ブログ記事4,448件
講座の後段にマイケル・チミノ監督による映画「ディア・ハンター」の話がございますね。私にとっても、のどかで素朴と言ってもいいロシア文化が残る製鉄の街の風景と過酷に過ぎる戦争における描写が強烈に色濃い対をなし、衝撃的で見ていて涙が止まらない作品です。教諭は「主人公はベトナムから帰って来ると、感情というものをなくしている」のだとおっしゃっています。帰国した主人公(マイケル)は確かに地元の歓迎を拒絶する、「歓迎を歓迎できない態度」でした。しかし角田教諭、いっしょにベトナムに派兵された同郷のステ
みんな元気ですかある愛の詩っていう映画が昔あったな海外の掲示板に書き込まれていた、名前もないある一編の詩を紹介します。ベトナム戦争の頃のものです。・・・私があなたの新車を借りて、へこませたことを覚えてる?私を殺すかと思ったけれど、あなたはそうしなかった。あなたが雨が降ると渋ったのに、無理やりビーチへ連れて行ったことを覚えてる?結局雨が降って、「だから言ったろ」って言われるかと思ったのに、あなたは言わなかった
幻の日本独立と今も続く支配構造〜前編〜|山岡鉄秀吉田首相の時代は、敗戦直後であり、世界一の強国に防衛を依頼するのは賢明な選択だった。朝鮮戦争にも、ベトナム戦争にも、日本は出兵せずに、逃げ切った。60年安保闘争70年安保闘争学生運動。労働運動が過激なりすぎて、一般人の支持を失った。80年代ぐらいに、日米関係を、植民地から対等に近いものに改善するべきだった。
村山康文著「韓国軍はベトナムで何をしたか」を読みました。韓国軍はベトナムで何をしたか|書籍|小学館韓国最大の歴史的タブーといわれる問題に迫った衝撃作です。韓国では今、ベトナム戦争時の韓国軍による「ベトナム人虐殺事件」を解明しようとする動きが出ています。かつて…www.shogakukan.co.jpベトナム戦争で韓国軍がベトナムで行った民間人の虐殺に興味があり本を見つけると読んでいます。昨年は、↓を読みました。今回読んだ「韓国軍はベトナムで何をしたか」は大変良い
昨日「音楽とファッションとデザインの流れ」についてレクチャーをしましたが時間的に話せなかったキーワードを並べておきます気になったら調べてみてください第二次世界大戦亀倉雄策ベトナム戦争米軍安保闘争反体制日宣美(日本宣伝美術協会)権威主義ADC東京オリンピック日本デザインセンターニューミュージック荒井由実ユーミンMISSLIMフォークミュージックサイケデリック東洋仏教/禅冷戦リクルート(事件)(ロゴ)実業/虚業黒の衝撃C
【タブー】ウマヅラビデオさんがYouTubeギリギリアウトな暴露話をぶっ込んできました…【TOLANDVLOG×ウマヅラビデオ】日本政府が絶対に公認しない闇…ペトログリフから考察する人類の起源【必見】真実を語る黒子さんの正体がヤバすぎる!?誰も知らない〝日本の風習〟衝撃の真相とは!?何のために生きるのかだって?なんでそんなことを考えるの?テレビが入りケネディの暗殺から月面着陸まで見せられ宇宙時代が始まったメロドラマで主婦が不倫に憧れ学生たちが安保闘争
注意:この記事にはショッキングな画像が含まれます。(このblog内容は画像及び動画等は気分を害する恐れがあり閲覧時には要注意❗となります。)あまりに強い印象を与え、脳裏に焼き付いて離れない写真というものがあります。驚愕するほどの人間の意志の強さと確固たる信念をとらえた写真は、けた外れの力強さで心を動かし感情を掻き立てます。ベトナム戦争を象徴する写真の一枚となった僧侶のティック・クアン・ドックを写した写真がその一例です。1963年6月11日、ティックはスカイブルーのオースティンに乗って政
私には苦手な言葉が二つあります。一つが、連帯責任。もう一つが、必要悪です。※制作中につき、2018年4月4日の過去記事を再掲載します。本日も少々閲覧注意です。内容がエグイので、少しでも違和感を感じましたら、ソッコーでお帰りください。…って書いてあるにも関わらず、ムカつきながら最後まで読んどいて、結局文句言う人ってのが一番イヤだなーと思う。でも、イヤな人は悪いのか?言うと、そういうわけじゃないのが、これまたややこしい自分は
