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【意外なスポット当てたキングダム】私は学生時代から歴史好き。特に春秋戦国時代から楚漢戦争、三国志に至る中国史は「史記」で読み漁った。始皇帝の生い立ちや権力と生への執着に何ともいえない気持ちになったがあの頃、キングダムのようなマニアな漫画がウケるなんて夢にも思わなかった。私は始皇帝の将軍では王翦が好きだが李信なんて楚との戦いにボロ負けした将軍としか認識なかったもんなぁ、、。
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燕の太子丹は、幼少期に、人質として、趙の邯鄲で、過ごし、嬴政の幼馴染であった。政が、秦王になると、丹は、秦の人質となり12年間、咸陽に住んだ。その頃、丹に対する、秦王政の扱いは、礼に欠けていた。丹は、政に対し、深い恨みを抱くようになった。秦と燕の間にあった、趙が滅ぶと、秦は、度々、燕を攻め、燕は、敗北を重ねたのである。太子丹は、秦王政の暗殺計画を企てて、刺客として、荊軻を選んだ。紀元前227年に、荊軻は、督亢の地図及び、秦の裏切り者の樊於期の首を携えて、秦王政への謁見に臨ん
紀元前234年、桓齮は、平陽に直行した。趙は、扈輒を将とし、平陽へ救援に向かわせ、秦軍と戦った。秦軍は、十万の趙兵を平陽の城外で斬首し、趙の将、扈輒を討ち取った。翌年、桓齮は、再度、出兵し、宜安・平陽・武城の3城を陥落させ、再度、趙軍を破り、その将を討ち取った。二つの戦いで、趙は、10万以上の兵を失ったのである。同年、桓齮は、秦軍を率いて、東の上党に進軍し、太行山を越えて、趙の深部に侵入し、趙軍に勝利すると、赤麗及び、宜安を占領した。李牧の率いる、趙軍とは、秦軍と宜安の付近
嫪毐は、所詮、巨根しか、取り柄が無く、権力の使い方を知らなかった。嫪毐の反乱は、即座に鎮圧され、嫪毐は、車裂きの刑で、誅殺された。嫪毐の2人の息子は、処刑され、太后は、幽閉された。嫪毐の反乱は、呂不韋に波及し、連座制では、処刑はずであったが、過去の功績を重んじた、秦王政により、相国の罷免及び、蟄居に減刑されたのである。しかし、呂不韋は、蟄居後の身でありながら、客との交流を止めず、諸国での名声は、高かった。そのため、政は、呂不韋が、客及び、諸国と謀って、反乱を起こすと危惧した。紀
秦の始皇帝、嬴政は、紀元前259年、趙の邯鄲で、生まれた。嬴政の父である、異人は、秦の昭襄王の太子、安国君の公子であったが、人質として、趙に送られていた。異人の父、安国君には、20人以上の息子がおり、異人が、秦の王位を継承する、可能性は、なかった。その異人に目を付けたのが、韓の裕福な商人の呂不韋であった。呂不韋は、「奇貨居くべし」とし、異人を支援して、秦の王位を継承させて、秦の宰相の地位を狙った。呂不韋は、安国君の継室であるが、太子となる、息子を産んでいなかった、華陽夫人に
春秋・戦国時代を終焉させ、史上初めて、中華世界を統一し、巨大な中央集権国家、大秦帝国の君主として、現代に至るまで、続く、中国を築いた、始まりの皇帝」人徳:95/統率力:99/決断力:100/政治力:97/行政力:100/軍事能力:85/武勇:80/知略:98/学識:86/天運:99=合計:939点「週刊ヤングジャンプ」誌上にて、2006年から、連載中の原泰久の漫画、『キングダム』。2012年には、アニメ化、2019年に実写映画化され、202
「中国の歴史(全7巻)」陳舜臣(講談社文庫)を読んでいます。まだ2巻を読んでいる途中なのですが、面白いです。著者である陳舜臣(1924年~2015年)さんは神戸在住の華僑の方。(華僑なんて言葉、今はほぼ死語ですね。「在日中国人」と呼ぶ機会がほとんどです)実は2回目です。確か高校時代(大学時代だったかな?)に、この全集版を親父が持っていまして、背伸びして読んだ記憶があります。当時はまだ改革開放前だったので、中国というとあまり情報が入らない時代でした(年取ったなぁ私も)。
