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今回は「PixAI」で上杉謙信と武田信玄のイラストを作成しました。
直江津駅から程近く、一見ありふれた児童公園のようにも思えるこの場所ですが、ここは越後の戦国時代を語るには欠かせない場所の一つです。関東管領・上杉憲政は北条氏康に敗れ、1552年に長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後にやってきました。謙信が、この地に憲政の館として造営したのが御館(おたて)です。謙信はここを政庁として使用しました。御館は越後府中の中心であり、付近には越後国分寺や越後一の宮・居多神社などがありました。案内看板を見ると、今ある御館公園は敷地のごく一部に過ぎず、往時は複数
越後上越上杉おもてなし武将隊上杉謙信公、2025年8月22日(土)第101回謙信公祭上杉謙信公役、16:30~出陣行列、そして、17:50~川中島合戦の再現、どうかご武運を。この方のを勇姿を、多くの方に是非ともご覧頂ければと存じます。本日は前夜祭、良い3日間でありますように。(*^_^*)画像の記事はこちら。2026年4月25日(土)に、春日山神社境内
川中島の戦い㉓「輝虎の後備あまかす近江守、雑兵ともに千の備えを少しもちらさず、敵味方の勝負にも構わず、越後勢総人数のくずれける道を、殊に静々と通り、退くこと廿町ばかり也。是を謙信とみる者おおし。」(「甲陽軍鑑」)政虎は三々五々敗走してくる上杉兵を収容しながら、いち早く犀川を西進して市村渡しに着いた。その行軍を守ったのが甘粕隊である。甘粕隊は十二ケ瀬で奇襲部隊を抑えた後、武田勢を深追いせず上杉本隊の殿として、後の北国街道を東進した。甘粕隊1500余名は
高崎で一泊した豆子一家今回の目的は新潟なので、早朝から新潟に向けて出発高崎ではラスクを、食べて観音様を見てからホテルへ新潟は、まずは魚沼魚沼醸造へ行く前に猛ダッシュで塩沢宿へ早朝で、お店も開いてなくて、人もいなかったでもなんだか雰囲気がとても良かったですそして、猛ダッシュで魚沼醸造へ。工場見学と石鹸作りを予約してました正直魚沼酒造と魚沼醸造が混乱していたのですが、魚沼醸造はマルコメグループの麹の会社です。工場は新しくてとてもキレイでした。工場見学も大きなスクリーン
大変遅くなりましたが、越後上越上杉おもてなし武将隊の皆様が、15周年を迎えられたこと、新メンバー沙夜さん加入、河田長親(かわだながちか)様初演武、そして、上杉謙信公、2026年8月22日(土)、新潟県上越市第101回謙信公祭上杉謙信公役、まことにおめでとうございます!!o(*^^*)o╲(^_^)/特に、謙信公祭での謙信公としてのご出陣、念願叶って、とても嬉しく存じ
川中島の戦い㉒「荒川伊豆守馳来り、信玄と見すまし、三太刀まで討共不徹、信玄太刀ぬき合する間もなく、団扇を以て受け発つす。已に危うかりし処に、従兵原大隅守と云う者、鎗さしのはし進出る。伊豆守か馬を丁と打ては馬驚き飛内に信玄忽ち運開く。」(「上杉年譜」)実は、上杉方の史料では、信玄に斬りつけたのは荒川伊豆守であると書いている。どうやら政虎自身ではないようだ。「この度信州表において信玄と一戦を遂げ、大勝利えられ、八千騎討ち捕られたとのこと、お喜び申し上げます。
川中島の戦い㉑「萌黄の胴肩衣きたる武者、白手巾にてつぶりをつつみ、月毛の馬に乗り、三尺斗の刀を抜き持て、信玄公の床机の上に御座候所へ、一文字に乗りよせ、きっさきはずしに、三刀伐奉る。信玄公たって、軍配団扇にてうけなさる。後みれば、うちわに八刀瑕あり。」(「甲陽軍鑑」)「萌黄色の胴肩衣を身にまとい、白い頭巾の武者が、月毛の馬に乗り、三尺ほどの太刀を抜き払って、床机に座った信玄のもとに、一直線に乗り寄せ、刃先をかすめながら三度斬りかかった。信玄は立ち上がり、軍配団扇
