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フザケたタイトルですが、分かりやすいかなと思って😅トルコの、白い衣装でクルクル旋回するオジサンたちは、割と有名かと思います。置物やマグネットなどお土産にも必ず登場する、トルコを象徴するアイテムの一つと言えますかね。この、くるくる回る旋回舞踊セマーsemâは、スーフィー(=イスラーム神秘主義)の一派、メヴラーナ教団の修行の一貫として行われるもの。このメヴラーナ教団というのは、13世紀に、開祖のルーミー(=メヴラーナ)によってコンヤKony
1882年:農産物輸出でイタリアに匹敵したパレスチナ。2026-10-0508:00:39テーマ:ブログ公式ジャンル記事ランキング:シニア855位RaelMaitreyaNobbyRaelian訳1882年:農産物輸出でイタリアに匹敵したパレスチナ*「人のいない土地」という神話を覆すデータ*=====▼ある言説を解体する1世紀以上にわたり、シオニストの歴史叙述や西洋社会に広く共有されてきた認識の多くは、同じイメージを繰り返してきました。すなわち、19世紀の
ちょっと面白いモスクの存在を知ったので、行ってきました。金角湾に面し、かつては造船所なんかがあったハスキョイ地区Hasköysemtiにある、ハンダン・アァ・モスクHandanAğaCamiiです。そう、外見だけみるとあまりに質素で、知らなければモスク好きの私でもスルーしてたと思います。イスタンブルだけでモスクが3600以上あるので、歴史的に古くないモスクや、新しくて建築的に個性や見所のないモスク、写真では華やかに見えても、手描きではない
1週間のイスタンブール滞在中、実にたくさんのモスクを見学しました。色々見学しているうちに、オスマン帝国時代に作られたモスクと、それ以前、つまりビザンツ帝国(東ローマ帝国)時代に作られたモスクの対比がとても興味深くて、詳しい説明を聞いているうちに、この国の歴史に俄然興味が湧いてきました。というわけで、ビザンツ時代のモスクとオスマン帝国時代のモスク、それぞれの訪問の記録をまとめておこうと思います。今回は、そのうちオスマン帝国時代のモスク訪問記です。ビザンツ時代のモスク見学の記録はこちら↓『
ずいぶん前のことですが、サァダーバード・モスクSâdâbâdCamiiに行ってきました。我が家のあるレヴェントLeventの裏に広がるキャートハーネkağıthaneの一角、サァダーバードと呼ばれる地区に、ひっそりと建つモスクです。現存の建物は、19世紀後半にスルタン・アブドュルアズィズによって再建されたもの。彼の時代のほかの建築物と似て、ヨーロッパ趣味のロココ調なデザインになってます。周辺はガラーンとした草原が広がるだけなんですが、
1週間のイスタンブール滞在中、実にたくさんのモスクを見学しました。色々見学しているうちに、オスマン帝国時代に作られたモスクと、それ以前、つまりビザンツ帝国(東ローマ帝国)時代に作られたモスクの対比がとても興味深くて、詳しい説明を聞いているうちに、この国の歴史に俄然興味が湧いてきました。というわけで、ビザンツ時代のモスクとオスマン帝国時代のモスク、それぞれの訪問の記録をまとめておこうと思います。まずは、ビザンツ帝国時代に作られた古いモスクの訪問記です。オスマン帝国時代のモスク訪問記はこちら
奴隷商人の「美化人種差別は、1821年にハルツームが奴隷の市場として設立されたことにさかのぼる。世紀後半には、都市人口の約3分の2が奴隷となった。スーダンはアフリカで最も活発な奴隷略奪地帯のひとつとなり、奴隷は南部から北部へ、そしてエジプト、中東、地中海地域へと輸送された。DEA/BIBLIOTECAAMBROSIANAゴードン将軍がスーダンの総督に任命したいと望む、偉大な奴隷商人ゼベール・パシャ。アル・ズバイル・パシャ・ラフマは有力な奴隷商人だった首都の中心部にある通りは、
