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覇)名古屋山三郎:傾奇・壱の鑓覇)武田信玄:甲州法度次第覇)赤井輝子:金剛烈女覇)黄梅院:錦衣玉食覇)北条氏康:虎朱印の権威覇)武田勝頼:かくれかき弓取覇)足利義輝:剣気森然覇)愛姫:懐剣の気概覇)上杉謙信:陥陣の軍神覇)上杉景勝:烈戦の志©コーエーテクモゲームス
天海(156)江戸城に入ると、今度は秀忠が、能や酒食で諸大名を持て成したのである。その緩慢な動きに諸大名も訝しく思い、大戦を前にこのようなことでは良くないと口々に言った。この時、江戸にいた諸大名は、伊達政宗、結城秀康、福島正則、黒田長政、池田輝政などである。「どうなされました。そろそろお話下されてもよろしいのではないでしょうか。」と正信が言うと、「お前も上方の情勢を探っているのであろう。」と家康は言う。すると、正信は、我が意を得たり、と笑みを浮かべて、「
天海(155)6月23日、家康は掛川に入った。家康の旗本として随行していた利景は、ふいに家康に呼ばれたのである。「勘右衛門、天海上人に具足を用意しろ。」と家康は言う。「上人は、僧侶でございますぞ。」と利景が言うと、「だからどうした。僧侶が鎧を着てはいかんのか。オレは側室にも鎧を着せるぞ。この度は徳川家が総力を挙げて戦うのだ。この際、天海にも戦場に来てもらう。銭ならオレが出してもいい。立派な当世具足にしろ。」というのだ。利景は「御意。」と言って引き下がったものの、
リアルタイムの放送は流し見とか見逃し回もあったから大体しか分かってないからちゃんと見てみようと、NHKオンデマンドで真田丸を見ているのだけど、第10話「妙手」で上杉景勝に芝居を打って欲しいと頼む真田源次郎のシーンで、何故上杉景勝は了承して涙を流したのか、、、上杉を一度裏切った真田が死を覚悟して再び上杉に頼みに行ったからその覚悟に感動したのだろうか、、、ネット探しても解説してる人がいないんだよな。。。あれ?遠藤憲一は花粉症で涙出た?まぁ景勝は感受性が高いってことでいっか?みたいな感じで
天海(154)「然らば内府様にとって、この度の会津征伐で、理想の展開とはどのような物でしょうか。」と天海は尋ねた。「うむ、大軍を持って、上杉を屈服させ、戦わずして、勝利することである。その際、金山のある佐渡と庄内は取り上げて、上杉は90万石程度で存続を許す。あれは律儀ものであるから、恩を売れば、忠義で応えるであろう。これが理想であるが、実際に交戦があれば、景勝は隠居させ、上杉には養子を入れて60万石程度で存続させるつもりだ。」と家康は言う。「なるほど、では考えら
期間:2024/04/23〜05/08天井:100倍率:2倍初回:半額戦)徳川家康:大老筆頭の帥射)毛利輝元:維新の先触れ武)宇喜多秀家:千軍万馬の構射)小早川隆景:仁愛智将戦)上杉景勝:不変の面貌覇)前田利家:笄斬りの剛直射)赤座吉家:技巧家©コーエーテクモゲームス
天海(153)「六月十日、陸奥会津ノ上杉景勝、徳川家康ノ出陣セントスルヲ聞キ、部下将士ヲ訓シ、去就ヲ決シム。」(「史料綜覧」)直江状の真贋はともかく、景勝は上洛も再度検討していたようである。ただ、条件として讒言をした者(堀秀治・直政ら)の取り調べを要求したが、家康に無視され、遂に決戦やむなしとなったのである。さて、当時上杉家は120万石であるから、120万石×300人で36,000人の動員が可能と思われる。さらに防衛戦であるから全体で5万人弱の配置が可能であったこと