川中島の戦い⑳典厩信繁の部隊が壊滅すると、前備中央の飯富隊が後退し本陣を守った。前備右の内藤・諸角隊も本陣を守るため、東に移動している。これにより内藤・諸角隊は正面攻撃に加え、政虎本陣からも攻撃を受けることになった。「今は是までと思いければ、自身槍を追取って戦うに、多くの深手をこうむり、終に討死をしたりけり。」(「三代軍記」)諸角虎光は高齢(81歳)な武将であった。典厩信繁の死を知って大層悔しがり、「我もお供いたす。」というと、自ら槍を手にして敵中に飛び込ん
夏休み、子どもたちと新潟へ旅行に行ってきました。今回の目的地は、春日山。……と言われても、歴史に疎い私は、「なんの山なの?」くらいのところからスタートです(笑)。でも、お兄ちゃんにとってはずっと行きたかった場所。上杉謙信が大好きで、以前はハロウィンに上杉謙信の仮装を自分たちで作ったこともありました。今回の夏休みの読書感想文でも、上杉謙信について一生懸命書いています。そんなに好きなら、一度くらい本物を見に行ってみよう。そうして始まった新潟旅行でした。念願の春日山へ到着すると
東京有楽町に、小さな映画館があって、しばらく前から角川映画祭をやってました。観に行ったのは、『天と地と』という上杉謙信と武田信玄の、戦国時代を描いた時代劇である。平成2年の映画なので、私は高3くらいかな(笑)50年以上生きてきて、戦国時代劇の映画を、お金払って観たのは始めてである。なんでわざわざ観に行ったのかって、そりゃ小室哲哉様(てっちゃん)が音楽担当だったからよ(笑)最近、バカみたいにてっちゃんのソロ曲を聞いているんだけど、ほんといいわ、サントラの「天と地と」♡そもそも私、高
曹洞宗林泉寺は、城趾から程近い春日山の麓にあります。上杉謙信の祖父である越後守護代長尾能景が、その父重景創建の林泉寺を1487年に再創建しました。謙信は幼少の頃以来、この寺で学問を学んでいます。また、戦を繰り返す間にこの寺を訪れ、禅の「第一義」を悟って法を嗣ぎ、第8代・益翁宗謙(やくおうしゅうけん)の師名の一部を授けられ、「謙信」と称するようになりました。この惣門は、伝承では春日山城の搦手門を移築したものとされています。だとすると唯一残る春日山城の建築物ということになるんでしょう。
川中島の戦い⑲〇第四次川中島の戦い⑬~永禄4年(1561年)さて、妻女山奇襲部隊は、険しい山道を越えているうちに、とうとう夜が明けてきたのであった。これでは定刻である卯の刻(午前6時)にはとても間に合いそうもなかった。「この霧が晴れぬ間に攻め懸からねば、奇襲の意味がない。」と考え、ぎりぎりまで待っても到着できぬものは、捨て置くことにしたのである。半刻近く過ぎ、奇襲部隊は喊声を上げて上杉軍の陣営に雪崩れ込んだが、そこにあったのは、紙で出来た偽幟
川中島の戦い⑱「浦野見て帰、御前に畏、輝虎は、のき候と申上る。信玄公積のよき大将故、被仰は、謙信程の者が、よひより川をこし、そこにて夜をあかす程にて、むなしく引とるべきか、但しきやはいかんととひ給ふ。」(「甲陽軍鑑」)「浦野が偵察して戻り、信玄公の御前で恐れかしこまりながら、『上杉輝虎は退却いたしました。』と申し上げた。信玄公は優れた大将なのでこれに納得せず、こういった。『謙信ほどの優れた者が、宵から千曲川を渡り、そこでわざわざ夜を明かしておきながら、そのま
川中島の戦い⑰武田本軍は「十日寅の刻(午前4時)」に海津城を出たといわれる。先鋒は飯富昌景である。武田軍は既に斥候を放ち、八幡原の探索を終えていた。春日山から後詰が来ている可能性もあったからである。昌景は用心深く広瀬渡を渡ると、神明(八幡社辺り)付近に西面して陣を布いた。この辺りはまだ暗く、既に川霧が立ち込めていた。昌景に続き、前備右の内藤修理亮昌豊、諸角豊後虎光が田中(八幡社の北西)付近に、左の武田典厩信繁、穴山伊豆守信友が水沢(典厩寺辺り)に陣取