はーい!プラスチック探偵のナオでーす。今回は医療材料としての瞬間接着剤のお話です。アロンアルファA「三共」歯科・医療専門販売サイトMAIPLEHPよりお借りしました。今回の内容も下記の記事を参考にさせていただいています。Gigazine2015年12月01日強力瞬間接着剤が「接着剤」の域を超えて核兵器の組み立てや兵士の治療に役立ってきたという話強力瞬間接着剤を使ったことがある人ならば、自分の指が接着剤でくっついてしまった経験があるかと思います。強力
おはようございます😁こちら、行って来ました😆駐車場が真ん中過ぎだったので入り口付近は観ないで、いきなり雪上車ですよ✨このスノーモービルはナンバー付いて保安部品付いてます😁子ども達が、ひっきりなしに乗って写真とっていたので、正面から撮影出来ない❗️昔から、展示しているUH-1Bかなり初期型ですベトナム戦争頃ですね色褪せているんです😱割れているので、ペダルの様子が見えます😁いちおう、迷彩色になっているけど😅もう、飛ぶ事はないでしょ次ぎは、車両編に続きます
日本政府がベトナム戦争に自衛隊を派遣したというようなことはもちろんなかったのですが、サンフランシスコ条約に基づいてベトナム共和国(南ベトナム)全土を代表する政府だと承認していました。アメリカの施政下にあった沖縄がグアムやタイなどと並んで後方基地になっていたことはよく知られていますし、また搭乗員の人肉片が機内に残ったままの米軍機が修理のために日本に送られてきた、サイゴンにはカメラやトランシーバー、また「ジャングルブーツ」といった日本製品があふれていた「ベトナム特需」があったという話もありま
庭の雑草除去対策をしました。⭐️庭に雑草を生えなくする方法自分の手で雑草を抜くか、鎌を使って草を刈るか?メリットは何と言っても費用がかからないこと、人海戦術のみです。用意する物は軍手などの手袋と鎌のみです。あと、熱中症🥵対策として水💦と帽子🧢を用意することです。デメリットは中腰作業になるため重労働なことと、時間がかかるため広い範囲を処理するのが困難です。いろいろ考えた結果・・・なので結局、除草剤を散布することにしました♪これで来年の春☘️まで様子見。ラウンドアップを希釈
「北爆」までほとんど無関心ではありましたが、ベトナム戦争は日本とも無関係ではありませんでしたね。このまったく和平成らなかったパリ停戦協定の締結から一年ほどして霧散してしまった日本国内の反戦運動、具体的には「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」について、教諭はどうお考えですか。反戦運動はアメリカ国内だけのことではありませんでした。日本におけるベ平連によるこの運動は「(日本の平和のために)アメリカはベトナムから手をひけ」と訴え、ソ連KGBの支援を受けながら在日米軍基地から米兵が脱走することも支
ベトナム戦争の激戦地の一つでもあるフエ。そこにあるグエン朝の王宮へ。午後になりますますスコール晴れスコールのパターン、猫の目天気になりました。傘だして、しまって、だして。湿気が耐えられない状態。興味のあるものだけつまみ食いして、ひたすら風の通る場所にいました。ご覧の通りの空模様。ホテルのフロントの人にお聞きしたところ低気圧がきていて前線がきていてそれでここ数日お天気が悪い、とかなり詳しく説明してくれました。まあそれなら仕方ないね、です。写真とってもういいや
おはようございます少し間が空いてしまいました💦ベトナム編もあと少し。最後までまとめたいと思います。ホーチミン2日目は、ツアーを予約していました。ホテルまでリムジンバスが迎えに来てくれます普通のバスのツアーもあったのですが、移動時間が長くなるので少し割高ですがリムジンバスツアーにしました。これが正解広くて座り心地もよくて、快適でしたホーチミン市内を出てまずはベトナム戦争の戦跡が残るクチへ。途中、トイレ休憩がてらベトナムの伝統工芸の工房?へ寄りました。日本のツアーでもよくあるパ