介護旅行・終活・世界遺産のことはお任せ!小田原のアラベラです。皆さんのお住まいの地域は、昨日の台風の被害はありませんでしたか?台風直撃も回避され、我が家のある神奈川県西部も、かなりの雨が降る時間帯はありましたが、被害はありませんでした。でも、私の知人が多く住む鎌倉市や横須賀市あたりはかなりの冠水が発生したようで、心配しています。昨日は、あまり深刻な状況ではなかったので、我が家からだんだん波が高くなるのを眺めていました。最初はこんな感じ。30
今日は、9/17㈭という事は昨日は、9/16と言う事で…今から遡る事。1世紀あまり136年前の1890年の9/16は、日本人として誇れる紀州、紀の国の先人達が、Turkeyの方々に日本人として人間としてするべき事をした事が、未だにTurkeyの國の方々には受け継がれてと言うても近年は存じないが、今から四半世紀以上前にTurkeyを私が訪れた際に、ジャパニーズ?チャイニーズ?コリアン?と至る所で尋ねられジャパニーズ!と答えるとオーサカ?トウキョウ?ワカヤマ?と尋ねられ…ん?ワカヤマ?!…ど
我が国のすぐ隣には反日国が2,3ありますが、反対に親日国は東南アジアだけではなく世界中に沢山存在しています。その中でも特筆すべきは、トルコ。この国が親日国になったきっかけとなったのが、今から136年前の今日起きたエルトゥールル号遭難事件でした。1887(明治20)年に小松宮ご夫妻がイスタンブールを訪問した答礼として、当時のオスマン帝国は航海訓練を兼ねて木造フリゲート艦・エルトゥールル号を日本に派遣します。約11ヶ月の航海を経て1890(明治23)年6月に
イスタンブール初日は早朝6時着のフライトだったため日曜日の午前中から効率的に観光ができました。ホテルから近いトプカプ宮殿は火曜日閉館なので、最初に回っておきます。チケット売り場に到達できずにウロウロ公式を証するチケット売り場が道路沿いに何個かありましたが、客引きに連れていかれたのは屋台のような売り場で怪しげなのでパス。探し回ってようやく正規のチケット売り場を発見しました。危なかった😅イスタンブールは入場料高すぎチケット代は3名で8250リラ、2万8556円!イスタンブールの観光地入場
1827年、イギリス・フランス・ロシアの3国連合艦隊が、ギリシアの独立に介入して、10月20日、ナヴァリノの海戦で、エジプト・オスマン連合艦隊が、壊滅的な敗北を喫した。メフメトは、1828年、ギリシアから、軍を全面撤退させた。メフメトは、オスマン帝国に約束通り、シリアの統治権を要求したが、マフムト2世は、拒否したのである。1831年、メフメト・アリーは、イブラーヒームの率いる、精鋭部隊をシリアに侵攻させ、第1次エジプト・オスマン戦争が、始まった。エジプトの新制軍隊は、オスマン帝
その結果、年1回のみであった、農業は、年中栽培が、可能な多年灌漑へと転換した。綿花貿易は、莫大な利益を生み出し、メフメト・アリーの改革資金の主要な財源となった。農業による、利益は、国内の工業化へと投入され、メフメトは、「ヨーロッパからの輸入に頼っていては、真の独立はない」と考え、国内に近代的な工場を次々と建設したのである。メフメト・アリーは、紡績工場、織物工場、更に、軍隊に支給する制、服の製造工場、砂糖精錬所、紙工場、大砲、鉄砲を製造する造兵廠、造船所を建設した。同時に教育改革を急
メフメト・アリーが、民衆達からの圧倒的な支持を背景に新総督への就任を宣言すると、オスマン帝国の宮廷は、現地の圧倒的な支持を無視できず、メフメト・アリーを正式な、エジプト総督(パシャ)に任命せざるを得なくなった。その結果、メフメト・アリーは、36歳にして、一介のタバコ商人から、エジプトの最高権力者の座に就いたのである。メフメト・アリーは、エジプト総督の地位に就いたが、権力基盤は、不安定であった。エジプト国内には、強力な軍事力を持つ、マムルーク達が、健在であり、更に国外からは、イギリス
前回の記事は、『【大人の世界史学び直し㊱】敵が消えた瞬間に激突!?米ソ冷戦と「鉄の帳」が開いた真実』前回の記事は、『【大人の世界史学び直し㉟】株価暴落から独裁へ!世界恐慌がナチスを生んだ恐怖のメカニズム』前回の記事は、『【大人の世界史学び直し㉞】人類初の…ameblo.jp今回は、近代の中東(オスマン帝国周辺)とインドの歴史です列強(特にイギリス・ロシア)の進出によって翻弄された近代の中東(オスマン帝国周辺)とインドの歴史を見ていきたいと思います第二次世界大戦裏での列強
