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川中島の戦い㉑「萌黄の胴肩衣きたる武者、白手巾にてつぶりをつつみ、月毛の馬に乗り、三尺斗の刀を抜き持て、信玄公の床机の上に御座候所へ、一文字に乗りよせ、きっさきはずしに、三刀伐奉る。信玄公たって、軍配団扇にてうけなさる。後みれば、うちわに八刀瑕あり。」(「甲陽軍鑑」)「萌黄色の胴肩衣を身にまとい、白い頭巾の武者が、月毛の馬に乗り、三尺ほどの太刀を抜き払って、床机に座った信玄のもとに、一直線に乗り寄せ、刃先をかすめながら三度斬りかかった。信玄は立ち上がり、軍配団扇
川中島の戦い⑳典厩信繁の部隊が壊滅すると、前備中央の飯富隊が後退し本陣を守った。前備右の内藤・諸角隊も本陣を守るため、東に移動している。これにより内藤・諸角隊は正面攻撃に加え、政虎本陣からも攻撃を受けることになった。「今は是までと思いければ、自身槍を追取って戦うに、多くの深手をこうむり、終に討死をしたりけり。」(「三代軍記」)諸角虎光は高齢(81歳)な武将であった。典厩信繁の死を知って大層悔しがり、「我もお供いたす。」というと、自ら槍を手にして敵中に飛び込ん
夏休み、子どもたちと新潟へ旅行に行ってきました。今回の目的地は、春日山。……と言われても、歴史に疎い私は、「なんの山なの?」くらいのところからスタートです(笑)。でも、お兄ちゃんにとってはずっと行きたかった場所。上杉謙信が大好きで、以前はハロウィンに上杉謙信の仮装を自分たちで作ったこともありました。今回の夏休みの読書感想文でも、上杉謙信について一生懸命書いています。そんなに好きなら、一度くらい本物を見に行ってみよう。そうして始まった新潟旅行でした。念願の春日山へ到着すると
水堀のある城跡『米沢城址』戦国時代に想いを馳せる『松が岬公園』戦国最強の武将と語り継がれている上杉謙信や、「成せばなる成さねばならぬ何事も」の言葉で知られる上杉鷹山など、上杉家の史跡が点在する場所です。日本一貧乏な米沢藩を立て直した上杉鷹山米沢藩は、江戸時代中期から後期にかけて、貧しさや凶作・飢饉のために、絶望した領民が次々に藩を逃げ出す状況にあったそうです。日本一の貧乏な藩を、養子の若い藩主・上杉鷹山(
東京有楽町に、小さな映画館があって、しばらく前から角川映画祭をやってました。観に行ったのは、『天と地と』という上杉謙信と武田信玄の、戦国時代を描いた時代劇である。平成2年の映画なので、私は高3くらいかな(笑)50年以上生きてきて、戦国時代劇の映画を、お金払って観たのは始めてである。なんでわざわざ観に行ったのかって、そりゃ小室哲哉様(てっちゃん)が音楽担当だったからよ(笑)最近、バカみたいにてっちゃんのソロ曲を聞いているんだけど、ほんといいわ、サントラの「天と地と」♡そもそも私、高
曹洞宗林泉寺は、城趾から程近い春日山の麓にあります。上杉謙信の祖父である越後守護代長尾能景が、その父重景創建の林泉寺を1487年に再創建しました。謙信は幼少の頃以来、この寺で学問を学んでいます。また、戦を繰り返す間にこの寺を訪れ、禅の「第一義」を悟って法を嗣ぎ、第8代・益翁宗謙(やくおうしゅうけん)の師名の一部を授けられ、「謙信」と称するようになりました。この惣門は、伝承では春日山城の搦手門を移築したものとされています。だとすると唯一残る春日山城の建築物ということになるんでしょう。
戦国最強の武将と語り継がれている上杉謙信その謙信公を主祭神として祀る上杉神社上杉神社の境内には、春日神社と福徳稲荷神社の2つの末社があります。春日神社は静かで落ち着いた雰囲気、福徳稲荷神社は朱色の鳥居が特徴的で静かな佇まい。末社ながらいずれも上杉神社より古い由緒を持っているそうです。明治9年に上杉謙信と上杉鷹山を祭神として、米沢城本丸跡に建立されたそうです。明治35年に別格官幣社に指定され、このとき祭神は謙信のみとなり、鷹山は