教諭はアメリカが「『名誉ある撤退』を選んだ」とも話されていますが、どこに「名誉」があったのでしょうか。ご説明いただきたいと存じます。アメリカ政府は秘密交渉の結果によって締結された七三年のパリ停戦協定で同盟国であるベトナム共和国を捨て去り、裏切ったのです。北ベトナム側による重大な停戦合意違反があった場合は支援、つまり報復するというニクソン大統領による確約も反故にされています。実際、パリ停戦協定は「ベトナムにおける戦争終結と平和回復に関する協定」という日本語名称ですが、すでに南ベトナム側に
苦悩を極めたジョンソン大統領が再選を望まないし、党の候補指名も求めないことを明らかにしたのは「テト攻勢」から数カ月後の六八年三月でしたね。次期大統領となったニクソンは反戦運動に同意しない「サイレント・マジョリティー」に対して政権支持を訴えながら、戦闘の「ベトナム化」とアメリカ軍部隊の撤退を進めました。彼がこれを発表したのは翌六九年の十一月だと思います。講座には反戦運動が米軍撤退の決定的な理由であると読める個所(「反戦運動やってよかったね。それでアメリカは戦争をやめたんだ」)がありますが
教諭、ベトナム戦争について述べられているのに、七五年四月三十日に陥落した南ベトナムの首都だったサイゴンの状況やその後に発生した数多くの難民について触れられていないのはなぜですか。なぜあれほどの人たちが祖国から脱しようとしたのでしょうか。戦場となり多くの家族や友人を失った南ベトナムの民衆はどう感じていたのでしょうか。アメリカに対しては介入を止めて出ていってほしい、しかし北側による共産化も望まない、ということだったのではないでしょうか。南ベトナム軍の領内北部からの撤退を契機として北ベトナム
神保町で“古本爆買い”といったところでしょせんは下級市民のお子ちゃまジジイ。その財布の中身などたかが知れている。(^^;そもそも、神保町に来れば私は必ず古本をあれこれ買い込んでしまう、この悪癖というか中毒症状は断ちようがないため、古本まつりを除いて神保町を覗くのは原則として月1度に限定しているところなのだが、今日はそのたった1日で2000円(正確には1990円)も使ってしまった!実はこの日はさまざまなハプニングがあったのだけれど、ここでは購入した本のみに限定して記しておきたい。
プラトーン・ハンバーガヒル・フルメタルジャケット・ランボー(これはチト違うかな?)私もそれなりの苦境に立たされでも、本国には戦争反対みたいなヒッピーがいて(ヒッピーについては詳しく知らないので今後調べます)それでも異国のジャングルで生きるか死ぬか十分な睡眠も取れず敵と戦うそれも正義かどうかも迷いでも苦しい中戦うこれに感化されました。高校卒業後風呂無し洗濯機無しガス無しのアパートに住み勉強してました洗濯はコインランドリー・風呂は銭湯(後に風呂付のアパートに
そしてキム・フック。つまり「ナパーム弾の少女」「あの写真の少女」ですが、彼女は統一後のベトナムによってさんざん政治宣伝に利用され、それを好まずカナダへ移住しましたね。「西側」への政治亡命でした。
六四年八月の「トンキン湾事件」については、角田教諭からは「ねつ造とも言われますが」とだけの短い説明があるのみです。不十分だと言わざるを得ません。北ベトナムによる攻撃があったという事件報告の信憑性が疑われ、今では虚偽だったということが定説になっているのは二回目の米駆逐艦「ターナー・ジョイ」に対する攻撃であって、一回目の同「マドックス」への攻撃は実際に発生しています。ただし、これら事件を理由にアメリカの上下両院が採択した「トンキン湾決議」は事件の二カ月前にジョンソン政権によってすでに発案さ
世界70か国程で利用してきたマクドナルド。留学時や駐在時は週に何回も利用していました。ベトナムはベトナム戦争、共産社会主義陣営の北ベトナムが自由主義陣営の南ベトナムに勝利。そのため、暫くの間アメリカ資本が入っていなかったのですが、マクドナルドは10年程前に進出。今回はベトナムのホーチミンにある日系デパート高島屋内にあるマクドナルドでマックロイヤルDLXセットを注文。
