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彼は上品じゃないIln'estpasdistinguéエディット・ピアフÉdithPiafこのシャンソンは、マルク・エリ(MarcHély)とポール・マエ(PaulMaye)が作詞し、ポール・マエが作曲し、1936年にエディット・ピアフが創唱(Création)した。ピアフ初期の作品で、ミュージックホールで歌うための威勢のよい社会風刺の歌と言える。ナチスドイツによるパリ占領前のシャンソンだが、占領下のラジオ放送で手違いで流れることがあり、聴いている人たちがピア
通りの向こうにはDel'autrecôtédelarueエディット・ピアフÉdithPiafこのシャンソンは、ミシェル・エメールが作詞・作曲し、ナチスドイツ占領下の1943年にエディット・ピアフがレコーディングした名曲だ。私の部屋で窓のカーテンを開けると、通りの向かい側の部屋が見える。そこには、美しい娘が住んでいる。彼女にはお金も宝石も車もある。私がもし彼女の4分の1でも持っていたら、もう何も望まないのに。ところが、話は一転する。Jeleconnai
あなたはどこにでもいるTuestpartoutエディット・ピアフÉdithPiafこのシャンソンは、ナチスドイツによるパリ占領下の1943年にエディット・ピアフが作詞し、マルガリット・モノーが作曲した、戦地に赴いた恋人を想う女心を歌ったものだ。ノルマンディー上陸作戦を舞台にした映画「プライベートライアン」の終盤、ドイツ軍との決戦を前に、静けさ漂う廃墟の中で、突然、この曲を古いレコードプレイヤーで戦士たちが聴くシーンがある。Nousnousaimions
NHKのBSで放送されたドラマ、『照子と瑠衣』。小学生か中学生から距離を縮めた風吹ジュンさん演じる大人しい照子と、夏木マリさん演じる奔放な瑠衣との、時を経ての物語である。劇中で、夏木マリさんがぐっさんこと山口智充さんが演じるカレーハウスのご主人の店で、越路吹雪の『愛の讃歌』を熱唱する。ピアノとウッドベースだけで綴られるシャンソンに心が震えた。あなたと二人で暮らせるものなら何にもいらない何にもいらないエディット・ピアフの原曲を越路吹雪が和訳で歌ったこの曲は、彼女の代表曲であり、
彼らの接吻にはDansleurbaiserエディット・ピアフÉdithPiafこのシャンソンは、1961年にミシェル・ヴォケールの作詞、シャルル・デュモンの作曲という「私は何も後悔しない」のコンビで作り、エディット・ピアフが歌った。恋人たちの別れの接吻(キス)をドラマチックに歌っている。他人事だと思っていたら、いつしか自分達の番になっていたという内容だ。IlyavaitdansleurbaiserDansleurbaiserdésespéré,T
ナントの囚人DanslesprisonsdeNantesシャンソンの友LesCompagnonsdelaChanson「ナントの囚人」は、17世紀頃にできた有名なフランス民謡で、伝承の物語が歌になったものだ。シャンソンの友が歌ったことで、一時期一緒に活動していたエディット・ピアフも彼らを引き連れて1946年にレコーディングした。物語にはいろんなヴァリエーションがあり、それに合わせて歌詞も何種類か存在する。1928年にイヴォンヌ・ジョルジュが歌った"LesCl
十字架LesCroixエディット・ピアフÉdithPiafこのシャンソンは、ルイ・アマードが作詞、ジルベール・ベコーが作曲し、エディット・ピアフが1953年にレコーディングした。ピアフは、ルイ・アマードが昼は高級官僚、夜は作詞家という二足の草鞋を履いていることを知っており、自分のために歌詞を書いて欲しいと手紙を書き、若き日のジルベール・ベコーに届けさせた。1952年のことだった。実は、アマードは公用で出張した帰り途、バゾッシュの十字架(別名は死せる馬の十字架)の立つ森の広