川中島の戦い⑲〇第四次川中島の戦い⑬~永禄4年(1561年)さて、妻女山奇襲部隊は、険しい山道を越えているうちに、とうとう夜が明けてきたのであった。これでは定刻である卯の刻(午前6時)にはとても間に合いそうもなかった。「この霧が晴れぬ間に攻め懸からねば、奇襲の意味がない。」と考え、ぎりぎりまで待っても到着できぬものは、捨て置くことにしたのである。半刻近く過ぎ、奇襲部隊は喊声を上げて上杉軍の陣営に雪崩れ込んだが、そこにあったのは、紙で出来た偽幟
川中島の戦い⑱「浦野見て帰、御前に畏、輝虎は、のき候と申上る。信玄公積のよき大将故、被仰は、謙信程の者が、よひより川をこし、そこにて夜をあかす程にて、むなしく引とるべきか、但しきやはいかんととひ給ふ。」(「甲陽軍鑑」)「浦野が偵察して戻り、信玄公の御前で恐れかしこまりながら、『上杉輝虎は退却いたしました。』と申し上げた。信玄公は優れた大将なのでこれに納得せず、こういった。『謙信ほどの優れた者が、宵から千曲川を渡り、そこでわざわざ夜を明かしておきながら、そのま
『上杉鷹山公』を祀る『松岬神社』松岬神社は、当初上杉神社に上杉謙信と共に祀られていた上杉鷹山を分祀して明治35年に創建されまたそうです。大正元年造営の社殿は、大正8年の米沢大火での焼失を免れたため、焼失して大正12年に伊東忠太の設計で再建された上杉神社の御本社殿等よりも古いものだそうで、大正12年には上杉景勝や直江兼続、鷹山の師の細井平洲等も祀られるようになりました。御祭神が上杉治憲(鷹山)で、配祀は上杉景勝、直江兼続、細井徳民、竹俣当綱、莅戸
川中島の戦い⑰武田本軍は「十日寅の刻(午前4時)」に海津城を出たといわれる。先鋒は飯富昌景である。武田軍は既に斥候を放ち、八幡原の探索を終えていた。春日山から後詰が来ている可能性もあったからである。昌景は用心深く広瀬渡を渡ると、神明(八幡社辺り)付近に西面して陣を布いた。この辺りはまだ暗く、既に川霧が立ち込めていた。昌景に続き、前備右の内藤修理亮昌豊、諸角豊後虎光が田中(八幡社の北西)付近に、左の武田典厩信繁、穴山伊豆守信友が水沢(典厩寺辺り)に陣取
山形県米沢市にある『春日神社』この神社は、上杉謙信公が奈良の春日大社から分霊し創建した社です。越後春日山城から会津、米沢と上杉家とともに移され現在に至っています。上杉氏は、藤原鎌足以来の系譜をひく、公家の勧修寺(かじゅうじ)流藤原氏の出身です。春日神社は、上杉氏の本姓である藤原氏の守り神とされます。米沢では春日山林泉寺の境内や城下を何度も移動し、更には大正8年の米沢大火で焼失するなど数奇な運命を辿って来たそう
僕のクラスには、戦国武将と同じ名前の生徒がいる。武田真言。彼はいつも真剣だ。上杉憲伸。彼は献身的な性格だ。彼らはいつも喧嘩をしている。先生が仲裁に入っても、仲直りしようとしない。やがて卒業を迎えた。彼らは別々の大学に進学していった。三年後、同窓会が開かれたが、彼らは欠席した。【ふるさと納税】【令和8年熊本地震被害支援緊急寄附受付】熊本県災害応援寄附金(返礼品はありません)楽天市場【ふるさと納税】熊本県熊
お盆すね(^_^;)飲んだくれてますよ!ウオロクの惣菜コーナーもオードブルとか焼鳥盛合せばっかでね!ちょっとでいいんだよ!お一人様なんだしけ!まぁかきいれ時だすけの人権ねーすわあっ!ジャンボだめでしたくっそ!まぁ次だ次!高額当選者って毎回買ってる人だって話し聞いたことあるしけの。(当たるまで買い続けるんかい!)あっ!来週、上越の夏の最後の祭りがあります今年は凄いっすよ!なんてったって上杉謙信役=上杉謙信ですからね!激熱!★4.5
