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ついに皇后になった武后でしたが、王皇后を廃妃した武后は、いつ自分が二の舞を演じることになるかと不安でした。そこで、武后は、女性として守るべき道徳や礼儀をまとめた「女則」を発表しました。「女則」を発表したのは、2つの目的があります。一つ目の目的は、長孫皇后が発表した「女訓」に対抗し、長孫皇后と同等、あるいは、長孫皇后を超える威厳を示すため。二つ目の目的は、高宗に近づく女性を牽制するためです。武后が李賢を身ごもっていた時、高宗と姉・韓国夫人が深い仲になりましたね。「私
こんにちは徳王です。本日は中国史最難関分野のご紹介をします冒頭石勒は京都大学で出題があるなど色を変えているところは出題されていますがここまでまとめたノートはないかと思われますので、このブログに辿り着いた方はすべてここで押さえていただきましたらうれしいです!!北方民族の隆盛五胡の活動(五胡十六国時代)背景:匈奴分裂後、辺境地域の覇権争いが起こる北方民族が華北に移住し、後漢などの傭兵として活動中国内部の政治的混乱に乗じ、北方民族が華北で自立①匈奴:漢(劉淵)
前述の通り、始皇帝は、紀元前212年、蒙恬に命じて、30万の軍勢により、北方遊牧民の匈奴を討伐させた。匈奴征伐の一つの要因は、『録図書』の「秦を滅ぼす者は胡」であるとの予言を信じたためである。「胡」は、中華の人々にとって、北方の遊牧民を意味した。しかし、「胡」の予言は、別の形で、実現し、秦は、「胡」によって、滅びた。始皇帝の息子は、二十数人いたが、長子は、仁愛の人格と聡明さで知られる、扶蘇である。歴史書には、扶蘇の母については、全く、触れられておらず、不明のままである。
636年、太宗は最愛の妻・長孫皇后を亡くしました。長孫皇后が太宗に嫁いだのは、613年。長孫皇后が13歳の時でした。13歳で結婚だなんて、現代では考えられませんが、当時の初婚平均年齢は15歳。中には、13歳で結婚する女性もいて、長孫皇后もその類でした。ちなみに、余談ですが、日本の法律では、男性が18歳以上、女性が16歳以上で結婚できると定められています。では、中国はというと、男性が22歳以上、女性が20歳以上と定められています。(いずれも、2020年9月時点)
【キングダム】穆公(ぼくこう)はまれにみる名君だったのか?歴史の中の秦の穆公歴史関係の本を読むのが好きです。漫画でもキングダムを愛読しています。最近読んだ「人物中国の歴史Ⅰ大黄河の夜明け」(集英社)で、秦の穆公がでてきました。そうです。キングダムで、山の民と友好関係を築いて、秦の勢力圏を西側に大きく拡大し、秦王・政(のちの始皇帝)をして、「穆公はまれにみる名君だった」と言わしめた秦の君主です。以下が
(出典;http://www.chinfor.com/modules/webdoc1/content0073.html)琵琶を抱え、馬に乗る女性。絵画において、そんな姿で描かれるのは、古代中国は漢代の美女王昭君である。彼女は漢の宮廷につかえる宮女だったが、絵師に賄賂を贈らなかったために似顔絵を醜く描かれてしまう。さらにその似顔絵が原因になって異民族匈奴の王に嫁がされることになった「悲劇」の女性である。現代に例えるなら、丸の内の大企業のオフィスで働いていた女性が、アフリカかどこ
中国現代文学珠玉選小説〈3〉Amazon近現代における中国人作家の短編小説選。張愛玲、丁玲、蕭紅といった有名どころから、羅淑や梅娘など、日本ではあまり名前を聞かない作家も取り上げられている。清末以降、近代的な教育制度が整ってきたこともあって、女性も学校で学び、進んだ思想を身につけ始めた。しかし、社会の方ではまだまだ「女性はこうあるべき」という旧習が根強く残っていた。孝行の強制、本人の意思に関係なく親の決めた相手と結婚させる、女性は学問をすべきではない、などなど…。進歩的な女性
武則天には、薛懐義や沈南璆という愛人がいましたね。『愛人・薛懐義』千金公主に紹介された馮小宝の虜になった武太后。でも、馮小宝は武太后と孫ほど年齢が離れています。武太后は周囲の目が気になりました。そこで、武太后はひとまず…ameblo.jpでも、武則天は調子に乗っていた薛懐義を、自らの手で殺害してしまいました。『愛人・薛懐義の最期』明堂が完成し、武則天が皇帝の座に就くサポートをした薛懐義。薛懐義は坊主にも関わらず、総大管に任命されて、吐蕃や突厥と戦っていましたね。