12月7日日曜日は、久しぶりにシャンソンを聞きに銀座へ出た。ピアフの生涯をたどりながら語り手が狂言回しをする企画で、随所に歌が入るステージで楽しかった。年の暮シャンソンに酔う銀座かなあき坊近頃体調は回復していると思うけれど、なんとなく億劫な気分が強く、出そびれていたところに、行かないかと誘いの言葉を掛けていただいて、ちょうど良かった。ピアニストはジャズ系の方らしく、彼が乗ってくると強くなるバックビートが耳に残った。それに少し速い感じで、時間の都合もあるのだろうけど、歌手はどうなん
モモーヌ(シモーヌ・ベルトー)の「ピアフ」によれば、エディット・ピアフの精神を開花させ様々なことを教えた恩人は、4人いる。ルイ・ルプレ、レイモン・アッソ、ジャン・コクトー、そしてイヴォンヌ・ド・ブレという女優だ。このイヴォンヌ・ド・ブレ(YvonnedeBray)とエディット・ピアフはどういう関係にあったのか?調べてみて、わかったことを書きたいと思う。イヴォンヌとエディットは、親しい関係になっていたわけではない。ジャン・コクトーを通じて知り合いだった程度に過ぎない。では、
「水に流して」という日本語題名が相応しくないことを証明するために、全文訳してみました。NonJeneregretterien私は何も後悔しないNon,rienderienNon,jeneregretterienNilebien,qu'onm'afaitNilemal,toutçam'estbienégalいいえ、何もかもいいえ、私は何も後悔していない私にされた良いことも悪いことも、どれもどうでもいいNon,rien
モモーヌ(シモーヌ・ベルトー)の「ピアフ」などフランス語の文献を読みながら、エディット・ピアフの生涯をnoteに連載しているが、13章まで書いて感じたことがある。それは、エディットがある男から次の男へと途切れなく恋愛を続けていくことへの驚きである。連載では、プティ・ルイから始まって、外人部隊の兵士、不良仲間のアルベール、そして、レイモン・アッソ、ミシェル・エメール、ポール・ムリス、アンリ・コンテまで書いて、13章まで辿りついた。でも、まだ20代半ばに過ぎない。この後、ノルベ
雀のようにCommeunmoineauフレエルFréhelこのシャンソンは、マルク・エリー(MarcHély)が作詞し、ジャン・ルノワール(JeanLenoir)が作曲し、フレエル(Fréhel)が1925年に創唱(Création)した。エディット・ピアフがストーリー・シンガーだった頃、このシャンソンをレパートリーにしていたのではないかと言われている。歌詞は、以下のようにかなり悲惨な内容だ。モンパルナスの屋根裏部屋で生まれた私は、屋根の上で初めて世の中を見
昨日は、長野県飯山にて独演会に呼んでいただきました。会場は、飯山市文化交流館なちゅらさんです。この会、定期的に、真打の独演会シリーズを開催しているそうです。今年最後は、私でした。会館も綺麗!そして、お客様も大変、喜んでくださいまして、とっても嬉しかったです。広々したステキなホールで、やりやすかったです〜。沢山の御来場ありがとうございます!また来年、色々な噺家が登場すると思います。お楽しみ〜。楽屋弁当が、豪華!私、若者だと思ったのかしら(笑)。ボリューム満点、もちろん、ペロリ
名前も知らないあの人へ加藤登紀子加藤登紀子が作詞・作曲した「名前も知らないあの人へ」は、エディット・ピアフ(ÉdithPiaf)の自叙伝"MaVie"の中にある娘の死にまつわるエピソードをもとに出来上がっている。歌詞の中の主人公(女性)の名前は明らかにされていないが、加藤自身がピアフについて歌ったとエッセイ集の中で語っている。ところが、もう一つの自叙伝"Aubaldelachance"の序文で、この話は作り話だったとジャーナリストのジャン・ノリは告白している。
日比谷駅で見かけたチケット争奪戦は必至