「上杉謙信と武田信玄の一騎打ちは知っている。でも、合戦が始まるまでの流れはよく分からない」そんな方も多いのではないでしょうか。有名な決戦にも、最初の一歩があります。今日8月14日は、謙信が約1万3,000人を率いて春日山城を出たとされる日です。大軍を動かす準備と、出陣を決めた理由を知ると、川中島の戦いがもっと立体的に見えてきます。1561年8月14日、謙信が春日山城を出陣永禄4年(1561年)8月14日。上杉政虎、のちの上杉謙信は、越後の春日山城から信濃へ向かったとされます
川中島の戦い⑯〇第四次川中島の戦い⑪~永禄4年(1561年)9月9日夜半、政虎は妻女山を下る。とこがこの時刻が史書によって違うのである。「激戦川中島:武田信玄最大の戦闘」(一ノ瀬義法:著)によると次のとおりである。亥の上刻(午後9時ごろ)「三代記」亥の中刻(午後10時ごろ)「北越軍談」亥の刻末(午後11時ごろ)「甲陽軍鑑」丑の中刻(午前2時ごろ)「信戦録」寅の刻(午前3~5時)「上杉年譜」上杉軍と武田
川中島の戦い⑮〇第四次川中島の戦い⑩~永禄4年(1561年)前述の通り、政虎は海津城の「気」を見ていた。この「気」とは何であるか、凡人には伺い知れない。この日も妻女山の山頂で海津城の様子を眺めていたのである。「したためのじんぎを西条山において謙信見給ふ。」(「甲陽軍鑑」)「したため」とは「整理」することであり、「じんぎ」とは「人気」で、「人の気配」をいうらしい。つまり「妻女山で政虎は、何かを整える気配を感じた。」というのである。「煙気立登るを
川中島の戦い⑭〇第四次川中島の戦い⑨~永禄4年(1561年)軍奉行・直江実綱のもとに主だった武将が集まっていた。「御屋形様から、今夜山を下りるべし、とのご命令があった。翌朝、川霧が発生するため、濃霧の中を善光寺まで進む。まず警戒すべきは、下山、帰国を敵に悟られることである。雨宮の渡しから八幡原までの甲州側の忍びを、この夜までに一掃しなければならない。また敵の待ち伏せを受ける恐れがあるので、先陣は柿崎和泉守殿とされたい。また退戦ならば、敵の追撃
飯山城(飯山市)+おまけ元は泉氏ら地元豪族の城。上杉謙信が武田信玄に備える城として改修、その後武田勝頼の時代に武田氏の城となった。武田勝頼は甲州征伐(1582)にて織田信長にぶっ飛ばされ、飯山には人間無骨の十文字槍で有名な森長可が入った。が、信長も本能寺の変ですぐぶっ飛ばされたので上杉家臣・岩井信能の城となった。そして上杉景勝も会津に移封された為、関氏が入るが、1年で美濃国(岐阜県)多良に移封となる。1603年、我らが偉大なる☆皆川広照☆が松平忠輝(徳川家康6男)の傅役として入る
稲垣浩監督による日本の時代劇映画。出演は三船敏郎、佐久間良子、中村錦之助。<あらすじ>軍師を志しながら士官の先がなかった山本勘助は、甲斐の武田家へのお目通りが許され、軍学の知識を披露してみせた。当主の武田晴信を始め家臣団は彼を評価しなかったが、板垣信方の推挙であったことから武田家への参加を認められる。初陣となった諏訪攻めで当主の諏訪頼茂の暗殺に成功した勘助は、次第に家中で認められ、信濃攻略戦にも参陣することになった。しかしこの戦いが長引く。信濃勢は上杉謙信を頼り戦場を
台風15号…心配ですね…😣まさかの日本上陸横断???世の中帰省ラッシュのお盆の時期なのに……💦大きな災害になりませんように…😭無事に皆お墓参りが出来ますように…😖ちゃんとおうちに帰れますように…😣関東や東海は直撃ですね…😣上越方面も影響ありそうです😢ちょっとそんな上越市まで…実はお買い物w👛してきました😅今日は程よく暑くとても天気が良かったです☀ついでにちと探索〜😁超久々に直江津駅前を通りました🚙前は申し訳ないけど…鄙びた感じ(ごめんなさい🙏)でしたがなんかス