僕のクラスには、戦国武将と同じ名前の生徒がいる。武田真言。彼はいつも真剣だ。上杉憲伸。彼は献身的な性格だ。彼らはいつも喧嘩をしている。先生が仲裁に入っても、仲直りしようとしない。やがて卒業を迎えた。彼らは別々の大学に進学していった。三年後、同窓会が開かれたが、彼らは欠席した。【ふるさと納税】【令和8年熊本地震被害支援緊急寄附受付】熊本県災害応援寄附金(返礼品はありません)楽天市場【ふるさと納税】熊本県熊
お盆すね(^_^;)飲んだくれてますよ!ウオロクの惣菜コーナーもオードブルとか焼鳥盛合せばっかでね!ちょっとでいいんだよ!お一人様なんだしけ!まぁかきいれ時だすけの人権ねーすわあっ!ジャンボだめでしたくっそ!まぁ次だ次!高額当選者って毎回買ってる人だって話し聞いたことあるしけの。(当たるまで買い続けるんかい!)あっ!来週、上越の夏の最後の祭りがあります今年は凄いっすよ!なんてったって上杉謙信役=上杉謙信ですからね!激熱!★4.5
「上杉謙信と武田信玄の一騎打ちは知っている。でも、合戦が始まるまでの流れはよく分からない」そんな方も多いのではないでしょうか。有名な決戦にも、最初の一歩があります。今日8月14日は、謙信が約1万3,000人を率いて春日山城を出たとされる日です。大軍を動かす準備と、出陣を決めた理由を知ると、川中島の戦いがもっと立体的に見えてきます。1561年8月14日、謙信が春日山城を出陣永禄4年(1561年)8月14日。上杉政虎、のちの上杉謙信は、越後の春日山城から信濃へ向かったとされます
川中島の戦い⑯〇第四次川中島の戦い⑪~永禄4年(1561年)9月9日夜半、政虎は妻女山を下る。とこがこの時刻が史書によって違うのである。「激戦川中島:武田信玄最大の戦闘」(一ノ瀬義法:著)によると次のとおりである。亥の上刻(午後9時ごろ)「三代記」亥の中刻(午後10時ごろ)「北越軍談」亥の刻末(午後11時ごろ)「甲陽軍鑑」丑の中刻(午前2時ごろ)「信戦録」寅の刻(午前3~5時)「上杉年譜」上杉軍と武田
川中島の戦い⑮〇第四次川中島の戦い⑩~永禄4年(1561年)前述の通り、政虎は海津城の「気」を見ていた。この「気」とは何であるか、凡人には伺い知れない。この日も妻女山の山頂で海津城の様子を眺めていたのである。「したためのじんぎを西条山において謙信見給ふ。」(「甲陽軍鑑」)「したため」とは「整理」することであり、「じんぎ」とは「人気」で、「人の気配」をいうらしい。つまり「妻女山で政虎は、何かを整える気配を感じた。」というのである。「煙気立登るを
川中島の戦い⑭〇第四次川中島の戦い⑨~永禄4年(1561年)軍奉行・直江実綱のもとに主だった武将が集まっていた。「御屋形様から、今夜山を下りるべし、とのご命令があった。翌朝、川霧が発生するため、濃霧の中を善光寺まで進む。まず警戒すべきは、下山、帰国を敵に悟られることである。雨宮の渡しから八幡原までの甲州側の忍びを、この夜までに一掃しなければならない。また敵の待ち伏せを受ける恐れがあるので、先陣は柿崎和泉守殿とされたい。また退戦ならば、敵の追撃
飯山城(飯山市)+おまけ元は泉氏ら地元豪族の城。上杉謙信が武田信玄に備える城として改修、その後武田勝頼の時代に武田氏の城となった。武田勝頼は甲州征伐(1582)にて織田信長にぶっ飛ばされ、飯山には人間無骨の十文字槍で有名な森長可が入った。が、信長も本能寺の変ですぐぶっ飛ばされたので上杉家臣・岩井信能の城となった。そして上杉景勝も会津に移封された為、関氏が入るが、1年で美濃国(岐阜県)多良に移封となる。1603年、我らが偉大なる☆皆川広照☆が松平忠輝(徳川家康6男)の傅役として入る