今週の日曜日は市立図書館主催の講演会に行ってきました。講師は歴史小説家の塚本靑史です。会場にはおよそ100名程が集まっていてかなりの盛況でした。ただ講演内容が~故事成語でたどる中国史~ということもあり、参加者の殆どは50才以上でした。今借りている本は講師が執筆した歴史小説の司馬炎です。司馬炎は三国時代の末期に魏の皇帝から禅譲を受けて晋を建国した人物です。まだ読み終えていませんがまずは蜀が併合され、その後呉も滅んで三国時代が終焉する展開になるはずです。小説の中は司馬一族だらけで名前と間柄を覚える
中国三大名将というカテゴリは、もう様々人が議論を重ねてきました。ほぼ全ての方がふさわしい人物の一人として、キングダムにも出てくる可能性がある国士無双韓信を挙げるでしょう。私から見てもレベルは規格外。現代中国では彼ほど優れた軍略家はいない、という意味で、兵仙(へいせん)と称されています。麻雀の最強役である国士無双は韓信のことです。では、あと2人挙げるとしたら誰?本日はそんな議論を若者がしていたので近く聞いていました。なかなか面白かったです。その他、岳飛、李靖、衛
このPageは2008年2月に開始されたもので内容は随時更新されています。NDLサーチ;CiNii;Google;経済学草稿;著述目録;直近の配信医療用語;索引あいうえお順;索引ABC順;古本屋;NHKゴガク書庫を閉じる前に;証券市場論講義;財務管理論講義経済経営用語辞典;成語辞典(A-H);成語辞典(J-T);成語辞典(W-Z)中国経済学史;中国経済思想摘記;摘記目次;中国短編小説歌曲目録建国以前中国史;建国以後中国史;中日経済学用語辞典中国語の歌;FilmAnaly
今回はこういうお題でいきます。中国史を勉強する場合、もちろん大切な事項はたくさんあるんですが、自分はこの3つが特に重要と考えています。ちなみに日本は万世一系であったという建前で、神武天皇から始まって天皇家が一貫して支配していたとうことになっていますが、中国は違いますね。天命思想、易姓革命の考え方が浸透していました。王朝が交代するたびに、支配者の姓が変わるというものです。まず一つ目のキーワードは「外戚」です。読みは「がいせき」または「げしゅく」ですね。皇帝、王の母親または妃の一
NHK「100分de名著」何年か前「三国志」を取り上げていました。魏ー曹操呉ー孫権蜀ー劉備さて、誰を推すかで伊集院光さん安部みちこさん講師の方(すみませんお名前、忘れました)「私は絶対この人です!」と、三人三様バラバラの推し。お三方共「絶対譲れません!」のオーラがバキバキで面白かったです。中国史が専門の世界史の先生「“三国志”とは魏、呉、蜀の三国の話だが、いいか君たちここは“三国
中国史オタクを自認していますが、宮崎市定さんの本は初めて読みます。渋谷の古書店で見つけて衝動買いしました。京都大学名誉教授という固めの肩書ですが、歴史の本としては人物に焦点を当てているので読みやすいです。隋の文帝と煬帝の二代の皇帝を取り上げ、隋の滅亡はとかく煬帝ひとりの悪逆ぶりのせいにされがちですが、初代皇帝である文帝にも欠点が多々あったことが描かれています。隋という国号が、もともとの国名の随という字から、走ることを想起させる
桓公は、国境の変更に内心不満であったが、荘公に、見送りは、国境までが礼と告げて、溝を見せ、ここが、国境だから、見送りは、ここまでで、結構と告げて帰還した。荘公は、既に本来の国境を越えてしまった事を知り、慌てたが、桓公が、国境を変えてまで、自身の無礼を帳消しにしてくれた事に感謝したのである。紀元前675年、周の五人の大夫が、恵王に叛乱を起こすと、燕と衛の軍を招き寄せて、恵王を撃った。恵王は、温に逃れ、鄭の厲公は、櫟にて、恵王を迎えた。同年中に、恵王の叔父の弭叔頽が、周王に即位した