天海(152)「慶長五年五月三日、徳川家康、陸奥会津ノ上杉景勝ノ老臣直江兼続ノ答書ヲ見テ怒リ、諸大名ニ出征ノ令ヲ下ス、徳川家康、下野ノ士伊王野資信ノ、陸奥会津ノ形勢ヲ報ゼシニ答ヘ、守備ヲ厳ニセシム。」(「史料綜覧」)直江状に目を通すと、家康は激怒し、直ちに景勝の征伐を決意した。ただし、ここまでは家康の想定通りである。景勝は前田家のように、戦わずに屈することはないであろうと考えていた。家康の頭の中には、秀吉が行った「四国征伐」や「九州征伐」の光景が浮かんでいたので
天海(151)実は当年三月は謙信公の追善供養にあたるので、夏中には上洛するつもりであります。それまでに武具を集め、国政を整えていたところ、長盛と吉継の使者が来て、逆心がなければ直ちに上洛せよと言ってきました。赤児でもあるまいに、内府様にしても、讒言を真に受けずに、しっかりと調べれば分かることでありましょう。大体、逆心があっても、知らん顔して上洛すれば褒美をもらえるのであろうか。景勝はそのような世では生きづらいし、弓取りの誇りも失われるであろう。まずは讒言したものを御取調
天海(150)「慶長五年五月三日、徳川家康、陸奥会津ノ上杉景勝ノ老臣直江兼続ノ答書ヲ見テ怒リ、諸大名ニ出征ノ令ヲ下ス。」(「史料綜覧」)家康の弾劾状に対して兼続は返書を送った。これが有名な直江状である。但し、この直江状には真贋論争があることには留意が必要だ。何であれ、兼続の返書が家康を怒らせたことは確かである。(以下意訳)「お手紙13日に届きました。内府様の御不審は残念です。京都・伏見でさえ色々雑説が流布するのですから、遠国で若輩の景勝に雑説が流れるの
天正10年に勃発した魚津城の戦いは、織田方の大軍に囲まれて孤立した上杉方の魚津城を上杉景勝が後詰めすることができず、魚津在城十三将が揃って自刃することで幕を下ろすという凄惨な戦いでした。しかも十三将が自刃した日は本能寺の変の翌日であったといい、実にあとほんの1、2日持ちこたえていれば、織田方は自ずと兵を退いたはずのタイミングだったという点が、悲劇中の悲劇として語り継がれてきました。この時、上杉景勝は全く後詰めに来なかったのかというとそうではなく、魚津城までほんの5kmというところまで駆け付けてい
天海(149)さて、私たちは既に結果を知っているので、信吉、兼続のどちらの判断が正しかったかは、明白である。信吉の言う通り、安易に挑発に乗らず、家康に従属していれば、上杉家も前田家と同様に大大名として生き残れる可能性はあったであろう。しかし、その一方で景勝は、果たしてその道を選ぶことが出来たであろうか。武田家滅亡後、上杉家は風前の灯火であった。景勝は死を覚悟していたはずである。本能寺の変後、上杉家は秀吉と同盟を結ぶことで、息を吹き返したのであった。その後、景
天海(148)「陸奥会津ノ上杉景勝ノ将藤田信吉、景勝ノ石田三成ニ応ズルノ非ナルヲ説キ、老臣直江兼続ト合ハズ、兼続、景勝ニ勧メテ之ヲ誅セントスルニ依リ、信吉、会津ヲ去リ、江戸ヲ経テ入京ス。」(「史料綜覧」)「景勝の将・藤田信吉」とは、元は上野国の豪族で北条家の家臣であった。しかし天正8年に武田家の将・真田昌幸の調略を受けて、武田氏に沼田城を引き渡したという。その武田家では5700貫の所領を得たというので、厚遇されていたようである。天正10年(1582年)武田氏が滅
天海(147)「慶長五年三月十六日、和蘭船リーフデ號、豊後ニ漂着ス、徳川家康、同船ノ按針英国人ウィリアム・アダムス等ヲ大坂城ニ引見ス」(「史料綜覧」)オランダ船リーフデ号が豊後国臼杵黒島に漂着した。リーフデ号は1598年6月24日にロッテルダムから五隻の船団で出港し、極東を目指したという。しかし、この航海は悲惨なものであった。マゼラン海峡を抜けて、太平洋を横断できたのはリーフデ号だけで、さらにそのリーフデ号も110名いた船員が日本に到着する頃には24名まで減って
