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三國志より二政治家の教へらるべき人物袁閎と管寧(附)馬少游のこと袁紹の父(成)や袁術の父(逢)はしばしば生計を助けようとしたが、袁閎(逢の從兄の子に當る)はいつも固く辭して受けない。彼は居常よくその家族に語つた。(4343'23)
三國志より二政治家の教へらるべき人物袁閎と管寧(附)馬少游のこと袁紹袁術を始め、彼の一族皆亂世に時めいて驕奢な生活をしてゐる中に、獨り冷然として趣を異にし、耕學を業として、少(わか)い時から操行が正しかつた。(4343'23)
三國志より二政治家の教へらるべき人物袁閎と管寧(附)馬少游のこと袁紹といへば、彼の一門に袁閎といふ變り者があつた。(4343'23)
三國志より一看板的英雄袁紹と劉表天下の名士多く座談の客に過ぎぬのは亂世の常態でもある。日本も小劉表がいかに多かつたことであらう。(4343'23)
三國志より一看板的英雄袁紹と劉表彼は民を愛し、士を養ひ、文を好んだ好風格の長者であつたが、客禮を以て重んぜられた賈詡(かく)も歎息したやうに、「平生の三公の才」であつて「事變を見ず、疑多く、決無く」して、能く爲すことが出來なかつた。曹の參謀郭嘉が、「表は座談の客のみ」と斷じたのも切當である。(4343'23)
三國志より一看板的英雄袁紹と劉表操は必ず重く將軍を徳とするでありませうと力説したが、表は到頭狐疑して斷ずることが出來なかつたばかりでなく、明識忠節の韓嵩を解することが出來ず、後殆ど韓を殺さうとして、賢明なる夫人の切諫に依つて、辛うじてその愚を免れることが出來た。(4343'23)
三國志より一看板的英雄袁紹と劉表思ふに、曹操は善く兵を用ゐ、賢俊多く之に歸して居りますから、その勢必ず袁紹を破り、然る後兵を移して江漢に向ふ時は、とても之を禦ぐことは出來ますまい。今の勝計は荊州を擧げて曹操に附くに越すことはありません。(4343'23)
三國志より一看板的英雄袁紹と劉表もしさうでなければ、この際よろしく兩者のいづれかを擇ばねばなりません。十萬の甲兵を擁しながら、成敗を坐觀、湲を求められて湲けもぜず、賢を見て之に歸しもせぬといふ法はありません。しからば兩者の怨は必ず將軍に集まり、恐らく中立は出來ますまい。(4343'23)
三國志より一看板的英雄袁紹と劉表袁紹も曹操も勿論百方手を盡して彼を味方にしようとした。南陽の韓嵩や零陵の劉先が表に説いて、今兩雄對抗して、天下の重きは將軍に在ります。もし自ら天下を取るお考ならば、起つて兩者の疲弊に乘ぜらるゝがよろしい。(4343'23)
三國志より一看板的英雄袁紹と劉表やはり血族おのづから慷慨の氣相通ずるものがあつたと見えて、隣れにも亦勇ましい。袁・曹の對抗はおのづから荊州(主として今の湖南湖北地方)の劉表を考へさせる。兩者の抗爭に方つて、當然その向背が決定的重要性を持つべきものは劉表であつた。(4343'23)
三國志より一看板的英雄袁紹と劉表とあるが、能く兩者の優劣を論じ盡して居る。果して袁曹の抗爭は遂に袁曹の大敗となり、窮命の末、慙憤して病を發し、血を吐いて死んだ。袁術も亦末路自ら「袁術乃ち是に至るか」と憤慨止まず、終に病を結び、血を吐いて死んだ。(4343'23)
三國志より一看板的英雄袁紹と劉表(十)紹は好んで虚勢を張つて、兵法の要を知らない。公は寡を以て衆に克ち、兵を用ふること神の如く、軍人之を恃み、敵人之を摂る。これ武に於て勝るものである---(4343'23)
三國志より一看板的英雄袁紹と劉表(九)紹は是非がはつきりしない。公は是とする所は禮を以て進め、不是(わるい)とする所は法を以て正す。これ文(法度)に於て勝るものである。(4343'23)
三國志より一看板的英雄袁紹と劉表(八)紹は大臣權を爭ひ、讒言流行するが、公は下を御するに道を以てし、讒言が行はれない。これ明に於て勝るものである。(4343'23)
三國志より一看板的英雄袁紹と劉表(七)紹は人の飢寒を見れば同情して顔色に表れるが、見ぬ苦はせぬ。公は目前の小事にはどうでもよい風であるが、大事になると、何ものとも接し、恩を施すときは人の豫想以上のものがあり、見えぬところまで周到に慮られる。これ仁に於て勝るものである。(4343'23)