公氏小白は、斉公に即位し、後世、桓公と呼ばれる。桓公は、後々の禍根となり得る、公氏糾を討つべく、魯を攻めた。斉軍は、魯軍を窮地に追い込んだ。桓公は、魯に対して、兵の引き上げの代わりに、公子糾の始末と、その臣下の管仲及び、召忽の身柄引き渡しを求めた。公子糾の殺害こそ、戦争の目的であったためである。魯の荘公は、桓公の要請に応じ、公子糾を斬首し、管仲は、罪人として、斉に送られ、召忽は、身柄を拘束される前に自決した。魯の施伯は、斉の桓公が、管仲の殺害ではなく、身柄引き渡しを求め
中国史最後の狂気『纏足』とは~4歳で足を折られた少女たち(草の実堂)小さな足が美とされた時代画像:雲南省・元陽県の団山村で撮影された高齢女性たちの纏足Woller/CCBY-SA3.0DEかつて中国には、信じがたい美の基準があった。それが「纏足(てんそく)」である。女性の足を幼い頃から布で固く縛り、成長を抑えて小さく変形させることで、上品さや気品の象徴とされ...l.smartnews.com以前気になって読んだ本で中国の纒足で足がどんな形になるか知ったその本を読む前は
「キングダム第77巻」いやはや、ようやく77巻目にして、1国を滅ぼしたか。長かったが、このところのキングダムの面白さは過去最高かと。戦闘ではなく最も難しい統治に踏み込んでいるのが秀逸。素晴らしい。
紀元前698年12月、斉の釐公が、死去すると、太子の諸児が、斉の君主の座を継承した。斉の14代君主、襄公である。翌年、釐公は、公孫無知の俸禄と服飾を引き下げ、冷遇した。紀元前694年1月、斉の襄公と魯の桓公が、斉の川、濼水において、会合し、魯の桓公の夫妻が、斉を訪れた。襄公の妹の文姜は、斉にいた頃に、実の兄の襄公と密通していた。そのため、魯の桓公夫人となった、文姜は、斉を訪れると、兄の襄公と密通し、桓公に知られた。斉の襄公は、魯の桓公と酒を飲み、桓公が、酔っている間に公
管仲夷吾は、全くの出自不明の人物で、その父母の名さえ、わからない。その生年が、不明なため、紀元前645年に死去したが、享年は、知ることはできない。「管鮑の交わり」の管仲の親友の鮑叔は、姒姓の国、杞の公子の子孫で、斉に仕えて、鮑の地を与えられて、鮑氏を称した。杞の国は、小国であるが、夏王朝の末裔とされる。紀元前1046年頃に、武王によって、建国された、周王朝は、王族及び、名臣達を各地に封じることによって、封建国家を築いた。太公望は、武王を補佐し、牧野の戦いで、軍功を挙げて、斉
「管鮑の交わりによって、斉の宰相になり、桓公を春秋時代の最初の覇者とした、世界史上最高の名臣」人徳:97/統率力:94/決断力:93/政治力:100/行政力:100/軍事能力:94/武勇:75/知略:99/学識:100/天運:90=合計:942点中華世界の春秋時代、最初の覇者となった、斉の桓公。その桓公を補佐し、「覇者」へと押し上げたのが、名宰相の管仲である。斉は、太公望が、周の武王により、封じられた、国であり、桓公は、太公望から、数えて、
さて、こんにちは!今回は中国史解説第二回です!今回は春秋戦国時代と秦の中華統一をテーマに解説していきます!それではどうぞ!目次春秋戦国時代の始まりと戦国七雄秦の統一戦争春秋戦国時代の始まりと戦国七雄周が東周となった後、小国が乱立する状態となった。周もかなり勢力を弱め、秦・楚・斉・呉・越・晋がその中でも特に存在感を放っていた。南では呉と越が争っている。この争いの中で、呉王である闔閭が戦傷がもとで死去。闔閭の後を継いだ夫差は、この恨みを忘れぬように、薪の上で寝たという。そ
