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小谷城月所丸(長浜市小谷上山田町)↑Googlemapで表示された住所城主不明遺構竪堀・畝状竪堀・連続竪堀・堀切・二重堀切・土塁月所丸は後付けの名称の様で・・・詳しくはわかりませんが・・・↓畝竪ですが・・・↑赤丸↓↓西側の曲輪↑奥に土塁が・・・↑土塁に近づいて↓↓次の東側曲輪↓東尾根一条目の堀切↑二重堀切の奥側も見えてますネ!↓二重堀切外側↓三条目の堀切↓↑の堀切と脇の竪堀←左側の窪み↓薄い連続竪堀らしき地形
小谷城金吾丸(長浜市湖北町伊部)城主朝倉金吾教景(朝倉金吾宗滴)遺構土塁・虎口う~ん?虎口らしきがあった様な?無かった様な?縄張り風絵はパスで・・・( ̄▽ ̄;)
小谷城出丸(長浜市湖北町伊部)城主真柄備中守遺構土塁・堀小谷城主郭尾根最先端の独立した砦二段の曲輪で構成三方を土塁で囲む↓現地案内板本丸側から降って出丸に↓出丸北側の間柄峠の碑↓出丸北側登り口の看板う~ん徒歩跡以外は・・・( ̄▽ ̄;)奥に土塁が展望あり↓下段の曲輪↓下段曲輪の土塁
小谷城福寿丸(長浜市小谷郡上町)築城主朝倉氏?浅井氏?城主木村福寿庵遺構土塁・横堀・堀切・虎口・竪堀・土橋元亀年間に援軍に来た朝倉軍が築いた?改修した?と考えられている虎口形状から現在残る遺構は浅井・朝倉両氏滅亡後に羽柴秀吉によって築かれたものとする説あり
小谷城山崎丸(長浜市小谷郡上町)築城主朝倉氏城主山崎吉家遺構土塁・堀・堀切・虎口国指定史跡元亀年間に援軍に来た朝倉軍が築いたものと考えられている現在残る遺構は浅井・朝倉両氏滅亡後に羽柴秀吉によって築かれたものとする説あり大嶽城を目指して最初に現れる城遺構そんなに大きくはないが土塁仕切りの虎口見どころかも~↓ここから入るべきでは無かった( ̄▽ ̄;)↓(^^♪↑(^^)v↓虎口らしい↑↓土塁で仕切られてます↓堀が落ちて
小川西ノ城跡(甲賀市信楽町小川)城主小川氏・多羅尾氏遺構土塁・横堀・堀切・竪堀・虎口・土橋甲賀小川城の最終章は西ノ城高さは無いですが土の遺構は満載たっぷり楽しめますスタートは↓いきなり現れる堀と土塁↓見上げると堀切が・・・↓↓一段東側へ上がって見上げた堀切を確認↓↑は↓の堀切↓東側曲輪の土塁↑の曲輪東端側面↓谷へ落ちてる↓通路を兼ねた堀↑折れがあり横矢がかかる↓曲輪間を仕切る堀↑曲輪間の高低差もある↓↓東から
小川城別名小川鶴見城・信楽小川城城主鶴見氏・小川氏・多羅尾氏遺構土塁・石垣・櫓台・堀・堀切滋賀県指定史跡本能寺の変で織田信長が倒れた際、堺見物をしていた徳川家康公が伊賀越えで所領に戻る際に一夜を明かしたのが小川城とされている↑中ノ城から登っていきます↓西側の端の曲輪↑↓CS立体図の赤丸↓この登り斜面脇に竪堀がある様です↓切通し兼堀切かな?綺麗に土塁で守られた曲輪群土塁と堀で区画された曲輪群