晴美もたくさんシリーズを書いているので、私も挑戦してみようと思います。歴史を題材にいろいろ考えてみます。「船頭多くして船山に上る」はなぜ危険なのか?——組織を崩壊させる「指揮権分裂」の恐怖「田中部長はA案を採用しろと言い、鈴木専務ははB案で行けと言う」私も勤め人なので、こんな場面にはよく遭遇します。現場の担当者が頭を抱える光景は、他人事ではありません。でも、どちらの顔も立てようと折衷案(足して2で割るような愚策)を出せば、軸がぶれて失敗するのは目に見えています。目的が
メフメト・アリーは、1769年、現在のギリシア領に当たる、オスマン帝国領カヴァラで、アルバニア人の家庭に生まれた。父の名は、イブラーヒーム・アーガー、母は、ハドラで、イブラーヒームは、地元のカヴァラで、タバコの流通及び、船舶輸送を営む商人であった。メフメトが、若い頃にタバコ商人であったのは、父の家業を受け継いだためである。また、父のイブラーヒームは、オスマン帝国の駐屯軍として、街道の警備等を担当する、小さな非正規部隊の司令官(下級指揮官)を務めていた。母のハドラは、カヴァラ市長
「オスマン帝国の支配から、事実上、エジプトを独立させ、軍事・経済の西洋化を断行し、メフメト・アリー朝の始祖となった、近代エジプトの父」人徳:93/統率力:94/決断力:97/政治力:96/行政力:98/軍事能力:90/武勇:78/知略:99/学識:88/天運:96=合計:929点近代エジプトの父、メフメト・アリー。エジプトでは、アラブ語のムハンマド・アリーと呼ばれているが、筆者は、高校の世界史では、「メフメト・アリー」と学んでいる。また、「
廃墟に立つ女性は、実は「ギリシャ」だった――ドラクロワが描いた《ミソロンギの廃墟に立つギリシア》一見すると、瓦礫の上に一人の女性が立っている絵。けれど、この女性は実在する誰かを描いたものではありません。彼女が表しているのは――「ギリシャ」という国そのもの。今回紹介するのは、フランス・ロマン主義を代表する画家、ウジェーヌ・ドラクロワの作品です。《ミソロンギの廃墟に立つギリシア》「ギリシャ」を女性の姿で描くこの作品が描かれたのは1826年。中央に立つ女性は、ギリシャを擬人化した存在で
オスマン帝国1789年2Kuruşビロン貨銀品位465/1000発行期間:1789〜1807年オスマン帝国(1299〜1922年)国旗1793〜1844年(↑)印章1789〜1807年(↓)
帝国と呼べるもので、世界史に残る最大の帝国は、フビライ=ハンのモンゴル帝国でした。その後、帝国と呼べるものは、オスマン帝国、ナポレオン時代のフランス帝国ぐらいです。上はフビライ=ハンとナポレオン1世の肖像画です世界史上最大の領土を誇ったモンゴル帝国モンゴル人が中国にたてた王朝(1271〜1368)が元でした。当時の南宋を滅ぼし、現在の北京(大都)に都を移し、世界史上最大の領土を持った多民族国家を建国したのでした。チンギスハーンの頃のモンゴル帝国上はフビライ=ハンの時代
『ヴラド・ドラクラ』2018年から新刊が発売される度に買って読んでいましたが、最終回を迎えてしまいました。全10巻です。『吸血鬼ドラキュラ』で『ヴラド三世』の存在を知った日からマンガにされる事が夢だったそうです。資料の少なさ、題材の難しさもあり、すんなりとは行かなかったそうですが、何とか描き続けてくださって、本当に感謝しております。最終回を診たくないというよりは・・・寂しさがありますね。新刊が発売されるのが楽しみ
地中海トルコ沖の島国。ギリシャ系住民の地で(東)ローマ時代以降は12世紀末に十字軍の拠点としてカトリック系独立王国となった後、継承したベネチア共和国領時代にオスマン帝国の侵攻を受けて1571年属領となりトルコ系住民が支配者として進出しました。ギリシャ独立戦争等で衰退したオスマン領より1878年にイギリス統治となった後、1960年に独立を果たしましたが、ギリシャ系、トルコ系の対立が強く、1974年以降分裂状態にあります。ギリシャ合併推進派によるクーデターに対抗する為トルコ共和国軍が占領して
