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プロコフィエフの交響曲探訪も、今日が最後となります。これまでに、<古典交響曲ニ長調(交響曲第1番)作品25>(1917年)<交響曲第2番ニ短調作品40>(1925年)<交響曲第3番ハ短調作品.44>(1928年)<交響曲第4番ハ長調作品47>(第1版:1930年)<交響曲第4番ハ長調作品112>(第2版:1947年)<交響曲第5番変ロ長調作品100>(1944年)<交響曲第6番変ホ短調作品111>(1947年)までを辿ってきましたが、今日はいよいよ最
プロコフィエフの交響曲の探訪を続けています。今日は<第6番>へご案内します。この曲を、私は40歳近くまで全く聴いたことがありませんでしたが、NHK交響楽団の音楽監督にシャルル・デュトワが就任して、そのコンビによる初のCDに収録された時に、初めて聴く機会を持ちました。ポピュラーな人気を博している<第5番>とは全く異る、ショスタコーヴィチの作品にも一脈通じる冷徹さと緊張感に支配された、玄人向けの作品です。1947年の初演は好評を博したようですが、翌年に例のジダーノフ批判に晒され
⚫︎可愛い勘違い!こんにちは。横山有美です。メニュー・お問合せ2年生。今週のレッスンから、ソナチネを始めました。ソナチネ、の意味を紹介するために「ソナタ」って聞いたことある?と聞きました。すると、しばらく考えた後である!あなた、とか、きみ、ってことでしょ?と。ソナタアルバム1(Zen-onpianolibrary)Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}私もしばらく考えて…大爆笑!そう来ましたか!!念のため解説。彼女が答え
ロシア(旧ソ連圏)の作曲家=プロコフィエフの交響曲を探訪しています。今日は、最も有名な第5番の紹介です。セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ(SergeiSergeevichProkofiev)は、1891年生まれで1953年没のロシアの作曲家・ピアニスト・指揮者です。あらためて、交響曲作品を列挙してきましょう。<交響曲ホ短調>(1908年)<古典交響曲ニ長調(交響曲第1番)作品25>(1917年)<交響曲第2番ニ短調作品40>(1925年)<交響曲第3
プロコフィエフの交響曲の探訪を続けています。今日は第3番をご紹介しましょう。1927年に完成させた歌劇「炎の天使」は、今日ではプロコフィエフのオペラの名作として確固たる地位を築いていますが、1928年当時はまだ全曲完全上演の目処が立たない状況にありました。(結局、このオペラの全曲完全上演は、残念ながら作曲家の死後になってしまいました。)そこで、組曲版を作成して、組曲版の上演を先に画策することを考えたのですが、次第に、交響曲の作曲に傾いていきました。「炎の天使」の中のテーマ
一昨日の記事での予告通り、プロコフィエフの交響曲の探訪を始めています。古典派のハイドンの技法を基に、「もしもハイドンが今でも生きていたら書いたであろう作品」という発想によって作曲した「古典交響曲」に続く第2番の誕生は、7年後の1925年になりました。ペトログラード(サンクトペテルブルグ)音楽院で研鑽を積んだ後、祖国を離れてアメリカに渡り、更に1923年からパリを拠点とするようになったプロコフィエフでしたが、そのパリでの評価は芳しくなかったようです。当時注目を集めていたフラン
昨日の記事での予告通り、プロコフィエフの交響曲の探訪を始めましょう。プロコフィエフには、サンクトペテルブルク音楽院時代に作曲したホ短調の交響曲がありました。当初はしれを「第1番」にするつもりでしたが、未熟な作品であると判断して、この「古典交響曲」を「交響曲第1番」と呼ぶことにしたという経緯があります。音楽院在学中にニコライ・チェレプニンの下で学んだ古典派のハイドンの技法を基に、「もしもハイドンが今でも生きていたら書いたであろう作品」という発想によって作曲したことにより、自身
スクリャービンの交響曲の紹介もこの記事で最終回になります。<交響曲第5番「プロメテウス」>です。YouTube/A.Scriabin:PrometheusorthePoemofFire-ProméthéeoulePoèmedufeuop.60(Boulez)(先年に逝去されたピエール・ブーレーズの指揮による録音のYouTubeを先ずリンクしておきましょう。)アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービンは、1872年に生まれて1915年に
アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービンは、1872年に生まれて1915年に没したロシアの作曲家です。ピアノ作品ばかりではなく、シンフォニストとしてももっと注目されて良いのではないかと、私は思っています。スクリャービンの交響曲の楽章数の推移を見てみると、興味深い傾向が直ぐに判ります。第1番「芸術讃歌」が合唱つきで6楽章第2番が3部構成で5楽章第3番「神聖な詩」が3楽章通奏と言う具合に次第に楽章数を減らしています。そして遂に、最後の2曲では・・・第4番「法悦の詩」で単一
スクリャービンの交響曲の紹介、第3弾です。アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービンは、1872年に生まれて1915年に没したロシアの作曲家です。ピアノ作品ばかりではなく、シンフォニストとしてももっと注目されて良いのではないかと、私は思っています。私がスクリャービンの交響曲の魅力に目覚めた切掛は、1992年9月の東京フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会でした。当時、常任指揮者就任直後の大野和士氏の指揮による、氏が提唱して開始された「若手作曲家委嘱シリーズ」の第一弾としての
ソナタ形式!……じゃない話ですベートーヴェンのソナチネト長調。ソナチネを初めてやる生徒さんにぴったりな曲ですね。昔ながらのソナチネアルバムで練習順位が一番はじめに書いてある、クレメンティのソナチネop.36-1(♪ドーミドソッソッ)は、オクターブの、♪ソソソソソソソソがあり、低学年の生徒さんには難しいので、私はあまりやりません。で、ベートーヴェンの話に戻りますが、さぁ、ソナチネをはじめて弾こうね〜って、楽譜も買って。さぁ、ソナチネってなんだろうね?ソナタの小さい曲だよ〜、
スクリャービンの交響曲の紹介、第2弾です。アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービンは、1872年に生まれて1915年に没したロシアの作曲家です。ピアノ作品ばかりではなく、シンフォニストとしてももっと注目されて良いのではないかと、私は思っています。私がスクリャービンの交響曲の魅力に目覚めた切掛は、1992年9月の東京フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会でした。当時、常任指揮者就任直後の大野和士氏の指揮による、氏が提唱して開始された「若手作曲家委嘱シリーズ」の第一弾としての
ロシアの作曲家の交響曲紹介を続けましょう。ラフマニノフの次の話題はスクリャービンにしました。アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービンは、1872年に生まれて1915年に没したロシアの作曲家です。近年の状況としては、ほぼ同世代のラフマニノフに比べると、作品の演奏頻度にはやや物足りないところもありますが、もっともっと認知されてレパートリーとして取り上げられて良い作曲家ではないでしょうか。ピアノ曲はそこそこ演奏されていますが、実は、スクリャービンはシンフォニストとして非常に重
Vitali:SonatasOp.11forViolinandBassoContinuoTracklist:00:00:00GiovanniBattistaVitali:SonatainBflat:I.CapriccioPrimo:vivace00:01:56GiovanniBattistaVitali:SonatainBflat:II.Giga:Allegro00:03:01GiovanniBattistaVital
宮本浩次が歌う赤いスイートピーをたまたま耳にした。松田聖子さんが歌うと青春の1ページ、半年経っても手も握らないといった控え目で切ない感じで、そんな歌だと思っていた。でもあの野太い声に乗せると、大人にも届くような普遍性を得るようだ。誰にも馴染めるソナタ形式で、思いを重ねていく。ユーミンもいつもの目まぐるしい転調を控え、主旋律のじわじわ高まる味わいを尽くしている。そして二番の終わり頃には、あなたの生き方が好きという言葉が埋め込まれている。若い時分だと、自分の生き方と言っても潜在的で、ふだ