小川中ノ城(甲賀市信楽町小川)城主小川氏,多羅尾氏遺構堀切・切岸・土塁・帯曲輪甲賀らしい形状の主郭背後尾根の切岸上を高土塁として土塁背後が堀切となる↑の堀切を含み三か所を堀切で守る尾根を登ると小川城へと続くヤマップデータ↓↑は中ノ城と小川城の記録も含む↓帯曲輪↑↓の土塁切れ目↓主郭背後の高土塁↓主郭内↓主郭背後の高土塁上にある土塁↑の背後は大堀切↓土塁上から見た主郭↓大堀切↓二本目の大堀切↓三本目の堀切
朝宮城山城(甲賀市信楽町下朝宮)城主?築城主?別名赤松城遺構堀切竪堀畝状竪堀群虎口土塁↓の碑は廃業お茶屋さんの奥とありましたが現在は「信楽炭火鶏焼き鶏囲」となり営業されています一声かけて許可を頂こうと思い足を踏み入れると反対に声をかけられて快く許可が頂けましたありがとうございました↑の碑から↓の右手へ・・・NHKの無線中継施設の管理道があったこれを上がると↓↑の北側堀切ちと薮深め( ̄▽ ̄
妻木城(土岐市妻木町)別名乙姫城築城主土岐明智彦九郎頼重城主土岐氏、明智氏、妻木氏遺構石垣、土塁、堀切、井戸跡、碑岐阜県指定史跡再訪となりますが南側からの登城は初めて・・・↑左へ↓の堀切↑からさらに南尾根へ↓↓再び最初の堀切に戻って↓↓南側の堀切から見た太鼓櫓側の切岸↓井戸脇にあり土塁↓太鼓櫓南縁の土塁↑の土塁上から見たくさび跡の大岩↓曲輪Ⅲから見た土岐の町並み↓曲輪Ⅱへ
今回は南側の城域へ↓青丸箇所↓城域北端の堀切↑南側城域北端の堀切↓↑堀切端から落とされた竪堀↓↑次は東尾根へ↓↑↓微妙な窪み具合?では南側へ↓↑曲輪南端は土塁が・・・↓↑土塁の南尾根には↓堀切で断ち切っています以上南側の城域となりますこの記事を書くべくネット検索で今年の6月に発見された方のインスタを見つけコメントでご挨拶させて頂きました
名越ごえの山城詳細は把握していませんインスタのフォロワー様が紹介していて行ってみました事前にCS立体図で下調べ北側の城と南側の城と二城で構成されているようです北側の城域は「天神山」と「山室」のピークを繋ぐ城域南側の城域は「山室」から300m弱南側のピーク先ずは立体図で確認赤丸が北側の城域青丸が南側の城域立体図では南北の尾根と東側の尾根を堀切で断ち切っているようです今回は北側の城域を見てみます↑が
白石山城(大飯郡高浜町和田)城主粟屋氏遺構等堀切、竪堀、土塁、石垣、畝状竪堀群(薄)、枡形虎口連郭式山城南北約200m目標地点馬居寺馬居寺先の林道をゲートに車を停めて登城準備をしていると地元の方がゲートを開けているのでお話を伺うと終点まで進入OK終点に駐車スペースもある旨を教えていただく帰路に必ずゲートを閉める注意も↓G地点が林道終点城郭放浪記さまの縄張り図をお借りしています↓堀切7↓堀切6↓堀切4↑↓畝状竪堀群