川中島の戦い⑬さて、一般的に山本勘助は「足軽大将」とされる。この時代の足軽は、職業兵士で、「弓」「鉄砲」「長槍」等の専門職で構成されていた。足軽大将は概ね100~150人を束ねる部隊長である。足軽大将の下には小頭(組頭)と呼ばれる現場の指揮官がいて、弓足軽・鉄砲足軽・長槍足軽などを率いていた。これに対して「侍大将」は、300~800人規模の大将で、数名の足軽大将を指揮していた。平時では「家老」と呼ばれる存在で、一族衆や家格高い譜代の家臣が就任した。
川中島の戦い⑫「二万の御人数を一万二千、謙信の陣取り西条山へ仕懸け、明日卯刻(午前6時頃)に合戦を始め、越後勢、負けても勝候ても、川を超、退申べく候間、そこにて御旗本組二の備え衆をもって跡先より押はさみ、討ち取るようになさるべく候。」(「甲陽軍鑑」)さて、問題の箇所である。ここはよく吟味してみよう。「甲陽軍鑑」では妻女山奇襲部隊を1万2千、旗本二の備えで8千と記している。(2万-1万2千=8千)私は、昔から本隊より奇襲部隊の人数が多いことに納得がいかなか
8月9日は長崎原爆の日。今から81年前の今日。1発の爆弾により7万4千人もの尊い命が失われた心より哀悼の意を表すとともに原爆被害者の思い、平和への思いを忘れずにしていきたい信濃国の城攻め2日目8月2日(日)5:35起床昨晩は21:30に横になったもののなかなかなかなか‥寝付けず。。。。多分落ちているんだろうけどすぐに目が覚めちゃう感じかな??0時か1時頃ようやく
上杉謙信さんに春日山城に登ってみた
川中島の戦い⑪信玄には多くの隠密組織があった。その中でも有名なものは、望月千代女が育て上げた「歩き巫女」といわれる集団である。身寄りのない娘を育て「巫女」や「旅芸人」として全国を祈祷しながら歩いた。そこで見聞きしたものを甲府に送り届けたのである。また、山本勘助が組織したといわれる「三ツ者」も有名で、敵国に侵入し、情報収集し、時には流言飛語を流したり、調略を仕掛けたりしていた。さらに「素破」と呼ばれる甲州忍者もいた。勘助とは時代が異なるが、甲州忍者の頭領と
川中島の戦い⑩〇第四次川中島の戦い⑥~永禄4年(1561年)「かくて信玄公、五日それに御馬を立られ、六日目、廿九日に広瀬の渡をかかり、かいつの城へ引入給へども、謙信家老の異見もきかず、西条山にいつものごとくいらるる。」(「甲陽軍鑑」)「こうして信玄公は、川中島に到着して、6日目にあたる29日に広瀬渡を渡って、海津城へと入城された。一方、謙信は家老たちの反対意見にも耳を貸さず、妻女山にいつものように陣を構えた。」信玄は諸将の反対を押し切って、5日目
覇)名古屋山三郎:傾奇・壱の鑓覇)武田信玄:甲州法度次第覇)赤井輝子:金剛烈女覇)黄梅院:錦衣玉食覇)北条氏康:虎朱印の権威覇)武田勝頼:かくれなき弓取覇)足利義輝:剣気森然覇)愛姫:懐剣の気概覇)上杉謙信:陥陣の軍神覇)上杉景勝:烈戦の志©コーエーテクモゲームス
https://news.yahoo.co.jp/articles/d07576908392f5243421a90cb9a4a565b584f019GACKT、戦国時代のトイレ事情に驚き「調べてみたんだけど…エグくない?」(スポニチアネックス)-Yahoo!ニュース歌手・GACKT(53)が6日までに自身のYouTubeチャンネルを更新し、戦国時代のトイレ事情に驚く場面があった。07年のNHK大河ドラマ「風林火山」で上杉謙信役を演じたGACKT。武具なnews.yahoo.co.jp
川中島の戦い⑨〇第四次川中島の戦い⑤~永禄4年(1561年)「かかりましたぞ。御屋形様、信玄めが、かかりましたぞ。」と義清は顔を紅潮させ、政虎本陣に駆け込んできた。政虎は直江景綱、柿崎景家、甘粕景持らと評定の最中である。「おお、待って居りましたぞ。ここへ、ここへ。」と景家が招くと義清はどかりと座り一礼をした。「これであとは、川霧が出るのを待つばかりですな。」と景綱は頷いた。川中島一帯は盆地になっていて、朝は放射冷却により一気に気温が下がる。比較的