三國志より一看板的英雄袁紹と劉表(六)紹は體裁を飾つて名譽心が強い。そこで口が達者で、表面ばかりの人間が集まる。公は心から人物を待ち、お世辭がない。だから忠正にして實の有る人物が皆お役に立たうと願つて居る。これ德に於て勝るものである。(4343'23)
三國志より一看板的英雄袁紹と劉表(五)紹は謀るばかりで決しない。だからいつも事に後れて失敗する。公は策があれば直に斷行され、臨機應變窮まりがない。これ謀に於て勝つものである。(4343'23)
三國志より一看板的英雄袁紹と劉表(四)紹は外は寛容なやうで、實は内心忌刻である。人を用ゐて之を疑ひ、任用してゐるのは親戚弟ばかりであるが、公は外一向お構ひないやうで、實は内心ちやんと何でも見ぬいて居られ、人を用ゐて疑無く、適材を適處に活かして、親疎の隔てがない。これ度に於て勝るものである。(4343'23)
三國志より一看板的英雄袁紹と劉表(三)近代の政治は寛に失してゐる。紹は寛を以て寛を濟ふからひきしまらない。公はしまるところは嚴しくしまるから、上下法制に服することを知つてゐる。これ治に於て勝るものである。(4343'23)
三國志より一看板的英雄袁紹と劉表曹の謀臣荀彧(ゐく)・郭嘉の袁曹比較評論にも、(一)紹は繁禮多儀である、くどい。公は自然を體任して居られる。これ道に於て勝るものである。(二)紹は逆を以て動いてゐるが、公は天子を奉じ、順を以て天下を率ゐて居られる。これ義に於て勝るものである。(4343'23)
三國志より一看板的英雄袁紹と劉表曹公は雄才遠略がある。機を決して、疑無く、法は一にして、兵は精しく、能く度外の人物を用ひ、任ぜられる部下は各々其の力を盡して居る。必ず能く大事を濟(な)すべき人であると。(4343'23)
三國志より一看板的英雄袁紹と劉表謀を好んで決しない。斷無ければ威無く、決少ければ事に後れる。今は優勢であるが、終に大業を成すことは出來まい。(4343'23)
三國志より一看板的英雄袁紹と劉表今日の時勢は最早民衆も實力ある人物に與(くみ)すると、喝破したのは、時勢の推移を能く洞察してゐる。曹操と袁紹との對抗に際して洞々峠の諸將に報告した楊阜の兩者優劣論はおもしろい。袁公は寛にして斷せず。(4343'23)
三國志より一看板的英雄袁紹と劉表劉備がまだ無力で、徐州を領するやうに勸められながら、袁術を憚つて遠慮した時孔融が、袁術は國を憂へて家を忘れるやうな人物ではない。門閥が何だ、冡中(はかば)の枯骨を何で意に介する必要があるか。(4343'23)
三國志より一看板的英雄袁紹と劉表亂世といつても最初はやはり門地や閲歷や聲望が利いて、策士はさういふものを舁(かつ)いで狂奔するが、更に深刻になると、もうそんな金ぴかの御神輿的人物ではだめになつてしまふ。(4343'23)
三國志より一看板的英雄袁紹と劉表從子(いとこ)の袁術も豪傑肌でならしたものであるが、人品敎養の點でとても袁紹にかなはず、粗剛な豪傑らしい失敗の最期を遂げた。然し袁紹の人品も敎養も親譲りの飾りもので、自ら打出した傑作ではない。だから複雜深刻な亂世に自ら處してゆく力はなく、耍するに舁(かつ)がれるに都合の好い人物であつた。(4343'23)
三國志より一看板的英雄袁紹と劉表看板倒れ、見かけ倒しの所があつて、時局の進展につれて鍍金が剝げてしまつた。彼は名門の出である上に、元氣があつて、風采も堂々として居り、評判が好くて、門にはいつもいろんな人が出入した。(4343'23)
三國志より一看板的英雄袁紹と劉表孫堅に至つてすでに亂世の英雄の木鋒が現われてゐる。つまり氣概から、言行から、在來の型に嵌まらぬところが亂世創業の群雄の特徴である。袁紹は亂世の英雄たるべくして終に英雄たり得なかつた。(4343'23)
三國志より一看板的英雄袁紹と劉表この時張將軍の參謀であつた孫堅は敢然として董を斬るべしと進言した。然し張將軍は董卓を恐れ、孫堅をなだめて自重を勸めた。張將軍亦一武臣を出なかつた。(4343'23)
三國志より一看板的英雄袁紹と劉表それで大功を立てながら、政府の小人に忌まれて失脚して居る。皇甫嵩の後を承けて司令官になつた張温なども、人が善くて遠慮がちである。亂暴者の董卓は始めこの張將軍の部將の一人であつたが、一向統制に服しない。(4343'23)