ラフマニノフの交響曲の話題の第4弾、そして最終回です。ラフマニノフの交響曲の紹介を、第1番から第3番まで、全て掲載してきましたが、最後に、<交響的舞曲>に触れておきましょう。タイトルこそ「交響曲」ではありませんが、この作曲家の最後の輝きとなった“白鳥の歌”でもあり、また作品自体の質と量の両面に照らしても、交響曲に匹敵するような存在感を有する名曲と言えるでしょう。この<交響的舞曲>は、晩年の作曲家によって、1940年にニューヨーク州ロングアイランドで作曲が進められられました。
セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフは、1873年生まれで没年は1943年の、ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者です。<交響曲第1番ニ短調>は、1985年に完成されましたが、1987年の初演が大失敗となり酷評を浴びせられ、生前の間は再演されることはありませんでした。その第1番への惨憺たる評価によって、精神的にも痛烈な打撃を受けてしまった作曲家は、暫くはほとんど作品が書けない状態に陥りました。その後、あの有名な<ピアノ協奏曲第2番>や、今日ここでご紹介する<交響曲第2番>の
昨日の記事で予告をしていたラフマニノフの交響曲の話題です。セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフは、1873年生まれで没年は1943年の、ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者です。<交響曲第1番ニ短調>は、1985年に完成されましたが、1987年の初演が大失敗となり酷評を浴びせられ、生前の間は再演されることはありませんでした。しかし、最近は演奏も聴かれるようになりました。聴いてみると、若書きの粗削りな面があるとはいえ、活気に溢れた作品として評価できると思います。第1楽章は、
一昨日はピアノのレッスンでした相変わらずシューマンの飛翔をやっています。先生曰く、この曲はソナタ形式になっているそうです。先生によると、展開部から再現部に移る部分は作曲家が頭を悩ませるところで、シューマンは減七の和音を使うことで(ロマン派ではよく使われるそうですが)、この部分をより魅力的なものにしているそうです。シューマンのこだわりがつまっているところなので、その点を意識して弾いて下さい、とのことでした正直、減七の和音が分からないのでちんぷんかんぷんでしたが、自分が如何に曲を理解していな
チャイコフスキーの交響曲探訪シリーズも、早いもので今日が最終回になりました。皆様のご精読に感謝いたします。さて、第6番「悲愴」は、最晩年の1893年に作曲され、同年の晩秋にサンクトペテルブルグで、作曲者自身の指揮によって初演されました。あまりにも独創的な極限的なディミニュエンドで閉じる終楽章に戸惑いを隠せない聴衆もいたということですが、チャイコフススキー自身はこの作品に対して絶大なる自信があったと伝えられています。しかし、数日後にコレラに罹患したことが原因で病の床に就き、初
チャイコフスキーの交響曲を探訪するシリーズもいよいよ終盤に入ってきました。今日は三大交響曲の二曲目、第5番の紹介となります。交響曲第1番と第2番の初演がそれぞれ大成功となって、またシンメトリックな5楽章構成を持つ第3番も発表して、ロシアで最初の本格的なシンフォニストとしての地歩を確固たるものに固めていったチャイコフスキーは、メック夫人のパトロネージュによって経済的安定を得て大作の作曲に没頭できた成果が、第4番の強烈でドラマティックな音楽に結実しました。しかしその後は楽想の枯渇や
チャイコフスキーの交響曲を探訪するシリーズも、回を重ねて、昨日から有名な三大交響曲の紹介に入りました。交響曲第1番と第2番の初演がそれぞれ大成功となって、またシンメトリックな5楽章構成を持つ第3番も発表して、ロシアで最初の本格的なシンフォニストとしての地歩を確固たるものに固めていったチャイコフスキーは、メック夫人のパトロネージュによって経済的安定を得て大作の作曲に没頭できた成果が、第4番の強烈でドラマティックな音楽に結実しました。ここでもう一度、チャイコフスキーの交響曲の作曲
