ブログ記事3,734件
☆今日の一言です☆信頼があれば言葉はいらない金銭だけや利害だけの関係には信頼はない。そんな関係は本当にもろいものです。本当に信頼関係があれば、契約書もいらないし口約束の言葉さえもいらないのです。目標と考え方さえしっかりわかりあえていれば、本当に良い関係が築けます。
『ローマの哲人・セネカの言葉』-中野孝次●誠実✪誠実は人間の心の最も破りがたい善です。いかなる強制状態も裏切りを強いることはできないし、いかなる恩賞も誠実な心を買収することができません。「論語」を見ると、古代中国人はこの誠実(これを忠信と言った)の徳を何より尊んだことがわかる。荻生徂徠は「忠信は乃(すなわ)ち「人の為を謀(はか)りて忠なる」と「朋友と言ひて信ある」の謂(い)ひなり」と言っている。人に対して絶対に裏切らず、言葉に嘘がなく、信じて、誠を尽くすのが忠信なのだ。孔子は忠信がなけれ
とりあえず、って距離じゃない?かもだけどw基本600km🏃♀️+250km🚴♀️なんで🤣🤣(今月の距離は最後に✍️)今日の午前中は、4部練🏃♀️🚴♀️🏃♀️🚴♀️ドラゴンパークで朝ラン22km🐉🏃♀️〜の低酸素ジム(ボアソルテ)で60分🏔️🏃♀️+ジムまでクロスバイク往復16km🚴♀️だったので、朝食(22km走ってすぐの6時半頃)はanswer600🤣(写真は過去の投稿より)answer600についてはこちら→プロテインじゃないよ!笑『answer600
『言葉につける薬』ー呉智英●アラーの他に神はなし-②アラブ文化の重要性は、現在ではよく認識されている。数学の数字は”アラビア数字”と言う。それだけではない、アルコール、アルカリ、アルジェブラ(代数)もアルケミー(錬金術)・・・・・・。ヨーロッパの言葉に組み込まれたこれらの科学用語はすべてアラビア起源なのである。この科学用語の語頭が全部「アルal-」で始まっていることに気づかれただろうか。これは偶然ではない。ヨーロッパ語で「アル」が語頭にくる言葉は多くがアラビア語起源なのだ。「アル
実は、昨日の朝浮かぶ言葉は、なぜか、アイヌ!?(゜ロ゜)気になってアイヌの歴史を調べたくなりました。以前、北海道出身の彼と観光する場所を決めているとき、とても興味を持ったのがアイヌ民族博物館ポロトコタンでした。http://www.ainu-museum.or.jp/ポロトコタンの夜アイヌ民族の神聖なる祈り歌踊りhttp://www.ainu-museum.or.jp/poroto-night2012.htmlここの場所に来たとき何か感じるものがありました。
三國志より二政治家の教へらるべき人物袁閎と管寧(附)馬少游のこと王烈も鄕黨に非常な感化力のあつた人物で、牛盗人がその持主に捕まつた時、どんな罰でも甘んじて受けるから、王彦方(烈の字)には内密にして置いてくれと頼んだといふやうな逸話がある。(4343'23)
三國志より二政治家の教へらるべき人物袁閎と管寧(附)馬少游のこと管寧はその彼に「潜龍は見(あらは)れざるを以て德を成す。言その時に非ざるは皆禍を招くの道だ」と戒めて、ひそかに原を亡命させた。(4343'23)
三國志より二政治家の教へらるべき人物袁閎と管寧(附)馬少游のこと公孫度なども心中穩やかでなかつた。(4343'23)
三國志より二政治家の教へらるべき人物袁閎と管寧(附)馬少游のこと今は遠く別れるのだから、一つ大に飮まう」と、終日杯を傾けて一向醉ひもしなかつたといふ人物である。彼は剛直で、遠慮なく正論を吐いてやりこめた。(4343'23)
三國志より二政治家の教へらるべき人物袁閎と管寧(附)馬少游のこと原が游學に出かける時、平成酒を飲まぬことを知つてゐる友人知己は色々の物を集めて餞らうとしたが、原は「いや、自分はもともと酒はいけるのであるが、どうも酒は心を荒ませ、業を發(すた)らせるから斷(た)つてゐるだけだ。(4343'23)
三國志より二政治家の教へらるべき人物袁閎と管寧(附)馬少游のこと魏の正始二年彼の死の傳へられた時、天下知るも知らざるも惜まぬはなかつたといふ。彼と名を同じうした者に邴原(へいげん)があり、少(わか)い時彼よりも令名があつた者に王烈がある。(4343'23)
三國志より二政治家の教へらるべき人物袁閎と管寧(附)馬少游のことその高潔な操行と聲名とは、知らずして聞けば、人々の思ひも及ばぬ邈な境地に在つて、とても近寄り難い人のやうに感ぜられたが、親灸すれば、いかにもはればれした、何のこだはりもない人柄で、能く實際問題で人を導き、感化を受けぬはなかつた。(4343'23)