天海(146)「是ヨリ先、出羽仙北郡ノ戸澤政盛、密ニ陸奥會津ノ上杉景勝ノ動静ヲ徳川家康ニ報ズ。是日、家康之ニ答フ。」(「史料綜覧」慶長四年十一月)慶長4年(1599年)8月22日、上杉景勝は会津に帰国する。景勝は会津移封、間もない事もあり、領内の整備に努め、山道を切り開き、橋梁を修築し、支城の整備を行ったのである。これを戸沢政盛、堀直政、最上義光など周囲の諸大名は脅威と感じ相次いで家康に報告したのであった。これを受けて家康は戸沢政盛に「お陰で会津の様子が分かった
上杉謙信の後を継いだ上杉景勝1578年謙信が亡くなると上杉景虎と対立する。御館の乱景勝と後継者は実は決まっていたのだけど、派閥があり、景勝に反対するものが景虎を担いで戦いがおこった。景勝が勝つ。血みどろの戦いとなり、多くの同胞や姉を失う。母からも絶縁される。信長との対立織田勢の柴田勝家に魚津城を総攻撃される。落城した後春日山城へと来ると思ったが、本能寺の変がおこり、上杉景勝は免れる。しかし多くの家臣が失われたことになった。それ以来、家臣を守ることを第一にするようになる
・赤坂太輔氏の『フレームの外へ』を買った書店で購入する。・『戦国の忍び』、『図説武田信玄』と続けて平山優氏の著書を読む。・天正壬午の乱は、単なる旧武田領国(最末期の織田領国)をめぐる争乱という以上に、戦国争乱の終焉に向けた地域統合を基盤にした、新たな政治・軍事的潮流を生み出し、それを最後まで規定し続け、豊臣政権の東国進出に政治・軍事的正当性を付与する結果をもたらした画期的事件であったと評価できよう。本書349㌻12~15行を引用平山優著『天正壬午の乱本能寺の変と東国戦国史増補
期間:2024/03/29〜04/10天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額覇)武田信玄:甲州法度次第射)北条氏綱:定礎の英主戦)長野業正:英邁の大器覇)上杉景勝:烈戦の志戦)寿桂尼:尼御台の瑞光射)加藤嘉明:沈勇の剛将武)笠原康勝:軒昂の白備え戦)安東愛季:檜山の驥足射)本願寺教如:東扶の上人星3覇)田村宗顕:機特効・参戦)島津忠恒:心眼・参星2戦)安楽兼寛:疑心暗鬼射)太田資顕:技巧家薬)石田重家:練磨©コーエーテクモゲーム
名称:若松城別名:鶴ヶ城、黒川城城郭:梯郭式平山城築城年:1384年築城主:蘆名直盛改修者:蒲生氏郷、加藤明成主要城主黒川城:蘆名氏、伊達政宗若松城:蒲生氏,上杉景勝,加藤氏保科氏、会津松平家所在地:会津若松市追手町1-1指定文化財:国史跡日本100名城武者走り鐘撞堂鉄門干飯櫓、南走長屋天守天守眺望
天海(128)遠山邸には続々と兵糧、武器類が運び込まれていて、蔵の中はまるで武器庫のようである。利景には与力も付けられ、屋敷は500名程の兵で厳重に警固されていた。隣接する加藤嘉明邸は、既に嘉明が大坂に移ったこともあり、暗く静まり返っている。「徳川屋敷には既に兵が5千人程度集まっていて、さらに続々と増えているようだ。与右衛門様から聞いたのだが、京極宰相が参加しているそうだ。」と嬉しそうに利景が言う。「うむ、いち早く南近江を抑えたのは吉兆だ。こうなれば佐和山も迂闊
山形県の観光スポットのお話⚔️山形県米沢市御廟にある、上杉家廟所。先日訪れた和歌山県高野山の奥の院にも上杉謙信廟所がありましたが、謙信ゆかりの地の米沢にもあるのです。🔶高野山奥の院のお話『高野山奥の院』和歌山県の観光スポットのお話❄️和歌山県伊都郡高野町にある世界遺産、高野山。まずは金剛峯寺を参拝、見学し、次に向かったのは。🔶高野山・金剛峯寺のお話⛰️『高…ameblo.jp上杉家墓所と書かれています。この三日月🌙の灯籠がなんかカッコよかったぁ拝観は17時まで。17時過ぎてしま
