴鞠会において出会った中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が、藤の花の盛りの頃、本殿裏山で極秘の談合をした地と言われています後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼び
昨年2月談山神社(奈良県桜井市)に参拝しましたなかなかの階段を昇りますご神木の夫婦杉階段を昇りきった右手に社務所があります更に右手の建物が拝殿です靴を脱いで拝殿の中に入り、座ってお参りします本殿とても豪華で美しい建物ですご祭神は藤原(中臣)鎌足公です鎌足公は大化の改新で有名ですこの地で鎌足公と中大兄皇子は、蘇我入鹿を倒す計画を話し合ったとかその故事から「談い山」「談所が森」などと呼ばれるようになったそうですとても強いご神気を感じるので山岳系の神様ではないかなあと
【プロローグ】記・紀にはいろいろな形で殺害のシーンが描かれている。殺害する相手は、見方通しの勢力争いであったり、政敵であったり、敵対する相手だったり、であろう。いくつかのパターンに分かれており、最終的には殺害方法が、近畿の王朝、九州の王朝、出雲の王朝などと分けられると面白いのではないかとささやかな希望を描いている。神代にも、スサノオ命によるヤマタノオロチ退治、大国主神話の中での殺害未遂、神武東征、綏靖天皇の庶兄(当芸志美美命)殺害、日子国夫玖命の建波邇安王殺
お読みいただきありがとうございます。人生の彩どり師・関みゆ紀です。おわりははじまり-161「手出しも口出しもしないけど観てる-FFJTI7」の続きとなります。2022年令和4年寅年を基軸にして、ストーリーが進んでおります。過去(歴史)を掘り下げて、解決の糸口を見つけることが、未来のルートを確保することになります。「不親切にもほどがある時間旅行のツアー(日記)」です。略して、F(不親切にも)F(ほどがある)J(時間旅行の)T(ツアーは)I(いかが?)8の巻でございます。
お読みいただきありがとうございます。人生の彩どり師・関みゆ紀です。おわりははじまり-160「西の白虎とあおによし-FFJTI6」の続きとなります。2022年令和4年寅年を基軸にして、ストーリーが進んでおります。過去(歴史)を掘り下げて、解決の糸口を見つけることが、未来のルートを確保することになります。「不親切にもほどがある時間旅行のツアー(日記)」です。略して、F(不親切にも)F(ほどがある)J(時間旅行の)T(ツアーは)I(いかが?)7の巻でございます。【令和4年7
お読みいただきありがとうございます。人生の彩どり師・関みゆ紀です。おわりははじまり-159「おやまの横目がもう流れない-FFJTI5」の続きとなります。2022年令和4年寅年を基軸にして、今回は2024年と交差しながら、ストーリーが進んでいきます。「不親切にもほどがある時間旅行のツアー(日記)」です。略して、F(不親切にも)F(ほどがある)J(時間旅行の)T(ツアーは)I(いかが?)6の巻でございます。【令和4年7月1日,5日&6日】猫満福庵へ訪れた翌日の7月5日に
今日は2024年2月29日(木)です。昨日は読売テレビの情報番組「ニュースTEN」を見ました。その中の「若一調査隊」を見ました。今回は奈良の明日香村を訪れました。石舞台大化の改新の跡地飛鳥寺などを廻りました。僕も行った事が有ります。その時の記事を振り返って見ました。過去記事です。↓================僕も何度も明日香飛鳥に行きました。何度も記事にしていますがお初の方もいらっしゃいますからその中の一部
額田王をめぐる中大兄皇子、大海人皇子兄弟の関係が興味深い。社会科でも国語でもほとんど教科書にはのりませんが。
斉明天皇元年(655年)一月三日、皇極天皇が飛鳥板蓋宮にて再び即位されました(斉明天皇)。旧暦では本日は1月3日ですので1369年前の本日ということになります。※古来より何度も改暦がされていますので単純に旧暦にあてはめています。これは史上初の重祚ですが、重祚は後の孝謙天皇が称徳天皇として重祚された2例しかなく、両方とも女帝です。孝徳天皇が即位されたのは、乙巳の変の直後、皇極天皇が史上初の譲位をされたことによるものでした。これ以降光格天皇まで五十四例の譲位が行われています。(北朝は除
はい、こんにちは。藤原氏の祖と言えば中臣鎌足。中大兄王子(天智天皇)との出会いをきっかけに彼の子孫たちがスポットライトを浴びてゆく。(って認識でいいですよね。)この2人、どういう関係かもうちょっと詳しく知りたくてBingさんに訊いてみましてこんな回答をいただきました。**********藤原鎌足と中大兄皇子の関係についてお話ししましょう。**中大兄皇子**(なかのおおえのおうじ)は、飛鳥時代に活躍した人物で、後の天智天皇となりました。彼は大化の改新において政治を豪族中心か
斉明天皇が崩御した年に中大兄皇子が即位したくてもそのための条件に不備が生じていたという理由――それが女性天皇からの譲位という形式だったというのです。孝徳天皇は蘇我入鹿らの専横を許したという理由で退位した皇極天皇からの譲位という形で即位していたため、中大兄皇子は重祚した斉明天皇から譲位される必要がありました。しかし、天皇の死が急だったことから、その手続きを踏むことができなかったというのです。一方、668年に即位できたのは、最愛の女性とみられる実妹の間人皇女が亡くなり、その
こんばんは今日も大河ドラマの光る君へのお話をします今日ピックアップするのは2話大人になったまひろちゃんと三郎が再開するシーンですまひろちゃんが石を蹴り損ねて靴を飛ばしてしまい、こっそり散楽を見に来ていた三郎に当ててしまいました平安時代のお姫様像がガラガラ音を立てて崩れていく…いや気にしちゃダメこれはドラマ振り返った三郎は、靴を拾ってわざわざ履かせてくれましたシンデレラみたいだと思われた方も多かったようですまた、「ぶつけた相手が
伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定第36回漏刻43年前に、飛鳥寺と飛鳥川の間の北側にある水落遺跡で漏刻の跡が発見されました。日本書紀には、斉明天皇6年(西暦660)年に、皇太子の中大兄皇子が漏刻を作って人々に時を知らせたと書かれていますが、どこにあったのかは書かれておらず場所は不明でしたが偶然にも発掘中に見つかりました。漏刻は水槽を幾つも階段状に重ねて、そこから落ちる水の量で時間を測る装置で、当時としては外国から入って来た最新鋭の装置でした。通貨の鋳造がコケ