宇谷城(舞鶴市桑飼上)城主飯田河内貞之、一色兵部詮忠、井田河内守等の名が挙がるも詳細は不明遺構曲輪、堀切、竪堀、土塁、虎口、横堀、畝状空堀群圧巻の遺構\(◎o◎)/!特に畝状空堀群は独特な・・・縄張り図は↓舞鶴山城研究会『舞鶴の山城:戦国時代を訪ねる』(2009年刊)よりお借りしました↓最初に現れる堀切↓は↑青丸↑北側の畝状空堀群の一部↑を西に進むと↓の主郭西の大堀切↓↑は↓青丸ここからは南斜面圧巻の縦横縦横
後鳥羽神社(長浜市名越町)山上にある名越えの山城登城まえに立ち寄ってみましたさーて山城へ(^_-)-☆遠回りですが北側から尾根伝いに攻めてきます後鳥羽神社は、1879年後鳥羽上皇を祀るため創建された神社後鳥羽上皇は隣接する名超寺に二度にわたって行幸し、北条義時追討のための祈祷を修したその際、自身の像を残し、名超寺には尊像を安置する後鳥羽殿が建立されていたが、時代を経て寺が衰退1878年明治天皇が滋賀県を巡行した際、大津の行在所で尊像の叡賢
大富館(土岐市泉大島町)城主源国房、源光国、源光信、源光基、土岐光衡、土岐頼貞、土岐頼遠?遺構なし土岐市指定史跡「土岐頼貞・頼遠の館跡(大富館跡)」源国房が美濃国土岐郡大富の里に移住し約270年間にわたり美濃源氏の拠点であった室町幕府が成立すると、土岐頼貞は美濃国守護に任じられ、大富館に住した「美濃國土岐源氏發祥地大富館跡」と刻まれた大きな石碑は、昭和時代前期に貴族院議員であった土岐章が揮毫した字を刻んだものらしい
浅野館(土岐市肥田浅野笠神町)城主土岐光行土岐光定土岐頼貞遺構なし土岐市指定史跡「肥田三栗塚及び浅野館跡」土岐光衡の嫡男の土岐光行と弟の土岐光時が承久の乱の頃に、大富館から土岐川を挟んだ南側に浅野館を築いて土岐氏の本拠地とした。光行は地名から浅野判官と称して浅野氏の祖となり明智氏・饗庭氏・多治見氏・三栗氏などの庶流の祖となった。同時期に、浅野館や大富館の砦として土岐高山城を築いた現在跡地には多度神社と笠神公園となっている
山本山城別名山本城、阿閉山城、阿閉城城主山本氏、阿閉氏、浅見氏遺構土塁、横堀、堀切、竪堀、土橋、土壇か櫓台か?、竪土塁、虎口重機による壊変ありコレによりなかなか足が向かなかったが想像以上に遺構が残って大満足ニッポン城めぐり登録城文化財指定されていないのかな?宇賀神社側からの登城木々に覆われて琵琶湖や竹生島の見える箇所はあまりなかった( ̄▽ ̄;)二の丸に到着・・・が・・・何か様子がおかしい?
相羽城築城主饗庭光俊城主饗庭氏(相羽氏)、鷹司氏大野町指定史跡ニッポン城めぐり登録城源頼光を祖とする摂津源氏の流れを汲む美濃源氏の支流土岐光行の子・饗庭光俊を祖とする↓新選美濃志より↓↓美濃明細記より↓揖斐郡志より何度か訪れた記憶はありましたが・・・記事にしていないような?廃線となった名古屋鉄道揖斐線の相羽駅直ぐ前が城址垂井城の長屋景興も一時相羽にいたようですネ!