昨日、第二次ウィーン包囲における戦いで功績のあったポーランド兵士コルシツキーが描かれた切手を紹介しましたが、その関連で、下は第二次ウィーン包囲の様子が図案になった切手です。1983年にオーストリアからオスマン軍からのウィーン解放300年を記念して発行された切手で、図案には1683年の第二次ウィーン包囲におけるウィーンの市街地と戦いの様子が描かれています。ヨーロッパ中部進出を目論むオスマン帝国は1529年の第一次ウィーン包囲に続いて、1683年に再び第二次ウィーン包囲による大規模な進撃を
この妖艶な美女は、一体何者なのか?思わず目を奪われる、妖艶な女性。色鮮やかな衣装をまとい、手にはタンバリン。そして、こちらを振り返るように向けられた視線。いったい、この女性は何者なのでしょうか?一見すると、ただ美しい女性を描いた肖像画のようにも見えます。けれど、この女性が身を置いている場所や衣装、そして「オダリスク」という言葉を知ると、この一枚が描かれた背景が少しずつ見えてきます。彼女は、華やかな衣装をまとい、タンバリンを手にしています。その姿は、どこか現実の世界とは違う、異国情
昨日、ドイツ生まれでオーストリアで活躍したベートーヴェンが描かれた切手を紹介しましたが、その記事の中でベートーヴェンがコーヒー通であったことを書きました。その関連で、下はオーストリアのコーヒー文化誕生に深く関わったコルシツキーが図案になった切手です。2009年にポーランドから”ヨーロッパにおけるポーランドの足跡”をテーマに発行されたタブ付きの切手です。額面が示されていない左側のタブにはびっしりと並んだコーヒー豆の中にコーヒーが注がれたカップが描かれています。右側の切手に描かれているのが
ある日のお一人様お散歩コースに選んだのは、旧市街のハセキ・スルタン地区HasekiSultanMahallesi。ハセキとは寵姫の意味で、オスマン帝国の後宮で妾に与えられた称号の一つですが、最初にその称号を賜ったのが、16世紀にスレイマン大帝の最愛の寵姫だったヒュッレム。特に個人名がついてない場合は、彼女のことを指します。今のウクライナから奴隷として連れてこられ、皇后という地位の存在しないオスマン帝国でスルタンとイスラーム法上の婚姻契約を結んだ数少ない女
『ルバイヤート』とイスラム若い頃ハマった、短編詩集を読み返した。11世紀のペルシャの詩人で学者のウマル・ハイヤームの四行詩。酒を愛し、人生の儚さや、生々流転を耽美的に謳う。イスラムは、テロや改宗の強要・女性を抑圧などと、負のイメージで語られがち。でも本来は、過酷な気候の中東で生きるため、相互扶助や喜捨による弱者救済、偶像崇拝を禁じて平等を説く宗教。女性を守る趣旨が、なぜかヒジャブの強要や、教育や就労を阻むといった誤りを生んでしまった。同性愛の禁止なども、本来の経典に無いもの。イ
👇犬猫王の歴史書(19世紀のグスタフ西洋制覇だが隠蔽の少しシオン記載の事)¶1848年革命(諸国民の春)で隠蔽でロックフェラーが術と誘導民衆のミニエー銃で西洋貴族を追い払い↥童貞部隊を実質的に手下のグスタフは1848年革命で逃げ裏に隠れ即座にこれ実行の西洋貴族¶1848年革命(諸国民の春)からロックフェラーに徐々に隠し羅睺(ラーフ/魂消滅)にされ西洋貴族殺害開始↥西洋貴族は19世紀末頃にはユダヤになり裏に隠れのグスタフの一族以外は殺害全滅で別人入替¶1848年革命で西洋貴族のグスタフは
今後やりたいこと・クルアーン、ハディース、ペルシア語、倫理学、オスマン帝国、トルコ共和国、イランイスラム共和国の、学習・研究を続ける✔・寄付する(あしなが育英会、子ども食堂、児童養護施設)・1日のお祈りを守る。そして、自分独自のお祈りも守る・右足の裏のホクロ及び、顔の右ほっぺた下のホクロの切除手術をする・美味しいお米を買う・第一級アマチュア無線技士の免許を取得する✔・第二級アマチュア無線技士の免許を取得する(eラーニング)✔・レーダー級海上特殊無線技士の免許を取得する