教諭は、アメリカ軍による枯葉剤散布やナパーム弾使用という非道な行為を指摘しておられる一方、北ベトナム軍や解放戦線の残虐性、例えば過酷を極めた南ベトナム政府の関係者やCIAを始めとするアメリカ政府機関やアメリカ軍への協力者が収容された戦後の再教育キャンプなどに言及されていませんね。どのような理由からでしょうか。ちなみに、時代は違いますが、第二次大戦末期に日本本土への爆撃に使用された「焼夷弾」は、ナパーム弾と同様のものです。https://www.nhk.or.jp/kokokoza/rek
教諭はまったく言及されておられませんが、北ベトナムはラオス領とカンボジア領の東側密林を通過する「ホー・チ・ミン・トレイル」を作り上げて兵員と物資を南側領内に供給していました。両国に対する領土侵犯です。また、当初は秘密にされていましたが、カンボジア領内へのアメリカ軍による爆撃はこれも領土侵犯であったわけですが、この補給路を遮断することを目的としたものでした。B—52による爆撃がこのトレイルで従事していた人たちにとってどれほどの恐怖であったかについては、いくつかの回想録で触れられています。
アリスパック:All-purposeLightweightIndividualCarryingEquipment、通称ALICE装備のバックパック70年代初めに登場しベトナム戦争から80年代を経て、90年代の湾岸戦争でも使用されている2013年時点でもアフガニスタンでアリスパックを使う兵士の写真が見つかるので、訓練後にそのまま持ち込むなどして最前線でも個人的な判断での使用がある模様2013年現在でもまとまった量が放出されるアーミーのベストセラーバックパック民生品レプリカも多く存
角田教諭は、アメリカ軍が「北ベトナムへの爆撃(北爆)を開始しました」とだけ言及されていますが、それでは、あたかも北ベトナム領内全土への爆撃が行われたような誤解を招きかねませんね。実際には、停戦ラインだった北緯十七度線を越えた北緯二十度までとハノイやハイフォンの主に工業施設や輸送路への爆撃でした。当時のベトナムは圧倒的に農業国であり、爆撃するに値する標的はそのうちなくなってしまったのです。北ベトナムは標的になることを恐れて、石油貯蔵施設などを事前に移設したりもしていました。「全土を戦場にした
「前線のない戦争」と呼ばれたり、また「敵はどこにも見えないし、同時にあらゆる場所にいる」と言われたりしましたが、ベトナム戦争は主に、ゲリラ部隊である解放戦線と通常装備の南ベトナム軍およびアメリカ軍との戦争であったと同時に、通常装備による戦闘や大規模な爆撃ではおそらく解決し得なかった政治戦、心理戦でもあったのです。北側の意向とは別に活動していたと思われていた解放戦線に実は北ベトナム正規軍が関与していたことも公知です。誘拐、拷問、暗殺のプログラムであったとの評価が根強く残っている「フェニックス・
角田教諭は「北部に北ベトナム軍と解放戦線、南部に南ベトナム軍とアメリカ」と解説されていますが、ベトナム戦争の戦闘のほとんどは南ベトナム領内で発生しました。この説明では、ベトナム全土が戦場となった南北間の全面的な軍事衝突だったという印象を与えてしまいませんか。いずれも北ベトナム政府の指揮下にあったことが今では明らかになっていますが、ゲリラ部隊だった解放戦線は南ベトナム領内で活動していたのであり、その政治組織だった「南ベトナム革命臨時政府」もその名の通りであって、「北部に解放戦線」という教諭の
8月の暑い日に、佐久市赤坂直売所の坂の所で、北ベトナム正規軍のヘルメットを被った中高年男性が自転車を押していてね…初めて日本で見掛けたわぁ~とワッチョイの気持ちになりましたん北ベトナム正規軍のヘルメットをご存じではないニキニキ~ン帽子型のヘルメットであるね。ただ、ヘルメットとしての機能を満たしているかどうかと聞かれると、にゃんともいえないのにゃ。これ、ベトナム戦争当時もこんなヘルメットだったんだよ。いやいや、たんなるレプリカ商品だろ…という水掛け