太郎ヶ城応仁文明年間頃安八郡田村から本郷に移った国枝為助が築城とされる平成7年の発掘調査では堀を含め南北108m東西88mの長方形堀、土塁共に5〜10m程の幅で周囲を囲み堀の深さ1.7m、幅7m以上土塁は幅約7m、高さは不明と確認された現在は温知小学校となっている各務原の野口館より大きいようですネ国枝氏は守護土岐氏、守護代斎藤氏との縁故深く船田合戦では石丸方の副将として一軍を率いていた龍徳寺岐阜県池田町本郷にある臨済宗妙心寺派の寺院でこの地方の領
三佛寺城高山城江馬氏下館高原諏訪城洞城政元城東町城牧戸城向牧戸城広瀬城古川城野口城田口蟹沢氏之砦123萩原諏訪城桜洞城12宮地城12増島城松倉城1234畑佐城12
岩倉城主な城主織田敏広、織田寛広、織田信安、織田信賢遺構堀址、石碑岩倉市指定史跡ニッポン城めぐり登録城桜の季節がおすすめ混みあいますが( ̄▽ ̄;)
各城記事にリンクしています稲葉山城小浜城砕導山城安賀里城高浜城熊川城熊川陣屋舌城茶臼山城戌山城12玄蕃尾城12345678910国吉城123456金ヶ崎城123
三田村氏館城主三田村左衛門氏光遺構土塁堀国史跡北近江城館跡群ニッポン城めぐり登録城とんかつ印↓↓公会堂脇に残る土塁↑は傳正寺を囲む方形土塁の北側って事はいくつかの館があったということの様です↓グーグルマップ航空写真で確認山本山城の帰り時間があったので立ち寄ってみたが思いのほかしっかり遺構が残ってたこれを思うと美濃の野口館の遺構も是非残ってほしいと思う今日この
若狭稲葉山城この城名を見て美濃稲葉山城下から若狭稲葉山城へ是非行ってみたい・・・でボッチ山城ドライブへ・・・若狭稲葉山城別名加斗城稲葉城城主武藤氏遺構土塁堀切畝状竪堀群竪堀記事内の縄張り図は城郭放浪記さまのをお借りして位置情報を追記してあります稲葉観音堂から↓観音堂背後の山となりますが当方は一番難関から登った様です( ̄▽ ̄;)↓何故ここから取りつい
別名木曾福島城、向城築城主木曾義康遺構土塁、堀切、竪堀、土橋↑CS立体図で見た通り曲輪間を堀切で区画では登ってみます(^_-)-☆↓整備された道を進むと・・・↓尾根上に堀切から落ちる竪堀が・・・↑の竪堀を登ると二の丸と三の丸の間↓先ずは三の丸へ↑土橋らしきの先が曲輪↓土橋手前に低い土塁が・・・↓二の丸から主郭方面を↓二の丸と主郭間の堀切↓腰曲輪主郭は到着(^_-)-☆記念撮影↓主郭北側の一
小浜城(小浜市城内)別名雲浜城福井県指定史跡城郭構造輪郭式平城・海城築城主京極高次城主京極氏・酒井氏
詳細不明城主藤原氏関連か?木曽氏関連か?遺構堀切、竪堀木曽川、中山道、三留野宿を監視できる位置にある見どころ東尾根と北尾根の二重堀切↓グーグルマップよりヤマップ軌跡↓SとGは三留野の新町上仲町集会所前🚻↑↓途中の鉄塔↑の東尾根二重堀切外側↓東尾根二重堀切内側↓腰曲輪↓↑上段は主郭↓北尾根二重堀切内側↓北尾根二重堀切外側↓北尾根と主郭位置現場にて記入↑下段の曲輪から
築城主木曾氏築城年室町時代中期主な城主山村良勝廃城年元和2年遺構土塁、曲輪、石碑、堀切、県指定史跡ニッポン城めぐり登録城↓ヤマップ軌跡データ↓CS立体図↓登城口直ぐの南尾根に興味深々の城友さんが・・・時間が無く先を急がせるオヤジすみません多分堀切くらいありそうでしたが・・・↓土橋を越え右に進むのが正解・・・が天邪鬼オヤジは左へ↓赤点↓竪堀らしきが見えてます
野口館跡は、蘇原野口町にある中世城館野口館跡は東西77メートル、南北76メートル方形土塁と堀に囲まれた城館堀は深さ約2m程土塁は堀底から約4m程南側に虎口があり虎口東側に櫓台らしき土台その東に土塁で囲まれた曲輪市街地に遺構がしっかり残っている↓のグーグルマップの民家部分は現在更地となっていて発掘調査の為か草木もすべて伐採されて見学しやすかった(^_-)-☆↓北側から↑駐車場部分は現在建売住宅?建設の為