天海(127)「私はこの国の大老であるぞ。太閤殿下は私に伏見で政務を行えと直々に遺言しておるではないか。私が了解しておれば、それは即ち公儀であろう。何の不足があるか。」と家康は反論した。「しかしながら、公儀と申せばやはり豊臣家の宿老である奉行に話を通すのが筋であろう。」と吉晴が言うと、「何、宿老だと。五奉行がいつ宿老となった。大老である私が何故、配下も同然の奉行如きに報告せねばならぬのだ。」と家康は言い放ったのである。吉晴はこれ以上の詰問は困難と判断した。「
上杉景勝吉川元春小早川隆景武将にちなんだとみられる四股名がたくさんそして新入幕力士として110年ぶり優勝を果たした尊富士関の四股名を見たときヤマトタケルノミコトや足利尊氏をイメージしてしまいました横綱が途中休場したとはいえ相撲内容と負傷を抱えながら出場した千秋楽の相撲は素晴らしかったです
偉人敗北からの教訓上杉景勝どれも集団としては大切なことだと思います。↓押してくれたら嬉しいです↓にほんブログ村
名称:米沢城別名:舞鶴城城郭:輪郭式平城築城年:1238年築城主:長井時広改修者:伊達晴宗、蒲生郷安、上杉景勝主要城主:長井氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏所在地:米沢市丸の内1-4-13続日本100名城水堀舞鶴橋菱門橋上杉謙信像上杉景勝・直江兼続像上杉鷹山像春日神社上杉神社
期間:2024/03/22天井:100倍率:3倍初回:半額武)柴田勝家:鬼神権六武)前田利家:赤母衣筆頭武)佐々成政:八相山の務め戦)上杉景勝:不変の面貌星3武)直江信綱:心眼・参星2射)長連龍:堅気の心組©コーエーテクモゲームス
さて、昨日『【信長の野望20XX噺】龍吟虎嘯(1)』謙信パパママガチャ。今回はそこまで多くないが、ちょっと長くなってしまったのと、再評価が二人もいるので分割にしようと思う。先ずは星5覇道者長尾為景さん前列敵2体…ameblo.jpの続き。先ずは星4武芸者上杉謙信さん前列全敵物ダメ1.00中列全敵物ダメ1.00(一列のみ時多段ヒット)ボス特効50%過去に吟味済み『【信長の野望20XX噺】綾の決意と貯蓄の方向』さて、仙桃院様と愉快な仲間たちである。先ずは目玉の姉上。敵生命力上位
期間:2024/03/12〜03/27天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額覇)長尾為景:奸猾狡知の雄武)虎御前:虎母咆哮武)上杉謙信:越後の龍薬)仙桃院:義心凜然戦)上杉景勝:不変の面貌戦)阿菊御料人:勤倹の熟手星3武)直江信綱:心眼・参星2覇)上杉景信:機特効・弐©コーエーテクモゲームス
【奇策】風野真知雄著を読んでみました。1600年の関ケ原に関する西軍と東軍の戦は全国に跨がっていました。あまり知られてませんが。しかも主役は本庄繁長。誰やねん?という人もいるかもしれません。知らなくて当然で、この人は大名ではなく上杉謙信から上杉景勝に従った武将の一人なんですから・・・話は逸れましたが舞台は関ケ原の合戦の出羽の上杉景勝による最上討伐から触れ、その後の伊達政宗による会津侵攻で2万の兵を率いて来寇する伊達政宗に対し4000の兵で迎え撃つ本庄繁長。合戦に至る伊達政宗と本庄繁長
天海(104)「初夏の頃より御不例在まし段々重らせられ次第に衰へ給ひければ政所淀殿を始めとして譜代外様の大名小名昼夜の分かちなく御殿に詰め御機嫌を伺ふに七月初めより彌々重らせられ次第に衰え給ひければ、医術を終くし諸寺諸山の御祈祷に誠を凝し祈念しけれ共少しの験しもなく上下万民心を苦しめ天に仰ぎ歎きける。」(「真書太閤記」)7月15日、死期を悟った秀吉は、利家邸に諸大名を集め、家康らに秀吉の遺物を与えた。そして家康と利家・輝元との間に起請文が交わされ、諸大名には秀頼に忠節を