Bach-SonatainAminorBWV967-Frankenberg|NetherlandsBachSocietyNetherlandsBachSocietyAveryearlyworkbyBach–recordedhereforAllofBachwithEmmanuelFrankenberg–aboutwhichnotmuchisknown.Whatwedoknow:thesonat
交響曲第1番と第2番の初演がそれぞれ大成功となって、ロシアで最初の本格的なシンフォニストとしての地歩を固めていったチャイコフスキーでした。そして、続く交響曲を1875年に作曲しました。この作曲家の交響曲としては唯一、長調で開始される音楽であり、また唯一5楽章構成を持つ作品になりました。標題のポーランド(Polish)は、終楽章がポロネーズ調の音楽であることに由来するようですが、作品そのものの成立や性格を象徴するものではありません。むしろ最も絶対音楽的な性格が強い作品と言えるでし
交響曲第1番の初演の成功で、ロシアで最初の本格的なシンフォニストとして認知されることになったチャイコフスキーは、続く交響曲を1872年に作曲しました。3つのウクライナ民謡を作中に引用していることから、ウクライナを意味する「小ロシア」という呼称を初演当時のモスクワの音楽評論家から与えられたそうです。第1番よりも小振りで演奏時間約30分の規模ですが、なかなか魅力的な作品です。当時のロシア楽壇は、西欧派と民族派に二分されていました。チャイコフスキーは西欧派の代表格と目されていました
チャイコフスキーの初めての交響曲は1866年に作曲されました。演奏時間は約45分に及ぶ堂々たる風格を備えた雄大な作品となっています。第4番~第6番の三大交響曲には旋律の印象で一歩を譲りますが、なかなか素晴らしい交響曲です。第1楽章に「冬の日の幻想」という副題が付されているのでしばしば交響曲第1番「冬の日の幻想」と呼ばれますが、正式には単純に交響曲第1番で良いようです。1866年と67年に行われた部分的な初演は不評だったらしいですが、1868年に行われた全曲初演は大成功を収めたそう
堂々たる標題交響曲と言えるロマン的大作〜R.コルサコフの交響組曲《シェへラザード》ボロディンの交響曲の紹介に続いて、R.コルサコフの作品に触れておきましょう。ニコライ・アンドレイヴィチ・ェリムスキー=コルサコフは、1844年生まれで1908年没ですから、チャイコフスキーとほぼ同世代です。ロシア五人組の一人ということで、ボロディンに続いて紹介します。このシリーズではロシアの交響曲の系譜を辿っています。R.コルサコフも若い時期に交響曲第1〜3番をものしていますが、今日では
昨日の記事に続いて、ボロディンの交響曲を紹介します。ボロディンは、1833年生まれで1887年没ですから、あの有名なチャイコフスキーよりもむしろ先輩格にあたります。しかし、これらの交響曲を聴くと、モダニズムの時代(機会文明の到来)を予感させる新古典主義的なロマン派後期の作風とは一線を画すような新鮮な息吹を感じることができます。日本ではあまり演奏される機会に恵まれませんが、時々は聴きたくなる佳品であると私は思っています。この第2番は、第1番に比べると幾分洗練された印象を持つか
昨日の記事で、19世紀末から20世紀初頭に活躍したロシアの作曲家に思いを馳せましたが、その中からボロディンの交響曲に焦点を当ててみましょう。今日と明日の記事で、二つの交響曲を紹介します。ボロディンは、1833年生まれで1887年没ですから、あの有名なチャイコフスキーよりもむしろ先輩格にあたります。しかし、これらの交響曲を聴くと、モダニズムの時代(機会文明の到来)を予感させる新古典主義的なロマン派後期の作風とは一線を画すような新鮮な息吹を感じることができます。日本ではあまり演奏
ブラームスの4曲の交響曲、それぞれに個性の豊かな出来の良い4兄弟といった趣です。10月23日の記事での4曲をまとめた音楽談義に続いて、ポツポツと、各曲の魅力について私なりの寸評を披露していますが、今回が最後の<交響曲第4番ホ短調>になります。私の愛聴盤は、ギュンター・ヴァント指揮北ドイツ放送交響楽団盤(RCA/BVCC-37253)です。この作品の特徴は、まず何と言っても終楽章の構造にシャコンヌ(パッサカリア)を採用したことでしょう。バロック時代に盛んに用いられた様式を、ロ