稲垣浩監督による日本の時代劇映画。出演は三船敏郎、佐久間良子、中村錦之助。<あらすじ>軍師を志しながら士官の先がなかった山本勘助は、甲斐の武田家へのお目通りが許され、軍学の知識を披露してみせた。当主の武田晴信を始め家臣団は彼を評価しなかったが、板垣信方の推挙であったことから武田家への参加を認められる。初陣となった諏訪攻めで当主の諏訪頼茂の暗殺に成功した勘助は、次第に家中で認められ、信濃攻略戦にも参陣することになった。しかしこの戦いが長引く。信濃勢は上杉謙信を頼り戦場を
台風15号…心配ですね…😣まさかの日本上陸横断???世の中帰省ラッシュのお盆の時期なのに……💦大きな災害になりませんように…😭無事に皆お墓参りが出来ますように…😖ちゃんとおうちに帰れますように…😣関東や東海は直撃ですね…😣上越方面も影響ありそうです😢ちょっとそんな上越市まで…実はお買い物w👛してきました😅今日は程よく暑くとても天気が良かったです☀ついでにちと探索〜😁超久々に直江津駅前を通りました🚙前は申し訳ないけど…鄙びた感じ(ごめんなさい🙏)でしたがなんかス
川中島の戦い⑬さて、一般的に山本勘助は「足軽大将」とされる。この時代の足軽は、職業兵士で、「弓」「鉄砲」「長槍」等の専門職で構成されていた。足軽大将は概ね100~150人を束ねる部隊長である。足軽大将の下には小頭(組頭)と呼ばれる現場の指揮官がいて、弓足軽・鉄砲足軽・長槍足軽などを率いていた。これに対して「侍大将」は、300~800人規模の大将で、数名の足軽大将を指揮していた。平時では「家老」と呼ばれる存在で、一族衆や家格高い譜代の家臣が就任した。
川中島の戦い⑫「二万の御人数を一万二千、謙信の陣取り西条山へ仕懸け、明日卯刻(午前6時頃)に合戦を始め、越後勢、負けても勝候ても、川を超、退申べく候間、そこにて御旗本組二の備え衆をもって跡先より押はさみ、討ち取るようになさるべく候。」(「甲陽軍鑑」)さて、問題の箇所である。ここはよく吟味してみよう。「甲陽軍鑑」では妻女山奇襲部隊を1万2千、旗本二の備えで8千と記している。(2万-1万2千=8千)私は、昔から本隊より奇襲部隊の人数が多いことに納得がいかなか
8月9日は長崎原爆の日。今から81年前の今日。1発の爆弾により7万4千人もの尊い命が失われた心より哀悼の意を表すとともに原爆被害者の思い、平和への思いを忘れずにしていきたい信濃国の城攻め2日目8月2日(日)5:35起床昨晩は21:30に横になったもののなかなかなかなか‥寝付けず。。。。多分落ちているんだろうけどすぐに目が覚めちゃう感じかな??0時か1時頃ようやく
上杉謙信さんに春日山城に登ってみた
川中島の戦い⑪信玄には多くの隠密組織があった。その中でも有名なものは、望月千代女が育て上げた「歩き巫女」といわれる集団である。身寄りのない娘を育て「巫女」や「旅芸人」として全国を祈祷しながら歩いた。そこで見聞きしたものを甲府に送り届けたのである。また、山本勘助が組織したといわれる「三ツ者」も有名で、敵国に侵入し、情報収集し、時には流言飛語を流したり、調略を仕掛けたりしていた。さらに「素破」と呼ばれる甲州忍者もいた。勘助とは時代が異なるが、甲州忍者の頭領と
川中島の戦い⑩〇第四次川中島の戦い⑥~永禄4年(1561年)「かくて信玄公、五日それに御馬を立られ、六日目、廿九日に広瀬の渡をかかり、かいつの城へ引入給へども、謙信家老の異見もきかず、西条山にいつものごとくいらるる。」(「甲陽軍鑑」)「こうして信玄公は、川中島に到着して、6日目にあたる29日に広瀬渡を渡って、海津城へと入城された。一方、謙信は家老たちの反対意見にも耳を貸さず、妻女山にいつものように陣を構えた。」信玄は諸将の反対を押し切って、5日目