三國志より二政治家の教へらるべき人物袁閎と管寧(附)馬少游のこと人々次第にその德に化して、居る處邑を成すに至り、公孫度も安心して彼を敬した。(4343'23)
三國志より二政治家の教へらるべき人物袁閎と管寧(附)馬少游のこと風格の高い哲人で、公孫度は禮を厚うして敬待したが、彼はいつの會見にも唯だ經典を語つて、世事に及ばず、山谷に廬を構へて、專ら詩書を講じ、習禮に力め、道を求める學徒でなければ會はなかつた。(4343'23)
三國志より二政治家の教へらるべき人物袁閎と管寧(附)馬少游のこと公孫度が遼東を威服して居つた時、中國の人士の亂を避ける者は多く之に歸した。管寧もその一人である。(4343'23)
三國志より二政治家の教へらるべき人物袁閎と管寧(附)馬少游のこと私は曾て王船山の讀通鑑論を通看して、管寧を論ずる處に至り(卷九・後漢獻帝、卷十・三國の條)、肅然として容を改め、深く瞑想させられたことを忘れることが出來ない。(4343'23)
三國志より二政治家の教へらるべき人物袁閎と管寧(附)馬少游のこと正氣㐮ふれば、世は唯だ、尸位素餐と鷄鳴狗盜と愚夫愚婦とになつてしまふ。(4343'23)
三國志より二政治家の教へらるべき人物袁閎と管寧(附)馬少游のこと天下に正氣が盛んになれば、馬援兄弟が兩途に出るものである。袁紹袁閎も出るものである。諸葛孔明の如く之を一身に兼ねて、命に從ふ者であらう。(4343'23)
三國志より二政治家の教へらるべき人物袁閎と管寧(附)馬少游のこと後、馬援は交趾を征服し、しみじみその屬僚に述懷して、今に及んで少游平生の語を念ふが、もう何ともならぬと。私は深く念つてゐる道竝び行はれて相悖らぬ。(4343'23)
三國志より二政治家の教へらるべき人物袁閎と管寧(附)馬少游のこと彼に取つて功名富貴は雲煙過眼に過ぎず。頑童の惡戯にも異らなかつた。(4343'23)
三國志より二政治家の教へらるべき人物袁閎と管寧(附)馬少游のこと慨然四方の志を抱く兄に對して、この弟は平生超然として語つた、「士一世に生く、但(た)だ衣食裁(わづか)に足るを取るのみ。郷里善人と稱せば斯(すなは)ち可なり」と。(4343'23)
三國志より二政治家の教へらるべき人物袁閎と管寧(附)馬少游のこと彼は有名な後漢の名將軍馬援の弟である。(4343'23)
三國志より二政治家の教へらるべき人物袁閎と管寧(附)馬少游のこと明の郭登の詩に「玉關人老い貂裘敝(てうきうやぶ)る。苦(いた)く憶ふ平生馬少游」といふ句があるが、袁閎を思ふ時、實にこの馬少游を連想する。(4343'23)
三國志より二政治家の教へらるべき人物袁閎と管寧(附)馬少游のことこれを氣概なく、才識なく、力量なく、人伍に落ちて、田野に窮居する愚夫愚婦と同視するは大なる誤である。(4343'23)
三國志より二政治家の教へらるべき人物袁閎と管寧(附)馬少游のこと一時の治亂に動ぜず、他人の名譽權勢に關せず、澹泊寧靜に眞實の生活を樂んでゆき得る者はやはり一不朽の士である。(4343'23)
三國志より二政治家の教へらるべき人物袁閎と管寧(附)馬少游のこと世の亂れを始め、民の苦を救はうとするやむにやまれぬ正氣より、家を忘れ、身を殫(つく)す志士は尊いが、放蕩無賴の人物が、射利賣名の欲を裹(つゝ)んで、表に天下國家の爲を装ひ、それも姦雄の資でもあれば本人にとつてまだしも、多く鷄鳴狗盜となつて、浮氣虚喝に荒み、車馬風塵の間に老ゆる、不德愚劣これより甚だしきはない。(4343'23)
三國志より二政治家の教へらるべき人物袁閎と管寧(附)馬少游のこと天下國家の爲と稱して如何に多くの罪惡が横行して居ることであらう。(4343'23)
三國志より二政治家の教へらるべき人物袁閎と管寧(附)馬少游のこと晉の三郤とは史傳に名高い晉の大夫郤家の三人が驕奢にして權を爭ひ、終に厲公に殺された故事を指すのである。かくて彼は亂世の外に超然隱棲すること十八年にして卒した。(4343'23)
三國志より二政治家の教へらるべき人物袁閎と管寧(附)馬少游のことわが祖先の福祚をば、子孫たる者德を以て之を守ることが出來ず。しかも競うて驕奢に走り、亂世と權を爭うて居る。此れ卽ち晉の三郤(げき)である、と。(4343'23)