ふたりの男LeBrunetleBlondアナザー・ストーリーこのシャンソンについては、既にライナーノーツを書いているが、モモーヌ(シモーヌ・ベルトー)の伝記を読んで、この歌が出来上がった経緯を知ったので、アナザー・ストーリーとして書くことにした。『ふたりの男Lebrunetleblondエディット・ピアフ』ふたりの男Lebrunetleblondエディット・ピアフÉdithPiafこのシャンソンは、エディット・ピアフの初期の作品で、アンリ・コ
モモーヌ(シモーヌ・ベルトー)の「ピアフ」によれば、エディット・ピアフの精神を開花させ様々なことを教えた恩人は、4人いることになっている。ルイ・ルプレ、レイモン・アッソ、ジャン・コクトー、そしてもう一人...それは、イヴォンヌ・ド・ブレという女優だ。ところが、彼女とピアフの関係について詳述した書籍を私は残念ながら持っていない。イヴォンヌとエディットに共通する人物は、ジャン・コクトーなので、彼の著作を当たれば詳しいかもしれない。ともかく、これからこの女優について調べたいと
L'hymneàl'amour愛の讃歌Lecielbleusurnouspeuts'effondrerEtlaTerrepeutbiens'écroulerPeum'importesitum'aimesJemefousdumondeentier青空がわたしたちに崩れ落ちて来ようともそして大地が崩れ去ろうともあなたがわたしを愛しているなら世界なんてどうでもいいTantqu'l'amourinnonderamesmati
Facebookのグループ「シャンソンの新しい風」で「愛の讃歌」のライナーノーツをオンライン・ライヴで開催する話。いよいよ今週土曜日(11月29日)に迫りました。ところで、愛の讃歌と言えば、マルセル・セルダンのことを歌っています。彼ら2人は、一目惚れだったのでしょうか?それは、1946年7月、モンマルトルにあるクラブ・デ・サンクというキャバレーだった。その日は、ピアフのライヴがあり、セルダンは観客席のテーブルに座っていた。スターに興味深々のセルダンに、知人がピアフを紹介
以前、Geminiで、「エディット・ピアフは、マルグリット・モノーと生涯仲が良かったのか?」と日本語で質問してみたことがある。すると、おおよそ「二人は生涯親友で、モノーはピアフのシャンソンの作曲をずっとし続けました。」というような回答があった。同じ質問をフランス語でしてみると、「晩年になってピアフは一方的に意図的にモノーから離れたのは事実と思われる。」と答えていた。こちらの方が情報としては正しく、Geminiもまだまだだなと思っていた。ところが、本日、まったく同じ質問を日
↑↑↑みんなエディット・ピアフを歌いたがるのだけれど、ここまで声は出ていない。この小さな身体が楽器になって声が響き渡るのね。どういうわけか、声も出ないのに限って、情念だのなんだの言って、真似して歌いたがるのが不思議~~~。自己陶酔型の自信過剰?ああ、どうしたものか~~~、今日、明日と出かけないことにしたので、昨日、ご近所のクリニックで新型コロナの予防接種に行って来たのですが、もう、大変!だいぶ免疫が出来ているようで、以前のように大熱を出して1週間も寝込むことはないのだ
心の叫びCridecœurエディット・ピアフÉdithPiafこのシャンソンは、1960年にジャック・プレヴェールが作詞し、アンリ・クローラが作曲し、エディット・ピアフが歌った。プレヴェールが書いたのは歌詞というよりも詩(ポエム)で、難解な内容になっている。私の今の声だけが歌っているわけではない。いろんな声が歌っているのだ。Ettoujours,toujours,quandjechanteCetoiseau-làchanteavecmoi
春もなくY'apasd'printempsアナザー・ストーリーこのシャンソンは、アンリ・コンテが作詞したのだが、制作過程のエピソードが面白いので、ご紹介したい。当時、ピアフはモモーヌと"LeBidouBar"という名の飲み屋の真ん前のアパルトマンに住んでいた。コンテは、ピアフと恋愛関係にあったが、同居はしないまま過ごした。だから、仕事の打ち合わせは、そのバーのテーブルに座って行われた。或る日、コンテが「俺に25分与えてくれたら、次のシャンソンの歌詞が書けるよ。