目次人類の誕生と中国文明長江文明黄河文明夏と殷(商)の成立夏の成立夏の滅亡と殷(商)の誕生殷の盛衰と周の成立目次を開くさて今回からは世界史!なのですが、まずは中国史、そして次に百年戦争そのあとはインド史→大英帝国史→再び日本史という形でさせていただきます!人類の誕生と中国文明中国には元謀原人や藍田原人、北京原人などが存在する。中国文明では、主に長江文明と黄河文明が有名である長江文明長江文明と黄河文明はどちらが先であるかについては詳しくは不明である。しかし、一般的
うちの子はまだ小1だけれど、うっすら中学受験を考えています。まだ明確に「やる!」と決めたわけではありません。今年から小学生になってつくづく思うんですが(そして何回か書いてますが)、公立の先生って指導要領にあることだけやってればよし!という気がします。あたった先生にもよるかもしれないですけどね。そこは運ですね。そして、いかなる子も取りこぼしのないように…ということで目標ラインがかなり低めに設定されている気がする。保育園時代にギフテッドの男の子がいたんですが、その子と遊んでるときはお絵描きは
糖尿病夫とパート妻ミカンの日常生活さんのプロフィールページhttps://profile.ameba.jp/me糖尿病夫は今回の西安からシルクロードの旅の準備に3年余りかけている…どう言う事かと申しますと…中国史に関連する著書を100冊以上読んでいたのです😊近くの市や県の図書館で借りて来て読んでいました!今読んでいるのは…旅行に行くまでには下巻まで読み終わるらしい〜ミカンは三国志と西遊記先日の敦煌だけ…西安からローマまでのシルクロード…他説では日本からイギリスロンドン
"学歴コンプ"って言葉があるらしいね。何て言うか,羨ましいコンプレックスだな笑。だってさ,克服可能じゃん。若い頃に勉強するだけで防げるんでしょ?いや,大人になってからだって,社会で"何者か"になってしまえば,別にどーでもいい話。それに比べて,低身長とかはそうはいかない。克服のしようがない。("ナポレオン・コンプレックス"って言葉も…)あ,僕は高身長なんで構わないんよ笑。そう言う人が可哀そうって話ね笑。まぁ,人間の欲望って際限がないときがあるからな。身長が18
こんにちはまずるかです^_^⬇︎こちらは7/16の(僕的な呼称の)「アリーナ中国史」(於:NHK文化センターさいたまアリーナ教室)を受講するために教室に入った時、正面のホワイトボードに事務職員の方が(番宣❓の様に)板書していたモノ^_^講義開始直前に事務職員の方から、NHK文化センターさいたまアリーナ教室の25周年を迎えるにあたり、岡田宏二先生から記念講演をしていただくことになったと案内がありました💁♀️いつもこの教室では最前列に座っている僕は隣の受講仲間、K子様(例の義理の姉です(ウ
その二年後、姫発は、再度、殷王朝打倒のために、挙兵した。そして、この挙兵こそ、殷王朝を滅亡させる、牧野の戦いに繋がるのである。当時、殷王朝の領土の東方において、叛乱が頻発していた。紂王は、東方の叛乱に対し、精鋭の兵を送っていた。姫発の挙兵は、精鋭の兵のいない、殷王朝の隙を突いたと考えられる。殷墟の南方、牧野の地には、周を盟主とする、八つの部族、「牧誓八国」が、集結した。殷王朝及び、牧誓八国の戦い、即ち、殷と周の最終決戦、牧野の戦いは、殷王朝の軍勢が、七十万に対し、牧誓八
殷王朝末期までの中国においては、周を含め、殷の周辺部族は、青銅器ではなく、陶器を使用していた。青銅器は、殷王朝期には、貴重品であり、鋳造には、貴重な金属原料、燃料、多くの労働力と高度な技術とを要したため、青銅器を所持できる者は、強大な権力を有する、支配者層に限られていた。即ち、殷王朝の支配層である。「鼎の軽重を問う」の成句が、示すように、青銅器は、権威の象徴であり、宗教的機能と共に青銅器の所持者の地位を象徴する、政治的・社会的役割をも担っていた。そして、無論、青銅器は、武器とし