春もなくY'apasd'printempsエディット・ピアフÉdithPiafこのシャンソンは、アンリ・コンテが作詞し、マルグリット・モノーが作曲した。1943年にエディット・ピアフがレコーディングした。歌詞にあるストーリーは...休みもとらず、いつも地下鉄、事務所などを駆け回り、日曜日さえ家事があって、いろんなことに追い立てられる。夜更けに歩いて帰り、朝は涙にぬれている。私の人生には春がないわ、と思っていた。ところが...Maisledestinm'a
Facebookのグループ「シャンソンの新しい風」で「愛の讃歌」のライナーノーツをオンライン・ライヴで開催する話。いよいよ今週土曜日に迫りました。それで思い出したのですが、嘗てnoteに「愛の讃歌」はもう一つあるという話を書いたことを思い出しました。「そんな話聞いたことがない。」とおっしゃる方、ぜひ私の記事をお読みください。もう一つの「愛の讃歌」|十川ジャンマリエディット・ピアフが歌う「愛するって素晴らしい」”Ilfaitbont'aimer”が1950年のリリ
悪だくみConsudefilblancエディット・ピアフÉdithPiafこのシャンソンは、ミシェル・エメールの作詞・作曲で1945年にエディット・ピアフがレコーディングした。原題の"Consudefilblanc"は直訳すると、「白い糸で縫いつけられて」となり、「男の口車に乗せられる」という意味になる。20歳の春の夜、笑いながら歌いながら歩いていたら、青い瞳の男に声をかけられた。「どこかで会ったことない?」と言われたが、それは話を始めるキッカケを作る口実
ガス爆発Coupdegrisonエディット・ピアフÉdithPiafこのシャンソンは、1940年にアンリ・コンテが作詞し、ピエール・ルイギが作曲し、エディット・ピアフが創唱(Création)した。初期において大成功した曲だ。北の国の炭鉱に「ガス爆発」という渾名の男がいた。彼は、草原にいた赤毛の娘に恋をした。光が雨のように降っているその髪を見て、眩しかった。娘は、男を刈り入れに案内した。すべてが明るく黄金で、男は頭が痛くなったが、我慢して幸せになろうとした。ところが.
情婦たちの歌LesMômesdelaclocheエディット・ピアフÉdithPiafこのシャンソンは、ラモーム・ピアフが初めてレコード発売した作品で、ジェルニーズでレパートリーにしていたと言われている。1935年12月に録音し、翌年2月にリリースした。1915年にアンドレ・ドゥカイエ(AndréDecaye)が作詞し、「パリの屋根の下」や「モンパリ」で有名なヴァンサン・スコット(VincentScotto)が作曲し、Création(創唱)は、アンドレ・テゥルシ(And
谷間に三つの鐘が鳴るLestroisclochesアナザー・ストーリーエディット・ピアフとシャンソンの友の「谷間に三つの鐘が鳴る」は、日本語歌詞でもよく歌われている。このストーリーは、作詞したジャン・ヴィヤールの創作と思われがちだが、実は、歌詞の中のJean-FrançoisNicoという人物にモデルがいたことは、あまり知られていない。この歌詞にある「谷の奥にある村」とは、伝説によると、フランス・ジュラ山脈の人里離れた谷間にあるボーム・レ・メズィエールの村を指してお
朝9時、ルル・バリエはマルク・ボネルとニューヨークのとある街角で待ち合わせていた。さっそくタクシーを呼び止めたボネルに、バリエは「ちょっと待ってくれ。カメラのフィルムを買うから。」と言って、目の前のドラッグストアに入った。ところが、その店にいた人々の口から聞こえてきたのは...パリ、エール・フランス、セルダン、ニューヨーク...何だ?どうして一部の人しか知らないはずのマルセル・セルダンが今日ラガーディア空港に到着する予定をこの人たちは知っているのか?不審に思って、店員